第十一話『蛇の顎(あぎと)』
カエルとの決裂から数日が過ぎた。
俺の周囲には、奇妙な空白が生まれていた。
俺を、畏怖と期待の目で見る者たち。
俺を、裏切り者として、冷たい目で見る者たち。
灰色谷は、二つに分かれていた。
だが、俺のシステムは止まらない。
俺はボルカスの協力の下、十数人の作業班を率いて排水計画の第二フェーズに着手していた。
古い岩盤を、慎重に、掘削していく。
それは、危険を伴う作業だった。
だが、そこには、確かに、新しい秩序が生まれつつあった。
俺の指示の下、奴隷たちが、一つの目的のために有機的に連携する。
その光景は俺の胸に、あの冷たい穴をわずかに埋める、奇妙な熱をもたらした。
だが、同時に。
俺のシステムは、別の冷たい可能性を弾き出していた。
ガルトは、俺を生かした。
だがそれは、俺を「対等な契約者」と認めたわけではない。
「玩具」を手に入れたのだ。
玩具が自らの庭で、勝手に希望という名の花を咲かせ始めた時、どうするか?
その花を愛でる?
違う。
その花を、踏みつけ、へし折り、その後自らの手で接ぎ木し直す。
自分の望む、歪んだ形へと、作り変えようとするだろう。
警告。
あるいは、調教。
自らの絶対的な力を誇示し、玩具に、誰が主人であるかを、改めて、教え込むための。
排水計画は、順調に進みすぎている。
奴隷たちの目に、希望の光が灯り始めている。
それは、ガルトの「支配」という名の美学を、根底から汚す行為だ。
彼がこの状況を放置するとは思えない。
いつ、牙を剥くか。
問題は、それだ――
その瞬間だった。
俺の視界の端に、違和感を感じた。
頭上の岩盤からパラパラと、微細な粉塵が不規則に落下している。
ボルカスはそれに気づき、顔を上げる。
「……ん? 少し、岩が泣いてるな。今日は、この辺りで、切り上げた方がいいかもしれん」
それは、鉱山で働く者なら誰もが知る、自然な崩落の予兆だった。
だが。
俺のシステムが、高速で警告を発する。
状況・・・
観測される兆候:微細な粉塵の落下。しかし、そのパターンに、説明不能な『違和感』が存在する。
結論:原因不明。人為的な要因――意図的な崩落誘発工作――の可能性を排除できない。
なんだ、この気持ち悪さは――。
――『具現設計』、起動。
俺の視界に、青い光のワイヤーフレームが、オーバーラップする。
俺の、脳が、焼き切れるほどの速度で、回転を始める。
これは、単なる思考ではない。
前世の記憶にある、あらゆる物理法則、設計図、過去の事象。
それらを、この世界の法則と照合し、未来をシミュレートする。
俺だけが持つ、世界を再構築するための力。
俺は、それを『具現設計』と、名付けていた。
仮に、これが最悪のケース――人為的な崩落だとしたら、その起点はどこだ? 落下パターンは? 生存エリアは?
落下する岩塊の質量、速度、予測軌道。
ボルカスたちの現在位置と、生存可能な退避エリア。
全ての変数が、一瞬で、三次元空間に、マッピングされていく。
最適退避座標、算出完了。
X軸マイナス3メートル、Y軸変動なし。
誤差、±10センチ――
思考が、結論に達するよりも早く。
俺の口が、叫んでいた。
それは、命令ではなかった。
悲鳴に、近かった。
「――ボルカス!左へ、三歩!今だ!」
「えっ!?」
「いいから、跳べ!」
――ゴゴゴゴゴ……!
絶叫と同時に、地響きが、坑道を揺るがした。
頭上の岩盤が、牙を剥く。
計算され尽くした、タイミング。
それは、ボルカスたち、作業班の、ちょうど真上だった。
「うわああああ!」
「逃げろ!」
奴隷たちが、パニックに陥る。
だが、俺の指示は、彼らの恐怖よりも、速かった。
俺の、人間性を失ったかのような、絶叫に近い命令に、ボルカスは、コンマ数秒、躊躇し、そして、長年の経験則を捨て、俺の言葉に、賭けた。
彼は、指示通りに、跳んだ。
その直後、彼が、今まで立っていた場所に、巨大な岩塊が、轟音と共に、落下する。
「他の者は、支柱の陰へ!頭を下げろ!」
俺は、叫び続ける。
崩落のパターン、岩の軌道、その全てが、俺の頭脳の中で、スローモーションで、シミュレートされていく。
そして、俺は、見てしまった。
逃げ遅れた、一人の老人が、足をもつれさせ、その場に、へたり込んでいるのを。
彼の頭上へと、拳大の岩が、無慈悲に、降り注ぐ。
――もう、間に合わない。
その、冷たい計算結果が、弾き出された瞬間。
俺の体が、勝手に、動いていた。
俺は、その老人を、突き飛ばす。
そして、自らの背中で、その衝撃を、受け止める、覚悟をした。
だが、その衝撃は、来なかった。
代わりに、俺の目の前で、血が、舞った。
ボルカスが、俺と老人の間に、割り込み、その屈強な腕で、岩の直撃を、防いでいたのだ。
ドン、と、鈍い音。
ボルカスの腕から、鮮血が、ほとばしる。
やがて、地響きが、止んだ。
粉塵が、ゆっくりと、晴れていく。
奇跡的に、死者は、一人もいなかった。
だが、ボルカスの腕は、あり得ない方向に、曲がっていた。
「……監督!」
誰かが、叫ぶ。
奴隷たちが、ボルカスの周りに、集まってくる。
だが、俺は、動けなかった。
「冷たい覚悟」など、吹き飛んでいた。
…まただ。
ヨハンの時と同じ、計算を無視した、致命的なエラー。
この『バグ』こそが、俺が、最も先に、駆除すべき、俺自身の敵なのかもしれない。
自らの命だけではない。
俺を信じた、仲間たちの命が。
今、この瞬間も、見えざる敵の、悪意によって、危険に晒されている。
その、圧倒的な「緊張」と、「責任」の重さが、俺の全身を、押し潰す。
これは、ゲームではない。
血の通った、戦争なのだと。
俺は、改めて、痛感していた。
事故処理の後。
ボルカスは、腕を吊りながら、俺の前に、立った。
あの死んだ魚のような目が、今は、静かな光を宿していた。
「……礼を言う、ゼニス。
……あんたが今までのあんただったら、俺たちは今頃、全員死んでいた。」
「……どういう、意味だ?」
「あの瞬間。誰もがパニックで動けなかった、あのコンマ数秒。
あんたの『跳べ!』という、たった一言に、全てを賭けられたのはなぜか、分かるか?」
ボルカスは、俺の目を、真っ直ぐに、見据えた。
「『計算』だけじゃなく、あんた自身の『魂』が、叫んでいた。
理屈じゃねえ。ただ、そう感じた。だから、俺は迷わず跳べたんだ」
彼は、吊られた腕の痛みに、わずかに顔をしかめ、そして、続けた。
「どんなに、正しい計算も。どんなに、優れた知識も。それだけじゃ、人は、動かせん。
最後の最後で、生死を分けるのは……あんた自身の、その、剥き出しの魂だ。
…忘れんなよ、若いの」
――エラー。
未定義の変数を観測。
名称:信頼
価値:計算の速度と正確性を、圧倒的に凌駕する、行動の絶対的な推進力。
俺のシステムは、静かに、この新しいデータを記録した。
皆が寝床へと戻った後。
俺は一人、崩落現場へと戻った。
松明の頼りない光を頼りに、探し始める。
そして、それを見つけた。
巨大な岩盤の下敷きになった、太い木製の支柱。
崩落した支柱の残骸、その折れた断面だ。
その断面は、一見、自然な破壊に見える。
過負荷によって、木材の繊維が無惨に引き千切られている。
ボルカスが見ればこう言うだろう。「寿命だったのさ」。
だが。
破壊の起点となったであろう箇所。
そこだけが他とは明らかに異なる、滑らかな切断面をしていたのだ。
木材が自然に裂けた時のささくれ立った断面ではない。
鋭利な斧か何かで切れ込みを入れられていたかのような滑らかさ。
そして、その切れ込みを隠すかのように、周囲には泥や岩の粉が塗りたくられていた。
注意深く観察しなければ気づかないだろう「細工」の痕跡だった。
これは、事故ではない。
最も負荷がかかる一点で支柱の強度を低下させ、作業の振動や衝撃で崩落するように仕組まれた
「殺人未遂」だ。
その証拠を前に、全てを悟った。
俺は、闇の中で静かに牙を剥く、巨大な蛇の「顎」の中にいるのだと。
この谷の全員が、これを『事故』だと信じている。
ボルカスの怪我を、不運な偶然だと受け入れている。
真実を知っているのは、俺と、そして仕掛けたガルトだけだ。
――王の仕事とは、これか。
真実を一人で背負い、民の安寧という名の「嘘」を守り抜くこと。
俺は、誰にも聞こえない声で、呟いた。
「――蛇の顎から逃れるためには、その蛇の『構造』を知らなければ…」




