表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
神なき世界の設計者 ~奴隷の知識が非合理な絆と最強国家を鍛え上げる~  作者: Ken
第一幕:灰色谷の奇跡

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

1/29

第一話『一切れのパン』


名称:奴隷1138番。

役割:灰色谷鉱山における鉱石の採掘と運搬。

価値:有用性。


俺は、思考しない。

俺は、定義する。


思考に意味はない。感情はノイズだ。

この世界で唯一絶対の価値基準は、有用性。それだけだ。


例えば、今、俺の鼓膜を揺らすこの音。


名称:つるはしの衝撃音。

周波数:約400Hz。

用途:岩盤の破砕。


例えば、今、俺の鼻腔を刺激するこの匂い。


名称:ヒトの汗に含まれる酪酸。

化学式:C₄H₈O₂。

状態:腐敗の初期段階。


俺の世界は、解析可能なデータと、ノイズの二つで構成されている。



「ゴ、ゴホッ……!」



隣でつるはしを振るう個体が、濁った咳と共に血の混じった唾を吐き出す。


奴隷893番。個体名、ヨハン。


稼働限界が近い。

俺の分析では、彼の生命維持可能時間は、残り120時間を切っている。

非効率な個体だ。すぐにでも廃棄されるべき、負債。


俺は、無駄な定義を思考から切り捨てる。

ただ、つるはしを振るう。


友情は、リスク。

正義は、最も致死率の高い、精神の病である。


俺は心を捨てた。

自らを「機械」と定義することで、この地獄を生き抜いてきた。

これからも、そうあり続ける。

それこそが、唯一の正解だ。



「――食事だ! 整列しろ、ウジ虫ども!」



腹に響く、怒声。

終業の合図だった。

俺たちは、死んだ魚のような目で、ぞろぞろと配給口へと並ぶ。


今日の糧。

硬く、黒ずんだパンが一切れ。

そして、泥水のようなスープが一杯。


これが、俺という機械を明日も稼働させるための、燃料だ。

受け取ったパンを、無心で口に運ぼうとした、その時。

目の前に、節くれだった手が、そっと差し出された。



「……1138番。これを、食ってくれ」



その手の上には、一切れのパン。

声の主は、ヨハンだった。

彼の瞳は、この谷の誰とも違う、奇妙な光を宿していた。


理解不能。

彼は、自らの生存リソースを、他個体に譲渡しようとしている。


目的は?

見返りは?


計算が、合わない。



「不要だ」



俺は、短く拒絶する。



「俺には、今日のノルマ分の燃料が支給されている。それ以上は、無駄なエネルギーだ」



「いいから。お前さんは、若い。未来がある」



「未来、だと? この谷に、そんな不確定な概念は存在しない」



「……それでも、だ」



ヨハンは、無理やり俺の手にパンを押し付けてくる。

乾ききったパンの感触。

そして、驚くほど熱い、彼の皮膚の温度。


彼の行動原理を再計算する。


仮説1:俺に恩を売り、将来的に保護を求めるための先行投資。

棄却。彼の余命では、投資の回収は不可能。


仮説2:精神的な錯乱。死期を悟り、非合理な行動を選択している。

可能性、78.3%。これが最も確からしい。



「そのパンを受け取れば、お前の生命維持可能時間は、確実に24時間は短縮される。非合理的だ」



「……合理性だけじゃ、腹は膨れても、心は飢えちまうのさ」



ヨハンは、そう言って寂しそうに笑った。


心が、飢える?

――エラー。未定義の概念を受信。

俺の思考回路が、警鐘を鳴らす。


心など、とうの昔に捨てた。

有用性のない、ただのノイズだ。


だが、手のひらに残る、あの熱。

あれは、物理的な温度ではなかった。

俺のシステムが、解析を拒絶する、未知の情報。


その時だった。



「――おい、貴様ら! いつまで駄弁ってやがる!」



地響きのような声と共に、巨大な影が俺たちを覆った。


看守だ。

豚のように肥え太り、その瞳には、飢えた獣のような残虐性が浮かんでいる。



「楽しそうじゃねえか。なあ?」



看守は、ニタニタと笑いながら、側にいた別の奴隷の肩を掴んだ。

まだ、少年と呼んでもいい年齢の、痩せこけた個体だ。



「ヒッ……!」



少年が、悲鳴を上げる。

だが、看守は構わず、その細い腕を、あり得ない方向に捻り上げた。

ゴキリ、と嫌な音が響く。



「あああああああっ!」



甲高い絶叫。

骨の折れた少年は、地面を転げ回る。

看守は、それを心底楽しそうに見下していた。


理不尽な、暴力。

この谷では、日常の光景だ。

抵抗は、死。

沈黙こそが、生存戦略。


そう、定義しているはずなのに。



「――てめえッ!」



一人の奴隷が、叫びと共に飛び出した。


奴隷752番。通称、カエル。


短絡的で、暴力的。

だが、その行動原理は、常に純粋な怒りに満ちていた。


定義:無謀な反乱。

成功確率、0.2%。

失敗した場合の結末は、確実な「死」。

生存戦略として、最悪の選択。


周囲の奴隷たちが、慌ててカエルを羽交い絞めにする。



「よせ、カエル! 殺されるぞ!」



「離せ! あいつは、仲間を……!」



「馬鹿野郎! お前が死んだら、何になる!」



そうだ。

何も、生み出さない。

無意味な死だ。

ただ、全体の損失を増やすだけの、エラー。

俺は、冷徹にその光景を分析する。


カエルの正義は、自己満足だ。

ヨハンの善意は、自己犠牲だ。


どちらも、この世界では何の役にも立たない。

有用性ゼロの、ガラクタ。


俺は、手の中のパンを強く握りしめた。

解析不能な情報が、まだそこには残っているような気がした。


看守は、騒ぎを鼻で笑うと、興味を失ったようにカエルから視線を外し――俺を見た。



「……なんだ、その目は」



看守が、ゆっくりとこちらへ歩み寄ってくる。

その巨体は、凄まじい圧迫感があった。



「奴隷の分際で、俺に意見でもあるのか? ああん?」



まずい。

俺の無表情が、「反抗的」と判断されたらしい。


定義:状況、最悪。

最適な対応は、即座の謝罪と服従。

生存確率、45.5%。


俺が、膝を折ろうとした、その瞬間。

俺の前に、痩せこけた背中が割り込んできた。


ヨハンだった。



「か、看守様。どうか、お許しを。この者は、疲れているだけで……」



「どけ、ゴミが」



看守は、ヨハンの言葉を最後まで聞くことなく、その手に持った鉄棍を、無造作に振り抜いた。


――ゴシャッ。


肉が潰れる、水っぽい音。


――警告。システムへの過負荷を検知。

聴覚情報:骨が砕ける音。2,500Hzを超える高周波ノイズを同時受信。

嗅覚情報:鉄と血液の匂い。許容量を超える濃度の情報が鼻腔粘膜を飽和。

視覚情報:赤。赤。赤。赤。赤。世界の色彩情報が、単一の色コードに汚染されていく。


世界が、スローモーションになるのではない。

俺の思考が、初めて、世界の速度についていけなくなったのだ。


ヨハンの体が、くず折れるように倒れていく。

その顔は、驚愕に見開かれていた。

彼の口から、赤い泡が、ゴボリと溢れ出す。


俺の、目の前で。

俺を、庇って。


思考回路が、焼き切れる。

計算、計算、計算。


なぜ?

なぜ、彼が?

俺を庇うことに、何の「有用性」が?

何の「利益」が?


理解、できない。

論理が、破綻する。


ヨハンは、震える手で、俺の服の裾を掴んだ。

そして、血の塊を吐き出しながら、最後の力で、何かを囁いた。



「……計算、通りになんて……」



息が、途切れる。



「……動いて、やるものか」



その言葉は、俺の魂に突き刺さった。


ヨハンの瞳から、光が消える。

彼の体から、熱が失われていく。


俺は、立ち尽くす。

手の中には、彼がくれた、一切れのパン。


闇の中で、生まれて初めて、俺は「正解」の分からない問いの前に、ただ一人、立ち尽くしていた。


手の中には、まだ、あの温もりが残っている。

解析不能な、未知の情報。


――教えてくれ、ヨハン。

あんたの世界では、一体何が「正解」だったんだ?

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ