第一話『一切れのパン』
名称:奴隷1138番。
役割:灰色谷鉱山における鉱石の採掘と運搬。
価値:有用性。
俺は、思考しない。
俺は、定義する。
思考に意味はない。感情はノイズだ。
この世界で唯一絶対の価値基準は、有用性。それだけだ。
例えば、今、俺の鼓膜を揺らすこの音。
名称:つるはしの衝撃音。
周波数:約400Hz。
用途:岩盤の破砕。
例えば、今、俺の鼻腔を刺激するこの匂い。
名称:ヒトの汗に含まれる酪酸。
化学式:C₄H₈O₂。
状態:腐敗の初期段階。
俺の世界は、解析可能なデータと、ノイズの二つで構成されている。
「ゴ、ゴホッ……!」
隣でつるはしを振るう個体が、濁った咳と共に血の混じった唾を吐き出す。
奴隷893番。個体名、ヨハン。
稼働限界が近い。
俺の分析では、彼の生命維持可能時間は、残り120時間を切っている。
非効率な個体だ。すぐにでも廃棄されるべき、負債。
俺は、無駄な定義を思考から切り捨てる。
ただ、つるはしを振るう。
友情は、リスク。
正義は、最も致死率の高い、精神の病である。
俺は心を捨てた。
自らを「機械」と定義することで、この地獄を生き抜いてきた。
これからも、そうあり続ける。
それこそが、唯一の正解だ。
「――食事だ! 整列しろ、ウジ虫ども!」
腹に響く、怒声。
終業の合図だった。
俺たちは、死んだ魚のような目で、ぞろぞろと配給口へと並ぶ。
今日の糧。
硬く、黒ずんだパンが一切れ。
そして、泥水のようなスープが一杯。
これが、俺という機械を明日も稼働させるための、燃料だ。
受け取ったパンを、無心で口に運ぼうとした、その時。
目の前に、節くれだった手が、そっと差し出された。
「……1138番。これを、食ってくれ」
その手の上には、一切れのパン。
声の主は、ヨハンだった。
彼の瞳は、この谷の誰とも違う、奇妙な光を宿していた。
理解不能。
彼は、自らの生存リソースを、他個体に譲渡しようとしている。
目的は?
見返りは?
計算が、合わない。
「不要だ」
俺は、短く拒絶する。
「俺には、今日のノルマ分の燃料が支給されている。それ以上は、無駄なエネルギーだ」
「いいから。お前さんは、若い。未来がある」
「未来、だと? この谷に、そんな不確定な概念は存在しない」
「……それでも、だ」
ヨハンは、無理やり俺の手にパンを押し付けてくる。
乾ききったパンの感触。
そして、驚くほど熱い、彼の皮膚の温度。
彼の行動原理を再計算する。
仮説1:俺に恩を売り、将来的に保護を求めるための先行投資。
棄却。彼の余命では、投資の回収は不可能。
仮説2:精神的な錯乱。死期を悟り、非合理な行動を選択している。
可能性、78.3%。これが最も確からしい。
「そのパンを受け取れば、お前の生命維持可能時間は、確実に24時間は短縮される。非合理的だ」
「……合理性だけじゃ、腹は膨れても、心は飢えちまうのさ」
ヨハンは、そう言って寂しそうに笑った。
心が、飢える?
――エラー。未定義の概念を受信。
俺の思考回路が、警鐘を鳴らす。
心など、とうの昔に捨てた。
有用性のない、ただのノイズだ。
だが、手のひらに残る、あの熱。
あれは、物理的な温度ではなかった。
俺のシステムが、解析を拒絶する、未知の情報。
その時だった。
「――おい、貴様ら! いつまで駄弁ってやがる!」
地響きのような声と共に、巨大な影が俺たちを覆った。
看守だ。
豚のように肥え太り、その瞳には、飢えた獣のような残虐性が浮かんでいる。
「楽しそうじゃねえか。なあ?」
看守は、ニタニタと笑いながら、側にいた別の奴隷の肩を掴んだ。
まだ、少年と呼んでもいい年齢の、痩せこけた個体だ。
「ヒッ……!」
少年が、悲鳴を上げる。
だが、看守は構わず、その細い腕を、あり得ない方向に捻り上げた。
ゴキリ、と嫌な音が響く。
「あああああああっ!」
甲高い絶叫。
骨の折れた少年は、地面を転げ回る。
看守は、それを心底楽しそうに見下していた。
理不尽な、暴力。
この谷では、日常の光景だ。
抵抗は、死。
沈黙こそが、生存戦略。
そう、定義しているはずなのに。
「――てめえッ!」
一人の奴隷が、叫びと共に飛び出した。
奴隷752番。通称、カエル。
短絡的で、暴力的。
だが、その行動原理は、常に純粋な怒りに満ちていた。
定義:無謀な反乱。
成功確率、0.2%。
失敗した場合の結末は、確実な「死」。
生存戦略として、最悪の選択。
周囲の奴隷たちが、慌ててカエルを羽交い絞めにする。
「よせ、カエル! 殺されるぞ!」
「離せ! あいつは、仲間を……!」
「馬鹿野郎! お前が死んだら、何になる!」
そうだ。
何も、生み出さない。
無意味な死だ。
ただ、全体の損失を増やすだけの、エラー。
俺は、冷徹にその光景を分析する。
カエルの正義は、自己満足だ。
ヨハンの善意は、自己犠牲だ。
どちらも、この世界では何の役にも立たない。
有用性ゼロの、ガラクタ。
俺は、手の中のパンを強く握りしめた。
解析不能な情報が、まだそこには残っているような気がした。
看守は、騒ぎを鼻で笑うと、興味を失ったようにカエルから視線を外し――俺を見た。
「……なんだ、その目は」
看守が、ゆっくりとこちらへ歩み寄ってくる。
その巨体は、凄まじい圧迫感があった。
「奴隷の分際で、俺に意見でもあるのか? ああん?」
まずい。
俺の無表情が、「反抗的」と判断されたらしい。
定義:状況、最悪。
最適な対応は、即座の謝罪と服従。
生存確率、45.5%。
俺が、膝を折ろうとした、その瞬間。
俺の前に、痩せこけた背中が割り込んできた。
ヨハンだった。
「か、看守様。どうか、お許しを。この者は、疲れているだけで……」
「どけ、ゴミが」
看守は、ヨハンの言葉を最後まで聞くことなく、その手に持った鉄棍を、無造作に振り抜いた。
――ゴシャッ。
肉が潰れる、水っぽい音。
――警告。システムへの過負荷を検知。
聴覚情報:骨が砕ける音。2,500Hzを超える高周波ノイズを同時受信。
嗅覚情報:鉄と血液の匂い。許容量を超える濃度の情報が鼻腔粘膜を飽和。
視覚情報:赤。赤。赤。赤。赤。世界の色彩情報が、単一の色コードに汚染されていく。
世界が、スローモーションになるのではない。
俺の思考が、初めて、世界の速度についていけなくなったのだ。
ヨハンの体が、くず折れるように倒れていく。
その顔は、驚愕に見開かれていた。
彼の口から、赤い泡が、ゴボリと溢れ出す。
俺の、目の前で。
俺を、庇って。
思考回路が、焼き切れる。
計算、計算、計算。
なぜ?
なぜ、彼が?
俺を庇うことに、何の「有用性」が?
何の「利益」が?
理解、できない。
論理が、破綻する。
ヨハンは、震える手で、俺の服の裾を掴んだ。
そして、血の塊を吐き出しながら、最後の力で、何かを囁いた。
「……計算、通りになんて……」
息が、途切れる。
「……動いて、やるものか」
その言葉は、俺の魂に突き刺さった。
ヨハンの瞳から、光が消える。
彼の体から、熱が失われていく。
俺は、立ち尽くす。
手の中には、彼がくれた、一切れのパン。
闇の中で、生まれて初めて、俺は「正解」の分からない問いの前に、ただ一人、立ち尽くしていた。
手の中には、まだ、あの温もりが残っている。
解析不能な、未知の情報。
――教えてくれ、ヨハン。
あんたの世界では、一体何が「正解」だったんだ?




