the beginning of the end
今朝のメアリは少し不機嫌そうだった。
というのも最近少し寝ざめが悪いからだ。小さい頃からずっと愛用しているふかふかの天蓋付きの大きなベッドで目覚めたのに、どうも気分が明るくならない。眠った気がしないというべきか。
そんな寝覚めの悪さが数週間続いたこともあって、メアリの感情は『辛い』から『癪に障る』という方向性へ変化してしまったわけだ。
「この悪夢、どうにかならないのかしら……本当にもう」
長いブロンドの髪を掻き分けながらメアリが言った。
絵本の中のお姫様のようなマリンブルーのドレスの裾を揺らし、アールデコ調のデザインを施したテーブルの下では足をわずかにばたつかせている。お嬢様のメアリらしい怒りの表現だった。
「お薬でも探してみる? お医者さんに聞いてみればわかるかもしれないよ」
「嫌よ。わたしは医者にかかるのが嫌いなの。どうして自分の健康を他人に任せないといけないのよ、そんなのエマも知ってるでしょう?」
「そうだったね。うん、だよね」
メアリは人と関わることがあまり得意ではないし好きでもない。
もっと言えば苦手だし嫌いだ。
だから私たちの暮らしはとてもミニマムで、小さな部屋と水周りだけで完結する。人に話したらそんな狭い暮らしでよく生きていけるねって思われちゃうかも。
私とメアリが二人暮らしを始めてからもうずいぶん経つ。
きっかけはなんだったか忘れてしまったけど、メアリが裕福な家系のお嬢様だったから親にお金を出してもらって、そこから二人きりの暮らしを始めた。期限は私たちの子供時代が終わるまで。そんな取り決めだったように思う。
メアリはわがままで気が強くて、親の言うことにだってなかなか従わなくて、その強さで全てを押し通してこの暮らしを手に入れたのだ。恋人である私との同棲を。
「エマはもう少しわたしの性格を考えてちょうだい。……だって、こ、恋人、なんだし」
「……そうだね。恋人って口にするだけで顔が真っ赤になるメアリのために考えてみるよ」
「それは余計なの!」
そう言ってくるりと背を向けたメアリに苦笑しつつ、キッチンで紅茶を淹れて朝の目覚ましにする。カップは二人でお揃いのペアセットのものを置いてある。
ひとりキッチンに立ちながら色々なことを考える。
メアリは私を引っ張ってくれた。引っ込み思案で自分の思いも上手く言えなくて人に流されるままだった私を導いてくれた。そこが好きだし、しゅっとして細さもありながら程良く丸みを帯びた幼い顔つきに、私と同じくらいの背丈なのに女性らしいくびれを持った身体、さらさらで綺麗な髪の毛、好んで着ているこのドレスが似合うところも、色々なところが好きだ。
そんなメアリとの二人暮らしはとても幸せで、親に許された期限付きの同棲ではあるけれどそれでもよかった。だからこそこの期間をできるだけ嬉しい気持ちで過ごしたい。
そのためにもメアリの悪夢をどうにかしたい。
でもメアリは人が嫌い。じゃあどうすれば?
そうして思い付いたのはメアリを少しだけ外に連れ出すことだった。
私たちは二人きりの空間の心地良さから離れる理由なんてなかったから、ずっと部屋の中で過ごしてきたし、外の空気は部屋にひとつだけある窓から入ってくるだけだった。
じゃあ外の空気をもっとちゃんと吸って気分を変えれば悪夢だって少しは減るかもしれない。試してみたい。そうしてメアリを説得して部屋から連れ出すまで私は数時間を掛けることになった。
―――
部屋を出て扉を閉じた瞬間にふと背筋に走った違和感と寒気を見ないふりして、少し古びた柱が支える廊下に出た。見た覚えがあるような、ないような。
「ねえエマ、ところで部屋から出てどっちに行けばいいのかしら? お父様とお母様の住んでいる建物はどこだったかしら?」
「あ……私もわからない」
「そうよね、だってもう長くここにいたもの」
そして私たちは迷った。
それはもう長く見てこなかった通路と階段の迷宮で立ち止まった。
そもそもこの部屋を与えられたのは私たちの両親やそれに関わる大人たちと出来るだけ離れた場所だからだ。メアリは王族の娘として生まれ、社交と知略を求められる中で人間を嫌いになってしまい、王の娘という立場と権力を振りかざしてこの場を手に入れたのだ。
窓から見ていた光景もいくつもの塔と建物が聳え立つ様子だけだったから、今いる建物との位置関係がわからない。ともかく足を動かして探るしかなかった。
「メアリ、とりあえずこっちの階段を下ってみよう。出口ならきっと下の方だよ」
「そ、そうね。うん」
メアリの胸元でマリンブルーの宝石が揺れて、私たちは探検に出た。
ドレスと同じ色の宝石をあしらったペンダントはメアリが幼い頃にプレゼントされたもので、今も大事に着けている。ちなみにプレゼントしたのは私だ。王侯貴族のうちのひとつであった家の生まれである私は、親に頼み込んでメアリへの贈り物を買ってもらったのだ。その時にお揃いで買ったマゼンタの深い色を湛えた宝石のペンダントは今も身に着けている。
外からの光を浴びてきらきらと輝くそれを時折確かめながら、私たちはいくつもの階段を下る。窓の外は相変わらず大小様々な建物を映すばかりでその先が見えない。
メアリはまだ不安なようだったが、私は少しだけ楽しいと感じていた。
誰もいない建物の中を好きなように探索するのは宝探しみたいで面白い。
「ねえエマ、どうしてこんなに人がいないのかしら」
「うーん、やっぱり私たちへの配慮なのかな」
「にしても少ないわよ。給仕や掃除人の一人くらいいてもいいのに」
私たちの喋り声と足音、それから呼吸音くらいが聞こえてくる音だった。
こんなに広い建物を私たちが独り占めしていたのかと思うと不思議だ。それだけメアリのわがままが強かったのだろう。
そんなメアリの性格はもうずっと昔から知っている。
私たちが出会った5歳か6歳か、それくらいの頃から。
初めて会った時は親同士、つまり王族と貴族の社交の場で、一人むすっとした表情でホールの隅に佇んでいるメアリに声を掛けたのが始まりだった。人と関わることに最初から抵抗感のあったメアリ。その背景には王族の一員として様々な大人たちが謀略を巡らせて近付いてくることを本能的に感じていたこともあるのだろう。
そんな中で私とメアリは友達になった。
子供同士、同性、同い年、どちらかといえば一人でいたい性格。
だから私たちは相性がよかった。
二人で過ごしていて苦じゃなかった。心地良かった。
そこから年月を経てメアリは美しく成長した。
幼くもあり愛らしくもあり、しかしどこかお姫様としてのオーラを感じさせるほどに。
そんな風にメアリが成長していく過程で私も同じように育ち、互いに友愛とは違う感情を覚え始めたことで恋人としての二人に至ることが出来た。そしてこうやって二人で暮らしているのはモラトリアム ― つまり、メアリが王族として後継ぎと婚姻するまでの猶予として与えられた時間の中で。期限付きとはそういうことだ。
「はあ、あれだけ子供の未来を勝手に決めたがっていたくせに、いざ放置してみたら誰もいなくなるとかおかしい話だわ。まったく無責任ね」
「うん……でも、こうやって一緒に暮らせるなら、それでいいのかもしれない」
「…………そうね」
メアリの返答にはなにか重い情念が込められているようなそんな気がした。
私たちのモラトリアムの終わりは同じ結末への始まり。メアリと一緒にいられるのはこれが最後。だから、いっそのこと誰もいなくなって静かに暮らせればいいのにと思う。
そう思いながら階段を下り切って、誰もいない広いホールに出た。
明るく開放的なはずなのに寂しさを感じるのは人がいないせいか、少し古びた感じがする内装のせいか、定かではない。
その中心には大きな木製の扉があって、ここが玄関なのだとわかった。
だからメアリを連れて進む。久しぶりに出る外の世界に少しだけ胸が弾んだ。
私たちの背丈より何倍も高い扉の取っ手を持って、押し開けて―
「…………あ、あれ? 開かない」
「ちょっと貸してみなさい。わたしが代わりに……って、えっ、そんな」
「やっぱり、開かないよね」
扉はぴくりとも動かなかった。
錠は外れている。なのに開かない。腕力が足りないのかと二人で押してもダメ。
どうして?
私たちをひととき放置しておくための場所なら固く閉ざす必要なんてないのに。
ぞわっと寒気が背筋に走った。
部屋を出た時と同じだった。
「ねえエマ、わたし、なんだかすごく怖いの……」
「わ、私も……なんか変な感じ……」
「そうよ! 扉が開かないならベランダはないのかしら。そこから外を見渡せばいいのよ。そうすれば外の空気も吸えるし問題ないわ」
その提案に私はすぐ同意した。
二人で階段を足早に上る。いつの間にか手を繋いでいた。
もう自分たちが暮らしていた部屋との位置関係も危うくなってきたが、それでも気にせず上を目指した。私の感じているこの不安をメアリも抱えているようだった。
ただひとつの建物のはずなのに複雑で形状が把握しづらい。
階段を上って、途切れればその階を探索して更に上を目指す。窓はない。ベランダもない。そうなればもっと上を目指すしかない。
メアリの額に小さく汗の粒が浮かんでいた。
小さい部屋で暮らしてきたメアリには、そして私にもこの道のりはとても長く思えた。
そして会話も途切れた。何を喋っていいのかわからないし、ただただ襲い来る恐怖に似た何かに口すら開けなかった。メアリが私の手を握る力が強くなる。私もそれを強く握り返す。
やがて十分が数十分かが過ぎた頃、不意に階段は終わった。
三角錐のような形になった天井が、ここが最上階であることを教えてくれた。
そのフロアをひたすら歩き続けて、ようやく大きく開いた窓が見えて私たちは駆け出す。あそこがきっとベランダ。しかも最上階。それならこの建物の外がよく見えるはず。
二人で並んで走って、胸元でお揃いのペンダントが大きく揺れて、開いたままの窓のひとつから勢いよくベランダへと躍り出る。くすんだ大理石の欄干が目前に迫って。
そして、私たちは見てしまった。
この建物の外を。
見たこともない建物と機械と文明がそびえたつ世界を―
「…………へ?」
「……メアリ……なに、これ……」
白くて先鋭的なデザインをした建物が何個も競うようにそびえたっている。この建物とはまるで違う煌びやかで、遥か未来の都市を想像させるような光景。
道路にはいくつもの光を放つ機構が存在し、そこを不思議な形状の馬車のような何かが ― いや、馬のいない馬車が規則正しく通り過ぎていく。その横を通過する人々は私たち貴族の娘でも知らないような衣服を身に纏っている。まるでなにか空想上の生物が蠢いているかのような。
「エマ……これはどういうことよ……」
「わ、わからない……なんで、こんな……」
そのベランダから私たちのいた建物の外壁も捉えることが出来た。
くすんだ薄茶色、古びた壁、汚れた硝子― 視線の向こうに見出した外の世界とはまるで違う、この場所だけ歴史の流れから取り残されてしまったような景色。
そして私は見てしまった。
この建物の真下、私たちが開けようとした玄関の前に置いてある立て看板。見たこともない形をしているそれに書かれている文字を。
『重要文化財 老朽化のため取り壊し予定 侵入禁止』
その玄関より少し先には黄色の紐のような何かが張り巡らされ、外の世界から隔離されていた。そこに立っている守衛と思しき人物は鎧も剣も持たず、何か発光する棒のようなものを握っている。
その光景にメアリの手が震え出した。
自分たちがいったいどんな状況に置かれているのか、わからなくて、恐ろしくて。
そこで何分立ちすくんだかもわからない。
ただ、ふとこちらを向いたメアリの瞳にはうっすらと涙が浮かんでいて―
「エマ……わっ、わたし、どうしたらいいの……」
こんなにも弱気で不安に襲われているメアリは初めてだった。
そしてその姿に何も言葉を返せない私は、メアリの手を引いてベランダから去ることしかできなかった。
今だけは私がメアリを引っ張る。
これはきっと悪い夢。メアリの悪夢よりも性質が悪い夢。私たちの部屋に戻れば、きっと元通りの暮らしが帰ってくるはず。そう信じて歩いた。
でも、心のどこかで私は気付いていた。
この建物に誰もいない理由も、外の世界が遥か未来の光景を見せている理由も。
だから、ひたすら歩き続けて、やっとの思いで私たちの大事な部屋に帰り着いて、何も変わらないはずの部屋の中に『それ』を見てしまっても取り乱さなかった。
二人で一緒に眠っている天蓋付きのベッドの上。
そこに横たわっていた二つの骸骨を見ても。
「い……いやぁぁぁあーーーーっっっ!!!」
メアリは悲鳴を上げてうずくまった。
「…………メアリ」
二人分の遺体―もうすっかり白骨化したそれの胸元には色違いの宝石が光っていた。
ひとつはマリンブルーの、ひとつはマゼンタの。
私たちがお揃いで着けているそれと全く同じものが。
「いやぁ……やだっ、やぁぁぁ…………やめてっ、思い出したくないのっ……!」
「メアリっ……!」
その瞬間、脳裏にいくつもの光景がよぎった。
フラッシュバックしたのは私とメアリが生きていた頃の出来事。
メアリが次の王となる青年と婚姻することになった時、そして同時に私もまた嫁入りすることが決まった時。泣いて抵抗して、誰もいない寂れた塔へ二人で逃げ込んだ時。
見つからないように必死に息を殺して小さな部屋に隠れた時。
やがて衛兵に見つかって、でも必死で入口を塞いで応戦した時。
しばらくして親の声が聞こえてきて、「このまま婚姻しないと言うのなら一生この部屋に閉じ込める」と宣言された時。
そのまま二人で身を寄せ合って小さな部屋で怯えながら過ごした時。
喉の渇きと空腹に飢えながら互いの唾液を啜り合ってやり過ごした時。
でも、いつしか身体が動かなくなって、言葉を発することもできなくなった時。
そして、最期にベッドの上で二人で抱き合って過ごした時。
「…………メアリ」
「エマぁ……嫌っ、わたしっ、エマと離れたくないのぉっ……」
「私もっ……メアリと、ずっと一緒にいたいっ……」
けれど目の前の骸骨が、既に生を終えた私たちの抜け殻が示している。
この暮らしがもう長くは続かないことを。
「エマっ……!」
「メアリっ……!」
ベッドの傍らで私たちはただ抱き合って時を過ごした。
終わりはもうすぐそこまで迫っていた。