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『お父様、お母様へ
私、この婚約に納得が出来ないため、好きに生きようと思います。
二度と戻る気はありませんので、私のことは死んだものとして、諦めてください。
十八年大切に育ててくださり、ありがとうございました。
いつまでも健康に過ごしてください。
親不孝なアンジーナを許さないでください』
「よし! これを置いて行けばいいわね」
「何が『よし!』なのですか!? それにその格好は!? まさか、家を出るおつもりなのですか!?」
「ちょっ、ちょっと! 声が大きいわよ!」
今から家出を敢行しようとしていたところを、侍女のカーミラに見つかってしまった。
カーミラは、私『アンジーナ・ドロテ』より三つ年上の二十一歳で、男爵家の四女である。
私は伯爵家の三女として生まれ、十八年間生きてきたのだが、つい先日婚約者が決まり、家を出る決意をした。
私の婚約者として決まったのは、マッチス公爵家三男のデボッド・マッチス。
十二歳も年上の三十男で、「マッチス公爵家の味噌っかす」と陰で言われているような男だ。
マッチス公爵家の長男と次男はとても出来がよく、その上容姿端麗で、二人とも既婚者であるに関わらず、それでもいいと好意を寄せる女性が大勢いるほどなのだが、デボッドは違った。
顔は上の二人と多少似ているのだが、自称「美食家」を騙り、定職にもつかず、公爵家のお金で贅沢三昧。
食べてばかりのせいなのか、私がデボッドを知った時には既にぶくぶく肥え太っていて、初見の印象は「白豚」。
まだ豚の方が愛嬌があり可愛いとさえ思ったものだ。
そんな男との婚約が決まってしまったのだ、家を出ようと思ってもおかしくはないだろう。
両親は絶対に断ってくれるだろうと思っていたのだが、公爵家からの圧力に、一介の伯爵家が勝てるわけもなく、酷く申し訳なさそうに「婚約者が決まったよ......」と言われ、目の前が真っ暗になったのは記憶に新しすぎる。
「気持ちは分かりますが、お嬢様が家を出ても、とてもじゃありませんが、生きてなどいけませんよ?」
カーミラが困ったように眉を寄せている。
「大丈夫よ? 私、家事全般は一通り出来るもの!」
「はぁ!? 待ってください! え? お嬢様が、家事!?」
「お金だって、自分でこれまで稼いできたものが五百万ポルはあるわ」
「ご、五百万!?」
金額を聞いて、カーミラが聞いたことのない声を上げた。
それもそうだろう。五百万ポルとは、前世の金額に換算すると、ザッと五千万円を超える金額だ。
あ、そういえば説明していなかったけど、私には前世の記憶が存在し、前世ではバリバリのキャリアウーマンだった。
株や投資にも手を出していて、趣味は読書という、華やかそうに見えて、実は地味な女だった。
今世では、たくさんもらうお小遣いの使い道を投資に充て、両親に知られないように運営してきた結果、五百万ポルにまで私財が膨れ上がっていた。
この国では、女が働いたり、投資をするのは良しとされていないため、バレてしまわないようにするのは骨が折れたのだが、それもこの日のための準備だったのだと思えば、良くやった自分! と自分自身を褒めたいくらいだ。
「だからね、行かせて?」
「......私も行きます!」
カーミラが私の手を握り、そんなことを言い出した。こうなったカーミラはどんなことをしても揺らがない。
「でも、私、ラボート国に行くのよ? カーミラには無理よ」
「ラボート......」
揺るがないカーミラを唯一揺るがすのが、恐らく『ラボート国』だろう。
ラボート国は獣人族の国で、少しだけ人間も住んでいるのだが、この国カップライン国は獣人族を毛嫌いしている国であり、交流もなく、教科書に載っている「獣人族は野蛮で凶暴」という情報と、教師からの教えが全てなので、怖がっている人が大半である。
カーミラも例に漏れず獣人族を怖がっている人間の一人で、国の名前を聞くだけで嫌がるほどだ。
「......お嬢様が行くのなら、私も行きます! 獣人族? それがなんですか! 怖くなんかありませんよ!」
そう言ったカーミラの手は小さく震えている。
「無理しなくていいのよ? 私一人で行けるもの」
「無理ではありません! 行くと言ったら行きます!」
こうしてカーミラも私の家出に付き合うことになった。
直ぐに発つつもりだったが、カーミラが着いていくと聞かなかったので、カーミラの準備が終わるのを待ち、家族が寝静まった深夜に家を出た。
まずは深夜の乗合馬車に乗り、国境を抜けて隣国へと入った。
「ドキドキしましたが、意外と大丈夫なのですね?」
「隣国とは友好関係だから、そんなに心配はいらないのよ。問題はこの先よね。でもまぁ、手はあるわ、任せておいて」
「お嬢様......お屋敷にいる時よりも頼もしく見えます」
隣国『エトワールス国』と、私が生まれ育ったカップライン国は長い間友好関係を築いているため、検問も緩く、ほぼノーチェックで国境を越えられるのだが、エトワールス国からその隣の国である『ジャピエル帝国』に入るにはしっかりとした身分証が必要になる。
ジャピエル帝国はこの世界最大の国であり、いつもエトワールス国と小さないざこざを起こしている。
身分証を提出すればいいのだが、私の身分証はお父様が管理をしていて持ち出せなかった。
カーミラもまた同様で、二人共身分証と言える物がない。
しかし、世の中には『抜け道』と呼ばれる手段が存在している。
今回はその抜け道を使わせてもらう。
この国には闇市と呼ばれるものがあり、そこでは貧しい者達が色々なものを売っている。その中には己の身分証も含まれている。
この国では、どんなに貧しくとも、身分証は必ず発行される仕組みになっており、前世のように身分証に顔写真などはないため、年齢的なものと性別が合っていて、国から発行された正規の身分証であれば国境は越えられる、余程のことがない限りは。
失くしても再発行も可能なため、そういう場所でやり取りがされているのだ。
闇市は少し中心街から離れた場所にひっそりと広がっており、すえた臭いと仄暗さが入り交じっていた。
「お姉さん、何を探してるの?」
闇市の入口にはやせ細って薄汚れた子供達が十人ほどおり、この子達が客の要望に合う店へと案内してくれる。
もちろん案内料が必要になるが、自力で探し当てるよりも子供達に頼む方が確実であるし、案内料はその大半が子供達の収入になるため、私は迷わず案内を頼んだ。
「ここがいいよ。ここならお姉さん達が欲しい身分証もきっとある」
案内をしてくれた少年に案内料を渡し、追加で他の子供達へのお駄賃も渡すと、少年は目を丸くした後、満面の笑みを浮かべた。
「お姉さんは良い人だ! ありがとう! これでみんな、明日も生きられるよ!」
走り去る少年の背を見送り、案内された、店とは到底呼べない掘っ建て小屋へと足を踏み入れた。
「いらっしゃい」
ボロを着てしゃがれた声の老婆が奥で椅子に座っていた。
「私達二人に合う身分証が欲しいのだけど」
「あんたら二人分か......ちょっと値が張るよ?」
「分かってるわ」
「ちょっと待ってな」
立ち上がった老婆は、店の隅に置かれた箱を漁り始めた。
「あんたが十七、八、そっちのあんたは二十歳そこそこ、って感じかね?」
箱を漁りながらこちらを見た老婆にそう問われ「ええ、それで合っているわ」と答えると、「あんたら、運がいいよ」と老婆がニヤリと笑った。
「十七歳と二十歳の姉妹の身分証がある。これなら丁度いいだろ?」
「それでいいわ、ありがとう。幾らになるかしら?」
「一万ペル、ってとこだね」
「あら? 足元を見すぎじゃないの? せいぜい五千ってとこよね?」
「若い女の身分証はなかなか出回らないんだよ。それも姉妹だ。一万でも安いくらいだよ」
「へぇ、そう? じゃあ、いいわ。他を当るまでよ」
チラッと目につくように腕輪を晒すと、金があるのだと分かった老婆の目の色が変わった。
「ちょっ、ちょっと待なよ! あんた、相当慣れてるね。いいよ、分かったよ、七千! これ以上は無理だよ」
「......まぁ、いいわ。それでお願い」
「チッ......毎度あり」
老婆に金を渡し、身分証を手に入れた。
手に入れた身分証は『パム・ノース』と『チム・ノース』という姉妹のものだった。