町中華の夫婦が遭遇した無貌のサンタクロース
挿絵の画像を作成する際には、「AIイラストくん」を使用させて頂きました。
この中百舌鳥の学生街で町中華を営んで、もう何十年になるだろうか。
店を切り盛りする私達夫婦は勿論だが、建物の造作も随分と年季が入った物だ。
表通りに面したガラス戸なんかは、その最たる例だろうな。
長年に渡って何度も開閉されたせいだろう。
正月が明けた辺りから随分と滑りが悪くなって来やがったんだ。
「蝋でも塗っておいたら何とかなるんじゃないの?私が適当にやっておくよ。」
「そうしてくれたら助かるが、幾ら蝋でも食品サンプルでやるのだけは止めてくれよ。ショーケースの餃子や焼売が擦り減っていたら、流石に客がおかしく思うからな。」
仕込みに夢中だったせいか、俺は女房の手元をろくに確認していなかった。
ガラス戸がスムーズに開くようになってくれたら、それで良かったんだ。
女房が塗ったという蝋は、確かに効果覿面だった。
「へえ…この店の引き戸、前に来た時より随分とスムーズに開くようになったじゃない。」
引き戸を軽やかに開けた女子大生は、感心したような表情を浮かべていた。
「それは良いね、蒲生さん。今日の晩酌は町中華って気分だったから、夜もここにしちゃおうかな?こう寒くなってくると、ジューシーな小籠包を肴にビールをやりたくなるよ!」
友人と思わしき二人目が、それに続く。
小籠包と瓶ビール以外にも何か一品注文してくれたら更に有り難いが、夕方にリピーターとして来てくれるだけでも感謝しないとな。
そんな昼休みの書き入れ時に来店した県立大生達の反応を見るに、どうやら引き戸の滑りは思った以上に酷かったらしい。
「だけどさ、美竜さん。引き戸の溝に赤とか肌色とかの細かい破片があったのは妙だったね。」
「蒲生さんも変な所に気がつくねぇ…蝋燭でも塗ったんじゃない?そんな変わった色の蝋燭を塗ったのかまでは知らないけど。」
友人の細かい観察眼に、連れ合いと思わしき眼鏡の女子大生は半ば呆れたように笑っていた。
至って平穏で何気ない、昼時の日常風景。
だが、俺と女房は彼女達の会話をもう少し注意深く聞いておくべきだったのだ。
そうしていれば、あんな事にはならなかったのかも知れないな…
その日の夜。
妙な息苦しさと圧迫感に目覚めた俺は、自分の身体が石みたいに硬直して動かせなくなっている事を思い知らされたのだ。
俗に言う「金縛り」とは、きっとこの事だろう。
「うっ!?」
何とかして視線だけを動かした俺は、それを見てしまった。
枕元にジッと佇んでいる、奇妙な人影を。
赤い服を纏って白い袋を背中に担いだ、恰幅の良い老人。
その出で立ちは、至って典型的なサンタクロースの装いだった。
しかしサンタクロースなら有って然るべきの好々爺然とした笑顔だけは、どうしても確認出来なかった。
それも無理はないだろう。
何故ならサンタクロースの顔面は、無惨にも失われていたのだから。
額から顎下の辺りまではザックリと擦り下ろされ、目も鼻も口も全て損なわれていた。
そこにはただ、磨滅して露わになった肌色の表面があるばかり。
その無貌の顔面が、静かに俺を見下ろしていたのだ。
「ヒッ…ヒィッ…」
どうにか悲鳴を上げた次の瞬間、俺の身体は少しずつだが自由を取り戻していった。
そんな俺の様子を顔の無いサンタクロースは暫しの間見守っていたが、やがて踵を返して立ち去ってしまった。
興味を失ったのか、或いは他に用があったのか。
だが女房の掠れた悲鳴から察するに、どうやら後者の方が正解だったらしい。
東の空に朝日が上る頃には、俺の身体は床を這って動く事が出来る程にその機能を取り戻せていた。
そうして生まれたての子鹿みたいな覚束ない足取りで移動を試み、やっとの思いで女房の部屋へ辿り着いたのだった。
幸いにして女房は無事だったし、あの顔の無いサンタクロースも居なくなっていた。
「もしかしたら、あれのせいなのかも知れないねえ…」
「何だって?何か心当たりでもあるっていうのか?」
それに返事をする代わりに、女房はタンスの引き出しから何かを取り出し、俺に差し出したのだ。
「うっ!?」
次の瞬間、俺は思わずたじろいでしまった。
何しろ女房の手の平の上に鎮座していたのは、顔の部分がザックリと擦り下ろされたサンタクロースの蝋燭なのだから。
「手頃な蝋燭と言ったら、こんな物しかなかったんだよ。商店街のクリスマスキャンペーンで余ったのを貰ったんだけど、使い道がなくてね…埃を被らせておくよりはと思ったんだけど…」
あの顔の無いサンタクロースは、果たして何を訴えたかったのだろう。
クリスマスケーキを飾る蝋燭として使われなかった口惜しさか。
或いは、引き戸の溝で顔面を擦り下ろされた事への恨みか。
それに関しては、本人に聞かなくては分からない事だ。
いずれにせよ、このサンタクロースの蝋燭はキチンと燃やしてやらなくてはならないだろうな。