5,オフィーリア・エクセルシオールは聖女であるが、どうやらこれからも大変らしい
あのパトリックとの婚約破棄騒動から、半年が経った。その騒動のせいでこの半年、オフィーリアは意見書を提出したり抗議文を書かされたり、教皇を宥めたり、国王と教皇の仲裁をしたり、そんな中でも元からある聖女としての仕事は行って、ローガンとの結婚準備も進めないといけないし、ととにかく忙しかった。
それもこれも、やっと区切りがついた。これで暫くはゆっくりできるかもしれないと思ったオフィーリアは、けれどそうはならないことを彼女の聖騎士に伝えられたのだ。これは、さすがに怒っていいだろう。
オフィーリアは、新しく与えられた部屋にローガンを呼び出した。
「ローガン」
「どうした、オフィーリア?」
「どうした、では、ないんですよ。あのね、ローガン。わたくしはね、公爵家の新設なんて聞いてないんですよ!」
「仕方がないじゃないか、ドラド家が伯爵位に降格させられたのだから。公爵家の三つ巴を維持するには、既存の貴族家の昇格か新たな公爵家の新設しかなかった」
ローガンのまるで聞き分けのない子どもに言い聞かせるような態度に、オフィーリアは少し口元をひくりとさせた。しかし、どうにかそれだけで留められたので良しとしよう。
二人が現在住んでいるのは、慣れ親しんだ教会ではない。旧ドラド公爵家が所有していた屋敷の一つを改装し、使用人や警護を新しく雇って生活をしているのだ。それもこれも、オフィーリアには一週間前の引っ越し当日に聞かされたことで寝耳に水にも程があった。
「しかし、特に功もなく昇格させるのはおかしい。つまり、新設が妥当だ。そして侯爵家の分家の生まれであり、聖騎士であり、君と結婚する。私以上に新設する公爵家の当主に相応しい者はいない」
この説明を、オフィーリアは一週間前にも聞いていた。しかし、そういうことではないのだ。そもそも突然が過ぎる。せめてもっと前もって伝えてくれていれば、とも思う。けれど、それだけではない、とオフィーリアはローガンを睨んだ。
「道理は理解しています、そうなった経緯も聞きました。そうではなく、貴方、こうなることを分かっていたでしょう」
「こう、とは?」
「わたくしと婚約することによって、新しく公爵家が新設され、その当主となるということをです。……いえ、そもそもこれは、始めから織り込み済みの話だったのでは?」
「そうだ。だからこそ教皇猊下も首を縦に振り、国王陛下も条件を呑んだ」
「まさか、猊下と陛下を脅して……?」
「脅してはいない、そんな目で見ないでほしい」
「何で照れているんですか。止めてください、そういう場面ではありません」
ローガンは常人では理解しがたい感性を抱えているらしい。そのことを、付き合いの長いオフィーリアは知ってはいるが、だからと言って今は照れる状況ではない。
オフィーリアが軽い眩暈を覚えてソファに座ると、ローガンも当たり前の顔をしてその隣に座った。
「こうするのが一番、君を守れるからな。ついでに私は爵位を頂き、猊下と陛下も一安心。国は平穏を長く保つことができ、人を愛する女神も喜んでいることだろう」
長年の想い人ににこりと微笑まれてそう言われてしまっては、オフィーリアとて何も考えずに頷いてしまいたくなる。しかし、そうはできない。それはオフィーリアの聖女としてのちっぽけな矜持だ。
「……わたくしはいいとして、今後はどうするつもりです?」
「今後とは?」
「わたくしの次の聖女のことです」
「ああ、我々が巻きまれた騒動とその一連の流れは、今後同じことが起きた時の為に法律に盛り込まれるらしい」
「法律に盛り込まれる……?」
眉を下げて説明をするローガンは、オフィーリアにあまり政治の話をしたくないらしい。彼は昔からそうだったが、昔は昔、今は今だ。オフィーリアは自身の身の周りで起きる物事を、知らねばならない。知った上で、聖女として生きていかねばならない。ローガンに守られているだけの被保護者でいたくはないのだ。
「今後も、聖女は高位貴族か王族と結婚をしてもらうことになっている。こればかりは、今は変えることができない。教会に力がつき過ぎるのは危険すぎる」
「均衡は保つ必要があると?」
「そうだ」
オフィーリアが諦めないことを悟ったローガンは、仕方なく話を続ける。オフィーリアが知るべきでない事柄であれば絶対に話そうとしないのだから、これは聞いていいことなのだ。
「だが、聖女の婚約者は聖女が了承をした相手のみがなれる、というのが新たに条件として加わった。更に婚約期間や結婚後も聖女を蔑ろにしたり害したりなどして、聖女の“人を愛する心”を傷つけるような行為を行った場合、今回のドラド家のように降格や領地の取り上げ、最悪の場合は爵位の返上と極刑が言い渡されることになっている」
「……それで、次の聖女もその次の聖女も守れると?」
「分からない」
「分からないって」
むしろそこが一番重要なところなのに、とオフィーリアは焦れた。聖女の引き継ぎに失敗した時代を生きた人々たちにとって、聖女の力が失われることは絶望でしかない。その絶望を生まれてくる子どもたちに味わわせない為に法律を作ったのではないのか、と問い詰めれば、ローガンは簡単に首を横に振った。
「条件はその世代ごとに変わっていくだろう。私が聖騎士として働いている内は私も次代の聖女の保護に関わっていくだろうが、そもそも私の聖女はオフィーリアただ一人だ」
「……」
「次代の聖女は次代の聖騎士と、その時代を生きる人々が守っていくべきだ。この国の人間は悪人だろうが善人だろうが、誰一人欠けることなく聖女に守られているのだから」
オフィーリアは、次の言葉が出てこなかった。ローガンの主張が耳に痛かったからだ。確かにオフィーリアがずっとこの国の人々や次代以降の聖女たちを守れる訳でない。オフィーリアも年を取って女神の下へ帰り、いずれまだ生まれてもいない赤子が大人になって国を動かしていくのだろう。そんな未来のことまでを憂いて、全てを思うままにしようだなんて傲慢だ。
自身の視界が狭いことを自覚したけれど、自身の意見が全て間違っていたとも思えなくて、正解が分からない。オフィーリアは聖女としての勉強も修行もしてきたが、結局政治には疎いのだ。これからはそれらも学ばなければと、オフィーリアは小さく頷いた。
「先代、先々代と聖女を守り切れなかった聖騎士たちの苦悩は計り知れない。だからこそ、ここまでやったんだ」
「ローガン……」
「本当は、ドラド家はせめて爵位返上と強制労働程度には落としてやりたかったし、カレンデュラ家も降格させてやりたかった。当事者たちにも、もっと責め苦を味わわせて――」
「ローガン!」
オフィーリアは、次第に早口になるローガンを大声で制止した。ローガンは止まったものの、じとりと彼女を見て不満そうに口をとがらせる。
「オフィーリアは厳罰を嫌うからなあ……」
「嫌っている訳ではありません、罪には相応の罰が必要でしょう」
「では今からでも」
「あれはもう終わった話です、寝覚めが悪くなるので止めてください!」
ドラド家は伯爵家に降格、パトリック本人は貴族籍の返上と生涯の王都への立ち入り禁止が決定した。更に聖女が立ち寄る可能性のある教会の敷地への侵入も不可だ。可能性がある、という表現が回りくどいが、聖女が立ち入らないと決められた教会はない。つまりパトリックは今後一生、王都と教会には近寄れないということだ。聖騎士や聖剣士は今後、パトリックを見かければ捕縛する必要がある。
伯爵家となったドラド家はその家格に相応しくない領地や所有物件、美術品などを取り上げられている。パトリックが跡を継げなくなったので、婿入りが決定していたパトリックの弟がドラド伯爵家を継ぐことになりそうだ。ただ、そこは婿入り先になる予定だった侯爵家とまだ揉めているらしい。更にパトリック本人は今後の身の振り方がまだ決定していないらしく、ドラド家はまだ暫く落ち着かないだろう。
カレンデュラ家は監督不行き届きで厳重注意及び、向こう十年の追加課税。リリアンはまだ成人前ということで、情状酌量が認められた。けれど、何もなしという訳にもいかない。王家に近しい公爵家の不祥事であったこともあり、王太后が直々に指導を行うこととなった。
王太后は礼儀作法にかなり厳しいことで有名で、しかも彼女の許しなしに指導を終えることはできないらしい。期限の定まらぬ指導は、数ヶ月で終わるかもしれないが、数年か下手をすれば十年以上かかる可能性もある。時間がかかればかかる程、結婚に響くだろう。しかしリリアンは、それを嫌がることはなく、静かに受け入れたとオフィーリアは聞いている。
これ以上は、もういいのだ。オフィーリアは急いで話題を変えた。
「そんなことより、これからのことですよ。領地経営とか社交界とか、それ以外にもたくさん仕事があるのに。大体、貴方、わたくしの聖騎士もして公爵もしてって、そんなことできるんですか?」
「できるさ、上手くやる。……誰よりも」
どこか遠くを見てゆったりと笑うローガンは、はっとするような空気を纏っていた。しかし、この程度で狼狽えるオフィーリアではない。付き合いは長いのだ。ローガンがこういう適当なことを言う時は、何かを誤魔化したい時なのだとオフィーリアは知っている。……知ってはいるが、まだ対処はできない。オフィーリアは小さくため息を吐いて諦めまじりに笑った。
「頑張り過ぎて、倒れないでくださいね」
「その時は私の聖女に癒してもらおう」
「え、マッサージとかですか? やったことがないので、あまり上手にはできないかもしれないですけど……」
「はは、そうだな。抱きしめて、キスをくれるだけでもいい。昔はよくやってくれたのに」
「う……思い出したみたいに昔のことを言うの、止めてくださいよ。あの時は、頬にキスをするのがブームだったんです」
「ああ、懐かしいな。またしてほしいものだ。私の婚約者はキスの一つもくれはしない……」
「泣きまねが下手過ぎませんか」
「そうだろうか」
顔を両手で覆うという雑な泣きまねをしたローガンは、悪びれずにさっとオフィーリアに向き合う。昔から頼りになる人だったけれど、こういうところはどうにかならないかと、オフィーリアはずっと思っていた。
「ねえ、ローガン」
「何だ?」
「わたくしはまだちゃんと、人のことを愛しています。愛せています」
「何よりだ」
「貴方のおかげです。わたくしはまだまだ聖女としての仕事をこなせるでしょう」
「その為に頑張ったからな。私個人としても聖騎士としても、私の聖女と愛する国民たちを守ることができたことを誇りに思う」
「嘘よ」
聖騎士らしいそんな言葉を、オフィーリアは遮った。ローガンはぱちりと瞬きをして、けれど否定はしなかった。オフィーリアの口調に、咎める色がなかったからだ。
「ローガンはいつだって人のことが好きではなかったわ」
「酷い言われようだ」
「そうね、少し違います。貴方は自分の懐に入れた人以外どうでもよかった。そして、貴方にとって“聖女”は特別だった」
「私の恋はあれだけ疑ったのに、そのあたりは確信を持っているんだな」
「ふふ、これでもずっと見ていましたから」
「……私だってずっとオフィーリアを見ていた。私の聖女は君だけだ」
「ええ、そうです。貴方の聖女はわたくしだもの。これからも貴方の聖女が愛する国民たちのことを、よいように導いてくださいね」
「……民を導くのは教皇猊下と国王陛下なのだが」
「わたくしだって馬鹿ではありません。貴方が裏でいろいろとやっているのは知っています。大体、公爵になるのですから、為政者としても動くのでしょう。これからもしっかり頼みますよ、ローガン。わたくしの聖騎士として、ね?」
言外に、オフィーリアは聖騎士として恥ずかしくないように振る舞えよ、と圧をかけた。素直に頷く人でないことは知っている。無駄であるかもしれずとも、釘を刺しておかねばならないのだ。ローガンの聖女は、オフィーリアであるのだから。
「……」
「ローガン」
「はあ、私の聖女にここまで言われては仕方がないな。拝命しよう」
「ありがとうございます」
ローガンは、とりあえず今はオフィーリアの言うことを聞いてくれるようだ。しかし、ここで安心をしてはいけない。今後もオフィーリアは選択を間違えてはいけないのだ。言動の何かを間違えたらきっと、ローガンはオフィーリアだけを真綿で包むように守って、それ以外の不要なものを全て排除してしまうだろうから。
とりあえずの危機は去ったと胸を撫で下ろしたオフィーリアは、ふと、ローガンの顔が近すぎることに気が付いた。むしろ今まで何故、気付かなかったのだろう。ローガンはずっとそこに座っていたのに。
「ところで、ローガン? ちょっと、近いのではないかしら」
今更ではあるが、婚約者同士とはいえ近すぎる。オフィーリアがじり、と横にずれようとすると、ローガンは何故か追ってくるので二人の間に距離は生まれなかった。
「昔はこのくらいの距離が普通だったろう?」
「ですから、子どもの頃の話を持ってくるのは違うと」
「それに、オフィーリア。君はあんな底辺の男しか知らないから分からないのだろうが、婚約者同士の適切な距離はこのくらいなんだ」
「きゃ」
距離を空けるどころか、オフィーリアは肩を抱かれてローガンに寄りかかってしまう。オフィーリアは混乱する頭で必死に考えを纏めなければならなかった。
「そんなことあります?」
「ある」
「だ、だって、お友だちのご令嬢たちは婚約者の方がいらっしゃっても、こんなふうには座らなかったわ」
「さすがに他人のいる場ではマナー違反だからな。二人きりになれば、このくらい普通だ」
「普通……」
オフィーリアは、自身が世俗に疎いことを自覚はしていた。パトリックはお世辞にも良い婚約者であったことは一度もなかったし、普通の定義も分からない。ローガンが嘘を吐いている可能性も捨てきれないが、まあ、困ることでも教義に違反することでもないのだし、とオフィーリアは頬を染めたままで頷いた。
「わ、分かりました。慣れるように、頑張ります」
「ああ、頑張ってほしい。まあ、いくらでも待つさ。十年以上待ったんだ、後少しくらいどうということもない」
愛しい子どもに向けるような優しい笑顔で、ローガンはそう言う。オフィーリアは昔から、この笑顔が大好きで、大嫌いだった。恋愛対象ではないのだと、忠告をされているような気分になるから。
でも、もう、今は違う。オフィーリアは、ローガンの婚約者なのだ。
オフィーリアは、ぐ、と唇を結んでそっとローガンの頬に触れた。一瞬触れただけだったけれど、それは確かにキスだった。ローガンは呆気にとられたように少しだけ固まって、それから大袈裟に笑い出す。
「ふ、ははは!」
「わ、笑うなんてひどいわ! とっても勇気を出したのに!」
「いや、違うよ、オフィーリア。幸せなんだ。ああ、とても幸せだ」
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