3,パトリック・ドラドは厚顔無恥の勘違い野郎である
泣いたままのリリアンを前に、オフィーリアは今度こそため息を吐いた。しかし、横目に映るローガンがリリアンをひどく冷めた目で見ていたので、それにももう一度ため息を吐かなければならなかった。そして、泣くリリアンを宥めもせずに、オフィーリアを睨み続けている愚かな男に水を向ける。
「さて、パトリック。そろそろ貴方の言い分も聞いて差し上げます。わたくしの聖騎士が怒らない範囲でお願いしますね。止めるのが大変なので」
「聖女オフィーリア、止める必要はないんですよ?」
ローガンはそう優しげに言うが、止めないという選択肢は初めからないのだ。ローガンはオフィーリアさえ止めなければ、いつだってパトリックを女神の下へ返すつもりだった。
随分前にローガンが『苦しませずに一刺しでやってあげますよ』と言ったことがある。オフィーリアは何が一刺しなのか理解できなくてとりあえず『結構です』と答えたが、それがパトリックのことを指していたのだと分かった時には冷や汗が止まらなかった。あんな恐怖はもう二度と味わいたくなかった。
「貴方を止められなければ、わたくしが猊下に怒られるのです」
「猊下には私から申し上げますので」
「そういう話ではありません」
「私はいつでも準備ができておりますよ」
「何の準備です、駄目ですよ」
しっかりと釘を刺した後、オフィーリアはパトリックにかけた魔法を解いた。途端にキンキンと煩わしい声が部屋中に響く。……リリアンはこの男のどこがいいのだろうか。オフィーリアは不思議で仕方がなかった。
「っく、オフィーリア、君はいつもそうだ。いつもいつも僕を馬鹿にして」
「馬鹿にしたことはありません。馬鹿だとは思っていましたが、態度に出したことは一度もありません。そう感じてしまったのなら、それは貴方が自分で自分のことを馬鹿だと思っているからでしょう」
オフィーリアが冷静にそう言うと、今度はローガンが笑いだす。
「はは、言い得て妙ですね」
「何だと……!」
パトリックが怒気を込めた言葉を放とうとして、けれどそれはやはりローガンのひと睨みで消え失せた。どうやらパトリックの勇気は、さっき腕をひねられて痛みを我慢したところで尽きてしまったらしい。
それでもオフィーリアに対してまだ強気でいられるのは、自身が彼女より上位の存在だと信じているからだ。それが、何とも情けない。貴族、聖女、聖騎士。これらの力関係が、まだ分かっていないのだ。
「貴方、まだ自身の立場が分かっていないのですか。“聖女”への虚偽などの故意の悪意は犯罪です。そしてそれをわたくしの聖騎士も知っている。これ以上の罪を重ねるのは危険だと理解できませんか?」
「……ぐ」
「それから、わたくしは別に“いつものこと”なんて聞いていません。リリアンさんのことを聞いているんです。貴方、同世代の方に相手にされなくなったからと、成人前の女性に手を出しましたね」
「人を犯罪者のように言うのはやめろ!」
「犯罪者なんですよ。もういいから、早く話を進めてください。どうしてリリアンさんに手を出したんです?」
オフィーリアのその言葉に反応したのは、パトリックでなくリリアンだった。目を真っ赤にしたリリアンが叫ぶ。
「あ、あたくしたちはそんなふしだらな関係ではありません!」
「あらそう、それは不幸中の幸いでしたね。それでパトリック、話を進められないのでしたら、また黙りますか?」
オフィーリアが指を向けると、パトリックが悔しそうに話しだした。
「出会いは、リリアンの言った通りだ。そして、手紙のやり取りをする内に、彼女の中に君にはないものを感じたんだ」
「ええ、それで?」
「彼女は優しく愛らしく、そして君と違ってか弱い。君とは全く正反対の少女だった。彼女は僕の会話で笑ってくれるんだ、顔を合わせる度に嫌味を言う君と違ってね。それに丈夫になったとはいえ、まだ体が弱いんだ。僕が助けてあげたいと思うのは当然のことだろう。……そんな彼女に惹かれていくのに、時間はかからなかった」
「パトリック様、あたくしもです……」
「リリアン……」
パトリックとリリアンがまた手を握り合うので、オフィーリアはいい加減頭痛がひどくなりそうだった。ローガンのことを確認する必要もない。きっと氷よりも冷たい視線を二人に投げかけているに違いなかったからだ。
「それで?」
もうオフィーリアにはそれしか言えなかった。呆れてものが言えないなんて、初めての経験だ。
「……君には情緒というものがないのか?」
「情緒で犯罪行為は覆りません。貴方が未成年の幼気なご令嬢に手を出し、彼女の貴族令嬢としての価値を下げたことにも変わりはありません」
「なんて下卑た考えだ! 聖女とは思えないな!」
「事実です。はあ、もう一度黙りなさい」
「っ! ――っ!」
「パトリック様! 聖女オフィーリア、もう止めてください! あたくしがこの人に出会ってしまったのが悪いのです、パトリック様をもう苦しめないで!」
オフィーリアがもう一度パトリックの声を奪うと、リリアンもまた大袈裟に狼狽えた。
「落ち着きなさいな、リリアンさん。黙らせただけで、苦しめてはいません」
「でも!」
「落ち着きなさい」
「……はい」
オフィーリアは言いながら、この話し方は昔に怖いと思っていた教師の一人に似ていたなと思った。その教師は女性で、とても頭がよく様々なことを知っていたが、その代わりに容赦のない人でもあった。その教師のおかげで、オフィーリアはどこに出ても恥ずかしくない程度の教養を持てたのだが、それはそれとして怖い人ではあった。
思考がどこか別のところに飛んでしまうくらいには、オフィーリアも疲れているらしい。しかし、後少しだ。後少しで、この長年のパトリックに対する鬱憤が解消されるのだ。オフィーリアは自身をそう慰めて前を向いた。
「まず、状況の整理をしましょうね。貴方たちの目的は、わたくしとパトリックの婚約の解消ということでよろしくて?」
「その通りです! お願いできますか!?」
「さっきも言いましたが、わたくしとパトリックとの婚約は義務であり、国王陛下の決定です。そして聖女であるわたくしは、陛下より地位が低く、普通であれば陛下の命を断ることはできません」
「……普通であれば、とは?」
「あら、そこに気付くとは賢いですね。そう、普通であれば断ることはできません。ですが、理由があれば可能です。更に、わたくしには教皇猊下がおりますからね。猊下から陛下にお願いをすることは可能です」
「本当ですか!?」
リリアンが嬉しそうにするのを、オフィーリアはもう胸が痛む思いだった。これは純粋な同情だ。しかしそれはそれとして、話は続けなければならない。
「ですが、貴方たちはどうするつもりです? 愛があれば、針の塔に閉じ込められてもいいと?」
「針の塔、とは、何ですか?」
「犯罪を犯した高位貴族が投獄される塔です。義務の放棄は貴族にとって大罪、そしてわたくしへの不敬。針の塔へ送られる条件は十分にそろっています」
「……そこが、どんな場所であっても、あたくしはパトリック様と一緒にいられるなら!」
パトリックの顔色が分かりやすく変わったのだが、リリアンはそんなことには気づかない。だってリリアンは恋をしているのだから。
「貴女を大切に育んだご両親やお姉様、お兄様にも同じことが言えるのですね?」
「申し訳なく、思います、けど……!」
「いえ、恋とはそこまで人を狂わせ、一途になれるものなのですね。それを謝る必要はなくてよ?」
「聖女オフィーリア……!」
オフィーリアも、恋というものには覚えがある。オフィーリアとて、初恋を今までずっと引きずっているのだ。ただ、リリアンのように全てを放棄して叶えようとは思えないだけで。
「でも、もう少しだけ、わたくしの話を聞いてくださる?」
「はい、勿論です!」
「わたくしとパトリックの出会いから今までの話です」
「え? は、はい……」
リリアンが戸惑うのを無視して、にこりとオフィーリアは微笑んだ。
「パトリックは、彼の父であるドラド公爵の強い推薦で、わたくしの婚約者となりました。パトリックは子どもの頃は快活で足の速い男の子で更に公爵令息だったことから、当時は同年代の子どもの中心にいた人だったんですよ」
「そうなんですか、子どもの頃から素敵な方だったんですね」
「当時はそんな彼を陛下も気に入って、聖女の婚約者として取り立てたのです。ええと、わたくしたちが六歳くらいの頃ですね、懐かしいわ」
あの時は、まだよかった。オフィーリアもパトリックもまだ幼かった。世界の理屈を知らないで、ただ一緒に遊ぶことも出来ていた。
「子どもの頃は、貴族だの平民だのと分かっていませんでしたからね。そういうことが分かるようになったのは、七歳とか八歳くらいの頃かしら。そのあたりから、パトリックはわたくしと一緒に遊んだり勉強をすることを嫌がるようになりました」
「そう、なんですか……?」
「ええ、彼は選民思想が高くて。……まあ、貴族ですしね、しかも公爵令息ですから多少は仕方がないのです。貴族と平民は確かに役割が違いますからね。でも、教会は人は皆、同じ命を持っていると教えているのです。でも事実として、生まれた時から人にはある程度の優劣がついている。……矛盾が生じますね? わたくしも少女の頃は苦しんだものです」
若かった、いや、幼かった。オフィーリアは多くの感傷を込めて小さく頷く。
「そんな、そんなこと。貴族は、民を守る為に存在していると父が言っていました。命に優劣などありはしません」
「そうかしら? 貴女だってそうでしょう。公爵家で大事にされていなければ、貴女のように病弱な方はその年まで生きられません」
「……それは」
「貴女の為に使われた高価な薬も、貴女の為に呼ばれた高名な医者も、貴女の世話をした沢山の人も、貴女が公爵家の娘だったから用意されたものです。平民の、例えば貧民街で生まれたのならば、ほぼ確実に不可能だと言えるでしょう」
「……」
「わたくしはおそらく平民の出身です。何故おそらく、なのかというと、両親が分からないから。聖女の引き継ぎに失敗した年に起きた飢饉によって口減らしに遭った子どもは多かったのですが、わたくしもその一人なのです。幸いにもその辺に放置することなく、赤ちゃんの内に教会に預けてくれたので、今も生きていますが」
逆に言えば教会に預けられなかった場合、オフィーリアは聖女として見いだされるどころか自我も芽生えないまま女神の下へ帰っていたに違いない。当時はそういう子どもが多かった。教会が運営する孤児院はもうどこもいっぱいで、当時の施設責任者たちは他を探すように伝えるしかなかったのだ。
預けられれば御の字、無理なら捨てるしかない。自分たちだって明日を生きられるか分からない中、労働力にもならない小さな子どもを養うことはできなかった。子どもを捨てるのは重罪だが、あの時ばかりは皆が目を瞑った。自分たちだって明日を生きられるか分からないのだ。それが、聖女の引き継ぎに失敗した時代の現実だった。
「わたくしが平民に生まれ聖女に選ばれ苦しい思いをして結界を張らなければいけないのも、貴女やパトリックが貴族に生まれ義務を課されるのも、わたくしたちが望んだことではありません。そう生まれたから、そうであった、それだけなのです。生まれに文句を言い出したら、誰も生まれてこれなくなります。……文句、思い切り言いたいですけどね?」
「聖女オフィーリア……」
「ああ、脱線してしまいました。話を戻しますね」
少しだけ、リリアンの顔つきが変わった。自分のことしか考えられない幼い少女の面影が消えつつある。それは苦しみの始まりでもあるが、生きていくならば必要なことだった。
「そんなこんなで、わたくしたちの仲は成長と比例して悪くなっていきました。ですが、わたくしは別にそれで構わなかったのです。わたくしたちにとって結婚は義務ですから、パトリックが結婚後に愛人を囲ったとて、わたくしに危害を加えなければそれでいいと割り切っていたのです」
「パ、パトリック様は、優しい方なので、そんなことしませんわ……」
「ええ、もしかすると“貴女には”優しい人だったのかもしれませんね」
オフィーリアは、やっと話の核心に触れた。別のことを多く話し過ぎたかもしれないが、仕方がない。何せ、リリアンは本当に何も知らなかったから、一から説明する必要があったのだ。それも年長者としての務めなのだろう。
「ですが、パトリックはやはりわたくしとの結婚がどうしても嫌だったようで、女性に声をかけだしたのです」
「……え?」
「常套句は『聖女オフィーリアはとんでもない悪女で、僕はいつも虐められている』でしたか? どんどん信じてもらえなくなって、社交界ではもう爪弾き者でした」
「……」
「パトリック、様?」
リリアンが横に座っているパトリックの方を向く。横顔からでも、瞳が信じられないと言っているのが感じ取れた。パトリックはぶんぶんと首を振ったが、リリアンの疑いの視線は変わらない。
「悪女の定義が分かりませんが、パトリックから見た主観ですからね。彼に会いにも行かずお茶会にも参加せず、毎日毎日結界を張り続け聖騎士と修行に耐えていたわたくしは『さすがは平民、貴族の教養が彼女には身に付かないようだ』と彼に笑われるようになりました」
あの時は非常に面倒だったとオフィーリアはローガンを睨んだ。ローガンはさっとわざとらしく視線を外す。パトリックではなくローガンを睨んだのは、この噂を知った彼がパトリックだけでなく噂を吹聴している全ての者たちへ厳罰を与える為に派手に動いたからだ。オフィーリアは、噂よりもローガンを止めることに苦心せねばならなかった。
「今では自由に結界が張れるようになりましたが、子どもの頃はとんでもなく難しいことだったので、教会の外に出ることはあまりできなかったのです。婚約者であるパトリックに会うことは例外でしたが、彼がわたくしに会いたがらなくて。ですが、会ってもいない間に、わたくしはパトリックに物を投げつけ、盗み、ヒステリックに罵詈雑言を浴びせていたらしく……。勿論、誰が嘘を吐いているのかはすぐに分かりましたの」
貴族の世界での噂はすぐに広まる。しかしそれがただの噂かそれとも真実か、そして誰のどんな思惑のもとに流されたのかを理解する術をある程度、皆持っている。聖女に関する噂が全て嘘で、それを流したのがパトリックであることなどすぐに分かったのだ。
「教会は激怒。ですが、その問題が明るみになったのがわたくしたちが十三歳くらいの頃だったのです。ドラド公爵は『子どものすること』と、婚約の継続を求めました。教会は反対しましたが、国王陛下が仲介に入り婚約は継続されてしまったのです」
きっと、それがいけなかった。当時のオフィーリアもまだ幼かったので、きっとパトリックが改心するだろうと許すことを決めた。改心はしなくとも、元々政略結婚だ。心の中ではどう思っていても、務めさえ果たしてくれればそれでいいとも思っていた。
しかし、様々な人の働きかけと許しによってどうにか許されたパトリックだったが、それを『自分は公爵令息だから何をしてもいいんだ』と勘違いをしてしまったらしい。
「それでも、パトリックの浮名は止まりませんでした。その人、顔はいいでしょう? それから決まって狙うのが下位貴族の令嬢ですの。一時の恋に酔って楽しい日々を過ごした後、令嬢が我に返っても下位貴族のご息女ですからね、何度ももみ消していました。ちなみにドラド公爵からすれば『これも子どものやることだから』とのことでしたわ」
オフィーリアは少し演技がかったような仕草で、首を横に振った。リリアンがじわりとパトリックから離れる。ソファに座ったままなので距離が取れた訳ではないが、初めの手を取り合っていた二人からは考えられない程度には離れている。
ドラド公爵には、どうしても聖女という駒が必要だったらしい。ドラド公爵家は現状でも権力を十分に持っており、欲をかく必要などなさそうであるが、公爵はもっともっとと欲張ってしまったのだろう。
息子の管理をするどころか、息子の不手際を隠したりもみ消したりすることは指先一つで行い、教会とオフィーリアには多額の資金援助をしてご機嫌取りに必死だった。それらの行為が、教皇の怒りを買っていることをドラド公爵は知ろうともしない。むしろ上手くいっているとさえ思っているのだろう。
「ですが、さすがに今では悪評が覆ることはなく、社交界でパトリックの相手をする女性もいなくなっていたんです。まあ、男性もですが」
「そ、それって、あの……」
「リリアンさん、貴女のお姉様は貴女になんて仰っていたの?」
「……姉は、『パトリック様は、聖女オフィーリアのご婚約者で、それなのに恋多き人なの。しかも社交界にも出ていない貴女に声をかけるなんて非常識だわ』って。でも、そんなのただの噂で、パトリック様は、本当は優しくて、だから……」
ここまで来てもまだ信じたくはないのだろう。リリアンはゆっくりと視線を下に落とした。けれど、いくら信じたくなくとも、彼女ももう分かってしまったのだろう。
「そう、本来、社交界に出ていない、更に婚約関係でなく親戚関係でもない他家のご令嬢に“そういう意図”を持って声をかけるのは、ひどいマナー違反です。……場合によっては、そのご令嬢の家への侮辱ですらあります。わたくしの婚約者でなくても、ご家族がそんな無礼者を許すはずはありません。それなのに、どうして貴女は文通することや会うことができていたの? 今だって、どうやってパトリックと一緒に家を出てくることができたのかしら?」
「パトリック様が、魔法で手紙を届けてくれたり、こっそり抜け出させてくれて……」
オフィーリアは、本日何回目かのため息を吐いた。
「……そうやって人目を忍ぶのはね、娼婦や男娼の恋の仕方よ」
「!」
「娼婦や男娼が卑しい身分とは言いません。ですが、彼ら彼女らはそうやって恋を売り買いするの。……物語の恋ではないけれど、あの人たちはその一瞬を売買して生きているの。でもね、本来、この国では貴族も平民もそのような恋のやり取りは避けます。人に祝福されない恋なんて、ろくなものでないというレッテルを貼られるから。普通、貴族の家にはその家の者しか魔法で出入りできないようにしているはずだけれど、貴女、パトリックにその権限を与えてしまったのね」
「……あ、あたくし」
リリアンの唇が震えた。オフィーリアは心の底からその姿を憐れに思ったけれど、ここまで来てはもうどうしようもないのだ。
「もし、本当に貴女という人を大切に思っていたのなら、パトリックはせめて貴女が十六歳になって社交界に出るまで待つべきだった。握りつぶされたとしても、魔法など使わず正攻法で手紙を送り続けるべきだった。自身についた悪評が、どれだけ貴女に悪い影響を与えるのか考えるべきだった。……そもそも、婚約者がいる身で近づくべきではなく、婚約を解消させてから行動に移すべきだった」
リリアンの信じていたであろう、物語の中のような刺激的で素敵な恋は、初めから存在しなかった。
「それをしないということはね、パトリックは、貴女のことをただ利用したかっただけということなの。信じられないかもしれないけど、パトリックはそうやって多くの女性に手を出してきたのよ」
リリアンは声も上げずに泣きだした。けれど、おそらくここにいる誰もが、彼女を慰める資格を持たない。幼い彼女の恋は、今この場で粉々に砕かれたのだ。
「清い関係だと言っていたけれど、寝室に誘われたことはなかった? 手を握られたり、下着をつけているあたりを触られたりしなかった? 貴女が嫌でなければ、それをしていい訳ではないの。貴女はまだ未成年で、成人した人が未成年に手を出すことはこの国では問答無用で犯罪なの。……そもそも本当に愛というものがあったのなら、一時の享楽にとらわれず、わたくしがさっき言ったことを実践していたはずよ」
そこまで言い切って、やっとオフィーリアは視線をパトリックに移した。色を失くした詰まらない男が小さく縮こまっている。
「貴女が公爵家の娘だったから、貴女を利用すればわたくしを貶めた上でこれからの人生を楽しく過ごしていけると思ったのでしょう。……本当に屑なのだから」
オフィーリアは立ち上がりながら、僅かに魔力を放出させた。常に完璧に制御するよう求められている魔力であるが、威嚇程度に使うなら教皇も煩くは言わない。バチッと強い静電気が弾けたような音がして、パトリックはびくりと肩を揺らした。
「さすがに、怒りました。わたくしの言っていることが理解できますね、ドラド公爵」
オフィーリアが振り向くと、そこには真っ青なドラド公爵と真っ赤なカレンデュラ公爵が並んで立っていた。結界で見えなくしていただけで、彼らは始めからずっとそこにいたのだ。パトリックが驚いて飛び上がる。
「な、父上!? どうして、いえ、いつからそこに!? はっ、喋れるようになっている……!?」
「ええ、今、解きました」
パトリックは魔力制御が下手で、簡単な魔法しか使えない。かといって練習もしてこなかったからか、自身にかけられている魔法が解かれたことすら分からなかったらしい。魔法の心得があれば、そのくらいはすぐに分かるものなのだが、本当に最後の最後まで呆れる男だ。
「公爵家同士の話し合いはわたくしの知ったことではないので、お好きにどうぞ。わたくしは教会へ戻ります」
既に掴み合いを始めようとしている公爵二人を放って、オフィーリアは部屋を出ようとした。しかし、それをローガンにそっと止められる。
「リリアン嬢、追い打ちをかけるようで申し訳ないが、貴女に全くの罪がない訳ではないということは分かっていらっしゃいますか?」
「……え?」
呆然とするリリアンに、ローガンは平坦な声で現実を突きつけた。その言葉に反応したのは彼女の父であるカレンデュラ公爵だ。
「聖騎士ローガン! 私の娘はこの男に騙されたのですよ!?」
「ええ、その通りでしょう。ですが、彼女は自分の意思で“聖女の婚約者”を望み、あろうことか婚約破棄を迫りました。残念ですが、この罪は消えません」
「そんな……!」
「今回ばかりは、幼いからと許されることではありません。そうやって許された結果がそこにいるのですから。……そもそも、リリアン嬢を無理矢理にでも領地に戻しておけばここまでのことにはならなかったでしょう。教育不足に監督不行き届き。カレンデュラ公爵、貴方にも責はあります」
リリアンとカレンデュラ公爵が揃って悲哀を滲ませる。しかしローガンの言っていることは正しいのだ。オフィーリアも止める訳にはいかない。幼いリリアンが可哀想だからと、情状酌量を求めるにも早過ぎるのだ。
いや、だが、そもそもと、オフィーリアはパトリックをもう一度睨む。
「けれど勿論、わたくしが怒っているのはドラド公爵及びパトリックです。法の下、正しく裁きがあるものと覚悟をなさい」
パトリックが聖女の婚約者としての務めを果たしていれば、その父であるドラド公爵が彼の悪行を止めてさえいたら、こんなことにはならなかったのだ。どちらにしろ、諸悪の根源はこの二人である。それをはき違えるなと、オフィーリアは語気を強めた。
しかし、また何かを勘違いしたらしく、パトリックはぶるぶると拳を震わせる。
「……お、お前のせいだ」
そう、パトリックは昔から、何かがあれば自分のせいではないと言って暴れていた。魔法が下手なのは教師が悪い、怒られれば自分はやっていない、自分よりも秀でた者がいるのはそいつが不正をしたから。自己中心的で責任転嫁が得意な、そんな男だった。
オフィーリアは何故、パトリックが聖女の婚約者に選ばれたのかをよく知らない。ドラド公爵がどうしてもとゴリ押したことは知っているし、その他にもその時の政治判断というものがあったのだろう。しかし、それが失敗だとこんなにも分かりやすかったのに、こんなに拗れるまでこの婚約が継続したことは本当に不思議で仕方がなかった。
オフィーリアがぼんやりと昔のことを思い出しているのをいいことに、パトリックは叫びだす。
「お前のせいで、僕の人生は滅茶苦茶だ! 聖女様の為に体を鍛えて聖女様の為に勉強をして、聖女様の為に聖女様の為に聖女様の為にって! どうして僕が、平民の小汚い女の為に!? 僕は公爵の息子だ! 次期公爵なんだ! お前なんかが釣り合う人間じゃないんだあああ!」
パトリックが、オフィーリアに向かって走り出した。オフィーリアは一歩だけ後ろに下がったが、その必要がないことを知っている。オフィーリアの足が床に着く前に、大きな背中が彼女の前に現れるから。
「ぐきゃっ」
乾いた衝撃音と何とも形容しがたいうめき声と共に、パトリックが床に転がった。よくよく見るともう既に頬が腫れている。オフィーリアが呆れたように見上げると、ローガンは稀に見る良い笑顔で笑っていた。
「……ローガン」
「これはさすがに正当防衛でしょう」
どうやら、ローガンが力任せに殴ったらしい。オフィーリアは、さっきと同様に手を掴んで放り投げるくらいだとばかり思っていたので、もう何と言っていいのか分からない。
「まあ、剣を使わなかっただけましですね……」
「そうですよ、もっと褒めてくださってもいいのですが」
「調子に乗るんじゃありません、帰りますよ」
一瞬の静寂の後また騒ぎ出す二人の公爵を置いて、オフィーリアとローガンは教会へ戻った。
読んで頂き、ありがとうございます。