1,オフィーリア・エクセルシオールは聖女である
オフィーリア・エクセルシオールは聖女である。元は孤児であり、教会に預けられていた多くの子どもの内の一人だったが、女神の代行者である聖女としての力に目覚めた。その日から、オフィーリア・エクセルシオールは聖女なのである。
ここ、ファーブラ王国は“人を愛する女神”を祀っていた。聖女はその代行者として、このファーブラ王国全体に結界を張ることができる。その結界は人は通すが、魔獣など人に害のある生き物を通すことはなかった。
他国が何十人もの魔法使いを雇って張る結界を、聖女であれば一人だけで保つことができる。ファーブラ王国はその点では非常に特殊な国だった。
故に、ファーブラ王国での聖女の地位は高い。だからこそ、結婚相手にもそれ相応の地位が求められた。聖女と結婚することは貴族たちにとっても名誉なことで、今代の聖女であるオフィーリアとの婚約を勝ち取ったドラド公爵家はこの世の春と政権の掌握を楽しんでいる。
しかし、それも今日までなのだろう。オフィーリアは自分をドラド公爵邸に呼び出した、婚約者であるパトリック・ドラド公爵令息を前に、ふとそんなことを思った。こうなることは予測していたし、対策もとっている。後は成り行きを見守るだけでよかった。
「オフィーリア、残念だが、君との婚約は破棄させてもらう。公爵家の跡取りである僕の妻には、同じく公爵家のリリアンの方が似合いだ。聖女とはいえ、君は平民出身だしな」
「ごめんなさい、聖女オフィーリア。悪く思わないでくださいね」
パトリックの隣には、身なりの良い愛らしい少女が立っている。金のリボンを髪に巻き付けているのは、牽制か当てつけなのだろう。この国で、金のリボンを身に着けるのは既婚者か、もしくは近々結婚する予定の婚約者がいる人だけだから。ただ、パトリックとオフィーリアは同い年の二十三歳だが、少女が成人も済ませていないだろうことは一目で分かるくらいだった。
相手がこの少女であることを調べていたオフィーリアであるが、実際に見るのでは衝撃が違うのだなあと感心してしまう。半歩後ろに控えてくれている聖騎士がいなければ、パトリックに向かってはしたなくも大声で「このロリコン!」と叫んでいたところである。オフィーリアは小さく息を吸い込んでから、冷静に口を開いた。
「いえ、普通に思いますが? 何を仰っているんです? 大体、婚約破棄なんて公爵家の応接室で完結するような話でもないですよ? 頭が悪いんですか? 頭が悪いんですね……」
可哀想なものを見るように、オフィーリアはそう吐き捨てた。言ってしまった後に、さすがに言い過ぎたかとも思ったが、これまで溜まっていた鬱憤がそうさせるのだから、仕方がないと諦めた。
しかし、それを聞いたパトリックは、こんなふうに言い返されるとは考えていなかったらしい。分かりやすく肩を揺らしながら眉を吊り上げた。
「……な、な、オフィーリア、お前! 平民の分際で貴族になんて口の利き方を!」
確かにオフィーリアは貴族位を持たない。貴族位を持つ家の出身でもない。平民か貴族か、どちらかに分類をしなければならないのなら平民になるのだろう。
しかし、聖女とは貴族の誰よりも地位の高い存在だ。何故その年でこんなことも分からないのか。半歩後ろからの不満ありげな威圧感を無視しながら、オフィーリアは口を開いた。
「お黙りなさい、パトリック・ドラド。それで言うのならば、爵位を持たない貴方が聖女である私をお前呼ばわりすることの方が問題です」
「貴様!」
パトリックは怒声と共にオフィーリアに向かって手を振り上げた。
パトリックは昔からどんなに優しく諭したとしても、自身の主張を否定する物事にはひどく敏感に反発していた。正論をぶつけられることには特に耐性がなく、今のような言葉は一番に嫌いだ。こうなることは簡単に予想できた。
そうであるから、分かりやすく上がったその手を聖騎士が防ぐのも簡単なことだった。ばん、と軽くない音を立てて掴まれた手首が痛かったらしく、パトリックは顔をしかめる。
「ぶ、無礼者! 僕はドラド公爵家の跡取りだぞ!」
「公爵家の跡取りごときが、聖女に暴力を? いや、むしろこの際、聖女ということは関係がない。我が国は如何なる暴力も認めていない。そう法律で定められているが、そんなこともご存じないと?」
ドラド公爵邸に着いてから一切言葉を発していなかった聖騎士は、パトリックに向かってそう言って笑って見せた。
この国でいうところの聖騎士は、聖女と教皇の護衛をする専用の騎士のことだ。身分に関係なく、教会を守護する聖剣士の中で特に秀でた者のみが就くことのできる職である。教皇は最大で十人まで聖騎士を任命することができ、現在の聖騎士は八人だ。
そして、今日この場にいるローガン・フォルモーサは一人しか任命されない聖女専属の聖騎士だ。後の七人は必要に応じて教皇と聖女のどちらも守護する。そんな熾烈な競争を制したローガンが、聖女に対する敬意がまるで感じられないパトリックに、警戒心と敵意を抱くは当然のことである。
「……ちっ! では、これは何だ!? お前はいつまで僕の手を掴んでいる、これこそ暴力じゃないか!」
「ふう、困ったな。三歳児でもどうして腕を握られているか分かると思うが。……本当に分からないと?」
「……っ」
パトリックは悔しそうに唇を噛みしめた。さり気なく手首を捻られたことによる痛みはあるようだが、さすがのパトリックでも隣にいる少女に痛がる姿を見せたくないと思うくらいの矜持はあるらしく悲鳴は上げない。その男気と言われそうなものを、別のところで発揮できればまだ救いようがあったのに。
「ローガン、いいですよ、放しても。パトリックの手が今度こそわたくしに当たった時には、それこそ法律に則って処罰されるだけでしょうから」
これ以上やっても無駄なのだ。パトリックはもう、オフィーリアからも彼の父であるドラド公爵からも忠告を受けている。国王自ら、最後通告だと警告もされていたのにこのありさまだ。いっそのこと振り上げられた手が自身の頬を掠めでもしたらよかったのにと、オフィーリアはため息を吐いた。
「……その場合、私もお咎めを受けるのですがね」
「あら、そうね、それはいけませんね」
呆れと怒りを滲ませたローガンに、オフィーリアはすぐさま意見を変えた。確かにこんな近距離で警護をしておきながら、聖女を危険な目に遭わせる聖騎士など教皇に何を言われるか分からない。パトリックの件で最近少し忙しかったから、判断力が鈍っているのだろう。
パトリックに向き合ったローガンは、彼をじっと見つめた後、その腕をぽいと放るように放した。よろめいたパトリックを、可愛らしい少女が小さく悲鳴を上げながら支える。この場面だけ見れば、オフィーリアたちの方が悪者のようだ。
オフィーリアは深呼吸をしてから、パトリックを見据えようとした。が、できなかった。
「……ローガン、貴方に目の前に立たれたら話がしづらいのですが」
オフィーリアの眼前には、ローガンの大きな背が広がっている。ローガンが聖騎士として不足ない逞しい体躯を持っているので、オフィーリアからはパトリックたちがまるで見えない。
ローガンがオフィーリアを守ってくれていることは、理解している。いつだって彼は聖女であるオフィーリアを支えてくれた。ローガンは決してオフィーリアを裏切らない、その信頼があるから彼女はこの場に安心して立てているのだ。しかし、それとこれとは話が違う。
「お話しされる必要がおありで?」
「あります」
パトリックたちとは、もうここで全てのけりをつけるのだ。そのことはローガンも事前に知っている筈であるのに、ここまで来て駄々をこねないでほしい。忠誠心があるのは結構であるが、ここは呑み込んでもらわなければ困る。
オフィーリアが後ろからローガンをじっと見つめると、渋々といった体でその巨体が少しずれた。オフィーリアの開けた視界の先には、不安そうにしている少女と憎しみをぐらぐらと煮詰めたような瞳のパトリックがオフィーリアを睨んでいた。
「あの、聖女オフィーリア、貴女もパトリック様を愛しているのですか? パトリック様は二人の間に愛はないと仰っていたけど……」
「貴女“も”ということは、貴女“は”彼を愛しているのですね?」
「……ええ、あたくしはパトリック様を愛しています。聖女オフィーリアの婚約者であることを知っていながら、それでも愛してしまったの。この気持ちは、どうすることもできないのです!」
可愛らしい少女は、まるで演劇のヒロインのように大きな瞳に涙を溜めてそう叫んだ。ここが舞台であれば、きっととても映えただろう。物語を盛り上げるための曲が流れ、観客たちが息を呑むような場面だ。……それがなんとも、ひどく呆れるとオフィーリアは頭痛を覚えた。
「それって、わたくしも彼を愛していた場合、わたくしの気持ちは踏みにじってもいいって考えていらっしゃるの?」
「そ、それは……。でも、あたくしの方が彼を愛しています!」
「それはそうでしょうね。わたくしはパトリックのことなど、ひとかけらも愛していませんから」
オフィーリアはきっぱりとそう言った。オフィーリアとパトリックは政略結婚だ。聖女と繋がりがほしいドラド公爵が勝ち取った婚約だった。聖女との結婚は、教会の後ろ盾を得ることとなる。ドラド公爵は更なる権力を手にする為、何が何でも聖女と息子を結婚させたかったのだ。
「ほら見ろ! 君は、僕の地位に目がくらんでいるだけだ!」
パトリックが聞くに堪えない叫び声を発するのと、ローガンが剣に手をかけたのは同時だった。オフィーリアは慣れた手つきでローガンの腕をそっと、押しとどめる。ローガンとて、本気で剣を抜こうとした訳ではない。これは忠告だ。
聖騎士は聖女が侮辱された時には、その人物が誰であれ斬り捨ててよいことになっている。そう、たとえそれが国王や教皇であってもだ。これは、この国を興した初代国王とそれを助けた初代教皇が作った法律である。さすがに国王や教皇を斬ったという事例は残っていないが、王族や高位貴族がその法律の下に、聖騎士直々に罰せられた歴史はある。
……パトリックはまだ分かっていないようだが、彼は現在、命の危機に瀕しているのだ。その隣にいる少女もなのだが、彼女はまだ子ども過ぎて何も分かっていないらしい。しかし、子どもとは言え一桁の幼児という訳ではない。若さゆえの暴走なのか、それとも教育が不足しているのか、オフィーリアはまた少し頭痛を覚えた。
「話が進まなくなるから少しお黙り遊ばせ」
ため息と共に、オフィーリアはパトリックに向けて人差し指を振った。オフィーリアは聖女としての力とは別に、魔力も豊富に持っている。煩い口を塞ぐ位であれば、なんのことはないのだ。
ちなみに、聖女の力は魔力とは全く違うものである。元々は同じものとされていたが、魔力が尽きた後であっても聖女であれば結界を張れるのだ。そもそも聖女の結界は魔法使いが使う結界魔法とは異なる。人を愛する女神が授けた聖女の結界は人を通したが、通常の結界魔法では人も物も通さない。聖女の結界は、あくまでも人を害するものだけを防ぐものなのだ。……人同士の争いに関しては何の意味もなさない。それが聖女の結界だ。
しかし、パトリックはオフィーリアが自分に対して何をしたのか、分かっていないようだった。いきなり声を発することができなくなり、顔を真っ青にして焦っている。少女がパトリックの腕にしがみつき、子猫のような愛らしい瞳でオフィーリアを睨んだ。
「パトリック様! 聖女オフィーリア、パトリック様に何を!?」
「騒がないんですよ、ちゃんと息はできているでしょう? さ、座ってゆっくり話をしましょう」
「……分かりました」
少女から見たオフィーリアは、さしずめ悪い魔女か何かなのだろう。そして少女は愛の力でそれを乗り越えようと恐怖に耐えて、魔女に立ち向かっている主人公。さて、けれどそろそろ夢から覚めてもらわなければ。ローガンの怒りが爆発する前に決着をつけなければ、オフィーリアの後始末作業が増えるのだ。
パトリックと少女は、オフィーリアを睨みながら寄り添ってソファに座った。オフィーリアもその対面に座り、ローガンは剣から手を放さないままオフィーリアの隣に立っている。
「自己紹介をして頂ける? わたくし、貴女のこと存じ上げないの」
「……あたくしは、カレンデュラ公爵家の三女、リリアンと申します」
「カレンデュラ家の末のご息女ですね。確か、お体が弱くて、ずっと領地で暮らしていらしたと聞いていますが」
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