6話
アンと別れて城に戻ると、辺りは夕暮れになりつつあった。泣き顔がマシになるまでと長々付き合ってくれたアンには感謝しかない。お礼に今度また何か渡そうと思いながら、自室で着ていたドレスを脱いだ。さすがに外をうろつき回った服のまま夕食には出れない。
(お父様はあれからどうしたのかしら)
気が重い。これからどう接していいのかミュリエルは考えあぐねていた。年配のお手伝いさんであるヘレンの手を借りながら手早く着付けて行くと、何やら廊下から騒がしい音が聞こえてきた。そして突然、部屋の扉が開かれた。
「ミュリエル」
ギョッとしたのはヘレンだ。「まだお嬢様はお着替え中ですよ!」とヒステリックな声をあげたが、扉の先にいた人物を見て目を丸くした。
「さあおいで、ミュリエル」
そこには長剣を手に持った父ダーレンが笑顔で立っていた。鞘からでた抜き身の剣が鈍い光を反射する。ミュリエルは息が詰まり、恐怖のあまり四肢が硬直した。
「ダ、ダーレン様、なぜ、そのように剣を、持っておられるのですか」
ヘレンがミュリエルを守るように立ちはだかった。声も体も震えているのに、彼女は盾のように真っ直ぐダーレンと向かい合う。嫌な予感がする。
「皆おかしな事を聞くものだ。邪魔する者を懲らしめるためだろうに」
「あなた様は、いったい何を……」
長剣をゆらりと突き出した。切先に見えるぬらついた赤い液体はなんだ。どうしてこんな事をする。ミュリエルは奥歯をかちかち鳴らしながら、この場を切り抜けるためにどうしたらよいか必死に考えを巡らせた。
「ミュリエルをこちらへ渡せ」
「嫌でございます。ダーレン様こそ、ご退室を」
逃げ場はない。出入り口はダーレンが塞いでいて、窓は転落防止の柵がついている。ジリジリと後ろに下がるがベッドに突き当たってしまった。ヘレンがミュリエルを守るように抱きしめる。ハリスが死ぬ時と同じ温もりがして、絶望が全身に満ちていく。
ダーレンがゆっくりと足を踏み出した。剣を構え、かぶりを振る。
「お父様やめて!」
しかし凶刃は止まらずヘレンの血が激しく舞った。うめきながらずるずると力なく倒れるヘレン。ミュリエルは急いでその小柄な体を抱いた。
「お嬢さ、ま……逃げて……」
苦痛に表情を歪めながらもヘレンは逃げてと言う。
「いやよヘレン、死なないで、お願いよ」
ダーレンがミュリエルのすぐそばまで来た。そして舌打ちをすると忌々しげに口を開く。
「ミュリエル、離れなさい。ドレスが血で汚れてしまう」
「どうしてこんな事をなさるのです! ひどい、あんまりです!」
「おまえを愛してるからだよ」
ミュリエルは絶句した。言葉が何もでない。何を言っているのか、理解したくない。なぜ愛することが他者を傷つけることに繋がるというのか。
「皆の顔を立てて一度は婚約者を立てた。断腸の思いで選んだのだがな。だがそれも解消され、おまえは私のもとへ帰ってきた」
やめて。
「おまえが居てくれれば私は領主であり続けられる。ソフィアに約束したんだよ。立派な領主になるとね。まだ志し半ばだ」
やめてやめてやめて。
「おまえとソフィアはそっくりだ。おまえがソフィアになってくれればいいんだよ」
やめてこれ以上聞きたくない!
ヘレンを抱え唖然とするミュリエル。ダーレンはその腕を掴んで彼女を立たせ、自分の元に引き寄せた。まるで糸が切れた操り人形のようにされるがままだった。
「ハリス様、あそこです!」
廊下の向こうからアンの声がした。ほかにも足音が複数聞こえ、開け放たれた扉から鎧を身につけ手に剣を持つ男が数名部屋に入ってきた。
「ミュリエル嬢から離れてください!」
それは間違いなくハリスだった。剣を持ち、挑むようにダーレンと対峙した。廊下の外では「ご乱心! 領主様ご乱心!」と大声で叫んでいて、増援を呼びかけているようだった。
「ダーレン様、ついに正気を失われましたか」
剣を構えるハリスは今までに見たことがないほど厳しい顔つきをしていた。彼と会えて嬉しい反面、絶望的な状況がどうしても彼の死を予感させる。
「ハリス逃げて」
気付けばミュリエルはそう口にしていた。
「あなたが殺されないようにずっと頑張ってたの。ずっとずっと。お願い逃げて、私はどうなってもいいから……!」
生きてほしいという懇願は心からのものだった。ミュリエルの瞳から涙が流れる。しかし腕を掴むダーレンの手に力が入り、万力で締め上げられるような痛みが走った。
「彼女を離せ!」
「嫌だね。この子は俺のものだ」
どうしたらこの状況を打開できる。ミュリエル自身はろくに動けず捕まっていて、今にも殺し合いがはじまってしまう。
「見損ないましたダーレン様! お嬢様を離してください!」
声と共に陶器が盛大に割れる音がした。破片が辺りに飛び散り、ミュリエルを掴んでいたダーレンの拘束がゆるむ。その瞬間、反対の腕を引っ張られた。アンだ。アンが泣きそうな顔をしてミュリエルを助けようとしている。
「逃げましょう」
足に力が入らない。でもアンが引っ張ってくれるのでなんとかその場から移動することができた。一歩二歩と足を動かすが——
「危ないっ!」
どんっと突き飛ばされて床に強く体を打ちつける。何が起こったのか分からずにいると、頬にぴしりと生温かい液体がかかった。反射的にそちらに視線を送る。
「え……」
すぐ目の前でアンが剣で腹を貫かれていた。剣は引き抜かれ、アンは腹部を真っ赤に染めて崩れ落ちる。
「いや……」
頭の上で金属がぶつかり合う激しい音が聞こえた。ミュリエルに振り下ろそうとしたダーレンの刃をハリスが受け止めているのだが、彼女はもう目を動かすこともできない。
「なぜ彼女に剣を向けた。あなたの娘だぞ!」
がりがりと剣が迫り合う。ダーレンは剣の腕にも覚えがあるようでハリスは歯を食いしばって柄を握りしめた。でも、このままじゃ押し負ける。
「アン……目を覚まして……」
ミュリエルはアンの腹部を手で押さえた。みるみる手が血で濡れるが、そんなことどうだっていい。ああ、ヘレンも助けてあげないと。床で横になると体に障るだろう。目の焦点が合わないまま、ミュリエルは二人の体をひたすら案じた。
とす、とす、と何かが突き刺さる音がした。低いうめき声が聞こえると扉から一斉に武装した人間が入ってくる。
「そこまでだ、ダーレン。崇高なるベイクウェルの名を汚す気狂いめ。本日この時をもって、貴様をベイクウェル家の系譜から抹消する」
それはハリスの兄、トビーだった。彼を先頭に武装した男たちが部屋に押し入ると、鉄の矢を構えがダーレンを囲む。
もう大丈夫だと思った。アンもヘレンも助かるし、ハリスだって死なない。ミュリエルはそう信じ、トビーに心から感謝した。アンは治療でしばらく帰れないだろうから家族にそう伝えないと。ヘレンの夫も確か城の庭師をしていたはずだ。元気になったらみんなに改めて謝って、それから感謝を伝えよう。誰も死なない。誰も死んでない。悪夢はここで終わる。もう大丈夫よ、とミュリエルは冷たくなるアンの手を握りしめた。
だから、ダーレンが最後の抵抗にハリスを切り捨てたことも見間違いだと信じたかった。
その後ダーレンの体が矢で滅多刺しにされるのも嘘だと思った。思いたかった。
ミュリエルの意識はそこで途切れた。