3話
「ハリス……!」
涙ながらに叫び、飛び起きたけれどそこはベッドの上だった。
しばらく放心状態で焦点が合わないまま部屋の暗がりを見る。少しずつ頭が働き出して、どうやらまた、ハリスが死ぬ夢を見ていたとわかる。
いっそ起きた瞬間に何もかも忘れられたらいいのに。そう思い、頬に流れた涙を拭いながら、ミュリエルは手を伸ばし日記帳の日付を確認する。
『聖暦147年9月16日』
頭が覚醒するにつれじわじわと嫌な予感が這い上がってきた。記憶が混乱をはじめ、脳に負担がかかったのか視界がぐらついた。
(……16日ってどういうことなの。17日の分で確かに花冠について書いたのに)
花冠はハリスから初めてのプレゼントだった。忘れたくなかったからしっかりと書いたのだ。なのに、どこにもその記述がない。まさか夢の中でさらに見た夢?
『聖暦147年9月17日。来月にある収穫祭当日、ハリスが殺される。毒を盛られたみたいだった。……私は17日の朝に彼から花冠をもらった夢を見て、その後にお父様に踊りたくたいと言ったわ。そして願いは叶った。だけどそれはハリスが死んで全部夢になってしまった』
我ながら頭のおかしい内容だ。でも構わない。
ミュリエルは日記帳をめくって文字を追う。昨日までは確かに剣で殺されていたのに、今日の夢では毒で苦しみ死んでしまった。つまり収穫祭で踊っても踊らなくても死ぬということになる。
どうしたらいい?
ハリスに死んでほしくないし、あんなに苦しんでいる姿はもう見たくない。
ハリス・ウィギンスはミュリエルの婚約者で、親戚筋の男に当たる。歳はふたつ上。母方の従兄弟であり、五つ年上の兄であるトビーが父の側近として城に勤めていた。基本的に長男以外の子どもはろくな出世街道はない為、この城の姫であるミュリエルとの婚約は誰もが驚いたに違いない。
父いわく、歳が近くて見た目もハンサムだからと言っていた。娘を溺愛するあまり少し前まで誰とも結婚させないと豪語していたものだから、突然連れてこられた時はとても驚いた。それくらい異例の大抜擢だった。
彼は立場が弱い。
婚約者が危険な目にあうのなら身を張って守るし、宴会で酒を渡されたら飲むしかない。
——もしかしてハリスが狙われている……?
結果としてハリスだけが犠牲になっているのなら、ミュリエルはその餌にされている可能性もあるが、その考えはなかなかなくなってはくれなかった。
ミュリエルはその日は大人しく過ごし、次の日を待って父に相談した。祭りの警備を増やしてほしいと。父は機嫌よく応じ、警備体制を厚くしてくれた。ミュリエル自身も城内に不審な動きがないか目を光らせたし、会場も見回って怪しい場所がないか調べた。
しかしそれでも祭りの当日、ハリスは殺された。二人が壇上に上がって並んでいる時、背後から矢で何本も体を射られて。
全身から血の気が引いていくなか、狙われているのはハリスだと確信した。
駆けつけた医師はハリスを見るが首を横に振る。ミュリエルはハリスが事切れる瞬間まで彼の手を握って名前を呼んだ。
「ハリスおねがい、死なないで……またふたりで踊りましょう、ねえハリス……」
◇
『聖暦147年9月18日。来月にある収穫祭当日、ハリスが殺される。背後から矢で射られて。……警備の強化をお願いしてもダメだった。舞台に立てば彼は殺される』
ぱたんと日記帳を閉じて、ミュリエルは大きく息を吐いた。何か行動を起こすと夢が変わる。でも結局ハリスは死んでしまい、その行動を取り消すかのように夢になってしまう。できれば行動と結果を残しておきたいと思ったミュリエルは、変わった夢を見た当日は何もせず次の日から何かしらの行動をとった。夢で間違った行動を知れば回避ができる。同じ轍を踏まないように慎重にやらなくてはいけない。収穫祭は10月15日。まだ少し時間がある。
『聖暦147年9月19日。収穫祭の当日、ハリスが殺される。毒で。……来賓席の順番を変えてもらったけど無駄だった。給仕は彼にゴブレットを渡した』
『聖暦147年9月20日。収穫祭の当日、ハリスが殺される。ナイフを腹に突き立てられて。……当日、具合が悪いと言って収穫祭そのものを欠席した。彼は花を持ってお見舞いに来てくれた。でも部屋に来たメイドのアンに刺されてしまった。アン、どうして?』
落ち着いて考えると、夢を見ている間の日々はダイジェストのようにも思えた。その間だって夜に夢を見ているはずなのにそんな記憶はない。ハリスに関わる事はたわいない世間話でもよく覚えているし、死ぬ前後なんか特に強烈だ。でもそれ以外。例えばいつも食べているはずの食事や城で働く人たちとの関わりは不思議と記憶になかった。
こうしてみようと思いたち、行動に移した結果を夢で見せられている? 真剣にそう考えて鼻で笑った。やっぱり私は頭がおかしい。
父と二人での朝食が終わると、ミュリエルは使用人が集まる食堂へと赴いた。
「ねえ、アンはいるかしら。メイドのアン」
「はい!」と元気よく返事をしたのは確かにあの時ハリスへナイフを突き刺したアン本人だった。きつく編んだ三つ編みに、くたびれたエプロン姿。歳は近くて、健康的に日焼けた顔にはソバカスが浮いていた。どうして殺したの、と詰め寄りたくなる気持ちをこらえ出来るだけ冷静を心がける。
「おはようございますミュリエルお嬢様! なにかお申し付けですか?」
そう言って笑うアン。明るく快活そうで、人のいい娘だ。あの夜、ナイフを手にした彼女は悲壮感にあふれ、刺したあとも呆然自失としていた。手が震えて、今にも崩れてしまいそう。なのに手に持つ大きなナイフはとても大きく立派なものだった。……それこそ彼女には不相応なくらいに。
彼女は城務めと言っても洗濯や掃除を生業とするメイドなので、エプロンはいつもくたびれているし、服だってそんなに上等なものじゃない。なのにアンは一目見て高価とわかるナイフを持っていた。印象がチグハグだ。
「……ねえアン。絶対にやりたくないけど、どうしても頼みを断れない相手っているかしら。あるいは、どんな状況だったら言うことを聞いてしまう?」
唐突な質問にアンは目をぱちぱちと瞬かせた。その顔をみてミュリエルは即座に後悔する。なんてバカな質問をしてしまったんだろう。今がまさにその状況ではないか。領主であり雇用主の娘であるミュリエルの為に、アンは普段やっている仕事を離れている。
「ごめんなさいアン、私、その……」
「うちってすっごく貧乏で、下に兄弟が四人いるんです。母は産後の肥立が悪くて死んじゃったし、父は仕事で無理して腕が使い物にならなくなりました。私がここで働かせてもらってるから家族をなんとか食べさせてやれるんです。だからクビにするぞー! って言われたら、どんなに理不尽なことでもやるしかないです」
そう言ってアンは寂しそうに笑った。
「……本当にごめんなさい、変なことを聞いて」
「いいえ、お嬢様とお話しできて嬉しかったです!」
アンはからっとした笑顔だ。本当に気にしてないのかもしれないが、なんとなく胸が重い。ミュリエルは俯いてこの場を去ろうと踵を返して立ち止まった。もうすでに迷惑をかけているのだから、お嬢様のわがままにもう少し付き合ってもらおう。悪夢を回避するためにできることをもっと考えたい。なんてったって頭がおかしいのだから。
「ねえ、今日町に出かけたいの。あなた一緒に来てくれないかしら」
「え、でも、私でいいんですか?」
「ちょっと荷物を持ってもらいたいの。だめ?」
「そういう事であれば喜んで!」
アンの上司も快諾してくれたのでさっそく町へとでかけた。そうするとどんな偶然なのか、町でハリスと出会った。いつかの夢で一緒にめぐったお土産屋さんだ。お互い予想外の再開にただただ照れて言葉につまる。
「あの、こんにちはミュリエル嬢」
「……ええ、会えて嬉しいわハリス」
もじもじとしてぎこちない二人だが、この時ばかりはミュリエルにも花のような笑顔が咲く。店の軒先で二人並んで話をした。この穏やかな時間がずっと続けばいいのにと思ってしまった。