2話
ミュリエルはあの日から妙に意識をしてしまい、ふとした時にハリスの顔が浮かんだり、今頃何をやっているんだろうと考えていた。好きだと言われたから相手を意識するなんておかしい気もするけれど、遠くない未来で結婚をするのならお互い好意的に思っていた方がいいに決まっている。
収穫祭で披露する踊りの練習が楽しみだ。唯一あの夢が不安にさせるけれど、所詮は夢だと割り切っていた。
そして収穫祭の直前、ハリスが照れたようにあるものを差し出した。それは色とりどりの花で編んだ冠だった。踊りの衣装によく合っていて、頭に乗せるといい匂いがふわりと舞う。こんなことは夢にもなくてミュリエルは舞いあがった。やっぱりあれは悪い夢だったんだと心の底から安堵した。
しかし祭りがはじまり、ふたりが手に手をとって踊ろうとした瞬間。舞台袖の暗がりから刃を持った悪漢が突如現れ、ミュリエルの浮ついた気持ちは一気に消え去った。夢の中では男が現れてからハリスが倒れるまであっという間だ。早く行動しないと、またハリスが死んでしまう。そう思ってミュリエルが一歩引こうとした瞬間だった。
間に合わないと思ったのか、ハリスがミュリエルを守ろうとその体を固く抱きしめた。耳に入るのはわーわーとした喧騒と服越しに感じるハリスの鼓動。嫌な予感がぬぐえない。
ミュリエルの頭からはらりと冠がこぼれ落ちた。反射的にそれを目で追うと、舞台の床には真っ赤な血がぽたぽたと落ちていた。
苦しそうにうめく声が聞こえる。
「ハ、リス……?」
ハリスが体をゆっくりと離す。
顔を見れば、無事でよかった、と唇が動いた気がした。そして崩れるように床に倒れ、動かなくなってしまった。
◇
「——はぁっ、はぁ」
涙目でぼやけた視界に入ったのは真っ暗な室内だった。それも自分の部屋。空が少し白んでいて、ミュリエルはのろのろとした動きで日記帳を手に取った。呼吸はままならないが、乱暴な手付きでページをめくる。
最後の日付は『聖暦147年9月16日』だった。つまり今日は9月17日。収穫祭はまだ先のことだ。
(……ゆ、め……)
頭がおかしくなりそうだった。進んでいた時間も、それまでの出来事も、どれも限りなく現実なのに、いきなり連れ戻される感じがする。
(……また、ハリスが死んだ。ハリスが)
涙が止まらない。今までも似たような夢を見たけれど、ここまで喪失感に苛まれたのは初めてだ。ハリスの最後の姿を思うと今でも胸が苦しい。
涙をはらはらと流しながら、ミュリエルはペンを握った。
『聖暦147年9月17日。収穫祭の当日、ハリスが殺される。私をかばって、剣で斬られた。……彼、花の冠をくれたわ。はじめてだった。この悪夢から抜け出すことはできるの?』
日記帳を閉じると、またベッドの上で膝を抱えた。最後に見たハリスの笑顔が頭から離れない。
「お母様、助けて」
泣きながら、ミュリエルは形見のペンダントを握りしめた。母は亡くなる直前に優しい笑顔を見せてくれた。ミュリーが幸せになりますように、愛する人と結ばれますように。そう言ってこのペンダントを首からかけてくれたのだ。
「お母様……」
そう嘆いて、頭にひとつの案が浮かんだ。とても馬鹿らしくて、とびっきりおかしいこと。
「そうよ、舞台に立たなければいいんだわ……」
くすくすと小さく笑うと、ミュリエルの頬にまた涙が伝った。
◇
この泣き腫らした顔では父親に心配をかけるだけだと思い、朝食の席には行かなかった。父親が心配してミュリエルの部屋にすっ飛んできたのも予想の範囲内だった。
娘の憔悴具合に父ダーレンが青くなる。
「ねえお父様、怖い夢を見たんです。とっても怖い夢。私、収穫祭の舞台で殺されちゃうの」
そんな父にミュリエルはお願いをした。
「たかが夢だって思いますか? でも私怖くて怖くて……とても踊れそうにないんです。だからお願いお父様。収穫祭のダンスは別の人に代わってほしいの」
誰かが言っていた。
見た夢を書き記すと、夢と現実の境がぼやけて正気を失うと。
きっと自分は正気を失っているのだろう。夢で見たというだけで、領主の娘が晴れの舞台を自ら降りる。それを恥とも思わない。
(もうハリスとは踊らない。夢の通りにはさせない)
ダーレンは少し考えるようにして、それから承諾してくれた。かわいい娘が言うのなら、と甘やかすがそれは領主としてどうなのだろう。わからない。だってミュリエルは頭がおかしいのだから。
踊りの練習がなくなれば、必然的にハリスとも会わなくなる。ミュリエルはそれが寂しかった。夢だとしても楽しく踊った記憶が脳の片隅にある。ハリスは自分にちょっと自信がない人だけど、そのぶん人の痛みがわかる優しい人だった。あのあたたかな笑顔を思い出すと今だって心がきゅっと苦しくなる。
踊りの休憩と言って町のお土産屋さんを覗いたり、近くの小川に行こうと散歩もした。夢として消えたけれど楽しい思い出だった。収穫祭が終わったら顔を見に行こうか。そしたらきっとハリスは「こんにちは、ミュリエル嬢」とほほ笑んでくれる気がする。
いつのまにか、ミュリエルは恋をしていた。
そして時は過ぎ、収穫祭当日。ミュリエルが踊るはずだったファーストダンスは町の年若い男女が代わってくれた。ミュリエルはその様子を特設された来賓席から見守っていおり、ついでに辺りに悪漢がいないか目を凝らしていた。もし目に着いたら速攻で警備員に言いつけるつもりだ。来賓席には領主であるダーレン、その右隣にはミュリエル、さらにその隣に婚約者のハリスがいる。左側には役人たちがずらっと座っていて、その中にはハリスの兄であるトビーもいた。
「いやあ、ミュリエルお嬢様が踊らないと聞いた時は非常に残念でしたが、こうしてお目にかかれてよかったです。どうぞ楽しんでください」
席の端からブドウ酒が回された。大きめのゴブレットに注がれ、ひと口ずつ飲んで次の客に回すというお祭りでは定番のものだ。最初に渡されたのは席の右端にいるハリスだった。
「では先に頂きます」
一番格下と言っていいハリスから始まるのも珍しいなと思いながら、彼がゴブレットに口つけるのをジッと見ていた。会うのは久しぶりで、顔を見た時は嬉しくて胸がドキドキしてしまった。ハリスも「今日のドレス、とても似合ってる」と言ってくれて、二人して顔を赤くしてしまった。
「はい。重たいから気をつけてね」
「ありがとう」
そう言って受け取ろうとした時、奥から伸びた手にゴブレットを奪われてしまった。父ダーレンだった。
「おまえにはまだ早い」
「ちゃんと飲酒できる歳になりました」
「外で呑んで羽目を外されたら困る」
祭りの席でそれはどうなのだろう。しかしいつになく厳しい顔つきで、ミュリエルもそれ以上何も言うことはなかった。
「——ひゅっ」
隣から苦しそうな息づかいが聞こえた。どうしたのかと思って振り返ると、青白い顔のハリスが喉を両手で押さえて苦しんでいる。ゼーゼーと激しく呼吸を繰り返し、まるで空気が吸えていないように苦しんでいる。
「ハリス、いったいどうしたの……」
手を伸ばそうとして後ろから抱き込まれた。父のダーレンだ。
「近づくな。毒を盛られたのかもしれない」
父の冷たい声が耳元でする。理解はできても納得などできるはずがない。彼のそばへ行かなければ。それだけが頭の中を締め、夢中で手足を動かすけれど、太い腕に抱えられたまま身動きがとれない。
「ハリス! しっかりして、ハリス!」
ミュリエルの悲痛な声が辺りへ響く。ハリスは苦しそうにのたうち、そしてテーブルから崩れ落ちた。喉を掻きむしる姿があまりに痛々しくて、そらすことができない。
目の前が真っ暗になった。