10話
「ダーレン様。不躾なお願いながら、我ら配下からもお願い申し上げます」
そう言って声を上げたのはトビーだった。
「このところダーレン様の容体が思わしくないこと、気付いておりました。しかし政務を優先するダーレン様のお姿を見ていると進言することもままならず……側に仕える者として大変申し訳なく思います。しかしミュリエルお嬢様に引き継ぎながらゆっくりご静養なさるのは、お嬢様の為にも、ダーレン様の為にもなると考えます」
ダーレンの顔がひくひくと痙攣している。怒っているのだ。体調が心配だなんだと言うが、遠回しに役立たずと言っているも同然なのだから。怒るなという方が無理だが、それでもミュリエルは伝えなければいけなかった。
「お父様怒らないで。そのご病気は怒鳴ったり激しい運動をするとひどくなってしまうのです。……お母様だって、そんなお父様見たくないはずだわ」
ダーレンが目を剥いてミュリエルに吠えた。
「私はソフィアに約束したんだ! 立派な領主になると! ……まだまだなんだ……どうしておまえらは私を領主と認めないんだ。どうして……!」
あまりの迫力にその場にいる全員の身がすくむ。荒く息を吐くダーレンの目に一瞬、狂気が色濃く浮かんだ気がした。まずいと思ったハリスがミュリエルを守るように前へ出る。
その姿に悪夢がフィードバックして目眩がする。だけどミュリエルは歯を食いしばって耐えた。大丈夫だ。父はまだ狂気の淵には踏み入っていない。できるだけ早く危険から遠ざけないと——
「お、お言葉ですが!!」
突然部屋に響いた大きな声。メイドのアンだ。
「わたしの家族はダーレン様に救われました!! 生活に困窮している者からは税を少なくしてくれたり、こうやって働き口を紹介してくれたり……こういうのは全部、ダーレン様がしてくださったことです!」
アンは必死に訴える。怖いのか目にいっぱい涙を溜めて、小さく震えながらもしっかりと声を響かせた。全員の目がお仕着せ姿の少女へ向く。城のトップが集まるこの空間で一介のメイドが物申すのだ。緊張しないわけがない。
「わたしたちは領主様をお慕いしています。でも最近どこかご様子がおかしいと皆心配しているんです。どうかご自愛ください。お願いします」
アンが頭を下げた。その様子にダーレンは瞳を潤ませた。ハリスの背から前へ出ると、ミュリエルは精一杯訴えかける。
「ねえお父様、まずはお医者さまに詳しく見ていただきましょう。ずっと元気でいてほしいのです。教えてもらいたいこともたくさんあるし、お父様しかできないこともあります。だから……」
最後は言葉にならなかった。ダーレンが優しい父だと知っている。自身が愛されていることも知っている。それが歪んでしまう前に、どうかその席から立ち上がってほしい。
「しかし、」
ダーレンは口元をわなわなと震わせた。
みんなから退座を勧められてショックだと思う。今この瞬間も体に大きな負担をかけているだろう。しかしもう時間がないのだ。一刻も早く事態を収めないと、不幸の連鎖がまたできてしまう。
ゆっくりとダーレンの陰った目が動いた。
「……ミュリエルよ。かわいい我が娘よ」
ダーレンの掠れた声は生気が抜けたようだった。何かに縋るような、心細そうな声だ。それだけでミュリエルは泣きそうになってしまう。
「私は、よき領主になると、約束を……」
「はい、お父様」
「……妻は……ソフィアは、私にあきれてはいないだろうか」
半ば魂が抜けたように立ち尽くすダーレン。
「お父様は、とても立派にお仕事をされていました。私にもたくさんの愛情をいただいたし、ハリスの事も、ずっと前から考えてくださったと聞きました。私、そんなこと全然知らなくて……」
頭を過ぎるのは自ら父に手をあげたあの光景。今でも火かき棒の感触が手に残っている。たかが夢だと人は笑うだろうか。夢に取り憑かれているミュリエルこそが狂人だと指差すだろうか。
「私、お父様に、とてもひどい事を……」
ごめんなさい。ごめんなさい。胸の前で両手を握りしめ、ミュリエルは声を絞り出した。
「……ミュリエル」
ダーレンはミュリエルの側まで行くと、その頭へそっと手を伸ばした。ミュリエルは一瞬体を強張らせたが、その大きな手は彼女の頭を優しく撫でた。
「ソフィア……俺と君との娘は、こんなに立派に育ってくれたよ」
窓の外を見てダーレンが涙を流す。もういない妻への想いと約束が、涙となってその瞳からぽろぽろと溢れでた。
◇
この場はミュリエルに任せ、疲れたと言ってダーレンは執務室を後にした。その背中が小さく見えて、ミュリエルはなんとも言えない気持ちになる。大きなショックを受けたのは間違いない。領主としてのプライドを持つ父だったのだ。状態が悪化しないように医師の手を借りなければいけない。
「ミュリエルお嬢様。ダーレン様を労わるお気持ち、このトビーの心にしかと打ちました。誠心誠意、お嬢様にお仕えいたします」
しんみりした空気を破ったのはハリスの兄、トビーだ。ミュリエルは笑った。少女から一歩踏み出した大人の強かさを備えたその笑みは、まさに膝をつくに値する。
「トビー・ウィギンス、顔を上げて下さい」
トビーだけではなく、その場にいた全員がその言葉に背筋を伸ばした。目の前いるのはもう愛くるしい皆のお姫さまではない。民を導く為政者だ。
「素晴らしき父の治世を引き継ぐのは私です。覚える仕事はたくさんあるでしょうけれど、いずれ夫となるハリスと力を合わせ、皆の期待に応えたいと思います」
その場にいた者たちは新しい領主の誕生に胸を震わせた。ダーレンに物申していた時はどうなるかと思っていたが、娘の強い想いはあのダーレンを納得させた。こんな美しい親子愛は他にないと、しばらく領内でも話題になるだろう。だから役人たちは気づかなかった。
「ところで、ひとつ聞いておきたいのです。トビー・ウィギンス」
ミュリエルの瞳がひとりの側近に向けられていることに。静かな怒りに身を震わせているということに。
「おまえはなぜ私の父を狂わせた」




