伊藤博文の憂鬱(ゆううつ)
私の名前は、伊藤博文。
初代の内閣総理大臣を務めた人物だ。
渋沢栄一が、何やら異世界という別の世界に旅立ち、未開の地で会社を起こし、町を造ろうとしているらしい。
私は、若い頃は伊藤俊輔と名乗り、若い頃の渋沢栄一や、他の同年代の若い志士たちと共に、攘夷思想に傾倒し、久坂玄瑞、高杉晋作、井上馨などと、行動を共にしたのだ。
高杉晋作が奇兵隊を編成すると、私も奇兵隊に参加し、その一支隊である力士隊を率いて、功山寺挙兵にも加わった。
こうして、長州藩は倒幕へと舵を切り、薩摩や土佐や肥前と手を組み、そして、第二次長州征伐では、徳川慶喜の幕府軍を、完膚無きまでに、見事に叩きのめしてやった。
やがて大政奉還となり、その後の戊辰戦争の一連の戦いでも、多数の犠牲を払いながらも、勝利を重ねていった。
そして、徳川幕府は倒れ、明治政府の世になる。
西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允の『明治の三傑』の亡き後は、彼らの遺志を引き継ぎ、日本を欧米列強に負けない強国にするために、尽力した。
しかしいつしかその手法は、『藩閥政治』と呼ばれ、批判されるようになった。
2009年の時は、私の没後100年ということで、大河ドラマ化もあるのでは?ということも考えたが、それは実現しないまま。
どうも、私は嫌われているのではないか、と思ったこともある。
いや、嫌われているんだ、実際に、他の人物たちが次々と私より先に死んでいくのを、私は見届けてきた。
幕末の動乱では、たくさんの志士たちが戦死をしていった。そして、私たちだけが生き残った。
西郷、大久保、木戸、岩倉具視も、黒田清隆も、先立っていった。
私は、この国にはドイツ式のやり方がふさわしいと信じ、ドイツの、皇帝が絶対的な権力を握り、議会の力を抑える、それこそが近代日本にふさわしいと思い、それを推進してきた。
フグを食べられるようになったのは、私が解禁したから、という話を知っているか?
大日本帝国憲法の草案の作成を、不眠不休で行い、公布の予定日のぎりぎりに、ようやく完成させたというエピソードもあった。
第一回帝国議会の開催、やがて日清戦争、日露戦争と、二つの戦争に勝利した。
そうして私は、初代韓国統監としてハルビンに赴く。そこで安重根に撃たれ、そして私は、命を落とした。
そして、死後の世界へ、ここに来てみたら、かつての私の同志だった者たちまで、私をのけ者にしやがる…。
「まったくよお、明治の元勲だか何だか知らねえが、自分たちだけ長生きしやがって、その150年後の成れの果てが、こんな国かと思うと、やりきれないな。」
「俺、腹へった…。」
そして、私よりも先に、渋沢栄一が大河ドラマの主人公になったのだ、全くなんてことだ、紙幣の肖像になったのは、私の方が早かったのだがな。