第三話
最近、やけに認知症の患者が増えてきた気がする。それも比較的若年層で。ニューヨークで神経内科医をやっているデヴィット・スティーヴンスは、直感にも似た感覚を持ちながら日々診療に明け暮れていた。
「トム・ホワイトさん、どうぞ」次の患者は二十九歳、男性。問診票の主訴欄に物忘れが多くなった、と書いてある。「失礼いたします」精悍な顔つきをした好青年が、同じ年頃の女性と入室してきた。おそらく男性の妻だろう。「こんにちは。トム・ホワイトです、よろしくお願いします。こちらは妻のメアリーです」トムという名の青年は取り乱すでも暴れるでもなく、いわゆる普通の感じであった。身なりも整っている。
「どうぞ、お座りください」とデヴィットはトムとメアリーに座るよう促した。メアリーはすんなりと座ったのに対し、トムは座るのに多少戸惑っている。自分の臀部と椅子との距離感が掴みにくい様子だったが、メアリーの助けを得て椅子へ腰かけた。
「こんにちは、医師のデヴィットです。よろしくお願いいたします」デヴィットはすでに認知症を疑いつつあったが、それを隠すように淡々と問診を進めていく。
「物忘れが多くなってしまったそうですね。いつ頃からかわかりますか?」「うーん、私はそんなことは無いと思うのですが」「ねぇ、トム。あなた、この頃仕事で忘れ物をすることが多くなったでしょう。この前なんか食事をしたことも忘れてしまったじゃない。先生、夫は昔から頻繁に忘れ物をしたりとか、そんなだらしない人間じゃないんです。ましてや食事をしたことを忘れるなんて。それに……近頃は会話も嚙み合わないことが多くなってきて……」トムはぼんやりとしていたが、その妻は少し涙ぐんでいた。「そうでしたか、大変でしたね。まずは少し検査してみましょう。トムさん、これから私がいくつか質問しますのでお答えくださいね」
デヴィットは簡単な質問や作業で済む認知症検査を始める。「トムさんは、今何歳ですか?」「二十八歳です」「二十八歳ですね。生年月日はいつですか?」「二〇七二年四月六日です」「わかりました。では、今日は西暦何年の何月何日でしたかね」「二〇七二年四月六日です」トムは間髪入れず自分の生年月日を答える。その表情には迷いなどは全くない。
「トムさん、あなたの生年月日ではなく今日の日付ですよ」デヴィットは再度質問する。「トム、今日の日付よ」メアリーも今日の日付を答えるよう促したが、トムは困惑した表情をしていた。やがて、トムはメアリーの方を向く。「急に聞かれると戸惑ってしまって」「今日は二一〇一年三月七日ですよ。緊張しているのかもしれませんね。では、トムさん。次は十時十分の時計の絵をこの紙に書いてもらえますか」
デヴィットが紙を差し出すと、トムは長針と短針がともに十を指した歪な円の時計を描いた。「ありがとう、トムさん。これで私からの質問はおしまいです。最後に、脳の状態を確かめるためにMRIなどの画像検査を行いましょう。看護師のキャサリンが案内しますので後についていってください」
トムが診療室から出た後、デヴィットはメアリーへ病状を説明する。「メアリーさん、落ち着いて聞いてください。後でご本人にもお話しますが、トムさんは認知症の可能性が高いです」「やっぱり、そうですか……」「ご自身の年齢を一歳若く答えたことから、一年ほど前から病気は始まったと考えられます。トムさんは、頭を打ったり脳出血などを経験されたことはないんですよね?」「結婚してからはありません。結婚前についてもそんな話は聞いたことはないです。あぁ、私はこれからどうすれば良いのでしょうか」今回もか。デヴィットはメアリーに悟られないよう、心の中でひっそりとため息をついた。
「メアリーさん、非常に辛いことだと思いますが、大事なことは今のトムさんを受け入れることです。なるべく本人のペースに合わせて、スキンシップもとるようにしてください。認知症を完全に治す治療薬は残念ながらありませんが、良い薬も出てきました。支援してくれる行政サービスや団体もご紹介します。もちろん、私も精一杯手助けさせていただきます」デヴィットは落ち込むメアリーを励ましたが、前途有望な青年が認知症を患ってしまっただろう事を悲しく思っていた。
病気はいつだって当事者とその家族が一番辛いのだ。トムとメアリーは一週間に検査結果の説明で来てもらうこととなった。
その日の夜、デヴィットは熱いコーヒーを飲みながらトム・ホワイトのMRI画像を診ていた。出血や梗塞などは認められず、脳全体の萎縮、特に海馬の萎縮が顕著である。確定診断をつけるにはもっと詳細に検査する必要があるが、アルツハイマー型認知症と考えてまず間違いないだろう。
デヴィットは若き認知症患者の治療方針を考えつつ、日中感じたことが気になっていた。認知症は若年者でも発症することは確かにあるが、その患者はほとんどが高齢者だ。この心優しい医師は、どうしても若年者の患者数が増えている気がしてならなかった。
デヴィットが思索にふけっていると、書斎のドアをノックする音が彼を思考の世界から引き戻す。「コーヒーのおかわりを持ってきてくれたのかな、アナ」「あなた、まだ起きてるの」ドアの隙間から寝間着を着た彼の妻が顔を出した。「明日も仕事でしょう。もう寝ましょうよ」「そうだな、あと少しだけやったら寝るよ。なに、コーヒーのカフェインで目が冴えてしまったのさ」「ほどほどにね。医者の不養生ほどみっともないことは無いわよ」夕食後のコーヒーは禁止にしましょうかしらね、と誰かへ聞かせるように独り言を言いながら彼の妻は去っていく。
「やっぱり少し調べてみよう」デヴィットはわざと独り言を口にしながら、残っていたコーヒーを勢いよく飲み干す。喉を火傷した痛みに耐えつつ、その日からデヴィットの認知症患者の統計整理が始まった。
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