俺の妹が最近なんか魚臭い
最近、うちの妹はやたらと料理に凝りはじめた。
しかも和食だ、その上めっぽううまい。二十一世紀のこのご時世、和食なんてお袋の味を通り越してお祖母ちゃんの味かもしれない。
だが俺にとっては最高の味だ。毎日毎日、早起きして朝食をつくってくれて、しかもお弁当まで準備してくれる妹がいるなんて、俺はなんて果報者の兄貴なんだろう。
今日も幸せな匂いで目が醒めた。ひとつ伸びをして、布団を抜け出す。カーテンの隙間から朝日が射し込んできている。ちゅんちゅんと、ベランダでスズメが鳴いている。ああ、清々しい一日のはじまりだ。
布団をたたみ、カーテンを開け、窓も半分開いて新鮮な空気を取り入れる。否、窓の下の道を歩く連中に、この幸せな匂いを嗅がせてやるためなのだ。
世界一妹に恵まれた兄貴、深水零ここにありという、高らかな宣言である。
たまに「深井大尉、メイヴた……じゃなかった妹さんを俺にください!」とかいわれることがあるが、俺の名前は某戦闘妖精のパイロットとは縁もゆかりもない。両親はSFどころか活字の本なんか読んだことのないような人たちだった。自分らでつけておいて、俺の名前が肉筆じゃ書けなかったほどだ。いわゆるDQNネームってやつだろう。まあ日本人としてそこまで違和感のある響きでなくてよかった。これで深水零とかだったらガチすぎる。
その両親だが、いまはよんどころなき事情でいない。生まれ故郷を離れ、俺と妹の真那のふたりだけで暮らしているのはそのためだ。いずれ機会があれば話そう。
顔を洗ってから居間にいってみると、もう座卓の上に朝食が並んでいた。味つけ海苔と焼き鮭、いんげんの胡麻和え、きんぴらゴボウ、そして味噌汁。
とくに真那のつくる味噌汁は絶品だ。今日は大根の千切りが入っていた。シャキシャキした状態でもうまいし、しんなりしてもうまい。俺は千切り大根の味噌汁が大好物だ。
千切り大根の味噌汁を嫌う向きもすくなくないのは承知しているが、そういう人は、本当においしい味噌汁を飲んだことがないのだと思う。大根にしみ込んだあの旨味が理解できないはずはない。その点、真那の味噌汁はすばらしい。即席のだしの素なんかじゃ絶対に出ないこのまろやかな味の深みは、料亭以上だろう。いや、俺は高級料亭なんか行ったことはないし、大根の千切りなんて俗な実の入った味噌汁は出てこないだろうけど。
お櫃から茶碗にご飯をよそっていたら、急須を手に真那が台所からやってきた。制服の上に前掛けと三角巾が似合うその姿は、まさにちいさなお母さんだ。いつの間にこんないい子に育っていたのだろう。俺の目は節穴だった。
「おはよう、真那」
「おはよ、お兄ちゃん」
「このくらいでいいか?」
「うん、ありがと」
気持ち軽めにご飯を盛った茶碗を真那に渡して、『いただきます』の合唱をしてから食事にする。いや、うまい。きんぴらは昨晩のうちにつくっていたはずだが、網で鮭を焼きながらこんなにしっかりとだしのきいた味噌汁と、さらにいんげんの胡麻和えをこしらえてしまうとは、どれだけ手際がいいのだろう。
また、ぜひこれは言い添えなければならないのだが、味つけ海苔はなんと真那のお手製なのだ。味つけ海苔が自作できるとか、実際に妹が出してくれるまで思いつきもしなかった。市販の味つけ海苔は全形八切りより小型のことがほとんどだが、普通の焼き海苔に味をつけた真那の味つけ海苔はそれよりうまい上に、使いやすいいつものサイズなのだ。
味噌汁をすすり、あまりのうまさに俺は感歎の吐息をつく。完璧な赤だしだ。日本に生まれてよかった。
「真那は最高のお嫁さんになれるな」
「あはは、わたしじゃ無理だよ。お料理はちょっと上達したけどお掃除やお洗濯ダメだもん」
「掃除機と洗濯機にやらせときゃいい」
「わたし片づけられない女だからなあ。洗濯物けっきょくたたまないし、部屋は散らかりっぱなしだし」
その言のとおり、たしかに真那の部屋はいろんなものが積み上がるに任せたカオス空間だ。本人はどこになにがあるかわかっているようだが。
しかし俺には、片づけが苦手なくらいで真那の「至高の嫁」ランクが下がるとは思えない。
「洗濯物もしまえないような男はきょうびお嫁ももらえないさ。片づけくらい旦那にやらせればいいんだ」
「うん、だからお兄ちゃんみたいに整理整頓できる人がいいな」
そういって、真那はひかえめにほほ笑んだ。まったく、実の妹でさえなければ俺がもらってしまいたいほどパーフェクトだな。こいつが幸せにお嫁に行くまで、俺が守っていかなければ。
「ごちそうさま。今日もうまかった」
食べ終わって食器をお盆に載せていたところで、いきなり真那が手を伸ばし、俺の顔をぐいと自分のほうへ向けた。
「……な、なんだ?」
「お兄ちゃん、ご飯つぶついてる」
そういって、真那は俺の鼻の頭に指をもってきた。ちょっと、煮干のような、鰹節のような匂いがする。昔の主婦の手からは糠床の匂いがしたという。毎日ちゃんとだしをとって味噌汁をつくってくれるのはありがたいが、匂いが染み着いてしまうのは不憫だな、と思う。
「なあ、毎朝早起きするの大変じゃないか?」
「ううん、ぜんぜんそんなことないよ」
「それならいいけど。おかわりするか?」
「だいじょうぶ、ごちそうさま」
真那からも空の食器を受け取って、重ねる。洗いものは俺の役目だ。毎朝これだけうまいものを食わせてもらっているのだから、このくらいはやって当然だろう。ちゃっちゃと食器を洗っていく。今日は部活の朝練だ。俺はいちおう空手部に所属しているが、柔道部と剣道部も一棟しかない武道場を使うので、朝練や午後練はローテーションになっている。空手部が朝練に武道場を使えるのは週に二度だけ、貴重な時間だ。いつもより早めにいかなければ。
水切りカゴに食器を並べてうしろを向いたところで、
「はい、お兄ちゃん」
と、包んだばかりのお弁当を、真那が渡してくれた。朝から至れり尽くせりだ。
「さんきゅ。じゃ、先行くな」
「うん。いってらっしゃい」
通学路の途中、悪友どもの幾人かが住んでいる分譲マンションの下に差しかかったところで、案の定、声とともに背後からウェスタンラリアートが飛んできた。
「今日も愛妹弁当持ちかクソァ!」
「弁当準備してくれる彼女くらい作れや!」
俺は頭を沈めて後ろから飛んでくるラリアートを躱す。羽賀照修は俺のわきを行きすぎて、かかとブレーキで停止した。そのままヒールターンをしてこっちを向く。
「口でいうほど簡単に彼女さんできたら苦労せんわボゲ!」
「俺はこっちに越してくるまえは彼女いたぞ。いま考えても惜しいことしたぜ」
現在の俺はフリーで彼女募集中の身だ。なにぶん急な話だったので、ろくろくわかれの挨拶もできなかった。インスタンス・ドメイン(I・D)でのやり取りはいまでもときおりしているが、現在の話題は新しい「彼」のことだ。俺が越して数ヶ月後に、事情を知らない男子に告白されたのだという。どうするべきか相談された俺は、今度いつ会えるかもわからない自分より、その、誠意がありそうな彼の気持ちに応えてあげるといいとアドバイスして、身を引いたのだ。
……ちょっとばかり物わかりがよすぎたかもしれないが。
羽賀はずかずかと詰め寄ってきた。
「なら深水、もう一度彼女さん作るのは簡単だろ! 真那たんの弁当はオレがもらうってことにして、おまえが弁当つくってくれる彼女さんを見つけるんだ」
「弁当目当てって……なんちゅう不純な動機だ。そんな根性で彼女が作れるわけないだろ」
「なんだよ、ひとには彼女に弁当つくってもらえといっといて」
「そういやバレンタインに手づくりチョコはもらったが、普段づくりの弁当をもらったことはなかったな。やっぱ弁当つくれるほどの家庭的な彼女はハードル高いか」
以前の記憶を掘り返してそうつぶやいた俺に対し、羽賀はじだんだ踏みながら両腕を振り上げた。
「くそー、やっぱそうだよな。なんでおまえにはお弁当つくってくれるかわいい妹さんがいるんだよクソァ。……なあ、やっぱ真那たんをオレに」
「却下だ却下だ下却だ! 生涯の伴侶とすることを前提にした清く正しい交際、そしてまずは交換日記から! なによりも真那自身が選んだ相手でないとダメだ!」
「何世紀前のセンスだよ! だがそれでもいい、真那たんのID教えろ!」
「本人にきけ」
べつに俺は、羽賀が断じて真那の相手としてふさわしい男ではない、とまでいうつもりはない。こいつが悪いやつじゃないということはわかっている。それでもやはり、安心して真那を預けられるという確証はないし、自信を持って真那に奨められる彼氏候補でもない。本人たちが自由意思で交際するのを邪魔する気はないが、仲介の労をとろうとまでは思えないのだ。
「なあ深水……」
「おらいくぞ、朝練に遅れる」
なおもいいつのる羽賀に無視をくれて、俺は学校への道を急いだ。人生は長いが青春は短い、少年老いやすくして学なりがたし――そんな格言があるではないか。
短いが過酷な朝練を終え、青春の汗をクラブ棟のボロシャワー室で流してから、俺は校舎へつながる渡り廊下を歩いているところだった――
「……さん、あなた、いつもコンビニおでんの臭いがするのよね」
底意地の悪そうな女子の声が聞こえてきて、俺は立ち止まった。
「ギャハハ、カツオ風味の本だしってか」
続いて聞こえてきたのはまったく品のない笑い声だが、それでも女子だった。嫌な予感に渡り廊下から首を伸ばすと、特別教室棟の外壁のわきに人だかりができていた。人垣に囲まれ、壁際に追い込まれているのは……よく見えないが、いや、あれは真那だ!
制服にだしの匂いがついてしまっているのだろうか。それにしたって、失礼な! 真那のだしはカツオ風味ではなく、本物だ! そんな区別もつかないとは女のくせになんと情けない……って、いまはそういう場合じゃなかった。
「待てぇッ!」
上履きで渡り廊下から出るのは厳禁だが、このさいそれどころではない。俺は手すりを飛び越えてバカ女どもへ声を浴びせた。
バカ女どもは一斉に、まさにバカ面を並べて俺のほうを見る。どうやら俺が真那の兄だとは気づいていないようだ。「だれこの男子」「しらね」などとほざいている。
真那は真那で俺のほうを直視せずに顔をそらしていた。……なんだよその態度は?
だがここまできて引っ込みがつくわけはない。俺はカバンの中をごそごそしながら女どものまえまで進む。
「どうせおにぎりひとつまともにつくれもしないくせに、よくもうちの料理上手の妹にケチをつけてくれるな。こいつを食ってみろ! どうせ舌もバカだろうからおまえにゃもったいないが。朝からこんなちゃんとしたものをつくってれば、そりゃだしの匂いがちょっとはついても仕方ないってもんだ」
カバンから弁当箱を取り出し、だし巻き玉子をひとつつまんで、リーダー格とおぼしき、見るからに性格の悪そうな女子の鼻先に突きつけてやる。
「いきなりなんなの? ……えー、つまり、あなた深水さんの兄ってこと?」
「どこまでバカなんだおい。把握できたのはそれだけか」
なんで真那が朝早くから料理をしてるってことは理解できんのだ? 俺がつめよると性格が悪そうな女は半歩後退したが、周囲からひそひそ声が聞こえてきた。
「アニキだって」
「うわー、ヤバいよこれシスコンってやつだわ」
「ただのシスコンじゃないよドシスコンだよ」
「刺激するといきなりナイフとか出したりするんじゃねこいつ」
……ご要望にお応えして全員切り刻んでやりたい。陰湿ないじめをしている自分らを棚に上げて、なんだこの言い種は。
苛立つ心を抑え、俺はナイフの代わりに――というかナイフなんか持ってないけど――箸でつまんだだし巻き玉子をバカ女どものリーダーの眼前に据え続けるのみでとどめた。こいつがなにかいおうとしたら口に突っ込んでやる。
だが、口を開いたのは真那だった。
「……まって、それはお兄ちゃんに食べてもらうためにつくったんだよ」
「こいつなんぞに食わせるにゃもったいないのはわかってる」
「あら、これをつくったのは深水さんなの」
俺が真那のほうを見た一瞬の隙に、バカリーダーがそんなことをほざきおった。……いまさらか! 最初に俺が説明しただろうが。しかも不意をつかれたせいで口にだし巻き玉子を突っ込み損なった、くそ。
「そうだよ。お兄ちゃんが食べるものは、三食わたしがつくってるの」
そういう真那の口ぶりは誇らしげだった。そうだそうだ、おまえらも真那の爪の垢を煎じて飲むがいい!
……と、バカリーダーがうなずいた。なんだ、話はわかったとでもいうつもりか?
「そういうことだったの。学校に行くまえにつくってるから、毎日その匂いが制服についてしまうのね。朝ご飯とお弁当をつくるのは立派なことだけど、あとすこしだけ早起きして、料理するときは制服でやらないほうがいいわよ」
唐突に物わかりがよくなったバカリーダーは、きびすを返して向こうへ行ってしまった。取り巻きどもが、毒気を抜かれてそのあとを追う。
素直に負けを認めればいいものを、ひと言多い女だ。とはいえ、もっともではある。毎朝毎朝、制服を着て料理をしていたら、匂いがついてしまってもおかしくない。
俺は真那が不憫で、そんな妹に負担をかけていた自分が情けなくなった。
「真那、おまえに甘えてた俺が悪いんだ。無理しなくていいんだぞ。着替える時間が惜しいくらいギリギリなら、弁当はいらない。朝は夕べの残り物でいいし」
ところが、真那は目を伏せた。
「……お兄ちゃん、わたしのつくったもの、食べたくないの?」
「なにいってるんだよ。真那の料理は世界一さ。でも、だしの匂いが染み着いちゃって、おまえがこんな風にいじめられるくらいなら、つくってもらわなくてもいいんだ」
「いいの。妖怪生臭女とか、妖女猫なめられとか、そんなこといわれたって、わたしはちゃんとお兄ちゃんのご飯つくるの」
「おまえ、そんなひどいこといわれてるのか……!?」
さっきの連中をやっぱりボコボコにしておくんだった、と後悔したが、よく考えたら妹がそんなむごい仇名をつけられていることに気づいていなかった俺のほうが万死に値する。
真那の味噌汁で清々しい朝を迎え、弁当を持たせてもらって意気揚々としていた自分のなんと愚かなことだろうか。真那はその代償にこんな目に遭っていたというのに。
――いつの間にやら、ブチ模様の猫が一匹、真那のうしろに忍び寄ってきていた。気になる匂いがするのか、鼻をひくひくさせながら、真那の右足へ口を近づけようとする。
「このッ、あっちいけ!」
俺はやり場のない怒りに駆られ、ブチ猫を威嚇して追い払った。ブチは怒り肩と膨らませたしっぽで不満を表しながら、遠ざかっていく。
「猫に当たらなくてもいいじゃない」
「よくないよ。あんなクソ猫のせいで、おまえはひどい仇名をつけられて……」
もう、明日からは朝食も弁当もいらない、といおうとしたのだが、チャイムが聞こえてきてしまった。予鈴だ。あと五分あるが、真那の学年の教室は俺の学年の教室よりここから遠い。
「あ、たいへん! じゃあ、お兄ちゃんも遅刻しないようにね」
といって、真那は行ってしまった。追いかけていって連絡通路までは歩きながら話を続けたいところなのだが、真那は校庭を突っ切るコースだ。上履きの俺はついていくことができない。というか、ここにいる時点で厳密にはアウトだ。
仕方なく渡り廊下に戻ったが、そこでいきなり声をかけられた。
「深水」
「……あ、おはようございます」
生徒指導の釣野先生だった。まずい、上履きで渡り廊下から出ていたところを見られたな。罰は渡り廊下のモップ掃除だろうか、と覚悟したが、先生の話はまったくちがった。
「いやはや、深水にはもったいない、よくできた妹さんだな」
「先生、いまの話聞いてたんですか?」
俺は反射的に非難めいた口調になっていた。聞こえていたなら、なんであのバカ女どもを止めてくれなかったんだ。
「最初からじゃない。あの五人に釘は刺しとくが。なにをいわれてたんだ、妹さんは」
現行犯では押さえ損なったというなら、仕方ない。俺はできるだけ正確にバカ女どもの悪行を伝えた。
「……なるほど。だからたとえ『妖女猫なめられ』といわれようが兄貴の朝食と弁当はつくるといっていたわけか。ここまで家庭的で献身的な女の子というのは、きょうび貴重な存在だな」
「そこからは聞いてたわけですか。ずいぶん長い立ち聞きでしたね」
シュミ悪いんじゃないのかこのオッサン……? 俺はそう疑いながら嫌みをいわざるをえなかった。
ところが、どうにも今日は会話のかみ合わない日であるらしく、釣野先生まですっかりズレたことをいってくる。
「妹さんの料理だが、けっきょく浅井には食べさせなかったわけだな。ほかに、だれかに食べさせるような機会はなかったか?」
浅井というのが、どうやらバカリーダー女の名のようだ。わけのわからない質問だったが、いちおう答える。
「そんなもったいないことはしませんよ。羽賀なんかは、しょっちゅう真那の料理を食わせろといってきますし、昼休みには箸を伸ばしてきますけど、ひっぱたいてます」
「ふむ。……おっと、いかんいかん、時間だ。一限目はおれの授業だったな。ついでにプリントを運んでくれ、深水」
「了解。……んで、なんでそんな話をするんです?」
どうやらプリントを運べば遅刻は免除されるようなので、おとなしくついていきながら俺は訊ねた。この教師、なにか知ってるような気がする。
「妹さんの料理の味は深水だけの秘密ということだろう? それなら胸を張って『うまい』といいながら食べてやれよ。本人がどうしてもつくるといっているなら、無理矢理やめさせることはないさ」
そんなことはいわれるまでもない。それにしても、今日はつくづく会話がズレる日だ。たしかに真那の料理の味はいまのところ俺しか知らないが、しかしだれが食ってもうまいと絶賛するに決まってる。あのバカ女どもにでも、羽賀にでも、食わせてやって、ぐぅの音も出ないようにしてやろうとか、そういう発想にはならないのか。いいや、帰ったらちょっと真那に、料理を披露する機会を持つ気はないか話してみよう。
……手はじめに羽賀に念願の真那の弁当をちょっと味見させてやろうと思ったら、あいつ今日に限って、朝準備できなかったから昼飯は購買ですますとかいって並びにいきやがった。戻ってくるまで二十分以上待たされているわけにもいかないので、さっさと先に食ってしまう。
羽賀以外のやつはといえば、唐揚げ弁当以外食わないとか、ナポリタンとミートボール弁当なんて子供舌なのとか、挙句の果てにはカップ麺とかで、やれやれ、どいつもこいつも貧しい食生活だ。真那の和食弁当に興味をしめすやつはいない。そういう意味では、まだ羽賀は見る目があるほうなのかもしれないな。
部活を終えて帰るころにはすっかり暗くなっていた。しかし、わが家の窓に明かりがついていない。玄関に学校指定の革靴があったので、真那は一度帰ってきてはいるようだ。居間に書き置きがあった。
「クラスメイトの成田さんの誕生日会にいってきます。ちょっと遅くなるけど心配しないでだいじょうぶ。ばんご飯はつくってあるから食べてください」
どうやら誕生日パーティに招待してくれる友達はいるようだ。ちょっと安心した。台所をのぞいてみたら、肉じゃがの入った鍋がある。手抜きの早業でつくるものが肉じゃがなんだから、まったくすごい。米を炊いて、温めた肉じゃがで晩飯にする。テレビをつけたらニュースの時間だった。景気のよくなさそうな、トーンの低い声でアナウンサーが原稿を読んでいた。
「……今回のものわかれで、政府とデプス側との交渉は事実上暗礁に乗りあげました。引き続き交渉の窓口を設けることでは双方の合意がえられましたが、停戦期限はあと一ヶ月後に迫っており、緊張が高まっています」
デプスというのは、近年台頭してきた謎の集団だ。俺が物心つくかつかないかのころ、十二、三年くらいまえに、突如として世界中の沿海地域に現われた。その当時は最終戦争がはじまるかと思われるほどの大騒動になったそうだ。いきなり海辺に住んでいた人々が、国も民族も区別なく超地域的な統一行動をとりはじめたのだから、混乱を極めたのも無理はない。宇宙人による洗脳だとか、ユダヤの陰謀だとか、いろいろと憶測が語られ、現在でもはっきりとした原因はわかっていない。
有力な説としては、発生したのが海辺であるということから、海洋起源の寄生生物ではないか、というものだ。人間に取り憑き、その思考と行動を改変する――こういってしまうと、宇宙人による洗脳と大して変わらないんじゃないかと思うのだが。
交渉の席にやってくるデプス側の代表者はどこからどう見ても人間で、自分たちが人外の存在であるなどという主張はしていなかった。彼らは独立した自分たちの主権を認めるようにと要求している。その要求が通るならば、世界中の海に面した地域のうち人間が住めるような場所はおおよそすべてデプスのものになるわけで、もちろん既存の国家権力からすれば、呑みがたい条件だろう。
……つらつらとここまでの流れを並べてみると、海と遮断され内陸に閉じ込められた人類は絶体絶命、デプスは交渉とは名ばかりの脅迫を強いてきている、といった感じだが、実際のところデプスはそんなに凶暴で敵対的というわけではないようだ。初期の混乱も、新手の国家転覆運動、反体制勢力の伸張だと誤認した各国政府が性急に鎮圧しようとしたためで、デプス側は軍や警察による物理的攻撃には抵抗したが、積極的に反撃することはなかった。とはいえ停戦が成立したのは、けっきょくのところ、全世界的に統一行動のとれるデプスはいつでもシーレーンを封鎖できるからで、圧力がなかったといえば嘘になるだろう。中にはさっさとデプス側の主張を認めて和解してしまった国もあるのだ。
そうした少数の国が仲介に入って、デプスと大多数の国々との交渉が進められているわけだが、デプスは世界中で統一されているが国家はたくさんある。そして島国で海洋国である、わが日本国政府はそう簡単にデプスの要求を認められはしないというわけだった。
じつをいえば、デプスはうちの一家とも多少の関わりがある。真那が生まれるまえのことだが、俺が二、三歳になるくらいまで、ようするにデプスが発生するまでうちの一家は海沿いに住んでいたらしい。俺自身の記憶はあんまないが。デプス騒動で内陸部に引っ越すことになって、去年の春までは家族そろって暮らしていた。両親の行方不明を知らされた日のことはよく憶えている。最後に目撃されたのは、デプス地域を隔離する封鎖線の近くだったそうだ。故郷の様子を見に行こうとでもしていたのだろうか。
現在、両親は〈特定行方不明者〉のリストに入っていて、俺たち兄妹がいまこうして生活できているのは政府からの補助のおかげだ。
〈特定行方不明者〉とは、デプスによって誘拐された、あるいは殺害された疑いが濃い人々のことで、デプスが人類の敵であることをしめす無言の象徴とされている。俺はデプスなんてテレビでしか見たことないし、これまでの経緯を見る限り、デプス側に本気の悪意があればとっくに「旧人類」は絶滅しているはずで、両親の仇だといわれても首をかしげるのが実際のところだったが、被害者家族ってことになっているからこその真那との兄妹水入らずの暮らしなので、天に唾する気はない。
……気づいたら時計が九時をすぎていた。さすがにちょっと遅い。真那のI・Dに要リプタグでコメを入れておこうかなと思ったところで、本人が帰ってきた。
「ただいまー」
「おう、おかえり。肉じゃがうまかったよ。だけどべつに、今日くらい晩飯の準備しなくてもよかったのに。コンビニでもなんでも、てきとうにすませられる」
俺は、たまには休んでもいいんだよといいたかったのだが、真那はきつく叱られたかのように目を見開いてこっちを見た。
「……わたしの料理、もう飽きちゃった? バリエーション足りないかな。コンビニ弁当のほうがよかったりする?」
「ちがうって。真那はがんばりすぎだよ。そんなに無理しなくていいんだ」
「無理じゃないよ。こうしてるほうが楽なの。ひょっとして、お兄ちゃんのほうが無理してるんじゃない? もし気に入らないなら残したっていいよ、全部食べなくたって」
「そうじゃないって」
「なら、どうしてわたしが三食ご飯つくっちゃいけないみたいなこというの?」
おかしい。妹をいたわっているはずなのだが、なんだか理不尽に責め立てているような気になってきた。そんなつもりじゃないんだが。
「わかったよ、真那のやりたいようにすればいい。なんなら、俺のぶんだけといわず、もっとつくったっていいんだ。羽賀なんか、おまえの弁当を食べてみたいっていってるんだぜ」
「……わたしは、お兄ちゃんに食べてもらうためにつくってるの。ほかの人に食べてもらう用じゃない」
「そうなのか。みんな、真那の料理の腕前を知ったら、だしの匂いがするだなんてバカにするようなことは絶対いわなくなるにちがいないんだけどな」
「いいの、わたしの料理はお兄ちゃん専用で」
真那の意思は固いようだ。うれしいような気のする半面、もったいないな、と思わざるをえない。
「まあ、明日も平日だし、もう寝る準備するか」
「そうだね。成田さんのおうちでお腹いっぱいごちそうになったから、わたしもうちょっと食休みしたいな。お兄ちゃん先にお風呂入っちゃって」
真那のお言葉に甘え、先に風呂を使わせてもらった。風呂から出たら十時になるところだった。真那に「上がったよ」と声をかけ、自室に戻る。自分で思っていたより部活でハッスルしていたのか、すぐに眠りに落ちてしまった。
――目が醒めたときには、すでにいつもの朝の匂いにつつまれていた。……普段より早起きしたつもりだったのだが。時計を見てみると、やっぱりまだ六時になっていない。もしかして、真那は毎朝こんなに早起きしているんだろうか。それなら、真那の手際から考えたら着替えの時間なんて惜しむ必要はないはずだ。
だとしたら、真那はわざと制服で料理して、だしの匂いをつけてる? ……なんのためにそんなことを?
なにごともなく一週間ほどすぎたところで、思いがけない事件が起きた。
羽賀のやつが病欠したのだ。いままで一度も学校を休んだことのないあいつが。まさに風邪もひかぬナントカである羽賀が、である。どうしたことだろうか。
とくに前日まで変わった様子もなく、強いてあげるなら、昼休みにとうとう真那の弁当をちょっとわけてやったくらいだった。「こんなうまい弁当食ったことない」という、当然の感想だったが、まさか、真那の弁当がうますぎてショックを起こしたわけではあるまい。
なんだかんだで一番の親友である羽賀がいないことで、部活にもイマイチ身が入らず、俺は普段よりちょっと早めに帰宅した。
真那は夕飯の仕度をはじめているようだった。相も変わらず、和風のたまらない匂いがただよってくる。俺は宿題をやることにした。真那が声をかけてきたらすぐ手伝えるように、居間で勉強に取りかかる。
方程式を解けども解けどもXの値が整数じゃないようなので、面倒くさいことこの上ないなと思ってきたところで……
なんか、妙に空気がこわばっているような――そう感じた瞬間に、けたたましい物音とともに激しい閃光がほとばしった。窓をぶち破って、音と光を炸裂させる物体が投げ込まれてきたのだ。一瞬の間を置いて、さらに窓から人の気配が入ってくる。
「な、なんなんだ!?」
理由はないが、なぜだか野性的な勘が冴えていたおかげで、閃光が炸裂したときには目を閉じることができていた。耳は塞げなかったので、頭の中でジェット機がかっ飛んでいる感じだったが、つぶされずにすんだ目を開ける。
押し入ってきたのは三人のようだった。煙幕のせいでぼやけているが、腰だめに構えているのがギターではないなら、銃でしかありえない。ゲームや映画の中でしか見たことがない、特殊部隊風の装備をしているようだ。俺が状況を把握していることに気づいておどろいたらしいが、三人のうちのひとりがこういった。
「標的はきみではない。身を伏せてじっとしていなさい」
……って、俺じゃないなら、この家には真那しかいない。こいつらの装備がはったりでないなら、住所をまちがえて突入してくるほど間抜けではないはずだった。それなら狙いは真那ということになる。冗談じゃない!
「動くなッ!」
もちろん警告を無視して、俺は台所につながる引き戸を開けた。窓から離れて座卓の台所側に座っててよかった。三人組は俺を取り押さえようと動いたが、こっちだって武道をちょびっとはかじっている。座卓を蹴り起こして盾にし、居間から台所へ後退することに成功した。
「真那、逃げろ!」
いうまでもなく、真那も轟音には気づいていて、こっちのほうを見ていた。だが、その姿は俺が知っている妹ではなかった。服装こそ、三角巾をして前掛けをしているいつもの恰好だったが、前掛けの下は当然いまは制服ではなく、Tシャツとスカートで、普段着としてはちょっとミニなスカートの布地の切れ目、ふとももが大きく抉れていた。白い骨が見えるほどに。しかし血は出ておらず、泡立つように肉がみるみる盛り上がってきていた。
真那は、自分の一部を料理してた……?
黒いはずの真那の眼が、海のような深い青色に光っている。その眼を俺に向け、こういった。
「……見られちゃったね」
俺の頭の中からジェット機の轟音はすっかり消え失せ、完全に真空化していたが、続いて台所になだれ込んできた特殊部隊の連中が銃口を真那へ向けるのを見て、身体は反射的に動いていた。
「やはり淵人か。ッ撃!」
「やめろぉ!」
++++++
……最初に見えたのは一面の乳白色だった。たしか、俺は撃たれたよな? あの世が実在するとは思わなかったが、死んでも意識は消えないんだろうか。
「目が醒めたか。まったく、無茶をするやつだな」
聞き憶えがある声だった。首を動かしてみると、釣野先生が椅子に座ってこっちを見ていた。俺はベッドの上に寝ている。最初見えていたのは天井で、ここは病院だったようだ。つまりまだあの世じゃない。
「――真那は!?」
俺はベッドから跳ね起きて駆け出した……つもりだったが、両手で掛け布を撥ねのけたところで釣野先生に止められた。そもそも、起き上がれそうになかった。身体がぜんぜんいうことを聞かない。
「妹さんは無事だ。あわてなくていい。いくら人間には致死性がないといっても、銃弾は銃弾だからな。無理するな、まだ寝てなさい」
「真那は無事なんですね……会わせてください」
「そのまえに若干、聞いておいてもらわなければならないことがある」
「なんなんですか。早くすませてください」
正直、真那さえ無事ならあとはどうでもよかったので、先生がこんなことをいいだしてもべつにおどろきはしなかった。
「私は表向き教師をやっているが、じつは政府の特務調査官なんだ」
「へえ、そうだったんですか」
俺の気のない返事をどう思ったやら、それでも、先生は本題とおぼしき件を切り出した。
「きみのご両親のことについて、すこし話しておきたい」
「なんですか、じつは俺の本当の親ではなかったとか、そんなとこですか」
「きみのご両親は人間ではなかったんだ。淵人だ」
「なるほどね」
「おどろかないのか?」
「目のまえで妹を撃ち殺されかかった体験に比べれば、おどろくべきことなんてないに等しいんじゃないでしょうか」
俺がそういってやると、先生は左手で頭をかいた。
「……たしかにそうだな」
「で、俺も人間じゃないってことでいいんですか?」
「いやちがう。きみは正真正銘の人間だ。あの弾丸を食らっても死ななかったのがその証拠だ。対淵人専任戦術隊の装備は、淵人に対してだけ致命的な効果を発揮する、特殊なものなんだ」
「アデット……?」
「きみたちを襲った特殊部隊の名称だ。アンチ・デプス・エキスパート・タクティカルズ。対淵人強硬派が推している組織でね。今回は彼らの暴発を止めることができなかった。私たち穏健派としては、痛恨のミスだよ。犠牲が出なかったのは奇跡だ。きみの勇気ある行動のおかげさ」
謎の単語に気を取られて一瞬横道にそれたが、ようやく、俺は話がなんか妙なことに気づいた。俺の両親は人間ではなく淵人で、俺の記憶がたしかなら、どうやら真那も淵人らしい。それなら、アデットとやらの、特製対淵人弾丸を食らって死ななかった俺は、先生がたしかに正真正銘の人間だと保証した俺は、なんなのだ?
俺が目を白黒させはじめたことを察したようで、先生は順を追って説明をはじめてくれた。
「きみの本当のご両親は、淵人騒動のごく初期に、不幸な行きちがいで犠牲になられた。しかし、まだごく幼かったきみは淵人の夫婦に保護され、その上、淵人としてではなく、人間として大切に育てられることになった。淵人は邪悪な存在なのだという主張を揺るがせるには、充分な事件だった。……じつは、きみときみの一家のことを、われわれはずっと監視していたんだ。強硬派は、淵人が人類の敵であるという証拠をつかむために、穏健派は、淵人は人類の友になれるという証拠を得るために、ね」
「つまり、俺の両親は、俺のために淵人の社会を離れて、人間の中で生活していたというんですか?」
「そういうことになる。実子である、真那くんも連れて、人間社会に入り込んでいた。……ただ、これも強硬派にいわせれば、スパイ活動であって、浸透戦術だというんだ。そして、羽賀がデプス症を発したことで、強硬派は性急な結論に達し、ADETに出動指令を下した」
「それって、真那の料理のことですか……?」
羽賀に真那の弁当をわけてやったことを思い出して俺が訊ねると、先生はうなずいた。
「ああ。淵人は、普通の人間を自分たちの仲間に作り替える能力を持っている。きみは幼いころから淵人であるご両親に育てられていたから、かなり耐性がついているが、並の人間はわずかな因子を摂取するだけで淵人に変わってしまうんだ。きみを淵人にしてしまわないよう、ご両親はかなり気を遣っていたのだと推測できるな」
「じゃあ、羽賀は……」
「デプス症は治療法がかなり研究されてきている。きみの弁当をちょっと横から食った程度なら、大丈夫だ」
「俺が勝手にやったんです。真那のせいじゃない」
「わかっている。急進派もそれは承知で、われわれが真那くんの潔白を立証するまえにかたをつけてしまおうとして暴発したんだ。今後はより監視が強化されるから心配ない。……多少、きみらにとっては周囲の目がうるさく感じられるようになると思うがね。すくなくとも真那くんは、きみを仲間にしてしまおうとは本気で考えていたのだから」
真那が毎日欠かさず三度の食事をつくってくれていた理由は、どうやら俺を淵人に変えてしまうためだったらしい。ところが俺は育ての親、真那からすれば実の親である父母によって、淵人に変わりにくい体質に育てられていた。真那は両親の施した対淵人の抵抗を突破できなかったということになるのだろうか。
いずれにしても、俺にとって真那はたったひとりの大切な妹だ。それは変わらない。
「話は終わりですか、先生?」
「そうだな……ああ、もうひとつだけあった。きみと真那くんのご両親の行方については、われわれにもわかっていないんだ。強硬派も、手にかけてはいないといっている。できれば信じたい。もしかすると、きみたちのご両親は、淵人の中でも主流派ではない可能性があるんだ。真那くんも、淵人の特性で世界中の同族の大まかな考えや行動の指針を感じ取ることはできるが、ご両親の行方は知らないし、日本の周辺地域に住んでいる淵人の集団と直接連絡はしていないと証言した。われわれも、彼女は嘘はついていないと考えている。……もし、真那くんの口からなにか重要そうな話が出たら、彼女の承諾をえた上で構わないので、私に知らせてもらいたい」
「そのいい回し、悪くないですよ先生。俺はスパイをやる気はありませんからね。真那の幸せに関わることだから、人類と淵人の架け橋になれるものならなりたいですけど」
ちょっと生意気だったろうか。しかし先生は口許に軽く笑みを浮かべただけで、椅子から立ちあがった。
「さて、私はこれで失礼するよ」
「釣野先生、ありがとうございました。あなたが味方でよかった」
「ふふ、私はあくまで人類の、そして日本国の側に立つ者だよ。それは忘れないようにな」
警告なのかなんなのか、釣野先生は含みありげな科白を残して、病室から出て行った。先生と立ち替わりに、真那が入ってくる。早足で、俺のベッドのかたわらまでやってきた。
「お兄ちゃん、具合はどう? だいじょうぶ?」
「真那こそ、平気なのか?」
「お兄ちゃんが守ってくれたから。もし、アデットの弾が一発でもかすめてたら、わたし、絶対に助からなかったんだって。……ありがとう、お兄ちゃん」
そういって、真那は両手で俺の右手を取った。いくら純正の人間じゃないといっても、どこからどう見ても女子中学生でしかない真那へ、そんな物騒な弾丸を躊躇なく撃ち込めるなんて、アデットとかいう連中の頭はどうなっているんだろうか。もしあいつらが持っていたのが対淵人用の弾丸ではない普通の銃弾だったとしても、命令であれば本物の人間の女子中学生相手でも遠慮なく撃てる、そういうやつらなのだろうな。
……ふと、家にいるときと同じような、だしの匂いがいつの間にやらあたりを漂っていることに、俺は気づいた。俺が鼻を動かしたのを目で追って、真那はちょっとはずかしそうにする。
「淵人は、大人の身体になるとき、ちょっと魚みたいな臭いがするようになるの。完全に成長すれば、自分の臭いをコントロールできるようになるんだけどね」
つまり、真那が制服を着た状態で料理をしていたのはやっぱりわざとだったのだ。料理の匂いが染み着いているということにして、体臭をごまかしていたのか。
「おまえが料理をがんばってた理由、先生に聞いたよ。……いや、怒ってはいないさ」
「わたし……お兄ちゃんと、ほんとうの眷属になりたかったの。でも、もし眷属になってたら、お兄ちゃんはあの弾で……そう考えると、わたしの手際が悪くてよかった」
と、真那。俺は釣野先生から、そのほかにも話はすべて聞いたと真那へ伝えた。
「……そっか、もう、お兄ちゃんとは兄妹じゃないんだね」
そう、さみしそうにつぶやいてから、真那はいたずらっぽく笑って俺のほうを見る。
「でも、それなら、お兄ちゃんのお嫁さんになれるかな……?」
――生まれてはじめて、妹のことがちょっと怖くなった。