21.私達が幸せになるための選択
その日、私は一日中上の空で食事も喉を通らなかった。
約束の時間は孤児院の子供達が寝静まったあと、お兄ちゃんとの思い出の沢山詰まった教会だった。護衛をつけて、お忍びで来てくれるらしい。会えるのは私、ただ一人。たぶん私がお兄ちゃんを説得してそのまま侯爵領へ向かうのだろう。
神父様の執務室を借りてライゼガング侯爵様からプレゼントされた深緑のワンピースに着替え、お兄ちゃんからプレゼントされたエメラルドグリーンのリボンを髪に結ぶ。
お兄ちゃんの誕生日プレゼントのハンカチは、ワンピースが送られてきたときに包まれていた綺麗な包装紙とリボンで包んだ。みんなの力を借りて、なんとか準備できたが、今自分ができる精一杯が刺繍することだけなんて少し情けなかった。
少し早いかなと思ったがはやる気持ちを抑えられず教会の扉を開ける。当たり前だが中はしんと静まり返っている。神父様が気を利かせてくれたのだろうか?正面の祭壇には蝋燭が灯されており、月明かりをあてにしなくて助かった。木製のベンチに座り、膝の上に大事なプレゼントを置く。
落ち着かなければいけないのに、妙にそわそわしてしまう。こんなに居心地の悪い場所だっただろうか?
「緊張してる?」
いきなり背後から声をかけられて飛び上がるほど驚いた。
「エルマー!」
振り返ると、エルマーがいつもの穏やかな笑顔で背凭れに頬杖をついていた。私がぷくりと頬を膨らませると軽々とベンチを乗り越えて隣に座ってくる。
「もう!いつも突然なんだから!エルマーといると心臓がいくつあっても足りない!」
「ハハハ。ごめん、ごめん。でも緊張は取れたみたいだね」
ふと胸に手をあてると、さっきまでばくばくと動いていた胸が落ち着いている。
「確かに……」
「本当は出てくるつもりはなかったんだけどねえ」
エルマーは私にちらりと視線を寄越すと、膝に乗せている私の手に手を重ねてくる。もちろん感触はない。
「あまりにも真っ青な顔してたから心配になってさ」
エルマーと重ねている手とは反対の手で頬に触れる。そんなに酷い顔してたのか。気づかなかった。エルマーは絶妙なタイミングで現れて私を慰めてくれるから本当に敵わない。
「エルマー……」
「なんだい?」
「私うまくやれるかな?お兄ちゃんを説得できるかな?置いてかないでって泣かないでいれるかな?」
「そうだねー」
エルマーが背伸びして立ち上がり、私に向き直り鼻先をちょんとつつく真似をする。
「うまくなんて、やらなくていいよ。君の思うままに言葉にして行動するんだ。そう約束しただろう?大丈夫、僕は君にどこまでもついていくから一人になんてしない」
エルマーが安心させるように微笑む。
「うん、約束よ……」
わたしが小指を差し出す。エルマーがクスッと笑って小指を絡める真似をする。
「ゆびきりだっけ?」
「そう」
「針千本飲まされるのは怖いから、約束は守るよ」
私達は永遠に絡まることのない小指で約束する。
「……ああ、時間だね」
エルマーが教会の扉にふと視線を向けると、扉が重い音をたてると共に祭壇に向かって一筋の月明かりが入ってくる。
エルマーは入ってくる人物を確認する前にすっと目の前から消える。
私はプレゼントを木製のベンチにそっと置いて立ち上がり、扉へと体を向ける。
入ってくると同時に黒い影が勢いよく駆け寄ってきて強く抱きすくめられ、つま先が宙に浮く。
私も背中に手をまわす。ああ、お兄ちゃんだ。
「ウルリーカ!」
「お兄ちゃん!」
お兄ちゃんは私の肩に顔を埋めて体を震わせていた。少し痩せたのか、こんなに頼りなさげなお兄ちゃんは初めてで、震えが落ち着くまで声をかけることができず背中をぎこちなく撫でてあげることしかできなかった。
どのくらい時間がたったのだろうか、私をそっと床に下ろすと背を屈めて、両手で私の頬を包み込む。正面からじっと見つめられる。顔は青白くて目には隈ができていた。
「ああ、ウルだ。元気そうで良かった。怪我は?痛いところはない?」
お兄ちゃんのほうが痛々しいのに、いつも通りに私の心配ばかりしてくれる。
「もう2ヶ月たったんだよ?傷なんて残ってないよ」
私がにっこり笑うと、安堵したように頬を緩めてくれる。
扉の方へ少し視線を向けながら、私の耳元へ口を寄せる。
「ウル、逃げよう……」
「お兄ちゃん……、逃げるって何から?」
「大丈夫だから、ウルは心配しないで。僕が守るから」
「わっ!守るって誰から? まっ、待ってよ!」
私の左手を強く掴み、教会の裏口へ向かおうとする。目を光らせ、決死の表情をし私の意見など聞く気がないようだ。
つまづきながらお兄ちゃんに引っ張られていく。
無理だよ。教会のまわりは、逃げないように魔術師達が待機していて何かあれば捕縛されるようになってるからと侯爵様に言われていた。十分に気をつけるようにと念を押されていたのだ。お兄ちゃんは気持ちが高ぶっているのか、少し考えればわかるのに冷静さを欠いていた。
そうさせているのは、きっと私のせいだ。
『僕がウルから離れることはないし、ウルが僕を不幸にすることなんて絶対にない』
『願い事も必ず叶えてあげるから。大丈夫、二人なら何も怖いことはないよ。ウルを泣かせる怖い夢を僕がやっつけてあげる』
私との約束を違えないように必死なんだ。でも、このままじゃお兄ちゃんが捕まっちゃう!取り返しがつかなくなる!
「私は行かない!!」
お兄ちゃんの手を思いっきり振り払う。振り払われた手を凝視して酷く傷ついた顔を私に向けてお兄ちゃんが立ち止まる。いつものワガママだと思ったのか時間がないというように無理矢理、私を抱えて連れていこうと伸びてくる手を避けて後ろに後ずさると、表情を消して眼差しが限りなく冷たくなる。
「ウル。良い子だから言うことを聞いて」
「逃げられないよ。逃げちゃだめだよ。捕まったらお兄ちゃんは永遠に幽閉されるんだよ。知ってるでしょう?教会のまわりには沢山の人が私達を見張ってる」
「……二人なら逃げきれる。俺ならできる」
「やだ。絶対に行かない……、だって逃げる必要なんてないもん!」
「ウルリーカ!来るんだ!!」
強く名前を呼ばれ、砦の時のようにお兄ちゃんの瞳の瞳孔が開き目の色が変わる。波が打つように空気が震え、蝋燭の炎が一斉に消える。
また、あの力を使おうとしてる。今度は私を無理矢理従えようとしている。
侯爵様に対処方法は聞いていた。精神作用系統の魔法は不意打ちに強いのが特徴、要はかけられるとわかればある程度対処は可能だという。意思を強く持つこと。なにものにも屈しない精神を保つこと。そして絶対に相手優位にしてはいけない。危険な魔法ではあるが、相当な使い手でなければ案外脆いのだと教えてもらった。
アシルの魔力は不安定だから、何故だかわからないが侯爵様から君なら大丈夫だと言われていた。
私はお兄ちゃんから視線をそらさず怒りを込めて睨みつける。本能的にそらしてはだめだと感じる。これが魔力というものか、実際傷つけられてなんていないのに全身の皮膚がビリビリと痛む。
悲しいよね。全て私のためを思ってのことなのに、私がそれを否定するんだもんね。でも私だって曲げられない!負けられない!
「アシル! 私も廃人にするの!? 私の怖い夢をやっつけてくれると約束したあなたがそれをするの!!」
霞みそうになる意識と体への圧迫感を振り払うように大きな声で叫ぶ。
お兄ちゃんの良心へ訴えかけるように、喉を振り絞って叫ぶと、目の前で膨らみすぎた風船のように巨大な魔力が弾けるのを感じた。
お兄ちゃんが目を大きく見開き、二人で数分間見つめ合う。先にお兄ちゃんの視線が揺らいだと同時に両手で顔を覆い項垂れるようにがっくりと膝をつく。
空気の揺らぎがだんだんと落ち着いてくるのを確認してから、ほっと胸を撫で下ろして気を緩める。
蝋燭の消えた教会は薄暗くてこの世に二人だけしかいなくなったようでとても不気味だった。
「俺とウルは一緒にいないと不幸になるんじゃないの?俺は……、ただウルと離れたくないんだ。それだけなんだ。ウルは違うの?」
私はお兄ちゃんの前にしゃがみこんで顔を覗きこむ。
「離れたくないよ。ずっと一緒にいたい」
「だったら!」
いつもの碧眼に戻ったお兄ちゃんが顔を上げる。悲痛な切迫した声だった。
「無理だよ。だって、私達は子供だもん」
「俺がなんとかする!」
私を説得しようと必死に言い募ってくる。きっといつもの私なら素直に頷いてしまうところだけども。でもそれは現実的じゃないことは私にでもわかる。ここは気持ちだけで、なんとかできる世界じゃない。
私は首を振ってベンチの上に置いておいた誕生日プレゼント持ってきてお兄ちゃんの手の上に置く。
「お兄ちゃん、14歳のお誕生日おめでとう」
「な……、に……」
「お兄ちゃんのお父さんに会ったよ。今日がお兄ちゃんの14歳のお誕生日なんだって。お兄ちゃんは捨てられたんじゃなくて誘拐されたの、生まれた日に。お父さんはお兄ちゃんのことを想わない日は14年間一度もなかったんだって」
お兄ちゃんの顔が青ざめていき強ばっていく。
「今、さら……」
私は立ち上がり、くるりと回りワンピースを自慢するようにお兄ちゃんに見せる。私の突然の行動にお兄ちゃんはすこし戸惑っている。
「この可愛いワンピースと靴下と靴はお兄ちゃんのお父さんからのプレゼント!リボンはお兄ちゃん!」
次はお兄ちゃんの持っているプレゼントを取り上げる。リボンをといて包装紙を丁寧に開き、白いハンカチを刺繍が見えるように広げる。
「誕生日プレゼントの包装紙とリボンはこのワンピースを包んでいたもので、プレゼントの真っ白なハンカチはエミリーのお母さんがくれたもの。刺繍を教えてくれたのはエミリーで、刺繍糸はエミリーにわけてもらって、足りないのはシスター・クラーラが神父様に頼んで買ってくれたの。私は刺繍しただけ」
だんだんと何が言いたいのかお兄ちゃんが理解したようで悲しそうに顔を歪めていく。
「お兄ちゃんが幽閉されないように力を尽くしてくれているのはお兄ちゃんのお父さん。お兄ちゃんのお父さんに会わせてくれたのはエインズワース先生と神父様。私が、私が売られるのを助けてくれたのはお兄ちゃん!今も元気で孤児院にいられるのはお兄ちゃんが……」
「もういい!」
「お兄ちゃんを幸せにできるのは私じゃなくて……」
私の話を遮るように立ち上がったお兄ちゃんに強く引き寄せられ、背中に腕が回り抱き締められる。ハンカチが手から離れて床にひらりと落ちる。
「ひとつのことをするのに私達は沢山の人の力を借りなくちゃいけないの。二人だけじゃ無理なんだよお兄ちゃん。逃げたら私達を助けてくれた人達に迷惑がかかるんだよ。もう大切な人達の涙は見たくない」
「……わかったから」
「お兄ちゃんが捕まっているとき、私が助けるためにできることは何もなかった。悔しくて悲しくて情けなかった。だから、お兄ちゃんを幸せにするための手助けを私にもさせてよ。お願い、お兄ちゃんと一生会えなくなるかもしれない選択肢を私にさせないで」
「もう、わかったから」
もう言葉にしなくても心が通じているのがわかる。
二人とも自然と涙を流していた。体を震わせて泣き続けた。私はお兄ちゃんから離れなきゃいけないのに矛盾するかのように白いシャツをきつくきつく握りしめていた。




