1. 私は前世の記憶を持っている
私は前世の記憶を持っている。
窓が風に叩かれガタガタと音をたてて揺れている。窓って言ったってガラスなんかじゃない。窓枠に板がはめてあるだけで今にも吹き飛んでしまいそうな脆いものだ。この間の嵐で窓ガラスはメチャクチャになったらしい…… 壁は頑丈だが、すきま風がひどい。寒さを避けるように体を丸めながら寝返りをうつと、ベッドが壊れそうなほどギシリときしむ。布団なんて暖かいものはなく、使い古された薄い毛布を、何枚もかけられて正直、ただ、ただ、重い…
「けほ…っ! ごほっ、ごほっ!」
現在と前世の違いに自然と陰鬱な溜め息がこぼれるが、それも肺からこみ上げてくるような咳にかき消されていく。
「苦し…こほっ」
私は扉に吸い込まれたあと、地獄に落ちたと思っていたが、目覚めると10歳の女の子に生まれ変わっていた。
前世を思い出すきっかけとなったのは、流行り病にかかったことだった。高熱を一週間出し続け、生死の境をさ迷いながら私は一本のフィルムを見るように、もうひとつの人生を思い出したのだ。
生きたいと強く願う私の声を聞き、現在へと戻ってきたのだ。
『絶対に大丈夫じゃないからー!』
泣き叫びながら目を開けた私に、もうだめだろうと諦めかけていた周囲はだいぶ驚いていた。
咳込みすぎてボーッとする頭を振りながら体を起こし、枕元のひび割れた手鏡を取る。鏡に写るのは大きな緑の瞳、長い黒髪の10歳の少女だ。印象の薄い見慣れた日本人顔の面影はきれいさっぱりなくなっていた。そうまるで…
「エルマーにそっくり」
エルマーにそっくりというか髪とか瞳の色が同じだった。
ニコッと笑うと鏡の中の少女も笑っている。
不思議なものだ。見慣れているはずのその姿にとても違和感を感じ、一日に何度も手鏡を見たり、顔をペタペタと触るのが日課になってしまっている。
この少女のなかに二人の人間がいるような、うーん、なんか違うな。
どちらも私なんだけど、二つのものが混ざりきらず混在するような感覚に未だに慣れない。目が覚めてから、可笑しなことを言う私に周りは困惑してたみたいだけど、熱のせいだろうで片付けていた。今でも二つの記憶に時々、混乱するけど大分慣れてきたと思う。
もみじみたいな手をギュッギュッと握ってみる。咳は出るけど毎日元気になっていく体はとても不思議な感覚だった。胸の痛みに悪い病気じゃないかと泣き出した私を、咳をしすぎたせいだとお医者さまは笑って安心させてくれた。
現在の境遇に満足している自分に苦笑いがもれる。私は、産まれてすぐに捨てられた孤児になっていた。
現世の住所は孤児院。名前はウルリーカ。
最初は忘れてしまった名前を思い出そうとしていたが、みんなにウルリーカと呼ばれるたびに、どうでもよくなっていった。未練がないかと言われれば嘘になるけれど。
私が目覚めると孤児院の子供達は窓の外から、誰かしら手を振ってくるし(部屋に入らないようきつくいわれているらしい)、大人達は早く病気を治しなさいと限られた食事や物資を優先的に私に与えてくれる。
貧乏な孤児院での生活は物質的なものだけに恵まれていた前世とは違い、精神的な安定をもたらしてくれている。
生活面でのあまりにものギャップに戸惑い、たまにもれる溜め息は見逃してほしい。ボタン一つで何でもできた世界とは違い、ここは何もないのだ。
エルマーは本当に約束を守ってくれた。目覚めてからも近くにいるだろうと思っていたエルマーは姿を現さなかった。
『みんな、少しずつ忘れていくんだよ』
「…エルマー、エルマー?」
一日の日課にしている彼の名前を声に出してみる。
彼の言葉を思いだすたび怖くなる。前みたいに突然現れるんじゃないかと名前を呼んでみても、前世での記念すべき一人目の友達は返事をしてくれなかった。
コンコンッと部屋にノック音が響き、ハッと我に返る。返事をする間もなくスープと粉薬を乗せたトレイを持って、一人の少年が部屋に入ってくる。
「ウル、……大丈夫?」
「お兄ちゃん!ゴホッ!コホッ!」
金髪碧眼、どこの王子様ですか?と聞きたくなるような容姿を持つ少年はトレイをベッドサイドに置くと、私のオデコに手を当てて熱を確認したり、寒くないか、痛くないか?と全身をくまなく観察してくる。自分の納得いくまで変わりないこと確認すると切れ長の目元を緩ませ、ほっと息をつき今にも壊れそうな椅子に腰を降ろした。
あまり表情の動かない彼は、廃家に似つかわしくない高級な人形が置かれてるようで、なんとも奇妙な光景をじっと見つめる。
見目麗しき王子様は、ウルリーカの孤児院での兄的存在だった。
名前はアシル。もちろん血の繋がりはないけれど、預けられた日が二人一緒だった。ウルリーカが孤児院の前で置き去りにされているところを、同じく母親に捨てられた4歳のアシルが抱えながら連れてきてくれたそうだ。その時から、いつも二人一緒で私がお兄ちゃんと呼び始めるのも自然なことだった。
目が覚めたとき、お兄ちゃんに泣きながら抱きしめられたのは心臓が止まるくらいびっくりした。
「ウル、はい」
ぼんやり昔のことを思い出していると、目の前に木のスプーンが差し出される。スプーンには湯気のたつスープがすくわれていた。反射的にパクっと食い付きスープを飲み込むと、雛に餌をあげるように口の中にどんどんスープが入っていく。
この『あーん』は、なかなか恥ずかしい行為だが以前のウルリーカとアシルには普通のことだったので、ここは素直に従っておく。記憶が戻ってすぐの頃は以前の記憶が邪魔をして、恥ずかしいと断ったら絶望的な顔をされ、ウルがおかしいとお医者様まで呼ぶ騒ぎになったので、あまり深く考えるのをやめた。
病気が移るから子供は行くなと言われも、ウルリーカの部屋に通いつめるどころか、居座る頑固者だ。恥ずかしいって理由じゃ通じるわけがなかった。
薬と洗面まで甲斐甲斐しく手伝われベッドに横になると、お兄ちゃんは私が小さい頃から好きだった本を広げ読み聞かせをはじめる。この歳で……、と正直思わなくもないが、断ると以下略……なのである。
何回も読んでもらった、お姫様と王子様の物語は、最後はハッピーエンドで幸せな気持ちになるから大好きだった。お兄ちゃんの抑揚のない音は自然と眠りに誘ってくれた。読み聞かせで楽しませるというより、体のだるさと咳でなかなか眠れない私を寝かしつかせる目的もあるのだろう。何故か薬よりも効果があるのが不思議だ。
前世は一人で眠ることが多く、寂しくて泣いてしまうこともあったが、今は寂しいと思う間もないくらい隣に誰かがいる。時々思い出すと涙が出そうになるが、具合が悪いのかとお兄ちゃんが慌てはじめるので、自然と涙が引っ込み笑顔になってしまう。
これもエルマーのおかげだな……
「エルマー、ありがとう……」
ウトウトしながら何気なく呟くと、眠りのなかに落ちていった。
私は新しい世界で少しの不自由さと温かな幸せを感じていた。




