10. 私が知らない顔
最近、夜の日課が増えた。自分でも驚いているが、その日課は体の一部のように毎日続いている。目標があると人って頑張れるんだと実感していた。
教会の蝋燭の明かりがあたるチャーチチェアに座り、たまに唸りながら、せっせと刺繍を刺す手を動かす。教会は夜も開放していて、誰でも入れるよう少ないが明かりも灯している。いつでも祈りがあげられるよう、困っている人の逃げ場所になるような意味もあるそうだ。
私は刺繍を早く上達したくて毎日通っていた。日中は家事当番があったり、勉強したりしていると時間を捻出できず、お兄ちゃんが帰ってきてタイムオーバーを繰り返していた。シスター・ヘルマからも邪魔するように仕事を押しつけられるようになり、刺繍に費やす時間が少なくなっていた。
この間のこと、絶対にバレている気がする。エイミーに刺繍を教えてもらおうと声をかけるたびに、目敏く用事を言いつけてきていた。
そうなると必然的に練習時間は夜になり、みんなが寝静まった後、部屋を抜け出して手元が見える場所を探してうろちょろしていた。エイミーを夜に連れ回すわけにもいかず、お供はいつもの彼だ。
「そこ、刺し間違ってるよ」
「あっ、本当だ!」
長い間、布と刺繍糸をにらめっこしていると、焦点がおかしくなってくる。同じ体勢で凝り固まった肩を少し回して、ちらりと横を見ればエルマーが懐かしいものを見るように、口元に笑みを浮かべて私の手元を眺めている。その慈しむような温かい眼差しに、私を通して違う誰かを見ているような…気がする。
「何?」
私の怪訝そうな顔に気づいたのか、不思議そうに顔を上げる。
「楽しそうだなって。エルマーって、刺繍したことあるの?」
「見たことはあるよ」
「いつ?」
「君がいつもやってるじゃないか。僕もエイミーの生徒みたいなもんだよ」
「ふーん」
「ほら、ここ糸がよれてる」
「あっ!」
エルマーが誤魔化すように、間違いを指摘して話をそらす。これ以上、突っ込んでほしくないんだな。こうなるとエルマーはおどけて話をしてくれなくなるので、この話題は終了にする。だいぶエルマーのことがわかってきているな。もう泣きわめいて詰め寄るなんてことはしない。私も大人になったもんだな。うんうん。
「気持ち悪いなあ。悟りを開いたロバみたいな顔してるよ」
「ロバってどういうこと!?」
ロバ?ロバってなんだ?そんなに間抜けな顔しているか?いや、ロバはつぶらな瞳で愛嬌あるじゃないか。うん、とってもかわいいと思う。でも、でも…素直に喜べない!
ロバに謝れとエルマーに向かって手を振り上げると、両手を上げて降参のポーズをとってるのに満面の笑顔だ。
「やっぱり、ウルリーカはそうこなくちゃ」
「もう!全然、刺繍がはかどらない!」
毎日、エルマーを刺繍の練習に付き合わせているが、最後は二人でふざけあってしまうので練習しにきているのか遊びにきているのかわからなくなってしまう。
私の拳がエルマーにあたることはないけど、怒りに任せて振り回していると、急にエルマーが真剣な表情になる。
「な、何よ…」
「しっ…」
エルマーは唇近くで人差し指を立て、静かにと注意を促してきた。扉近くを見つめて耳を澄ましているようだった。私は手を振り上げたまま固っている。
「エルマー、誰かいるの?お兄ちゃんが来たの?」
また、お兄ちゃんに見つかってしまったのかと思ったが、エルマーは質問に答えず立ち上がる。
「ウルリーカ、祭壇の下に隠れて」
「えっ、えっ?」
「いいから!」
エルマーの切羽詰まったような見たことのない表情と乱暴な言葉に驚いて、促されるまま急いで祭壇の下へ隠れる。
「絶対に声を出したり、出てきちゃだめだよ」
無言でこくりと頷くと、エルマーが姿を消す。何が起こるのか分からなくて、体を芋虫のように丸めて口を手で覆う。
何分経っただろうか、もしかしたら隠れた直後だったかもしれない。緊張感が時間の感覚をなくしていく。
ギーっと教会の重たい扉が開く音がする。二人分の足音が祭壇まで近づいてくる。夜の教会は静かすぎて呼吸すら聞こえてしまいそうで、手に力をこめて息を潜めた。
「へえ、教会なんて初めて入ったな」
軽薄そうな男の人の声が教会に響く。聞いたことのない声だ。教会に入るのが初めてなのだから、関係者ではないのがわかる。
「…ダミアン、ここには来ないでって言ったじゃない」
「っつ!」
シスター・ヘルマ!!
びっくりして声が出そうになるのを、なんとか抑える。
ど、どういうこと?あの、シスター・ヘルマが男の人と密会?くだけた話し方にも驚いたが、かといって恋人というような甘い雰囲気はなく張りつめた空気が漂っている。
一人の足音が、ゆっくりと近づいてくる。
「あの話をしてから、全然顔を見せないからさ。心配したんだ」
「触らないで!」
手をはらう音が聞こえる。
「おおっと」
「無理よ。そんなことできない」
「冷たいこと言うなよ。このままじゃ、俺がどうなるかわかるか?殺されるかもしれないんだぞ。ヘルマと結婚できなくなっちまう」
「…」
「二人、いや一人でもいいから頼むよ。それで借金がチャラになる。なっ?」
「でも…」
「ヘルマ愛してる。ヘルマと一緒になるためなんだ」
「ダミアン」
その後は抱き寄せるような音がして、とうとう堪えきれず口に当てていた手を耳に移動して余計な雑音をシャットアウトした。多分、私の顔は真っ赤になっている。
情報が処理できず、頭の中が大混乱を起こしている。あれ、シスターって結婚してよかったんだっけ?神様に身を捧げる的な話を聞いたことがあるんだけど。
それよりも、あのシスター・ヘルマに恋人いたなんて、しかも恋人の逢瀬を聞かされるとは思っていなかったため、かなり精神的ダメージが大きい。私の心臓はここでと止まるんじゃないかってくらいに早鐘を打っている。前世を足しても、恋愛経験なんて皆無どころか初恋すらまだだったため刺激が強すぎて酸欠状態になってくる。
ただひたすら、心の中で早く出ていってくれと願う。
「もう大丈夫だよ」
どのくらい経っただろう。エルマーの声にゆっくりと目を開けて、エルマー以外の気配や話し声がないのを確認してから、満身創痍で祭壇の下から這い出る。
「はー。生きて出られて良かった」
「ハハ…」
エルマーがなんとも言えない乾いた笑いをする。私が立ち上がれずにいると、しゃがみ込んで目を合わせてくる。
「女の人は教会の人だよね?」
「そうシスター・ヘルマ。知らない人みたいだった…」
冷静になると、二人の会話には不穏なものを感じた。わかったことは二人で何かしようとしていること、それは誰かに聞かれてはまずいこと、そしてシスター・ヘルマの彼氏は前世でいうダメ男だということ。
二人で…犯罪とか?いやいや、あの潔癖症で融通が利かないシスター・ヘルマが?でも恋愛は人を変えるというし。
どこかで聞いたフレーズを思い出しながら悶々とする。
ただ、信じたかった。シスター・ヘルマは厳しいけど、間違ったことをする人じゃないと思いたかった。
「だめだ。部屋に戻ろう」
今日はもう、何も考えられそうにない。かと言って眠れる気もしないけど。ざわざわする心の乱れを無視して、ゆっくり立ち上がり歩き出そうとするが、エルマーはその場を動かず考えこんでいる。私の声も聞こえてないみたいだ。
「エルマーどうしたの?」
エルマーが私の声にハッと我に帰って、笑うのを失敗したようなぎこちない表情をする。
「ああ、そうだね。…ねえウルリーカ、少しの間、夜出歩くのはやめようか。部外者も入り込んでるみたいだから」
「それがいいよね。うん、わかった」
私が素直に返事をすると、いつまで?という私の問いを聞かずにエルマーは姿を消した。
エルマーに会えなくなるのは寂しいけど、あの二人に、また会ったらと思うと怖かった。急に誰もいない薄暗い教会が知らない場所のように思えてきて、恐ろしさでいてもたってもいられず足早に自分の部屋へと急いだ。
何故だか、お兄ちゃんに無性に会いたくなった。




