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彼女と私

作者: 麿鷹 汀

この小説は「ギエナ高地」「力道山」「椅子」の3つの言葉を使って小説を書いてみろ!という知り合いからの挑戦を受けて立ったものです。

あんまりネタバレしたくないのでジャンルは適当に指定しました。


 

 一


 私が覚えているのは彼女との口づけ。

 あれは夏の日。アプラゼミがうるさくて、大雨のときみたいにわんわん騒いでいて。

 彼女は泣いていた。目を閉じて声を出さずに涙を流していた。

 そんな彼女と、私は口づけを交わした。彼女の唇は少し柔らかくて、冷たかった。

 それが最初で、最後の口づけだった。


 二


「ねえ、ギアナ高地って知ってる?」

 彼女は私に言った。夕陽を浴びた彼女はとても綺麗で、彼女の影の中に私はいた。

「ギアナ高地? なんだそれ」

「ほんとに、何も知らないんだね」

 彼女はくすっと笑った。彼女の笑顔は、私の心を締め付ける。彼女は彼女が笑いたいから笑う。

 私のためには、たぶん笑ってくれない。

「なんか、むかつくなあ」

 ふくれてみせる。でもホントは全然怒ってない。彼女とこうして話しているのが楽しいから。

「あなたと話してると、自分が物知りみたいに思えちゃう」

「どーせおれなんか何も知りませんよ」

「そんな言い方しないでよ、冗談だって」

 彼女はまた笑った。彼女もおしゃべりを楽しんでくれているみたいで、安心する。

「ギアナ高地ってね、南アメリカ大陸ってところにあって、凄く大きな滝があるんだよ。本当に高いところから水が落ちるから、下の方は水が散って大雨みたいになってるの。だから滝つぼがないんだって。……滝つぼってわかる?」

「それくらいわかるよ、バカにすんな」

 こわーい、とまた彼女は笑う。本当に彼女はよく笑う。楽し気に。でも時々、すごく危うさを感じることがある。一瞬で崩れてしまいそうな、脆く壊れてしまいそうな。彼女の内にある何かが、消えてなくなってしまうような。

「ねえ、前も言ったけど、その話し方やめたほうがいいって」

 彼女はふと立ち止まって言う。彼女の澄んだ瞳に見つめられ、私は少し戸惑う。

「しょーがねーだろ、癖なんだから」

「でも、もうちょっと優しい口調の方がいいと思うけど」

 彼女はいつもこうやって私の口調について注意する。私だって違う口調で話したい。彼女がいいと思う口調で話をしたい。

 でも、なぜだか私は取り繕ってしまう。特に彼女と話すときは、少し背伸びをしてしまう。

「うっせえなあ。さんざん言ってるけど、直す気なんてこれっぽちもねえから」

「ほら、そういう言い方。……まあいいや、何回言っても直してくれないし」

 彼女はまた歩き出す。少し言い方がきつすぎたろうか。彼女に嫌われてしまいそうで、私は慌てて後を追いかけた。彼女の鞄についたカエルのキーホルダーが揺れていた。

「さっきの話の続きだけどね」彼女は話し出す。どうやら嫌われてはいないようで少しほっとした。でも、私に対する関心を失ってしまったように感じて、少し不安になった。

 なんてめんどくさくて女々しいのか。我ながらあきれてしまう。もっと彼女の隣にいるのに相応しくなきゃいけないのに。

「ギアナって水の国って意味なんだよ。すごくいっぱい雨が降るの」

「へえ、いつも梅雨みたいな感じなのか」

「そう、半年くらいずっと雨季なんだって」

 雨季、という単語を私はあまりよくわかっていなかったが、話を合わせることにした。彼女の話は、川のせせらぎを聞いているみたいで耳に心地よい。それを止めようとするのは野暮というものだ。

 野暮という言葉も彼女に教わったのだったか。

「どうしたの?」

「え? 何が?」

「なんか笑ってたよ」

 思わず口元を抑える。どうやら無意識に笑みが浮かんでいたみたいだ。

「見んなよ、恥ずかしい」

「怒んないでよ。……笑ってればかわいいのにね」

「どういう意味だよそれ」

 別にー、と彼女は笑った。また私の心が締め付けられる。

 かわいい、なんて言われたくなかった。一番私に相応しくない言葉。特に彼女には言われたくなかった。

 彼女は、自分のことを理解していない。男たちの間で、どういう風に噂されているか、分かっていない。

 いつも私と一緒に帰っていることについて、なんて言われているのかも、たぶん分かっていない。

 でも、彼女なら。彼女なら、なんて言われているか分かっても、私と一緒に帰ってくれる。なぜかそんな自信があった。彼女はそんな人だから。だから私は彼女が好きなのだ。

「雨って言ったらさ」私は、恥ずかしさと嬉しさが入り混じった変な気持ちを隠そうと、口を開いた。

「最近雨、降ってないよな」

「そうだね」

 と、彼女は急に立ち止まった。危うくぶつかりそうになった私は慌てて身を引く。

 流れでぶつかってみても良かったかもしれない、と後悔した。

「なんだよ、急に止まんなよ」

「ああ、ごめんごめん」

 彼女はまた笑った。でも、今の笑顔は何か違った。

 言葉では言い表せないけど、彼女が笑いたいから笑ったようには思えなかった。じゃあ何のために? その答えを知ることは何だか怖かった。彼女が二度と一緒に帰ってくれなくなりそうで。

「どうした?」

「ううん、何でもない」なんでもなさそうには思えない様子で、彼女は首を振る。

 私はどうすればいいかわからず、立ち尽くし、今まで来た道を振り返ってみたりした。

 車の通らない、脇道。いつも通っている道。それなのに、見渡してみると、なんだか初めて通る道のような気がした。

 そう思った理由が分かったとき、私は一人で赤面した。彼女しか見ていなかったから。風景なんて目に入っていなかったのだ。

 ほんとに、女々しい。嫌気がさす。

「私ね」

 しばらくして、彼女は口を開いた。彼女の声が、私の世界を支配する。カエルのキーホルダーを触りながら、彼女は話した。

「雨が好きなの」

 彼女は笑っているような泣いているような声で、そう言った。

 なぜそんなことを言い出したのか分からなかったが、私は黙っていた。

「春に降る雨が一番好き。じめじめしてなくて、涼しくて、通り抜ける風が心地よくて。そういう日はいつも、ゆっくり歩くの。音とか、風とか、涼しさとか、色々感じていたいから」

 彼女は、そう言って、また静かになった。静寂。私の世界は、空っぽになった。

 私は彼女の言葉を待った。彼女が私の世界を満たしてくれるのを待った。

「なんか、ごめんね、変な話しちゃった」

 彼女は笑って歩き出す。今の笑顔も、違った。何だか、急に彼女が知らない人になってしまったみたいで、怖くなった。何か、誰にも言えないものを抱えているのかもしれない。でも、私は何も訊けなかった、言えなかった。私なんかに、そんなことを打ち明けてくれるようには思えなかった。

 飽くまで友達だから。家族でも、恋人でもない、ただの友達。

(私たちは友達だし、こういうことはやめようよ)

 そうして黙ったまま、いつもの分かれ道に着いてしまった。

「じゃあ、またね」

「おう」

 彼女は笑って手を振った。私はなぜか手を振り返すことができなかった。

 彼女が歩き出したのを見て、私も家への道を踏み出した。

「あのね」

 急に、後ろから彼女の声が聞こえた。

 振り向くと、彼女は夕陽を背に立っていた。彼女がなんだか太陽に溶け込んで消えてしまいそうで、私は思わず目を細めた。

「雨が好きな理由。もう一つあるの」

 彼女は笑っているんだろうか、泣いているんだろうか。

「いやなこと全部、流してくれるような、そんな気がして」

 笑っていてほしい、と思った。せめて私の前では泣かないでほしい。

「だから、ギアナ高地、いつか行ってみたいなって思ったの」

 ずっと私のそばにいてほしい。彼女が知っていることを一つずつ、話して聞かせてほしい。

「じゃあ」

 私はなんだか耐えられなくなって口を開いた。彼女をこのままにしておくと、私の前から消えてしまいそうだった。

「いつか一緒にギアナ行こう」

 彼女は口を閉じた。少し目を見開いた、ように見えた。驚いたように見えた。

 少しして、約束だよ、と彼女は笑った。

 ああ、と私も笑った。笑えた、と思う。

 彼女がちゃんと、いつものように笑ってくれたから、私も笑えたはずだ。


 彼女と一緒に帰るのは、それが最後だった。


 三


 転校した、と先生は言った。彼女が学校に来なくなって、一週間ほど経っていた。少し肌寒い、秋の日だった。

「突然の引っ越しで、皆さんに挨拶できなかったことを残念がっていました。お手紙を書きたい子もいるだろうけど、住所とかは教えられないの、ごめんね」

 教室は明らかにざわついていた。特に男子たちの慌てぶりは少し滑稽に思うくらいだった。

「マジかよ、告白しようと思ってたのに」

「おまえ、半年前からそればっかじゃん」

「うっせえ、あの人はなあ、付き合うとかそういう俗なことはしないの」

「なーに言ってんだか、意味わかんねえ」

「そういうお前だって好きだったんじゃねえの」

「おれはほら、かわいいなと思っただけで別に付き合いたいとは思ってないし」

「でも毎晩おかずにしてんだろ?」

 サイテー、と周りの女子たちが冷たい視線を送る。女子たちも、平静を装ってはいるが、動揺を隠せないようだった。女子からの人気もあったのだろうし、当然だ。

(この前下の学年の子からラブレターもらっちゃったの。しかも女の子)

「まあでもあの人にはあいつがいるからなあ」

(困ったなあ、私、女子には興味ないんだけど)

「なあそれって本当なの? いまだに信じられないんだけど」

(まあ別に男子に興味があるってわけでもないんだけどさ)

「いつも一緒に帰ってんのお前も見たろ?」

(でも、こうやって気持ちをちゃんと伝えてくれるのは嬉しいよね)

「それって別に大したことじゃなくね」

(あなたも、好きな人ができたらちゃんと伝えなきゃだめだよ。言葉にしなきゃ伝わらないんだから、そういうのは)

「知らないけど、でもあいつが惚れてんのはバレバレでしょ」

 まあ、確かにと幾人かが私をそっと振り向く。私は気づかないふりをして読んでいた本の続きに目を通した。でも内容が頭にはいってこない。居心地が悪い。早くこの場から立ち去りたかった。

 でもよ、と男子の一人が声を潜める。

「ちょっと……気持ち悪いよな」

「おれはありだと思うけどね」

「お前は特殊なんだよ、普通は気持ち悪いって」

 そうかなあ、とまた私を振り向く。その目でじろじろ見ないでほしかった。でも、そんなことを面と向かって言う気などなく、私はじっと本を読むふりをして耐えた。

 そういやさ、と別の男子が話し始めると、彼らはそちらに向き直った。私は少しほっとして、そんな自分に嫌気がさした。

「あの人、引っ越しとかじゃなくて、行方不明とかって噂だぜ」

「え、マジかよ」

「それただの噂じゃね」

「いやでも二組のやつがこの前母親がアパートから出てきたの見たって言ってた」

「なんか嘘っぽいなー」

「おれにもわかんねえよ、でも火のないところに煙は立たないっていうし」

「ことわざなんて使っちゃって、頭いいねー」

 彼らはいつものようにやかましく騒いだ後、別の話題に移っていった。力道山がなんだ、デストロイヤーがなんだと盛り上がっていた。

 所詮彼らにとって彼女は学校生活を楽しむ一つの要素に過ぎなかったのだろう。それがなくなれば、次に代わりになるものを探す。そのうち彼女について話題にすることもなくなり、私に興味を持つこともなくなるだろう。

 それでいいのだ。私にとっても、たぶん彼女にとっても。


 四


 家で本を読んでいると、母親が、ちょっと、と廊下から顔を出した。

「なに?」

「なんか、警察の人が来てるんだけど」

「警察?」

 思わずどきりとした。動揺が顔に出ないよう注意する。

「そう、訊きたいことがあるんだって」

 誰に、と聞くと、じっと私をみつめてきた。私に用があるということだろうか。

「なんで?」

「知らないわよ、あんた、何か学校で変なことやったんじゃないでしょうね」

「やってるわけねえじゃん、何もしてないよ」

「そう? ならいいんだけど。とにかく玄関で待ってくれてるから、早く行ってあげなさい」

 めんどくさいなあ、とつぶやきながら、私は立ち上がって母の脇を通り抜けた。

「あと」

 母親が腕を掴む。

「なんだよ」

「その口調。警察の前ではやめなさい。捕まるわよ」

 そんなんで捕まるわけねえじゃん、と笑うと、母親が睨んできたので、はーいと小声で返事をしておくことにした。

 玄関に行くと、スーツを着た男が立っていた。背が高く、優しそうな顔をしているが、眼が鋭かった。

「お忙しい中すみません、すぐに終わるので」

 そういって男は名刺を差し出した。石井、と書いてあった。警視庁捜査一課、と横に書いてあったが、どういう意味なのかわからなかった。彼女なら知っているだろうか。

「訊きたいことって何ですか」

 警察を目の前にして、かなり緊張していた。この動揺を悟られたくない、一刻も早く終わらせたい、そう思った。

「この写真を見てほしいんです」

 男は、一枚の写真を取り出した。そこに映っているものを見た瞬間、私は思わず声を出しそうになった。

 そこには彼女が映っていた。写真の中で、彼女は笑っていた。いつの写真なのか、どこで撮られたのか見当もつかなかった。

「この子、知ってます?」

 男は私の顔を覗き込むようにして訊いた。なぜだか全てを見透かされているような気がして、私は唾をのんだ。

「……知ってます。クラスメートです」

 そうですか、と男は頷いて、写真をしまった。

「仲良かったんですか」

「まあ……一緒に帰ったりしてたんで」

 そうみたいですね、と男は全て知っているとでも言うように私を見つめた。

「ここから先の話は他の人に言わないでほしいんですが、約束できます?」

 こちらを子供だと思ってバカにされている気がして、私は少々腹が立った。

「それくらい、できます」

 睨みつけたつもりだったが、男には効かなかったようで、それはよかった、と笑顔で流されてしまった。

「実は先ほどのかた、一週間ほど前から行方不明でしてね」

 彼は私の反応を窺うように言った。行方不明、と私は口の中で反復した。ユクエフメイ。本でしか見ない言葉だ。今日クラスで男子が噂してたな、と思い出した。

「そう、なんですか」

「ええ、親御さんの方から捜索願が出されましてね。こうやってどこに行ったか調べてる最中なんです」

「……噂には聞いてましたけど、本当なんですね」

「くれぐれも内密にお願いしますよ」

 しつこいな、と思ったが口には出さなかった。

「それで、彼女が家や学校以外で行きそうなところはないか探しているのですが、なにか心当たりありますかね?」

 彼はそう言って私を見つめながら手帳を取り出した。だが、これまで同じような質問を他にしてきたのか、目には期待の色がないようだった。

「あんまり思いつかないです。遊んではいましたけど、どこかに思い入れがあるみたいな話は聞いたことないですし」

 そうですよねえ……、と男は頭を掻いた。やはり期待はしていなかったようだ。

「他にどんな友達がいるとかはご存知ですか」

「いえ、帰りはいつも二人で帰っていたので……。他の友達もいたかもしれないですが、知らないです」

「そうですか。じゃあ、どこかに行きたいなんて話はしてませんでした?」

(ねえ、ギアナ高地って知ってる?)

「……ギアナ高地」

 男は首を傾げた。

「はい?」

「あ、いえ……。そういえば前に、ギアナ高地に行きたいねって話をしてたのを思い出したんです」

「はあ、ギアナ高地、ですか。ちなみにそれはどこにあるんです?」

「確か、南アメリカって言ってました」

 南アメリカ、と彼は眉を顰めた。海外に行けるような年齢じゃない、と思ったのだろう。そもそも言い出した私でさえあり得ないと思っているのだ。

 なるほど、と呟いて彼は手帳をしまった。どうやら終わりのようだ。私はすぐにでも息をつきたい気分だったが、我慢した。

「わかりました、ご協力ありがとうございました。また何か思い出すことがあったらその名刺に電話番号が書いてあるので、連絡してください。あとお母様によろしく」

 そういって男は玄関のドアを開けて出て行った。私は、少し迷って、外に出た。まだ彼は近くにいた。車で来たらしく、運転席に乗り込もうとしていた。

 あの、と、思ったより大きな声が出ていた。男は意外に思ったのか少々のけぞって私を見つめた。

「なんでしょう?」

「あの……、どうしてここに来たんですか」

 彼は一瞬質問の意味を捉えかねたようだが、すぐにああ、と頷いた。

「彼女の日記がありましてね、そこにあなたの名前があったんです」

 彼女の日記。彼女が日々どんなことを思って過ごしてきたのかを書き連ねた日記。

(私は、あの人が嫌いだ)

「そうなんですか……」

「彼女の日記、読んだことありますか」

 男はそこで、私を見定めるように尋ねた。どんな嘘でも通じない、という気迫が感じられた。

「そんな秘密みたいなもの、読むなんてできません」

 私は言った。不安を悟られないよう、足を踏ん張って、手を握った。

「それはそうですね。ありがとうございました、では何かありましたら連絡してください」

 そう言って彼は車に乗り込み、夜の道に消えていった。

 私はしばらくそこに立ち尽くしていた。秋の夜だというのに、汗をかいていた。

 今のは、嘘だと気づかれてしまったろうか。


 五


 あれは衣替えが始まって、少し暑い夏の日だった。アブラゼミがうるさかった。

 男子は半そでのポロシャツを涼し気に着こなし、女子は白いブラウスに身を包む。そんな中、彼女だけジャケットを着たままだった。

 男子たちが、下着が見られない、と話題にしているのを耳にして嫌悪感を抱いた。彼女はあいつらの見世物ではない。

 ただ、正直私にとっても彼女がジャケットのままなのは少々不満だった。彼女には白いブラウスがすごく似合うだろうと思っていたからだ。夏の日差しと彼女とブラウス。それだけで絵になるような、そんな気がしていた。

 帰り道、いつものように彼女と歩いていた。彼女が笑い、私も笑った。変わったことなどないように思えた。

「最近はどんな本読んでるの?」

「ああ……坊っちゃんっていうやつ」

「夏目漱石だ、面白いよね」

 私には正直、言葉遣いなどが難しくて読みにくい本だったが、彼女が本が好きというのを知って、とりあえず教科書で見たことあるようなものから読んでみたのだった。

 本を読むことで、彼女と同じ場所に立っていられる気がして、私にはうれしかった。

 私はふと、どうして冬服なのか気になり、訊いてみた。

「あ……やっぱり変だよね」

 彼女は立ち止まり、自分の服を見つめた。私には、彼女が服ではなく、その向こう側、自分の体を見つめているように思えた。

 何か変なことを聞いてしまったのだろうか。私は不安になり、話題を変えようとした。でも、何も思いつかなかった。

「ちょっと、けが、しちゃったの」彼女は困ったように笑って言った。

「けが?」

「そう、転んじゃって、腕に傷がついちゃって。結構目立つから、夏服だとほら、半袖だし、見えちゃって、恥ずかしいから」

 彼女の言葉が、なぜか、宙に浮いているような、ふわふわしたものに聞こえた。まるで、本当はそうではないかのような。

「……見せてくれ」

 私は無意識にそう言っていた。彼女は明らかに動揺していた。

「え……いやだよ、恥ずかしい」

「いいから見せろ。病院に行ったほうがいいやつかもしれねえし」

 でも、と彼女はしばらく俯いていた。傷を見せるかどうか迷っていた。私は待った。ここで引いてしまったら、二度と取り返しのつかないことになるような、そんな気がした。

 彼女は顔を上げた。その顔には、ある種の決意が見て取れた。

「いいよ、見せてあげる。でも、誰にも言わないって約束してくれる?」

 ただのケガでなぜこうもこだわるのか、不思議でならなかったが、それ以上踏み込むのは危険な気がして、私は頷くだけに留めておいた。

 彼女はジャケットのボタンをゆっくり外した。

「……ジャケット、預かるよ」

「あ、うん……ありがと」

 彼女のジャケットからいい匂いがした。私の心臓は途端に鼓動を速くした。

 彼女のブラウスを着ている姿は、やはり美しかった。誰よりも先に私だけが見られたと思うと、優越感を感じた。私は特別なのだ。彼女の特別さには、全然適わないけど。

 ブラウスの袖をゆっくりめくり、彼女の腕が露わになった。白い肌に、なにか赤のような、青のような線が何本か走っていた。

「ね、目立つでしょ、この傷。だから私、夏服じゃないの」

 彼女は笑って言った。その笑顔は、誰のために笑っているのか。何かを気づかれたくないかのように、あえて笑ったように思えた。

「本当にこれ、転んでできたのか」

 ただの傷には到底思えない。何箇所か痣になっている。最近できたようなものじゃない。常に何かによってつけられているような、そんな傷だった。

「本当だよ、嘘なんてついてどうするの」

「……誰かにやられたってわけじゃねえよな」

 彼女はそこで口をつぐんだ。私は、彼女に肯定してほしくなかった。首を振ってほしかった。でも彼女はそのまま黙ってしまった。その沈黙は、肯定の意味にしか捉えることができなかった。

 誰なのか。彼女を、私の大切な彼女を傷つけるそんな悪者は誰なのか。

「……だめ」

 彼女は袖を戻しながら呟いた。消え入りそうな声だった。

「転んだってことにしたいの。誰かのせいで傷ついたとか、そんなんじゃないの。それじゃ負けなの。傷ついてなんてない。お願いだから、あなたの中でも、この傷は転んでできたものだってことにしてほしいの。他の人がそう思ってくれれば、私は安心できるから、だから、お願い」

 彼女は私を見てくれなかった。鞄についたカエルのキーホルダーを見つめて、小さな声で、そう言った。

 初めて会ったときからこのキーホルダーがついていた気がする。なにか思い入れがあるのだろうか。

 キーホルダーが揺れた。なぜか、キーホルダーも私にお願いをしているみたいに思えた。

「……しょうがねえな、わかったよ。……でも薬塗ったほうがいいぞ、それ」

「うん、大丈夫、家にあるから」

 ジャケットを返すと、ありがとう、と彼女は言った。そのまま一緒に歩き出し、無言のまま、分かれ道に着いた。じゃあね、と手を振って、彼女と別れた。

 ありがとうと言ったときも、じゃあねと言ったときも、彼女は、私を一度も見なかった。


 六


 また、警察が家にやってきた。前に来た日から、一週間ほど経っていた。

 出かけようとしていたところだったので、不意を突かれた私は面食らった。

「どうもどうも、石井です、ご無沙汰しています」

 男は笑顔を浮かべてこちらに近づいてきた。あまり好きになれない笑顔だった。

 私は彼が初めて家にやってきた日の翌日、図書室で警察に関する本を読んだとき、捜査一課についても調べていた。凶悪犯罪を扱う、と書かれていた。少なくとも人が行方不明になったくらいでは動かないらしい。例として、殺人、強盗、暴行などが挙げられていた。

 その中に性犯罪が含まれていたのを、私はどうしても見逃せなかった。

「……何ですか」

 私は、忙しいのだという顔を作ったつもりだったが、やはり男には何の効果もなかった。図太い神経がないと警察は務まらないのかもしれない。

「すみません、少々お時間をいただきたいのです」

 口調は丁寧だったが、有無を言わせない雰囲気を醸し出していた。私は素直に従うことにした。ここで逆らっても何もいいことがないことは直感で分かっていた。せっかくの平和なひとときを台無しにするわけにはいかなかった。

「何でしょう」

「いえ、大したことではないのですが」

 そう言って彼は、一枚の写真を取り出した。彼女の写真かと思ったが違った。そこに映っていたのは彼女の父親だった。忘れるはずもないあの憎たらしい顔。彼女を絶望においやった張本人。

「……誰ですか、この人」

 私は冷静になるよう努めた。憎しみが声に滲んでしまいそうだった。

「行方不明になったあなたのお友達のお父様です。ご存じないですか」

「……会ったことないです。家族の話はあまりお互いにしなかったし、家で見かけることもなかったので」

 男は何か訝しんでいる様子だった。だが私は知っていた。彼女の父親は大抵家にいない。働いているのか遊んでいるのかはわからないが、とにかく昼間にいることはない。彼女の家に夜までいたことはないし、それは彼女の母親も知っているはずだ。警察が何か掴んでいたとしても、私があの憎たらしい男を知っていると断定できるほどの証拠はない。

 果たして、男は諦めた様子で、そうですか、と呟いて写真をしまった。

「実はこの方も行方不明になってしまいましてね、何か娘さんがいなくなったのと関係があると踏んで捜査しているところなんです」

「……そうなんですか」

 目の前にいるこの男は以前、彼女の日記を見たと言っていた。恐らくあの文も読んだのだろう。彼女が父親に何をされていたのか。彼女がどんな思いで日々を生きてきたのか。私は、彼女の秘密が赤の他人である警察に知られたことに腹が立っていた。警察はきっと同情なんてしない。彼女がどんな気持ちを抱えていようと、彼らは事件が解決しさえすればいいと思っている。彼女を救おうとしてあの男を探しているとは思えなかった。

(私は、負けたくなんてなかったの)

「ああすみません、この件も内密にお願いしますね」

 勝手に言い出したのはそっちではないか、という言葉を飲み込んだ。たぶん、父親もいなくなったと聞いてどういう反応をするか窺おうとしたのだろう。

 とにかく早くこの会話を終わりにしたかった。もうこれ以上嘘を吐き続けるのは難しいように思えた。

「あの、もういいですか、急いでるんで」

「ああ、すみませんでした。どこかお出かけですか」

「……はい」

 行先は絶対に言えない。言ってしまえば、この平和な生活は終わってしまう。せっかくここまで来たのだ。絶対に手放したくない。

「彼女のところですか」

 歩き出していた私は、予想していなかった言葉に、足を止めてしまった。

「……はい?」

 振り返ると、男がこれ以上にない真剣な顔でこちらを見つめていた。私は、足の震えを懸命に抑えた。どうすればいいだろう。この人はどこまで知っている? 何もわからない。彼女ならどうしたろう。こんな状況で、彼女だったらなんと言うだろう。

「あなたが学校に行っているとき、お母様からも話を伺ったんです。二週間ほど前、彼女があなたの家に来たそうですね。その後あなたたちはどこかへ出かけた。目撃者もいるんです。そしてその日を境に、彼女は家に帰ってこなかった。何かあったんじゃないかと私は思っていましてね。何かご存じないですか」

 いつの間に母親から話を聞いていたのか。私は母を呪った。八つ当たりだった。そもそも警察に何か隠し事をしようなんて無理な考えだったのだ。浅はかだった。

 なんと答えればいい? 彼女なら、どんな言葉を選ぶ?

「……知らない、です。遊んで、あの日別れて、また明日会おうねって言って。その後彼女がどこに行ったかなんて、知らないです」

 声が震えそうだった。もしかしたら震えてしまっていたかもしれない。だが、男の顔から目を逸らさないようにした。そうすることしかできなかった。

 しばらく彼と私は見つめ合った。永遠に続くかと思われた。もうだめだと思った。これ以上何か聞かれたら私はもう何も隠せない。無理だと思った。ごめんね、と私は彼女に詫びた。私たちだけの秘密にしようと誓ったのに。これ以上他の人に人生をめちゃくちゃにされるのは嫌だと、彼女は言っていたのに。私は、なにもできない。彼女を、好きな人を守ることさえできない。好きになる資格なんて最初からなかった。

 男は、ふう、とため息をついた。

「……すみません、だいぶ捜査が行き詰まっていて疲れてしまったせいか、変なことを聞いてしまいました。気にしないでください」

 えっ、と私は目を見開いた。彼は明らかに何かに気づいていた様子だった。見逃してくれるということなのか。それとも他に何か考えが?

「今日で捜査は打ち切りなんです。証拠も何もない以上、もうこれ以上人員を割くわけにはいきませんしね。彼女のお母様には申し訳ないですが。お父様の方はまだ捜査を続けますが、どうなるんでしょうねえ」

 男は独り言を言うかのように呟いた。

 打ち切り、ということは今後警察は関わってこないということなのだろう。行方不明というだけでは警察はしつこくは追及してこないのかもしれない。私はほっとした。これで誰も邪魔はしてこない。彼女の秘密も守ることができた。

「お時間をとらせてしまって申し訳なかったです。一応、何かあれば連絡してください」

 男はもう私を見ることはなく、そのまま車に乗り込んだ。

 彼の車を見送った後、私は目的地へと歩き出した。足の震えはもうなかった。早くあの場所へ行かなければ、という思いでいっぱいだった。


 私の目的地は自宅から少し離れた山の中にあった。そこには小さな倉庫があり、今はもう誰も使っていない。

 私はその倉庫のドアを開けた。

 そこには、彼女が床に横たわっていた。


 七


 彼女がギアナ高地の話をした翌日、私は部屋で本を読んでいた。彼女から勧められた本だった。

 お友達が来てるわよ、と母が部屋に来たとき、私は正直面倒くさいと思ってしまった。思いのほか本が面白かったというのもあるし、そもそも私に友達なんていない。

 だが、母の口から彼女の名前が出てきたとき、私の体は熱くなった。

「玄関で待ってもらってるから、ほらそんな恰好してないでさっさと着替えなさい。出かけるんだったらあんまり遅くなったら駄目だからね」

 母の言葉もろくに聞かず、私は急いで着替えて玄関に向かった。

 そこには彼女が立っていた。彼女の私服は、彼女に着られるために作られたのではないかと思うほど彼女にぴったりだった。私は、様々な感情を抱きながら、彼女と向き合った。

「ごめんね、急に家に来たりして」

「いや、別に構わねえけど……。どうした?」

「これからなんか予定あったりする? なければ、ちょっと外に出ない?」

「ああ、いいぜ、行こう」

 単純に、彼女と出かけられるということに嬉しさを感じていたのは事実だったが、それだけではなかった。なぜだか今日の彼女はいつもとは違う様子だった。何か、決意に似た感情を内に秘めているような、そんな雰囲気だった。

 外に出ると、少し雲行きが怪しかった。雨が降るのかもしれない。

「ちょっと傘とってくる」

「あ、私持ってきてるから大丈夫だよ。もし降ってきちゃったら一緒にはいろ」

 私は思わず彼女を見つめた。彼女がそんなことを言うのは珍しい。少し雨が降ることを期待してしまい、恥ずかしくなった。

「顔赤いよ? どうしたの?」

「……何でもねえよ」

 ふうん、と彼女は首を傾げ、歩き出した。私は彼女に気づかれないように深呼吸しながら後をついていく。

 ふと、私が傘をとってくる時間も惜しいくらい彼女が何か急いでいるような、そんな気もした。考えすぎだろうか。とにかく、彼女と外出できることを楽しむことにした。

「何してたの?」

「ちょっと前に勧めてくれた本読んでた」

「あ、あれ読んでくれてるんだ、嬉しい。面白い?」

「うん、あんまり難しい言葉がないから、読みやすい」

 よかった、と彼女は笑った。大丈夫。彼女の笑顔だ。なんの曇りもない笑顔だった。

「読み終わったら、またおすすめ教えてくれよ」

「……うん」

 奇妙な間。でも、私は気にしないようにした。いつもみたいに、学校帰りのときのように、話をする。

「どこ行く?」

「……えーとね、ちょっとついてきてほしいの」

 彼女は笑って、言った。大丈夫。何か、含みのある笑い方だったが、大丈夫。何も問題は、ない。

 そのまま、私たちは二人で歩いた。いろいろな話をした。学校の話。面白かった先生の雑談。つまらない授業中の時間の潰し方。最近読んだ本の感想。彼女が知っていて、私が知らない話。私が知っていて、彼女が知らない話は、あまりなかったけど、彼女は私が話すことに相槌を打ち、楽しそうに笑った。時たま、彼女は何かを考えるように俯いて、私はそれを見なかったことにした。

 私は、歩いていくうちに、だんだん彼女の家に近づいていることに気がついた。彼女の家に来てほしいということだろうか。ただ、それなら彼女がはっきりとそう言わなかった理由が分からなかった。

 果たして私たちは、彼女の家の前までやってきた。

「今はお母さん出かけてるからいないんだけど、あがっていいよ」

 彼女はそう言って玄関の扉を開けた。彼女と、彼女の家で二人きり。私は首を振って変なことを考えないようにした。

 彼女と私は、彼女の部屋に入った。いつも遊びに来た時に見る部屋の光景が、なぜだかいつもと違って見えた。ゆうべのことを、彼女の家の前で見たことを思い出し、私は胸を抑えた。

「ちょっとトイレ行ってくるね。……あ、飲み物なにか欲しいのある?」

「ああ、いや、いいよ」

 そっか、と彼女は部屋を出て行った。

 彼女の部屋は、きれいだ。女の子の部屋という感じがする。

 机。ベッド。引き出し。彼女がいつも使っている鞄。あのカエルのキーホルダーがついていた。そして、壁際には本棚が置かれていた。たくさんの本が並んでいる。前に来た時よりもまたかなり増えたみたいだ。まだ私が知らない小説家の名前もたくさん並んでいた。私が読んだことのある本を見つけ、私は少し嬉しくなった。

 本棚の一番下の隅に、見慣れないものが置いてあることに気が付いた。今まではこんなものなかった。単行本みたいな、だが単行本よりは厚さが薄いものだった。

 どうやら日記のようだ。その日何があったかとか、読んだ本の感想などが綴られていた。なんだか彼女の秘密を覗き見ているみたいだったので、本棚にしまおうとしたとき、あるページに目が留まった。

 ――私は、あの人が嫌いだ。

 その文だけ、強い筆跡で書かれていた。思いをページに刻み付けるような、そんな筆跡だった。

 私はその文が書かれた日付を見た。昨日だった。

 何があったのだろう。私はつい好奇心を抑えきれず、その日付の日記を読んだ。

 私は、直ぐに後悔した。そこには、私が想像もしなかったことが書かれていた。彼女の父親が何度も出てきた。彼女の父親が母親にしたこと。彼女にしたこと。私は、彼女の腕についた痣を思い出した。昨日の光景を思い出した。

 私は他のページも探してみた。彼女の父親が出てきたところは、いくつもあった。そのどれもが、まるで本の中の世界のようなことだった。彼女の筆跡には悔しさがにじみ出ていた。父親に何も仕返しできない気弱さ。言いなりになるしかないやるせなさ。母親への詫び。誰にも助けを求められない辛さ。ところどころ紙がふやけていた。彼女が涙を流しながらこの日記を書いている姿が目に浮かんだ。彼女はいつもこんな仕打ちを受けていたのか。こんな日常を過ごしていたのにも関わらず、彼女はどうしてあんな風に笑っていられるのか。読んでいくうちに、彼女の父親に猛烈な黒い感情を抱いた。彼女を、私の大切な彼女をこんな目に合わせた悪人。そして、彼女がこんな目にあっていることも知らず、呑気に暮らしていた自分に私は嫌気がさした。彼女のことを常に見ているようで、その実何も見えてなかったのだ。悔しかった。彼女に何もしてやれない自分が情けなかった。

「あ……」

 私はびっくりして部屋の入り口を振り返った。コップを持った彼女が立っていた。コップには水が入っていた。全然気づかなかった。なにか言い逃れしようと思ったが、できなかった。どう言い逃れしようと今更無駄だ。私は申し訳なさで顔を赤くした。

「それ、読んだの」

 彼女は怒るでもなく、私をじっと見つめた。

「悪い……。つい目に入って読んじまった……」

 私は彼女から目を逸らしてしまった。もうこれで彼女と話をすることはできないだろう。彼女の秘密を勝手に覗いてしまったのだ。絶交に決まってる。

 彼女は部屋に入り、コップを床に置いて、私の前に座った。コップの水が、少し床にこぼれた。

 私は恐る恐る顔を上げた。

 彼女は笑っていた。

「びっくりしたでしょ? こんなの、嘘みたいって思わなかった? でも、現実なんだよね。これ、本当のことなの」

 彼女は日記を手に取って眺めた。まるでアルバムを見るかのように、ゆっくり一ページずつめくっていった。

「……怒らないのか」

「そんなことしないよ。もともと、今日話すつもりだったの。まあ、本当は私が話して知ってもらいたかったんだけど、しょうがないね。昨日本棚にしまって、そのままにしちゃったから」

 彼女は日記を手で撫でながら話した。私は思わず目を逸らした。彼女が、遠くのところへ行ってしまったような気がした。彼女の姿を、見ていることができなかった。

「あなた、ゆうべ私の家に来なかった?」

 私はどきりとした。気づいていたのか。昨日、分かれ道で別れた後、彼女の後をこっそり尾けたのだ。彼女の様子があまりにも、違っていたから。私の前から消えてしまいそうだったから。

 私は黙ってうなずいた。やっぱりね、と彼女は笑った。

 彼女の家の前で見たことを、私は鮮明に思い出せる。彼女と、彼女の父親が、話していた。

(……ただいま)

(早く家に入れ)

(……はい)

(ったく、あいつもお前みたいに大人しければいいんだがな)

(……お母さんに、また……怒ったの?)

(そうだ、あいつ、早くご飯を作らなかった)

(……ケガしてるんだよ、今日はそっとしてあげようよ)

(ケガくらいでなんだ、それがあいつの仕事なんだ。甘えさせる必要はない)

(だってあのケガは……)

(あ? 俺のせいだって言うのか?)

(……違う)

(いいからさっさと入れ)

 彼女の父親は、彼女を引っ張るようにして家に入らせた。そして、ばたん、と家のドアを閉めた。

 私は、あの男が、彼女を、クラスの男子が彼女を見るときと同じ目で見ているのを感じた。ケダモノの目。彼女を、娘として見ていなかった。あの男はもしかして――

「私のお父さんね、私と血が繋がってないの」

 彼女が話し始めた。彼女は、独り言を言うように、ぽつりぽつりと話した。

「私が中一のときくらいにお母さんが再婚したの。前のお父さんは、事故で死んじゃった。それで今のお父さんが家に来たんだけど。前は優しかったんだよ。いい人だった。お母さんとも仲が良かったし。お母さんが幸せそうで、私は安心してたの。前のお父さんが死んでから、元気がなかったから。でも、お父さんの仕事がうまくいかなくなって、そのときからお父さんがお母さんに手をあげるようになった。私は何もできなかった。お母さんも何も抵抗できなくて、お父さんになされるがままだった。たぶん、お父さんが出て行っちゃったら本当にお母さんは私と二人きりになっちゃうから。そのうち、私にも手をあげるようになった」

 彼女は日記を見つめたまま、話し続けた。私は、何も言えなかった。何か言っても、彼女のためにはならないと分かっていた。

「手をあげるだけだったらまだ耐えられたんだけど」

 私は、彼女が何を言っているのか分からなかった。

「日記には書いてない、思い出すのも嫌だから」

 彼女は服の裾をぎゅっと握りしめた。

「一年くらい前からかな、あの人、私の部屋に来たの。お母さんに怒ったあとに。私は部屋で、ずっとお母さんの泣き声を聞いてた。早くこの悪夢が終わればいいのにって思った。でも悪夢って底がないんだなって、その日分かった。あの人、部屋に来たとき、クラスの男子が私を見るときと同じ目をしてた。私ね、怖かった。でも、お母さんには言えない。そんなことしたら、もっと悲しむから。でももしかしたら気づいてたのかもね。お母さん、たまに私を優しく抱きしめるの。ごめんねって。何もできなくてごめんねって」

 彼女は俯いた。私はようやく彼女の言っていることが分かった。彼女は、あの痣以外にも、あの男に傷をつけられていたのだ。体だけじゃなく、心にも。

「もうずっと、部屋のベッドで寝てない。ベッドで寝ると、思い出すから。あの人の息遣いとか、ベッドの軋む音とか、とにかく全部。でも、私はここに帰ってくるしかない。他に行く場所もない。だから、耐えるしかなかった」

 一年間。ずっと、彼女は耐えてきた。私は、学校での彼女を思い返した。そんなことをされているようには、思えなかった。彼女は誰にも言わず、独りで耐えてきたのだ。私は、自分のことを愚かだと感じだ。何か彼女にしてやれただろうか。答えは分かり切っていた。

「……でも、もう耐えられなくなっちゃった」

 彼女は笑った。声が震えていた。彼女が本当に消えてしまうのではないかと思った。

「ちょっと頼みごとがあるんだけどいい?」

 私は彼女の目を見つめた。何か決意をした目だった。

「……いいよ」

 ありがとう、と彼女は言った。そして、彼女は鞄を引き寄せ、カエルのキーホルダーを外してポケットに入れた。

「ちょっとついてきて」

 彼女は立ち上がり、部屋を出て行った。私は慌てて後を追った。


 彼女についていった先には廃ビルがあった。

 彼女は慣れた足取りで階段に向かった。よくここに来るのだろうか。私は黙って彼女についていった。そのまま、屋上まで進んだ。

「ここね、町が見渡せるの。ほんとは入っちゃいけないんだけど、こうやってたまにここに来てるんだ」

 彼女は笑って言った。何だかほっとした。彼女が安心したような顔だったからだ。ここに愛着があるのかもしれない。

 確かにそこは、かなりの高さだったため、町全体を一望できた。空が低く感じられ、灰色の雲が私たちを覆っていた。風の音しか聞こえず、私たち二人しかこの世界に存在しないかのようだった。

「ね、気持ちいいでしょ」

「……うん」

 彼女は、剥き出しになっていたコンクリートの柱に近づき、そこに座った。私はその隣に腰を下ろした。

 彼女は、どうしてここに私を連れてきたのだろう。景色を見せたくて連れてきたのではないような気がした。

「頼み事っていうのはね」

 彼女はおもむろに口を開いた。

「見ててほしいの、私が死ぬのを」

 私は彼女の横顔を見返した。何を言い出したのか、一瞬分かりかねた。

「ここにはね、ほんとに耐えられなくなったときに来るの。雨の日に。ここで、町を見ながら雨に濡れて過ごすの。昨日、言ったでしょ。雨が好きだって。私の傷を洗い流してくれる気がして、だから雨の日ここに来るの」

 彼女はゆっくり話し始めた。いつの間にか、彼女の手にはカエルのキーホルダーが握られていた。

「でももう私、耐えられなくなっちゃった。私は、負けたくなんてなかったの。あんな人に、負けてたまるかって、傷つけられるままでいたくないって。でも、何もできなかった。本を読んでるときが、自分を忘れられるから安心した。でもそれもだんだんきつくなってきて。だから死ぬしかないなって思ったの」

 頬に冷たいものが当たった。空を見上げると、雨が降ってきた。

「雨だ」

 彼女は、笑った。本当に、幸せそうな笑顔だった。私は、何も言わなかった。彼女の幸せそうな様子を見て、彼女が死ぬのを止める資格は私にはないと思ったから。

 彼女はカエルのキーホルダーから、何か白いものを取り出した。物が入れられる仕組みになっていたことに私は驚いた。

「これね、お母さんが持ってたの。黙って持ってきちゃった」

 彼女はいたずらっぽく笑う。そんな彼女が、私には愛おしかった。

「薬なんだって。本当は睡眠薬として使うんだけど、量を間違えると死んじゃうみたい」

「……それを飲むのか」

「うん」

 彼女はもう決意を固めたようだった。

 私は、本当は止めたかった。彼女のいない生活なんて考えられなかった。これから先どうやって過ごしていけばいいのか、見当がつかなかった。でも、それは私の自分勝手な考えなのだ。彼女のためではなく、私のために行動することになってしまう。今まで彼女の抱える闇に気づいてやれなかった詫びとして、せめて最後は彼女の思いのままにさせるのが一番だと思った。

「私に起きた今までのこと全部、あなたの心のうちにしまっておいてほしい。私、もうこれ以上他の人に私の人生をめちゃくちゃにされたくないから。私たちだけの秘密にしてくれるって、誓ってくれる?」

 彼女は私の目を見つめた。私も彼女の目を見つめた。私はもちろん、と頷いた。

 雨が、強くなってきた。私は、夏の、アブラゼミがわんわん鳴っているあの季節を思い出した。

「……ねえ」

「……うん?」

「私、あなたに会えてよかった」

「……おれも」

 彼女はふふっ、と笑った。

「……なんだよ」

「結局その口調は直してくれなかったね」

「この方がおれらしいだろ」

 彼女は少し考えて、そうかも、と笑った。

「あなた、優しいよね」

 そんなことは、ない。彼女の悩みを、どうすることもできなかった私には、優しいなんて言葉は似合わない。

「優しくなんて、ねえよ」

「ううん、優しいよ、とても。私、あなたがいて、よかった」

「おれも、お前と出会えて、よかった」

 彼女は笑った。雨のせいか、泣いているようにも見えた。

 私も笑った。雨のおかげで、涙を見られずに済んだ。

 そして彼女は、薬を口に入れて、目を閉じた。


 八


 倉庫に横たわった彼女を見つめながら、私は彼女と廃ビルに行った日のことを思い出していた。

 あの後私は、彼女をここに運んだ。彼女から、自分が死んだら死体を隠してくれと頼まれたからだった。私はとっさに隠し場所が思いつかなかったが、一度この倉庫に運んでから隠し場所を探せばいいと考えた。この倉庫のことは小さいころ家族で山登りに出かけたときに知っていた。

 以前、彼女の家に遊びに行ったとき、どういった流れだったか忘れてしまったが、私は彼女に口づけをしようとした。だが、彼女はそれを拒んだ。こういうことは、やめよう、と。

「私たちは友達だし、こういうことはやめようよ」

 それに、と彼女は申し訳なさそうに言った。

「私たち、女の子同士だし」

 私は、裏切られた気分だった。彼女も、私と同じ気持ちだと思っていた。だが、そうじゃなかった。その日は、そのまま、彼女の家を去った。翌日から、私たちは友達として、お互いに必要以上に踏み込まなくなった。

 私は彼女への想いを諦めきれなかった。彼女は私にとって、かけがえのない存在になってしまっていたから。

 だから私はあの日、彼女が薬を飲んだ後、彼女に口づけをした。してはいけないことをしてしまったみたいで罪悪感があったが、彼女なら許してくれるような気がしたのは、甘えだろうか。

 アブラゼミが泣いているかのような大雨が降っていた。彼女の顔は雨に濡れ、涙を流しているように見えた。

 あれが最初で最後の口づけだ、と心に決めていた。思い出として大切にしよう、と。私は、あの夏の日を思い出した。彼女が私に腕の傷を見せてくれたあの日を。あの日、ちゃんと彼女と話していれば、こんな結末にはならなかったのかもしれなかった。だから私は、これ以上過ちを犯さないよう、あの日を覚えていようと思った。なら、あの日、あの夏、彼女に口づけをしたことにしようと思った。そうすれば、忘れることはないだろう。それに、彼女に口づけした日と、廃ビルであの出来事が起こった日を一緒にしたくはなかった。

 私が静かに彼女を見つめていると、

「来てたの?」

 彼女は驚いたように身を起こした。

「ああ、今家の前で警察に会った」

「うそ、大丈夫だった?」

「大丈夫、だと思う。でも、念のためここは離れたほうがいいかもしれない」

 そうだね、と彼女は俯いた。どこに行くべきか考えているのだろう。

 あの日、倉庫に彼女を運んだあと、私が隠し場所を探そうと外に出ようとしたとき、後ろからうめき声が聞こえた。驚いて振り返ると、彼女が咳をしながらうずくまっているのが見えた。

 私は急いで彼女のところへ走った。何が起きているのか分からなかったが、ただ夢中で彼女の介抱をした。

 彼女は声をあげて泣いた。本当は死ぬのが怖かった、もっと生きていたいと思った、よくわからないけど今こうやって生きているのが凄く嬉しい。彼女の叫び声は、私の耳に強く刻まれた。私も泣いた。謝り続けた。本当は止めるべきだったのに、彼女の気持ちに気づくべきだったのに、彼女を支えるべきだったのに、何もしてあげられなくてごめんなさい。私たちは抱き合って大声で泣いた。

 どうやら薬が幸運にも効かなかったらしい。量が中途半端だったのか、そもそもその薬で死ねるということ自体が嘘だったのか。いずれにしても、私は心底ほっとした。

 あの日から、私は彼女を救える人間になろうと思った。これまでのことを反省して、彼女のために生きようと誓った。

「……あれは、どうしよう」

 彼女は倉庫の隅を見遣った。

 そこには、古く錆びついた椅子があり、その上には黒い物体が置かれていた。異臭を放ち、虫が湧いていた。

「おれは、あのままにしたほうがいいと思う。あんなの、触りたくもない」

 私は嫌悪感をいっぱいにして言った。彼女は頷いた。どうやら同じ気持ちだったらしい。

「ねえ、どこ行こうか」

 彼女は笑った。彼女は最近憑き物が晴れたかのように明るい。そんな彼女を見て、私は幸せだった。

「お前が行きたいところなら、どこでもいい」

「そっか」

 彼女は少し思案する素振りを見せ、笑って言った。

「じゃあ、ギアナ高地、行こうよ」

 私は笑って、行こう、と頷いた。

 彼女の好きな雨が多いところ。その場所で、二人で暮らす。色んなお話をして、雨の日には二人で外に出て、滝も見に行って。想像するだけでわくわくした。

 私と彼女は手を繋いで扉へと向かった。その扉の先には何が待っているのか、私には分からなかった。でも、彼女と一緒ならどこへでも行ける気がした。何でもできる気がした。私は幸せだ。本当に、幸せだ。

 扉を出るとき、彼女は倉庫の隅を振り返った。あの椅子を見つめて、呟いた。

「じゃあね、お父さん」


あら~^^

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