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01

 ——品川湊には物の怪が出る——

 幕末の江戸市中で、そんな噂がまことしやかに囁かれていた。


 品川宿の東に位置する船着場。

 満月の夜になると、近くの浜辺に黒髪の美女が現れるという。

 噂というのは、その黒髪の美女は妖怪で、彼女の誘惑に負けた者は恍惚の表情を浮かべたまま、闇の彼方へ連れ去られてしまうというものである。

 女に縁の無い男衆の中には、一縷の望みをかけて浜辺を訪れる者も在るなど、なんだかよく分からない人気のある妖怪であったが、実際に還らぬ人が居るらしいのだから笑えない。


「その噂、本当なのかしら」


 そんな曰く付きの夜の浜辺で、寄せては返す波間に紛れ、道掛ルナは両腕を抱く仕種と共に不安を口にした。

 美女妖怪の存在など、女にとっては只の恐怖の対象でしかない。

 その傍には、寄り添うように佇む長身痩躯で散切り頭の、若い男の姿があった。

 初冬の夜の風が、羽織の裾をふわりとはためかせている。

 

 この頃江戸を騒がせる、薩摩藩邸を根城にする尊王攘夷派の志士と、人気茶屋の看板娘のお忍びの恋。

 不安定な社会情勢の中、日没後に宿場町から出るなどという事は難しい。

 二人の逢瀬は店仕舞いの後、街道筋から一段下がった浜辺が常となっていた。


「どうかな、この手の噂って、自分が体験する以外に真偽を確かめる方法がないからね。

 にもかかわらず、体験したら帰ってこられないわけだから、この先もきっと噂の域を出る事はないだろうね」


 風に流された雲の切れ間から、丸い月が姿を現わした。

 この日は満月。

 降り注ぐ月光が海に反射して、まるで水平線の向こうに黄色い道が続いているように見える。

 湊町に住む人間にとってはごく当たり前の光景であっても、想いを寄せる異性と眺めるそれとあっては、また格別の景色に見えるものだ。

 とはいえ此処は噂話の発祥地、しかも曰く付きの満月の夜である。

 そんな所に居るのだから、若い女の口から不安が漏れ出るのも当然の事だった。


「なんだか……怖いわ」

「大丈夫だよ」


 秋野春鷹が優しく声を掛ける。


「ルナは大丈夫。

 もしそんな物の怪が現れたとしても、必ず僕が守ってみせるから」


 ハルは打刀の鞘に手を遣り、くいと持ち上げてみせた。

 無銘の刀ではあるが、これまでの争乱を共に潜り抜けてきた愛刀である。

 惚れた女の命くらい守れて然るべき、そう思って疑わない。

 微笑む優男の所作に、ルナの表情も緩む。

 彼の腕の立つ事は知っている。

 相楽総三の集めた志士の中でもその実力は一番で、相楽の護衛を一手に引き受ける剣豪である。


 つい先日、薩摩長州に対し倒幕の密勅が下されるのと時を同じくして、徳川慶喜は政権を朝廷に返還する大政奉還を上奏した。

 これにより、武力倒幕によって徳川家を排斥し、自分たちを中心とした新しい政治体制を作る筈だった彼らの思惑は頓挫した。

 徳川家の保持し続けるであろう影響力を疎んじる薩摩藩が次に仕組んだのは、放火や掠奪暴行による幕府への挑発行為であった。

 それを担ったのが相楽総三ら草莽の志士や薩摩藩士であり、春鷹は相楽のボディーガードであった。


 ルナは彼らのやっている事を決して肯定などしていなかった。

 彼らは、天子を長に戴く強い国、欧米列強に抗する為の新政府を樹立する為のこれは必要悪と言った。

 信用と権威の失墜した幕府に味方する商人や浪士役人達がその標的とはいえ、相楽達の所業は時の政権に対する明らかなテロ行為である。

 善良な市民として、そんな事が到底是認できる筈がない。

 だがルナは、秋野春鷹という男を信じていた。

 出逢いは、彼女が暴漢に襲われていた所を助けられたなんていう、おとぎ話のお姫様みたいなシチュエーションだったけれど、話していくうちに彼の内面に触れ、ハルは人思いで優しく、心から民衆の幸福を願っている愚かしくも微笑ましい男だということをルナは理解していった。

 そのハルが信じる道を信じて見守る事が、ルナにとっての矜持であり、愛でもあった。


「あ、でも」


 急に思い付いた様な顔で、ルナが口を開く。


「その妖怪に連れ去られるのって男だけじゃない? 誘惑に負けてって所。

 私はそんなものに誑かされたりしないし。ハルぅ、貴方は大丈夫なのかしら?」


 胡乱げな目つきで意地悪な質問。

 好き合う同士、ちょっと揶揄(からか)いたくなる時もある。


「大丈夫に決まってるさ、僕はそんな女なんかに興味ないし」

「ふーん、どうかしら」


 敢えてつっけんどんに返すと面白い反応が見られる事を、ルナはこれまでの付き合いで知っている。


「ほ、本当さ! それに……」


 ほら、すぐムキになる。

 ハルのそういうトコロが可愛くて好きなのだ。


「それに、なに?」

「えっ、そ、それに……?」

「何か言いかけてたじゃない、それに、何なの?」


 人気茶屋の看板娘だけあって、表情や仕草だけでなく口もよく動く。

 言葉に詰まるハルの狼狽ぶりを心の中でたっぷり味わいつつ、意地悪だなあ私はと内心ほくそ笑むルナの表情は、千両役者顔負けのシリアス顔である。


「そ、それに僕は……いや、僕の……」

「僕の、なに?」


 ルナはハルをじーっと見詰めている。

 一呼吸置いてから、観念した様にハルが想いを吐露する。


「僕の好きな人は、この世界でルナだけだよ」


 たっぷり沈黙を守って、愛の言葉を噛み締めるルナ。

 この、私に参っている男のなんと可愛いことか。

 ああ、私も貴方を愛している。

 一生を、貴方と添い遂げたい。


 そんな蕩けるような感情を胸に秘めて、ルナは海と満月を背にしてハルへと向き直った。

 月明かりに照らされたハルの恥ずかしそうな顔を見て、トドメとばかりにそっと囁く。


「じゃあ、証明して」


 喉仏を上下させるハル。

 ゴクリと唾を呑んだのが明らかで、その素直な反応がルナにはとても嬉しい。

 ハルは徐に距離を詰め、愛しい女の肩に手を遣った。

 女は静かに目を閉じ、僅かに顎を突き出して彼の唇を呼ぶ。


 視覚を遮断した世界で、打ち寄せる波の音を聴く。

 ハルの手が震えているのに気付いて、また可笑しくなるけれど、ここは我慢我慢。


 ところが、ハルはなかなか唇を寄せてくれない。

 どうしたものかと気になって、ルナはすうっと薄目を開けてみた。

 ハルは口づけどころか、ルナを見てさえいなかった。

 口は半開きで、なんだか様子がおかしい。

 視線は何かルナの背後というか、後方に集中しているように感じる。

 思い返すまでもなく、自分の後ろにはそう広くない砂浜があって、他には夜の海があるだけの筈なのだが、其処に何か在るというのだろうか。

 とても満月の美しさに感動しているような顔じゃない。

 何か思いがけない物を見て驚いているというか、もっと直接的に言ってしまえば、これはもう、何かにビビっているという顔だ。


 二秒くらいかけてその結論に至り、少女は呼吸を忘れて硬直した。


 まさか、アレ? アレが出たの?……私の後ろに、アレが?


 自分の後ろに得体の知れない何かがいると分かってしまった瞬間、ルナは氷が背中を伝ったような寒気を覚えた。

 もうハルが肩を掴んだまま震えてるものだから、ルナにもそれが伝播して、二人一緒にガタガタ震えだす。


 ルナは建て付けの悪い開き戸みたいに、ギギギと音が鳴りそうな動きで、ゆっくりと振り返ってみた。


 骸骨がのそのそと海から上がって来ていた。

 眼窩(がんか)の奥に妖しい灯が点っている、完全白骨化した骸骨だ。

 美女妖怪ですらなかった事に突っ込む余裕など、もちろん無かった二人である。


「きっ、きゃああああああっ!」

「……っ、ルナ!」


 砂に足を取られ尻餅をつくルナの悲鳴に、ハルの剣士としての本能が目覚める。

 鞘を引き出し鍔を額に打ち付け、痛みをもって恐怖を振り払う。

 直ぐさま、ずいっとルナの前に立ちはだかって抜刀し、鞘を投げ捨てた。

 骸骨は浜に上がり、関節の擦れる音なのかガチャガチャと奇怪な音を鳴らして近付いて来ている。

 ハルは刀を正面に構え、骸骨の眉間に切っ先を向けた。

 動乱の時代に生きる剣士だ、場数はこなしている。

 例え相手が異形であれ、一旦戦闘態勢に入れば神経は研ぎ澄まされ、集中も高まってくる。


 なんの躊躇もなく迫ってくる骸骨に、死への恐れなど有るまい。

 そもそも生死の概念があるのかどうかも分からない。

 只、恐らく威嚇や牽制などは無意味だろう。

 ならばとハルは呼吸を整え、骸骨の足取りに集中する。


 一足の間合い。

 摺り足で飛び込み、袈裟に斬りつけた。

 砂浜の僅かな高低差は勿論計算に入れてある。

 だが斬りつけた相手に肉は無く、その間合いの差は意外にも大きい。

 ハルの刀は肋骨を一本こそぎ落とすに留まった。

 斬撃と同時に飛び退き、間合いを離していたハルだが、骸骨が落とした肋骨を拾い上げようと手を伸ばしたのを見て、即座に斬りかかった。


 首の骨を叩き斬る勢いで骸骨の横を通り過ぎるハルは、思いもよらない事態に息を呑んだ。

 骸骨がいつの間にか剣を持ち、斬撃を受け流したのだ。

 いや、剣というよりは棒っきれの方が近い。

 それは骸骨が落とし、自ら拾い上げた肋骨が変形したものだった。


 武器を手にしたという事実は、相手が戦闘に造詣のある化け物だという事に他ならない。

 となれば、敵の実力は如何程のものか。

 自分の剣術が通用する相手なのか。

 そもそも痛覚も無さそうな相手だ、どうすれば倒せるというのか。

 そこまで思考したハルは、骸骨の行動に瞠目した。

 骸骨は振り返る事なく歩を進め、へたり込むルナに向けて骨刀を振り上げようとしていたのだ。


 脊髄に電気が走ったような反応速度で、ハルは距離を詰めていた。

 骸骨の凶刃が愛する女に届くよりも速く、骸骨の背骨に刀を振り下ろした。

 斬るというより砕き折るという表現の方がしっくりくるような、無我夢中の強振。

 思ったよりも鈍い手応えだった。

 だが、物言わぬ骸骨にはそれで事足りた。

 背中側から、ぐにゃりと「く」の字に身体を曲げ、その場に崩れ落ちる骸骨。

 眼窩の奥は光を失い、起き上がる気配はもう無い。


 残心を解き、ふうと息を吐くハル。

 ルナの側で膝をつき、背中に手を回して彼女の安否を確認する。


「大丈夫だったみたいだね、良かった」

「ハルぅ、わた、私、怖かった……」


 ルナの言葉に頷きながら、そっと彼女を抱きしめる。

 小動物みたいに震えているのが分かって、ハルは尚ぎゅっとルナを抱き締しめた。


 彼女の温もりを感じる幸福な時間は、しかし程なくして終わりを迎える。

 波の音に紛れて、がちゃりという音を聞いたのだ。


 まだ終わっていなかったのか。

 ならば動けなくなるまで、もっとバラバラにしてやるだけだ。

 ハルは殺気を帯びたまま刀を握り締め、立ち上がり様にぐるりと振り返った。

 だが、骸骨は砂浜に突っ伏したままだ。


「……ん?」


 眉を顰めるような違和感は、その直ぐ後にやってきた。

 がちゃりという音の出所は、眼前の骸からではないと気付いたのだ。


 視野を広げたハルは、絶句する。


「まさか……なんだよ、あれ……」


 両手の指に余る数の骸骨が、海から浜へと上がってきていたのだ。

 一体を仕留めてしまった為か、今度は皆初めから武装している。


「い、嫌……何よあれ……」


 ハルの背後から異形の群れを見つけたルナは、瞬きするのも忘れ恐怖に慄いている。


「ルナ、君は逃げるんだ、早く!」


 逃走を促すハルの言葉はしっかり聞こえているはずなのに、ルナは取り乱すばかりで立ち上がる素振りさえ見せない。

 腰が抜けて立てない、というやつだった。


 秋野春鷹は歯噛みする。


 自分は相楽さんの一番刀だ。

 この命は、主人(あるじ)と認めた彼の為にこそ使われるべきもの。

 だがそれと等しく、いやそれ以上に、自分はルナの守り刀でもあるのだ。

 こんな所で、世界一愛しい女を喪うわけにはいかない。

 そんな事になればそれは、自分の命を失うも同然なのだから。


 ルナを見詰めた。

 この脅威に為す術のない彼女は、自分に対して救いの眼差しを向けている。

 それが、彼に力と勇気を与えた。


「……ルナ、大丈夫だよ」


 それだけ言って、彼女に背を向ける。

 パノラマの視界に蠢く、白骨死体たち。


 上等だ。

 俺は敗北知らずの維新志士。

 誰が相手だろうと、ただ斬り伏せるのみ。


 覚悟と自信を胸の内に吐き出した。


 とん、と跳ねるように駆け出し、骸骨の群れに向かって突進する男。

 その口から、号砲のごとき咆哮と共に叫ぶは、己の雅号。


秋野(アキノ)春鷹(シュンヨウ)、推して参る!」

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