プロローグ
——信州、下諏訪。
数多の思惑が交錯する、激動の明治維新。
荒波の如き時代のうねりは、新しい時代に夢を馳せる草莽の志士たちを呑み込み、翻弄した。
相楽総三とその同士。
一度は官軍先鋒の栄誉に与り、年貢半減の勅定を掲げ民衆を味方に付けた赤報隊は、やがて偽官軍の汚名を着せられ捕縛され、処刑された。
前日から続く、凍る程の冷たい雨の中、後ろ手に緊縛され跪座する受刑者たち。
手足の感覚など、とうに無い。
その中の一人が叫んだ。
俺たちは正義だと。
またある受刑者は、冤罪を主張する。
西郷・岩倉ら明治新政府に対し、怨嗟の声を上げる者もいた。
我らは官軍、民衆の英雄と信じていた彼らの悲痛な叫びを聞きながら、赤報隊の一番隊長は黙然と刑場の篝火を見つめている。
その心情は悲哀か諦観か、或いは忿怒か。
刑場に集まった民衆に、彼らを擁護する声は殆ど無い。
されど、相楽総三の屹然たる姿には、野次馬の中にも一種の感心を寄せる者があった。
そんな堂々たる隊長の傍で、焦点も定まらず、悔恨の念を呟く若者がいた。
「どうして……こんな事に——」
相楽に対する不穏な出頭命令に、彼は差し添え人として同行した。
だと言うのに、抜刀した際には隊長自身に差し止められ、刀を向ける先を見失ってしまう。
俺たちの処遇は薩摩藩預かりだ、話せば分かってもらえるという隊長の意向に従い、抗う事なく捕らえられてしまった。
しかし結果は、かくの通り。
捕縛の際、隊長の命令を押し切り、赤報隊ナンバーワンの実力者であった彼が本気で抵抗すれば、もしかすると仲間の下に逃げることが出来たかもしれない。
かの若者の心中に色濃く残るのは、ただ後悔の念ばかりであった。
「こんな筈じゃなかった。ルナ……僕は……」
この世を地獄に陥れるべく暗黒の使者が胎動を始めたのは、この事件の数日後。
それは、今後一世紀以上もかけて少しずつ拡がっていく——世界の綻び。
◆
盥に張った水が、少しずつ濁っていく。
透明な水が浸蝕されていく様を、他人事のように傍観する。
「——まるで、今の私の気持ちね」
自嘲した。
慶応四年。
桜も開花を迎える三月初旬。
とはいえ、庭の木陰で裸足のまま、盥に張った冷水に左腕を浸して横臥するにはまだ肌寒い。
浸した手首からは失血しているのだ、体温調節機能の面から言っても身体はどんどん冷えていく。
その傷を付けた小刀は、彼女の手元から地面に転がり、盥の横で冷たく鈍色を放っている。
本当は、この小刀で腹を切るなり喉を突くなりした方が、きっと早い。
だけど、最期に彼の事を思い出す時間が欲しくて、彼女はこんな方法を選んだのだ。
思い描いていた未来は、潰えた。
彼の言葉が頭を過る。
「この戦が終ったら、僕と——」
一人では決して叶えられない未来。
もう二度と逢えない人の、告白してきた時の真剣な表情を思い出して、涙が溢れる。
盥の淵に頬を預けると、長い髪が水に浸かり、水面に浮かぶ。
「ハル……貴方に、会いたい」
薄れゆく意識の中。
呟いて、道掛ルナは目を閉じた。
あの世で愛しき男、秋野春鷹に逢えると信じて。
————————。
遠くで、何か聞こえた気がした。
何だろう?
ルナはそう思ったけれど、すぐにどうでもいいや、と思考を投げ放した。
およそハルのいない世の中なんて考えられないし、考えたくもない。
早く死んで、あの人の下に行かなくちゃ。
だってあの人は、相楽さんのような剛毅な方を慕ってはいたけれど、本当は気弱で寂しがり屋なんだもの。
尊皇攘夷だなんてそんなもの、女の私には分からなかった。
大政奉還がなったのだから、もうそれで良かったのではないですか。
政治が分からないルナは、ずっとそう思っていた。
でも言えずに、彼女は春鷹を見送った。
「はい。貴方の帰りを、ずっと待っています」
ハルの告白にそう答えたのは二ヶ月前、雪のちらつく寒い日だった。
◆
その日、江戸薩摩藩邸は炎上した。
真冬の夜に響く銃声、轟く砲声、誰のものとも判らない怒号に悲鳴。
夜明け前の空を赤く染め上げる延焼は、あちこちで突っ伏する犠牲者を照らし、不気味に影を揺らめかせている。
その多くは、薩摩藩ゆかりの者達だった。
事前に準備を進めていた旧幕府軍に対し、応戦する薩摩藩士の被害は甚大と言わざるを得ず、彼らは機を見て藩邸を脱出する事になった。
夜明けを迎える頃になって、騒乱の潮目は品川湊へと移った。
命からがら逃げ出した薩摩藩士・浪士達は、幾つかの集団に分かれ、藩お抱えの運搬船、翔凰丸を目指した。
翔凰丸に乗り込むことが出来たのは、僅か二十余名。
その中には相楽総三と、彼の赤心愛国心に心酔する、秋野春鷹が居た。
ハルのその目は、陸に向けられている。
人目を偲び、寸刻前に熱い抱擁を交わした愛しき婚約者。
米粒のように小さくなった彼女の姿を網膜に焼き付けんばかりに、ハルは唯一点をじっと見つめていた。
品川宿の立場茶屋の看板娘、道掛ルナ。
聡明で気立ても良く、そこに居るだけで場が明るく華やぐ女性。
そして何より、美しい。
自分には勿体無い娘だ。
そんなルナと、約束を交わした。
強気を挫き弱きを助け、明治新政府を立ち上げて、民草が本当に心の底から笑って暮らせる、そんな世の中を創り上げてみせる。
その為に、倒幕への端緒を開いた相楽総三という漢に付いていくのだ。
彼ならばきっと、世の中を良い方向に変えていけるに違いない。
まだ何も成していない己だが、その時こそ自信を持って、胸を張って彼女と共に歩んでいける。
だからそれまで、絶対死ねない。
「……必ず此処へ、帰ってくる。
その時まで、彼女を頼んだよ……サリエル」
呟いて、男は拳を握りしめた。
固く。固く。