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作者: 村崎羯諦

ずっと好きだった女の子の影を買った。一万円で。


「ありがとう。手術のために少しでもお金が必要だったの」


 封筒に入った現金を手渡した後、彼女はそう言った。それから切なげに微笑むと、そっと自分のお腹に手を当てる。僕はそれだけで彼女がいう手術の意味を悟った。僕らの横を僕らに無関心な通行人が通り過ぎて行く。木枯らしが掠れた口笛を奏でながら吹き抜けていく。相手は誰かと尋ねる勇気はなかった。大変なんだねと慰める強さもなかった。ずっと好きだったんだ。僕の口からこぼれ落ちたのはそんな言葉だった。


「知ってた」


 当てつけ混じりの言葉に彼女は微笑む。澄んだ秋空のように。


「あなたなら影を買ってくれるだろうって思ったの。私って、ずるい女でしょ?」


 僕はあの日、放課後の教室で一人、担任からお願いされてプリントの掲示を行っていた。運動場からは野球部の掛け声に混じり、下校中の学生のはしゃぎ声が聞こえ、廊下側の窓からは鮮やかな色をした夕陽が差し込み、教室は茜色の水の底に沈んでいた。教室の扉がおもむろに開かれ、縦に長く伸びた影がほの暗い教室の床に映る。少しだけ間が空いて、キンと冷やした鈴を鳴らしたような声がする。


「電気もつけないで何してるの?」


 僕が顔を向けると、紺色のラケットケースを背負った彼女は呆れた表情を浮かべていた。彼女の言葉に同意するように、彼女の影も身体を揺らして笑った。首を傾げ、肩を震わせ、風にそよいで震える木の葉のようだった。


 それからのことはよく覚えていない。彼女は教室の明かりをつけ、僕の仕事を何も言わずに手伝ってくれた。彼女への恋心に気がついたのはそれよりずっと後のことだったし、優しくされたからという理由だけで彼女を好きになったわけでもない。それでも、ふと横を向いたあの一瞬、廊下の窓枠に切り取られた夕闇に浮かぶ彼女の横顔を、僕はきっと忘れることはないだろう。紫雲の隙間から差し込む突き刺すようなオレンジの光。同じ方向に伸びた二つの影。彼女の息遣い。衣擦れの音。僕たちは同じ方向を向いて、二人並んでそこにいた。それだけと言えばそれだけのことだった。でも、僕は未だにそれ以上の何かを知らない。


「じゃあね。私の影、大事にしてね」


 彼女が二、三歩に後ろに下がる。白い石畳に映っていた彼女の影が足元から離れ、その場に取り残される。影は彼女を探し求めて右往左往した後、模様のようにその場で動かなくなる。彼女は名残惜しそうに自分の影を見つめ、僕の視線に気がつくと、取り繕うように頬を緩ませた。枝毛が目立つ髪先を指に巻き付け、声にならない吐息を吐く。


「あなたのことを好きになってたら、きっと都合は良かったんでしょうね」


 彼女はその言葉だけを残し、帰るべき場所へと帰っていった。影を失ったまま。きっと二度と会うことはない。僕はなんとなくそんな気がした。どんなに僕が願っても、彼女が将来幸せを掴むことになっても、きっと彼女の横にいるのは僕ではない。彼女は僕のいない世界に生きていた。それは今に始まったことではない。そのことが余計に僕の胸をかきむしる。


 僕は彼女の影を足で踏む。影は少しだけ戸惑った後、ゆっくりと身体の向きを変え、もともとあった僕の影の横にぴったりと並んだ。僕の足元で二つの影が二股に別れて伸びている。背の高い男の影と、頭一つ分背丈の低い女性の影。僕は彼女が去っていった方向に背を向け、そのまま自分の家へと歩き出す。晩秋らしい凛とした寒さに時折身を縮こませ、人の流れに身を任せる。途中、一度だけ立ち止まり、後ろを振り返って彼女の姿を探した。彼女の姿はもちろんない。その代わり、地面には僕の足から伸びた女性の影があった。そしてその影は、僕がずっと好きだった女の子の影だった。


 どんなに世界が豊かになったとしても、幸せになれる人間の割合は予め決まっていて、優しいからだとか、可愛そうだからというもっともらしい理由で、幸せになれる人間が決まるわけではないのかもしれない。そんな神様なんていないこの世界で、彼女が、彼女の優しさに見合うだけの幸せを手にすることができたなら、それはとても素敵なことなんだろう。それでも、僕は祈る。何のために? 夕日に照らされたあの日の彼女の横顔のために。


 部屋の照明を消し、収納棚の上に置かれたテーブルランプの電源を入れる。僕はそのランプに背中を向けた状態で床にしゃがみ込む。淡い電球色の光がゆっくりと暗いワンルームに灯り、僕の足元に二人分の影が浮かび上がる。


 彼女の影はいつもと違う部屋の雰囲気に戸惑っているのか、首を左右に振り、不安そうに周りを見渡している。僕の影が彼女の影の方に向き直り、何かを伝えるかのように口を動かす。彼女の影もそれに答えるかのように、僕の影の方へ顔を向ける。薄暗い部屋の中で、僕の影と彼女の影が顔を見合わせる。僕の影が安心させるように彼女の影の手を握った。


 僕は声を潜めてその様子を見守っていた。あの日、並んで同じ方向を見ていた二人の影が、目の前で顔を合わせ、見つめ合っている。僕は小さく、そして卑屈げに笑った。そのまま後ろに置かれたテーブルランプへと手を伸ばし、照明を落とす。部屋が暗闇に包まれ、それとともに、二つの影も消えてなくなった。

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