スノーホワイト
運命とは、
最もふさわしい場所へと、
貴方の魂を運ぶのだ。
…ウィリアム・シェイクスピア
今年初めての雪のせいで電車は遅れていた。大勢の人が靴で持ちこんだ雪が、とけて水になっている。
足早にホームに降りていく人で溢れた駅。湿った空気。アナウンス。遅れた時間を示した電光掲示板の赤い字。時折聞こえる誰かの駆け足。
今日は雪だから高校も部活無しだった。
月奈が急ぐ人の流れに乗ってホームに降りようとした時、向こうから来た女の人にダンっとぶつかった。チャリンと何かが落ちた音がする。
「それ、あなたにあげるわ、全部」
突然、耳元で囁かれる。ふわっと香水が香ってくる。
「え、なんのことですか」
「それも、」
女の人が下に落ちた指輪を指差す。
「私の持ってるもの全ても」
そう言って微笑む。
「ちょっと、どういう…」
「そのうちわかるわ」
それだけ言ってくるりと背を向けて去っていく。
「え、あの!」
指輪が落ちたままだ。
「ちょっと!」
月奈は大勢の背中に埋もれて見えなくなりそうな女の人の背中を追いかけた。
「もう…」
急ぐ人に阻まれて上手く歩けない。いつの間にか、女の人の背中も見えなくなっている。
こんなの持っていても仕方がない、落とし物で届けよう、と月奈は思った。
改札の方に出ると隅の方の天井からトイレのマークと何かのマークがぶら下がっている。マークの下まで人の流れに割り込んで歩く。けれど、そこにはエレベーターしか無かった。
もしかしたらエレベーターに乗って下まで行くってことなのかもしれない、と思って、下に行くボタンを押す。ウィーンと音がして上からエレベーターが降りてくる。
心臓が体の内側でドクドク打ち付けられているのを感じた。月奈は小さい頃から狭い所が嫌いだった。
エレベーターは一人分程の広さしか無かった。もしかしたら業務用なのかもしれない、と思って乗ってもいいのか不安になってくる。月奈は届けようと思った指輪を不安そうに擦った。
行ってみるだけ、何もなかったらすぐに戻ってくれば良い、と自分に言い聞かせて、ドアが閉まるのを見つめる。
閉まった途端、駅の喧騒がパタリと止んで、思ったよりも静かな音を立ててエレベーターが下に降りる。
じわりと不安が胸までやって来るのを感じながら、月奈は埃で所々黒くなった電気を見上げた。これ何階下まで行くんだろう、とガラスの向こうの灰色の壁を見つめながら思った。そういえばこのエレベーターにはボタンがない。
前よりも強い不安がやって来た。まさか、このまま閉じ込められるとかっていうのは無いだろうと言い聞かせる。
どこかで必ず止まるはずだ。止まらないエレベーターなんて聞いたことがない。
相変わらずガラスの向こうは灰色の壁が続いている。もう、1階分は過ぎたはずだ。ずいぶん乗っているような気もする。心臓がバクバク鳴っているのがわかる。月奈はさっきかき消した不安がまたやって来るのを感じた。
「うそだ…出して」
そう呟いた時、ぱっと目の前が明るくなりどっと安心感が押し寄せた。良かった、やっぱり止まらないエレベーターなんて無かった。ドアが開いた途端、月奈はエレベーターから急いで出た。
目の前には、見たこともない街が広がっていた。
夜の闇に浮かぶ店の灯りと、騒ぐ大人たち。レンガ造りの家に石畳。
ここはどこだ。
後ろを振り返るとエレベーターなんて無かった。ただ、レンガ造りの家の壁が無表情に立っている。
酔った大人たちが月奈の前を通り過ぎる。ドレスに似たワンピースに帽子を被った女の人、カラフルなスーツにネクタイや蝶ネクタイをつけた男の人。
制服にコートを着てマフラーをぐるぐる巻いた自分が場違いに思えた。
よく見ると道に色とりどりの灯がふわふわと浮いている。まるでお話の中の世界みたいだ。魔法が存在するような、そんな世界。
ふわふわと目の前に金色の灯が漂ってくる。まるで誘うように月奈の前で止まってから、通りを漂ってゆく。月奈はゆっくりと、その後をついて行った。
いくつか角を曲がり、人の少ない小さな通りに出て少し歩くと、突然、金色の灯が古ぼけた店の木の扉に吸い込まれるように消えてしまった。そして、キィという音を立てて扉が開く。中から出てきた若い金髪の男が、店の光に照らされてポツンと立っている少女を驚いたように見つめる。男は少女の風変わりな格好をしげしげと眺め、それからニヤリと笑って言った。
「迷子かい?子猫ちゃん」
男は驚くほど綺麗な顔立ちをしていた。
「君はこの町の子じゃないね、どこから迷い込んで来たの?」
首を僅かにかしげながら、深い、優しい声で囁く。
「どうして迷い込んで来たってわかったんですか?」
月奈は男のグリーンの瞳から目を離さずに言った。透き通ったガラスのようなグリーンの瞳がゆらゆらと光で揺れている。
「僕も昔、迷い込んできたんだ。だから君の格好を見てわかった。ところで、君はこれからどうするつもり?その様子じゃさっき迷い込んで来たって感じだけど」
「私、早く帰りたいんです。急にここに来て、全然知らないところだし、どうすればいいかわからなくって、灯を追いかけたらここまで来ちゃったんです。」
月奈は興奮したようにまくし立てた。話せば話すほど、不安が押し寄せてくる。
「残念だけど元の場所に帰る方法は僕にもわからないんだ。僕も相当探したよ。でもわからなかった。君も僕と同じようにこの町に慣れることを考えた方がいい。」
「帰れないなんて…私本当に来たくなんてなかったのに。突然女の人にぶつかって、こんな所にいて、どうしたらいいか…」
月奈は行き場のない怒りがふつふつと沸き上げてくるのを感じた。
「そもそも、あの女の人があんな事言うから!いきなりあげるだなんて、何がなんだかさっぱり…」
少し前を歩いていた男が立ち止まって急に笑い出す。
「そんなに元気なら大丈夫さ、そうだ!君、僕のいる孤児院に来る?」
「孤児院にいるんですか?」
「うん。助けてくれた人が孤児院の院長先生だったんだ。アルモン先生って言うんだけどね。それでそのまま預かってもらうことになった。
僕も君と同じだったからね、君を見捨てるわけにはいかないよ。」
男は月奈を見つめながら優しく言う。
「ありがとうございます。でも私そんなにお金持っていないし、それにこんな急に…勝手に大丈夫なんですか?」
「お金なんていらないよ、孤児院なんだから。たぶん大丈夫だと思うよ。アルモン先生は寛容な人なんだ。
そういえば、名前を名乗るのを忘れていた。僕はフラム。君の名前は?」
町に溢れる光が月奈とフラムを淡い橙色に染める。月奈は足を止めて、フラムを見つめて言った。
「月奈です。」
「ルナちゃんか、良い名だね。出身はどこ?」
それから丘の上の孤児院まで歩きながら、ルナはころころと話題の変わるフラムの話に置いていかれないように必死でついていった。
フラムは日本人ではなかったが、生まれも育ちも日本だった。流暢な日本語と金髪にグリーンの瞳の訳がわかって、ルナは初めてほっとしたが、心の奥を見透かす様な瞳にはまだ慣れなかった。触れたらパリンと割れそうな瞳。ただ、ルナが落ち着かないのは、単にグリーンの瞳を見たことが無かったからかもしれなかった。
「それと、その指輪はなに?」
フラムは、ルナが左手の人差し指に付けている青い宝石の指輪を指差して言った。
「これをあげるって言われたんです、ぶつかった女の人に。それでこれを落とし物で届けようと思ってエレベーターに乗って、降りたらここに来ていて」
「その女の人が気になるな。一応アルモン先生にも伝えた方がいいかも知れないから僕から言っておくよ。」
「でも私、全くその人のこと覚えてないんです。どんな顔だったのかとか…そもそも顔なんてよく見てなかったかも」
「その女の人を見つけることはほぼ不可能だろうから覚えてなくてかまわないよ。」
それから、フラムが自分の右手をじっと見つめると、突然ふわっと湧き上がる様にグリーンの炎が手の上に現れた。
「これで安全に孤児院まで案内できる」
グリーンの炎は、フラムの手を飛び出すと二人の少し前を漂って丘の道を照らしている。
「すごい!綺麗な色の火ですね!魔法使えるんですか?」
「これくらいしかできないけど、一応ね」
「元の世界にいた時も使えたってことですか?」
ルナは不思議に思いながら尋ねた。
「まさか!いろいろ訳があってね、魔力を分けてもらったんだ。」
「じゃあ私は、この世界に来たからって魔法が使えるわけじゃないんですね」
ルナは残念そうに呟く。
「そういうことになるね。でも使えるって言ったってこれくらいしかできないんじゃ正直無くても変わらないよ」
フラムが右手を見つめて笑いながら言う。ルナは一瞬、グリーンの瞳に悲しい影が揺らめいたように見えた。フラムは飄々としているように見えて、実は繊細な人なのかもしれないと、ルナは思った。
丘の上の孤児院には思ったよりも早く着いた。石造りの孤児院の庭には橙色の灯がふわふわと浮いていて、灰色の壁を暖かい色で染めている。
「僕たちの家へようこそ」
フラムが手をドアの前にかかげて古い木でできたドアを開いた。ルナがそっと足を踏み入れると、パチっと音がして廊下の明かりが点く。古いけれど埃はなく、かび臭くもなかった。
「つきあたりの左がリビングだよ。そこで待ってて」
フラムはそう言って階段を上った。ルナは冷たい廊下をそろそろと歩いてリビングに入った。所々擦り切れたワインレッドの絨毯の上に、大きなソファが5つと一人がけのソファが7つ。ルナは深緑色の柔らかいソファに座った。窓は庭に面して3つあり、時々淡い橙色の灯が通り過ぎていく。
背後でフラムの足音が聞こえ、ルナは窓から目を離して振り返った。
「ルナちゃん、アルモン先生がお呼びだよ。先生の書斎は4階のつきあたりの部屋だ。僕はここで待っているよ。行っておいで。」
書斎のドアを開くと、初老の男性が本を手にして本棚の前に立っている。
「こんばんは、ルナさん。はじめまして、私がアルモンです」
アルモンがルナに近寄り握手を求める。
「こんばんは、アルモン先生。勝手に来てしまってすみません」
ルナがシワの寄った温かい手を握りながら言うと、アルモンは柔和な笑みを浮かべて言った。
「そんなことありませんよ、困っている子供たちを助けるためにあるのが孤児院というものですから。
ところで、ルナさん、ここに来るまでのことを教えてくれませんか。フラムから興味深いことを聞いたので。」
ルナはそれから覚えている限り詳しく話した。アルモンは、女の人にぶつかった、とルナが言うと低く唸り、本棚を意味もなく眺めた。
「ありがとう、ルナさん。もう遅いからお帰り。部屋は明日、決めましょう。今日のところはフラムに聞いてください。」
そのまま追い返されるようにルナは部屋を出た。女の人がそれほど大事なのだろうか、こんなことならもっと良く顔を見ておけば良かった、とルナは後悔した。
ルナはその日、リビングにある大きな茶色のソファで眠った。目をつぶるとすぐに眠気がやってきて、ルナは何も考えずそのまま落ちるようにストンと眠りについた。
ルナが眠りに落ちる頃、アルモンの書斎の机の前に一人の少年が立っていた。
「なんですか、こんな夜に」
長い黒髪を背中の真ん中辺りまで伸ばした少年は、不機嫌そうに口を開いた。
「まぁそんなに怒るな、シエル」
少年の機嫌の悪さを気にしないアルモンを見て、シエルと呼ばれた少年は長い睫毛を伏せてため息をつく。
「実は予想もしてなかった事が起きたんだ。恐らく我々だけでなく、相手も予期してなかった事だろうと思う。
光の女神が現れたんだ。しかも我々の下に。何千年ぶりなんだろう!神話だと思っていたよ。未だに彼女に会えたことが不思議なんだ。彼女を前にしてあれほど冷静に話せたなんて!ともかく彼女が意味する事はわかるね?なんという幸運だ!いよいよ我々に勝ち目が出てきたぞ」
アルモンは机の上の羽ペンをうっとりとなぞりながら言った。
「光の女神は神話です、本当にいるわけがない。そんなもの誰かが作ったお話だ。そういうものにすがりつきたい気持ちはわかりますが、証拠はあるんですか」
シエルは興奮しないたちだった。焦ることも表情が変わることさえ、アルモンはあまり見たことがなかった。
「あるとも!彼女の付けていた指輪だよ。あれは凄まじい魔力を放っていた。あんなに強い魔力を見たのは初めてだ。あれを付けていて平然としていられるなんて、彼女も指輪を凌ぐ魔力を持っているに違いない!」
アルモンの言葉にシエルは少し唸った。
「指輪を見なければ判断できない。ひとまず明日になるのを待ちます。彼女は今どこに?」
「さぁ?フラムに頼んだよ。なにぶん興奮していたのでね」
シエルはため息をついて、バタリとドアを閉めて出ていった。
シエルが書斎を出てリビングを覗くと、ソファに物陰があるのを見つけた。やはりここに寝かされたのだ。光の女神かもしれないというのにずいぶん雑な扱いだなとシエルは苦笑した。彼女は毛布も掛けずに丸くなって眠っていた。シエルはじっと彼女を見つめた後、さっと毛布を魔法で取り出し彼女に掛けると、欠伸をしながらリビングを出た。