身を粉にして恋をする
くろーばーデンタルクリニック内には、清潔感を押し付けるかのような薬品のにおいときゅいーんという機械音が響く。これを嫌う人も多いだろうけれど、俺は大好きだ。
「近藤さん、こんにちは」
ここにはいつも、絶えない笑顔を向けてくれる真絢さんがいるから。
「椅子お倒ししますね。前回からお変わりありませんか?」
「はい、大丈夫です」
「では、今日も染め出しから始めますね」
染め出しをする、とは歯垢や歯石に色がつく薬品『歯垢染色剤』を使って、磨き残しがないかチェックする事だ。このクリニックでは青いインクを使用している。綿にたっぷりとついた染色剤が、俺の体に塗られていく。
真絢さんの手で染められていく。真絢色に染まる。その快感に身を震わせた。けして虫歯があるわけではない。
「椅子を起こしますので、軽く口をゆすいでください」
何度となく聞いた、定型の言葉。何度通おうが彼女は毎回、きちんとやり方を説明してくれる。
インクを軽くゆすぐことで、憎き歯垢のありかがまざまざと浮かび上がるのだ。
俺の主人である美和子さんが口をゆすぐと、再び椅子が倒される。真絢さんは真剣な瞳で俺たちを確認して回った。
「近藤さん、今日もキレイに磨けていますよ。毎日頑張ってらっしゃいますね」
にっこりと笑みを浮かべてくれる。美和子さん、よくやった! 褒められたらとんでもなく嬉しいものだ。相手が真絢さんだからなおの事。
俺は近藤美和子さんの一番奥の歯。仲間内ではケイタと名付けられている。軽くゆすがれたおかげで、俺の体にはほんのりと青く色がついているだけだった。濃い色がつかなければきちんと磨けているという証。
俺の自慢は、奥歯でありながら無傷であること。三十代に入って途端に増えた美和子さんの虫歯。でも俺はなんとしても守り抜いた。それが俺の使命だから。
リーダーの歯が虫歯になるわけにはいかない! 奥歯でありながら無傷でいるというのはとても苦労する。
真絢さんの事を好きになったのは、最初の検診の時からだった。ズボラで、面倒くさがりで、ブラッシングを指導されても嫌々話を聞いていた美和子さんに、熱心な思いで歯の大切さを語ってくれた。
「歯は、一度ダメにしたら元には戻らないんです。ご自身の歯、大切になさってください」
まるで直接「あなたは大切な歯だよ」と言ってもらえている気がした。歯は痛くならないと注目してもらえない。美和子さんだってそうだった。歯磨きは手抜きで大事にしてくれないし、お酒を飲んでそのまま眠る事もしばしば。虫歯になる仲間達に対して見て見ぬふりをしていた。だが、自分の歯でもないのに真絢さんは俺たちの事を思ってくれていた。職業柄当然だ。
俺はリーダーとして疲れていたのだろう。可愛い笑顔と優しい物言いは、仕事とわかっていても俺のエナメル質を溶かすほど甘い言葉に聞こえた。心酔した。
歯磨きに頓着のなかった美和子さんが傷みに耐えかねて通院を始めた段階で、右上六番のユーヒと左上七番のサリーは物言わぬ銀歯となってしまった。神経を奪われたからだ。
ちなみに最奥の俺は右下八番である。前歯から一番、二番、と奥へ行くと番号が増える。
虫歯に懲りて、美和子さんは定期健診に通う事にした。歯科衛生士である牧野真絢さんが担当になって、一年以上がたった。
マスクで顔の半分下は隠している。それでもわかるかわいらしさ。時折、そのマスクを顎にかけて会話してくれるが、それもまた可愛い。
常に優しい笑顔。茶髪をキレイに巻いて、それをポニーテールにしている。いつ見ても、それを飾るシュシュは違う柄だった。派手な色合いではなく、黒やグレー、茶色の物に小さなラインストーンやパールがついているものばかり。真絢さんなりのオシャレなのだろう。
「ではお掃除始めますね」
一年かけた一連の歯のクリーニングで、歯も歯茎も調子は大変いい。美和子さんは甘いものも控えるようになり、毎日時間をかけて丁寧に歯ブラシ二種と歯間ブラシ、デンタルフロスを駆使している努力が実った。
真絢さんの顔が近づいてくる。長く、すっとしたまつ毛はナチュラルにカールされ、マスカラもついている。アイラインやアイシャドウはつけていないが、むしろ大きな瞳は強調されて見えた。
スケーラーと呼ばれる、先端がフック状になっているステンレス棒で手磨きでは溜まりがちな歯垢や歯石を取り除いていく。こればかりはきちんと歯磨きをしても取り逃してしまう。だからこそ、こうしてプロフェッショナルクリーニングを受けることが大切だ。
その後は機械による表面のクリーニングに移る。ペーストを歯の表面に塗り、電動ブラシで着色汚れや歯垢など、日ごろの歯磨きでは取れない頑固な汚れを落としていくのだ。そういった器具とも「はじめまして」「お久しぶり」などと挨拶もする。
爽やかなミントの香り。緑色で研磨剤の入ったペーストは家庭で使う歯磨き粉とは違い、泡立たない。泡も好きだが、ブクブクと苦しくなるので好かない歯も多い。
先ほどの青い染み出しのインクも一緒に落とされ、俺たちはぴかぴかの白い歯に戻っていくのだ。
歯間ブラシやフロスをして、クリーニングは終了となる。
俺の恍惚の時間は終わった。三十分かからず。短い。最初は予約時間の三十分を過ぎる事もあったが、最近は余裕をもって終えてしまう。
「お疲れ様でした~」
甘い声で、美和子さんの首元にかけられたタオルと紙エプロンを外してくれる。そんな声を出されたら、俺の歯の表面のエナメル質がまた溶けてしまう。再石灰化しなくては!
「ありがとうございました」
美和子さんは三十五歳、独身。
落ち着いた雰囲気で、髪も楽ちんという理由で黒髪ボブだ。白髪染めもまだ不要で、人生で髪を染めたこともピアスの穴をあけたこともない。
大学を出て二、三年と思われる真絢さんとはきっと、生きてきた道筋が違うのだろうなと思う。
俺はそんな美和子さんも好きだけれど、いかんせん主人、親という立場なので恋に落ちたりはしない。俺が物心ついたときには小学校中学年の先輩だった。――例外もいるが。
「次回のご予約なんですけれど、今までひと月に一度ご来院していただきましたが、お口の状態もいいので、三か月に一度にしますね」
「わぁ、そうですか! 嬉しいです。牧野さんのおかげです」
「いえいえ、近藤さんの日々の努力ですよ」
きゃっきゃと喜ぶ声を発している口で、俺は頭を抱えたくなった。頭なぞないけど。
三か月に一回しか、真絢さんに会えなくなる、だと? そんな! 真面目に歯磨きを頑張った美和子さんひどいじゃないか! いや、酷くはない。しかし、でも、ああ!
俺の心の葛藤など知らず、美和子さんは予約をとって待合室へと戻っていく。その足は浮足立っていた。
きちんとパウダールームを用意しているくろーばーデンタルクリニック。そこにはリップメイク用のリムーバーやコットンも常備してある。
美和子さんは治療後ここでメイク直しをする。ズボラではあるが美に執着していない訳ではなく、身なりはきちんと整えている。
口紅が唇に近づいてくる。その時に唇をほんのり開き、ゆっくりなぞりながら塗る姿は、我が主人ながらセクシーだった。鏡越しに、唇の隙間から見ると歯三十二本はざわつく。二本は銀歯だから何も語らないが。ちらり、とユウトを見る。表には出さないけれど、彼は美和子さんが好きだから喜んでいるだろう。
会計を待つ間も、絶望の淵に立たされたような気分になっていた。
三か月後。それまで真絢さんに会えないなんて。
俺は世界の終わりのような気持ちになっていた。
「ケイタ、そんなに落ち込まなくても。定期健診の回数が減るのはいい事じゃない」
俺の真上、右上八番のヒロコちゃんが声をかけてくれた。
気が付けば、美和子さんは寝る前の入念なブラッシングを終え、眠りについていた。
俺たち歯の仕事は今が忙しい。寝ている間は細菌が活発化するので、戦い続けなくてはならない。憎きミュータンス菌。俺たちの敵だ。あいつらが歯をう蝕するから虫歯になる。「ミュータンス」などという横文字でイケてる輩が、我が物顔で我々に貼り付いてくる。ウザすぎる。人間でいえば、コンビニ前にたむろする不良みたいなもんだ。まったく。
他にも悪い細菌はたくさん。それらだけを倒す薬を開発してほしいが、そうしたら真絢さんに出会えなかったと思うと複雑な願いだ。
「ああ、もう夜中か」
落ち込み過ぎて、意識が飛んでいたようだが怒りで我に返る。あまりの事に、周りの歯も声をかけにくかったのか。夕飯に何を食べたか記憶にない。
「これからが本番なのに。しっかりして、リーダーなんだから」
ヒロコちゃんの遠慮がちな声に、ようやく意識もはっきりしてくる。そう、俺は美和子さんの歯のリーダーなんだ。
だからミュータンス菌に張り付かれても、美和子さんの下手だったブラッシングの時代も、休まず再石灰化に尽力した。他の歯がさぼっていても、俺だけは彼らに声をかけ続けてきた。
それは、定期健診に通うようになっても変わらなかった。真絢さんに見てもらうからこそ、もっともっと頑張れた。
頑張った結果。それが俺と真絢さんとの距離を作る事になるだなんて。
ため息の止まらない俺に対し、左下八番のシンジが意地の悪い声をあげる。
「ヒロコちゃん、優しい言葉なんていらないだろー。ケイタにはもったいない」
「そうだよ、人間に恋したって、歯が惚れられるわけないんだ。おれたちは恋なんてしなくていい、する必要がねえ。美和子さんの健康の為、彼にキレイだと思ってもらう為に審美に務めるだけじゃね?」
口の悪いユウトも混ざってくる。ユウトは、美和子さんが好きという例外中の例外の歯だ。美和子さんは主人であり、親である。そんな相手を好きになるとは、俺が言うのも違うが酔狂な事だ。そんな彼の口から「恋しなくていい」と聞くのはいささか悲しい。
「そーだよ。落ち込む事すらばかばかしい。それにしても、美和子さんの彼はいったいいつ離婚して、プロポーズしてくれんだか。気になる気になるぅ」
「シンジ、子供っぽく茶化すのはやめろ」
その事で、当人以外で一番心を痛めているのはユウトであろう。俺はなにも言えなかったが、知らぬシンジはお構いなく続ける。
「んだよ、ユウトはそうやって俺の事いっつもガキ扱いしてバカにして」
「してねぇよクソが。歯糞塗りつけるぞ」
「二人とも、汚い事を言わず、ちゃんと細菌退治しろ」
「そうよ、仲良くしましょう」
俺とヒロコちゃんの仲裁に、二人はふん、と言って会話を辞めた。どうにも相性の悪い二人だ。
とはいえ、俺も美和子さんの事が気がかりである事に違いない。
五年付き合って、美和子さんも三十五歳。歯連中が焦るのもわかる。相手は「妻とは別れて君と結婚する」などと言っているような男なのだから。
結婚する気がなさそうだし、こちらから別れた方がいいんじゃないか。いやいや、俺たちの上を通り過ぎている美和子さんの愛の言葉を聞いていたら、とてもそんな事は言えないよ。と、ざわざわ会話をしながら、細菌との闘いに備えて準備運動をしている。
今日は一人になりたい。と、思っても、一生この場所から離れない、離れる事は出来ない。
人間はいいよな。ひとりでカフェに行ったり、海を見に行ったり、気分転換の方法がいくらでもある。
歯はいつも、ぎゅうぎゅうにくっついて生きていかなくてはならない。息が詰まる思いだ。
口の悪い奴とガキっぽい奴の喧嘩の仲裁なんて、あと何十年やればいいんだろうか。
「恋する必要がない」
わかっていたことだけれど、ハッキリと傷ついた心の状態で言われるとものすごく染みる。知覚過敏ではない……はず。
真絢さんに会いたい。もっと会いたい。
俺は上の空で細菌から身を守りながら、真絢さんの事ばかり考えていた。
*
美和子さんは、デートだというので念入りに歯磨きをしていた。
付き合って五年たってもその初々しい気持ちを持っているというのは素晴らしい事だと思う。しかし、相手はそんな風に控えめながら純粋で優しい美和子さんと、結婚はしないのだろうか。不倫野郎だと知らずに付き合って、知ってからも別れない。
人間の気持ちってわからない。五年も一緒にいて、まだ決めかねているとでもいうのだろうか。
俺はいつものマイルドミント味の歯磨き粉の泡に抱かれながら、愛ってなんだろう、なんて考えていた。歯が考えても仕方のない事なのは百も承知だ。たぶん、人間だってそれぞれ考えがあって、答えなんてないのだろうという事は想像もつく。
「近頃は美和子さんがきちんと歯磨きしてくれるから、おれたちも働かなくていいよな」
時間に余裕をもって再石灰化できる。シンジはやる気の感じないへらへらとした口ぶりだ。今は「前に使っていたシトラスミントの歯磨き粉の方が好みだった」と文句まで言い出す始末。
「でも、油断しちゃダメだよ。細菌は一日中活発なんだし、私たち奥歯はすでに詰め物があるのだから、虫歯になりやすいわ」
真面目な口ぶりのヒロコちゃんは、真ん中が銀色の詰め物となっている。彼女の能力が劣っていたわけではない。どうしたって歯が弱い人もいるのだ。
その銀色に泡が乗ると、キラキラと眩しく光り、俺はつい視線をそらした。毎日繰り返される歯磨きのその度に見ているヒロコちゃんの泡姿なのに、今更何が気になる?
「……ケイタ君、大丈夫?」
ぼんやりとする俺に、ヒロコちゃんが話しかけてくれた。
「いや、なんでも」
真絢さんの事を考えて落ちこんでいたと思ったのだろう。実際そうだ、少し、少しだけヒロコちゃんの泡姿で動揺したけれど、理由はわからなかった。
それに、と俺はぬるま湯で口内がすすがれている中思った。
みんなのことを、裏切ろうと思っているんだ。リーダーなのに。最後の乳歯、右下Bのマコト(乳歯はアルファベットで、前歯のAから奥歯のEまである)からバトンタッチされ、永久歯となってからずっと一緒にいたみんなのことを。
「マコト、短い間だったけどありがとう! 後の事はまかせてくれ!」
歯ぐきから抜けそうな乳歯のマコト。神経は死にかけ返事はなかったが、俺はそう言った。任せてくれ、なんて。あの頃は俺も若かった。
すまん、みんな。
俺は隠し持っていた歯垢を、自身にべったりと塗りつけた。正面から鏡で見えない所だ。一番奥の歯だから出来る事だ。ニヤニヤと、不良ミュータンス菌が縄張りを作りに来た。俺は、見て見ぬ振り。
美和子さんへの屈辱だ。あれだけ努力して、毎日時間をかけて俺たちに向き合ってくれている美和子さん。普通の人は一分やそこらで終わらせてしまう歯磨きに、朝晩は十分以上かけている美和子さん。
わかっていても、どうしても、どうしても俺は真絢さんに会いたい。
たとえ自分が傷ついても。美和子さんを裏切ってでも。
*
三か月という日数は、俺にとってとんでもなく長く、辛いものだ。
その間、美和子さんは付き合っている彼に結婚の意思がないということで、別れを選んだ。
皮肉にも、彼の名は「佑都」だった。ユウトは美和子さんから愛の言葉を聞くたびに、自分の事ではないのに心がざわついたであろう。いや、同じ名で呼ばれてきたからこそ、美和子さんを好きになったのかもしれない。
佑都さんのために、キレイな歯で、健康な歯でいたいと思ったのに。努力って、報われない。
思った通りに事は運ばない。美和子さんは一日だけ、暴飲暴食をして歯磨きをせずに寝た。たった一日だけで、またいつものように真面目に歯と向き合う美和子さんに戻った。その一日は、歯たちもいつも以上に、無言で細菌と戦った。
俺はというと、隠し持った歯垢を少しずつつけることにより、歯石が出来始めていた。もちろん、誰にも気づかれずに、というのは無理な話だった。
「ケイタくん。まさか、自分で歯垢をつけているの?」
ある深夜、こっそりとヒロコちゃんに声をかけられた。明日は待ちに待った定期健診の日だ。
ああ、わくわくする。今日は眠れないな。毎日寝ずに細菌退治をしているけれど、なんて思っていた矢先だった。
真上の位置にいるヒロコちゃんには見えてしまうのだろう。バレるのは時間の問題である、と思っていたので、三か月気づかれなかった事は予想外だった。
「ごめん、ヒロコちゃん……」
謝る事しか出来ない。理由はわかるだろうから、言い訳も出来ない。
「バカなことを、と思っているだろう。俺だって、わかっている。でも定期健診をまた一か月おきにしてもらう位しか、俺には考えが及ばないんだ。本当に、バカだろ」
「前から……ううん、三か月前から気が付いていたけれど、言わなかっただけ」
もじもじと、でもきっぱりとした言葉が上から俺に放たれた。
息が詰まる思いで、俺は戸惑った。
どうして、何も言わなかったのか。どうして、今言ったのか。
疑問符だけが俺の象牙質から出ていく。
真意を測りかねる俺は何も言えなかった。その様子を悟って、ヒロコちゃんは言葉をつづけた。
「どうして言わなかったか、というのは簡単よ。私は……私はケイタくんが好き」
絞り出すような声に、その「好き」の意味は、俺が真絢さんに対するものと同じだと感じ取れた。そうわかったとたん、神経が脈打つ感覚にとらわれた。疑問符の次に象牙質から出てきたのはハートマークだった。
「す、好き? 真絢さんの為にこんなバカな事をしている俺の事を?」
動揺して、うまく言えない。せっかくこっそりとヒロコちゃんが声をかけてくれたのに、俺の大きな声で歯たちは細菌と戦う手を止めて、俺たちのやりとりを見ていた。
「好きなの。ケイタくんが、真絢さんの為に一生懸命なところも。本当だったら気が付いたらすぐ止めなくちゃいけなかった。でも、でも」
泣き出しそうなヒロコちゃんの声に、口内はしんと静まり返った。
おかしな事をしている、とわかっていても、止めなかった、止められなかったヒロコちゃんの気持ちはわからなかった。俺だったらすぐに止める。ヒロコちゃんがイケメン歯科医師に恋してそんなことをしていたら。
俺だったら。必ず止める。
彼女は止めなかった。でも、今ようやく、声をあげたのだ。ヒロコちゃんの気持ちを思うと、何も言い返せない。
「やっぱり間違ってる。私だって、ケイタくんが私のために身を粉にしてくれたら嬉しい。真絢さんが羨ましい。そう思う事が、とてもおかしいの。美和子さんを裏切る行為だもの。ズボラでも、不倫してても、私たちの唯一の主人なのに。それに、一生懸命指導してくれている真絢さんに対する冒涜だよ!」
しっかりして、と歯ぎしりで攻撃された気分だった。ヒロコちゃんの歯ぎしり攻撃はキツイ。お互い様だろうけれど。
美和子さんや、他の歯を裏切っている気分はずっとあった。だけど、真絢さんを……真絢さんの気持ちと仕事を冒涜しているとは、思いもよらなかった。考えが及ばない自身の幼さに呆れてしまう。
「……ケイタ、そんな事してたのかよ」
ユウトの冷たい声に、神経が凍みた。美和子さんを好きなユウトからしたら、今の状況は許しがたいだろう。
彼女の恋を応援するため、自分の気持ちを粉にして歯を健康に、美しく保つ努力をしていたのだから。その美和子さんが落ち込んでいる時に。最低だ。
「ごめん。みんな、ごめん」
「ふざけるな!」
大きな声をあげられ、俺は何も言い返せなかった。口は悪いけれど、ユウトが真面目で、まっすぐな歯だという事は知っている。
そんな彼の怒りを、正面から受け入れる他ない。
それっきり、ユウトは口を開かずもくもくと、再石灰化をしていた。さすがのミュータンス菌も、ユウトの迫力に腰が引けていた。
「ケイタ、なんかよくわかんないけど、俺は……信じるよ」
いつも幼くて、ユウトと喧嘩ばかりのシンジに慰められた。彼だって、俺たちと同じ年数生きてきたのだ。心のどこかで、シンジを甘く見ていたようで申し訳ないやら居心地が悪いやら。
「ありがとう、悪かったな、みんな」
他の歯も、各々仕事へ戻っていった。
だが間違いなく、俺のリーダーとしての資質に疑いはかけられただろう。
「ごめん、ごめんねヒロコちゃん。俺の真上にいるからずっと見えていたよね。妙な気遣いをさせてごめんね」
右上八番のヒロコちゃんに声をかけるが、返事はなかった。それが、ユウトに怒鳴られる事より傷ついた。なぜ、だろうか。
いいんだ、無視されるのも当然だ。それでも真絢さんと会う回数を増やしたい、と思ったからやった事だ。ヒロコちゃんには心の負担を増やして怒らせてしまった事は、これからも謝り続けよう。
謝罪はするけれど、後悔なんて。後悔なんてしていない。
体についた巨大な歯石は、名誉の負傷なんだ。
そう思い込むしか、俺には逃げ道がなかった。
愚かな事をしたっていうのは、わかってる。いいんだ、明日、一か月後に来てくださいと言ってもらえたら、そうしたらもうこんなバカな真似はやめるから。歯石なら、すぐに取ってもらえるから。
許してくれ、みんな。
*
翌日の定期健診兼クリーニングの日。久しぶりの真絢さんはいつものように可愛いらしかった。
「近藤さん、こんにちは。お変わりありませんか?」
いつものように声をかけて、そしていつものように染め出しをする。青いインクが俺の歯に塗られた瞬間、喜びよりも神経が縮こまるような罪の意識に苛まれた。
ミラーを口腔内に入れ、奥歯の裏側までチェックしていく。その時、俺の歯を見た真絢さんは顔を曇らせた。ちくり、と心が痛む。他の歯もチェックした所で、真絢さんは手鏡を美和子さんに差し出した。
「近藤さん、今日もきちんと磨けていたのですが、一か所だけ。右下の奥歯の裏側が磨けていないんです」
小さな鏡を俺の傍に置く。合わせ鏡の要領で美和子さんの目にもうつる。
「本当……少し、サボってしまったかしら。ブラッシングに慣れるとこうなってしまうのね」
気落ちした表情だった。あれだけ頑張ったのに、と残念に思う気持ちが伝わってくる。他の歯からは何も言われなかったが、口内は青いインクのせいもあってどんよりと暗い雰囲気だった。
「歯石になってしまっているので、とっていきますね」
いつもより丁寧に、俺の歯をスケーラーでこすっていく。コリコリと、ステンレスの器具が凝り固まった歯石をはがしていく。さらば不良ども。
真絢さんはどう思っているだろう「近藤さん、ブラッシングが手抜きになってきている。せっかく指導しているのに」がっかりされていたら、と思うと嬉しさよりも恥ずかしさが勝った。
これでいい。これで、もうバカな真似なんてしない。真絢さんに体をキレイにしてもらえたのだから、もう満足だ。がっかりなんてされたくない。
いつものように、電動ブラシで表面のクリーニングもされる。
「少し、歯ぐきから出血もありますので消毒しておきますね」
以前は少しだけ歯周ポケットも広がっていたが、きちんとしたブラッシングでもとに戻した。広がってしまったら、せっかくの美和子さんの努力も台無しになる。
クリーニングは、歯間ブラシやデンタルフロスを通す段階になっていた。
「ごめんなさい、美和子さん」
自分勝手な事をした。聞こえてはいないだろうが、美和子さんに謝罪するしかなかった。
「もう、この辺りで辞めておけばそれでいいんじゃねぇかな」
ユウトの声に、ピカピカになった全歯が次の言葉を待つ。それはユウトの言葉なのか、俺の言葉なのか。
俺は何も言えず、ユウトの考えが紡がれる事を待った。それを察して、ユウトはもう一度、声をあげた。
「ケイタはずっと、真面目にリーダーをやってくれた。一度の過ちは、誰だってある。俺はそう思うから、二度と歯糞をてめぇにつけるような真似しなきゃいいんだよ」
許してくれる、という事だろうか。ユウトの言葉に、周りから安堵のような、緩んだ空気が流れた。
「いいのか、みんな」
生意気な口調でシンジも追従する。
「いいんじゃないかな。俺は最初から怒っちゃいなかったし。でも、ヒロコちゃんにはもう一度謝ったほうがいいかもよー?」
こいつは、時々鋭い事を言う。ユウトは、それについて何も言わなかった。ほんと、口の悪さがもったいないよ。俺なんかよりよっぽど気持ちがデカくていい奴なのに、伝わらない。いや、どうやっても美和子さんには届かないが。
「ヒロコちゃん」
声をかける。クリーニング後のピカピカなヒロコちゃんの脇を、白い糸がすっと通っていく。くすぐったそうにしているヒロコちゃんは「え?」と少し呑気な返事をした。
「ごめんね、ヒロコちゃん」
「いいの。私に謝られる筋合いもないしね。好きだって言ったのは……本当のことだけど」
ヒロコちゃんの告白に、俺はまだ戸惑っていた。真絢さんの為に、みんなを裏切った。それほどの情熱、ヒロコちゃんにかけられる気がしなかった。
「ありがとう」
それ以上は何も言わなかった。言ってはいけない気もした。ヒロコちゃんも求めていない気がした。というのは、俺のわがままだろうか。
歯は、恋なんてしなくていい。なのにこんなに苦労するのだから、恋をするよう仕向けられている人間は本当に大変だろうな、と思う。
真絢さんの手でデンタルフロスを通され、俺も身をよじりたい気持ちになった。
「お疲れ様でしたー」
椅子が起こされ、美和子さんは口をゆすいだ。さて、次の予約をとる時間だ。また三か月後か、それとも。
「近藤さん、次の予約なんですけれど」
「はい」
言いながら、美和子さんは自身の手帳をバッグから取り出す。しかしその作業中に、真絢さんは言葉をかぶせた。
「わたし、今月でこのクリニックを辞める事になりました。なので、次回以降のご予約は別の衛生士に――」
辞める? 別の衛生士?
予想だにしていなかった言葉に、呆然とした。
そんな。じゃあ、さっきのクリーニングが最後だったのか。なんてことだ。
俺の落ち込みに、他の歯は何も声をかけてはこなかった。
「そうですか。もしかして……ご結婚とか?」
珍しく、美和子さんがプライベートに立ち入るような事を聞いた。聞きたいような、聞きたくないような。
真絢さんは嬉しそうな笑みを見せ「実は、そうなんです。この仕事は続けますけれど、引っ越しをするので」と、ひそひそと教えてくれた。長く診てきた患者だから。女性だから。その信頼関係で教えてくれたのだろう。それでも、どこへ行くかは言わなかった。
「やはり、そうでしたか。なんとなくですが、表情がとても明るかったので。おめでとうございます」
表情、そんなに違いはあったか俺にはわからなかった。でも、そういった話に敏感になっていた美和子さんには、何か通じるものがあったのかもしれない。
「それと、先ほど指摘した右下の奥歯、虫歯になっている可能性が高いので、先生に見ていただきましょう。こちらもご予約お取りしますね」
虫歯! そんな。そこまで進行していないと思ったけれど、確かに最近、よく神経に触る気が。
こんな事をしたのに。真絢さんは遠くへ行き、美和子さんの大切な歯を虫歯にして。仲間達の想いを無碍にして。
ほんと、歯が人間に恋するものじゃないな。でも、無駄だったとも思えない。
この気持ちは、真絢さんだから。真絢さんに出会えたから、ただの歯として生涯を終えるのではなく、情熱に燃えた時間となったのだ。
「私、牧野さんに見ていただいてキレイになった歯に感動しました。頑張って毎日磨いて、甘いものを控えている甲斐がありました。虫歯、出来ちゃいましたけど」
ふふ、と小さく笑いながら、美和子さんは感謝の言葉を口にした。すると、真絢さんはマスクをはずして、まっすぐに美和子さんを見た。
「こちらこそ、新米だったわたしの話をよく聞いてくださって、ここまで改善してくださった事、とても嬉しいです。近藤さんのおかげで、衛生士として成長できたと思っています。ありがとうございました」
真絢さんは、美和子さんへ深々頭を下げた。まさか衛生士からそんな事をされるとは思わなかった美和子さんは、照れながら「大袈裟ですよ」と顔をあげさせた。
体をおこした真絢さんの、惜別の表情が笑顔に変わる。そうだ、俺はこの笑顔が大好きなんだ。衛生士らしく、ぴかぴか白くて、歯並びのいい笑顔。
二度とこんな真似はしない、と思う反面、真絢さんを好きになってよかった、とも思う。
歯が恋をしても実らない。けれど、恋はいいものだ。
了