0センチメートルの隙間
0センチメートルの隙間
「サンゴ、サンゴ」
彼の幸せな休日の静寂は、突如として終わりを告げた。
7月の蒸し暑い午後のアパートの一室。セミの音とともに玄関のほうから幼児の奇妙な声が聞こえる。
「サンゴ、サンゴ」
せっかくの休みだというのに……私はうなだれた。無常にもその可愛い声は、繰り返しあたりに響き渡る。思い当たる節はあった。
「サンゴ、サンゴ」
しばらく待っても思い出したように繰り返される「サンゴ」のフレーズ。一体いつまで続くのだろうか。いっそグダグダ悩まずに思いきって注意したほうがスッキリするのかもしれないが、怖いおじさんだと思われたくない心が思いとどまらされる。隣人と付き合うのは折り合いも重要なのである。
隣の103号のアパートには、いつも忙しそうな若い母親と、3歳になった子供が住んでいる。父親の姿は見ない。子供はどちらかと言うと大人しい性格のようで、活発に駆け回るというより、草むらでじっと何かを観察しているようなどこにでもいる平凡な男の子だ。
保育園にも行かず、しかも母親の帰りが毎日のように遅いので、世間一般的に言うと少々問題になる存在ではあるが、私自身、他人のことをあれこれ言う立場でもない。
妻は3年前に他界した。
一酸化炭素中毒だった。帰宅時に居間で眠るように死んでいた。遺体はまるで生きてるかのように綺麗だった。
取り調べも早々に、警察は
「田中さん、奥様は練炭自殺ですね、ご愁傷様です」
と淡々と言った。
遺書はなかったし、妻には前触れとなる病気の気配もなかった。子供はいなかったが、自分は家庭人としてうまくやっていると思っていたので余計にショックを受けた。私は1人残されたのだ。裏切られたのだ。あのなんとも言えない惨めな気持ちを思い出すだけで、耳の奥が熱くなる。
ずっと一緒よ。が口癖の妻だった。
サンゴ。サンゴ。サンゴ。サンゴ。
何回か聞いたところで我に返り、思わず立ち上がる。やっぱり気になって仕方がない。耳栓どこやったっけ……。散策もウヤムヤにとりあえず彼の様子を見ることにしようと思った。大げさに言えば、何かを解決するためには敵を知るべきだ。
音を立てないように玄関へ行き、そっと覗き窓から外を覗く。
7月も下旬、梅雨が開けたとはいえエアコンのないこのアパートで1人で部屋にいるのは辛いのかもしれない。
裏野ハイツというとおり、ここは大通りには面さず、空き家や廃工場なども多く、住宅街の中でも奥の奥にある寂れたアパートには不審者すら見かけたことはない。常にひっそりとしていた。
全く人の手をかけていないその玄関先の空き地には、雑草がうねるように茂っていた。大人の膝くらいの丈まである草を掻き分け、彼はしゃがんで草の根本をいじっては離す、ただそれだけを楽しんでいた。子供の行動は時に奇妙だなと思う。
「サンゴ、ーー」
おもむろに彼は顔をこちらに向けた。音に気づいたか?少しだけギクリとする。
しばらくの沈黙が続いたあと、再び何事もなかったかのようにつぶやき出す。私はほっと胸をなでおろした。
サンゴとはなんだろう。ドア越しに彼と時間を共有しているせいだろうか。ふと疑問が湧いた。
珊瑚だろうか。海外か沖縄かのお土産だろうか。もしくはアニメなどのテーマソングだろうか。テレビで流行ってるとか?私はその手の話には詳しくない。はたまた知り合いの名前か。考える理由はいくつもあった。
一般的に考えて3歳くらいの幼児は単語をぱらぱらと話すくらいだろうから、謎めいて聞こえるのはよくあることなのかもしれない。恐らくは直接聞いたところで小さな彼から明確な回答は得られないであろう。
「何やってるんだ俺」
ふと我に返る。私は推理も程々に玄関を後にした。子供の成長にイチイチ疑問を持つ必要はない。耳栓は何故か冷蔵庫の上にあった。妻はたまに私の理解を超えることをする。その日は耳栓を使い、それきりになった。
それから数日間、独り言は続いたようだった。
ようだ、と言ったのは私は会社に行かなければならなかったし、彼のこともたまに見る程度で、注意深く観察する事もなかったからだ。
しかしその日の夕方、私が夕食を作っていると玄関先で話し声が聞こえた。
「ただいまー」
ガサガサと買い物袋の重そうな擦れた音が聞こえる。母親が帰ってきたようだった。
「おかえり。ママ、サンゴ」
私はギクリとした。またあのサンゴか。
「あんたまだサンゴって言ってるの?!やめなさいって言ってるでしょ!」
疲れた声を荒げる母親。ああ、もう叱っていたのか。注意しなくてよかったと思いつつ、周囲の大人ですらストレスをためてしまうような物言いについては少し心配になった。ただそれに構わず、子供は淡々と会話を続けた。
「ママ、イチ、二」
彼は必死に説明をしようとした。私もその頃にはドアの除き窓から様子をうかがっていた。彼はアパートのドアを指していた。101号室から順番に。
「サン、……ゴ」
うちのドアを指差す。我が家への位置はゴ。
「おかしいよね、ここのおうち、よんがない」
ヨンがない?4か?
え?うちは104号だったはず……。
「やあね、マンションのこと誰かから聞いたの?3年前にここでボヤがあったの。そこの人……タナカさんて言うんだけど、死んじゃって。結局105号と誰も住んでなかった205号室は潰しちゃったのよ。」
彼女は幾分か声のトーンを弱め、こちらのドアを指差す。
「よんは?」
子供は納得できない、と言った風に顔をくもらせる。
「4号室?元からないのよ。よんは『し』とも読むでしょ。昔は死ぬことを意味するって言って不吉だから元からない時もあるのよ。いやな部屋にはアンタも住みたくないでしょ?」
母親は面倒くさそうに言い放つ。
「うん」
「わかったらサッサと家に入りなさい」
そう言って慌ただしく一家が部屋に入った頃、私は気づいていた。ドアを静かに開きナンバープレートを確認する。
ドアのプレートには104とはっきりと刻まれていた。
死人の住むアパートーー4号室の文字が。
私は思い出した。そうだった、死んだんだ。私は……。
妻の死から3ヶ月後、後追い自殺をしたんだった。
私はここでボヤを起こして死んだ妻の後を追って、私は首をつって死んだ。
ひっそりと会社の物置で。
私はドアの前でがっくりとうなだれた。なぜ思い出せなかったのだろうか。ショックとは言え、幽霊はこんなもんなのだろうか。
ガチャリ。
その時唐突にドアが空いた。
「おかえりなさい、あなた。ずっと待っていたのよ」
私の驚く顔をよそに、屈託のない笑顔で迎える妻は3年前となんの代わりもなく、はつらつとしていた。
「どうしたの?入らないの?」
少しの間、静寂に包まれる。次々と溢れ出す真実に、私はパニックを起こしていた。
「……なんで?」
私はやっと一言が言えた。
「あなたが思い出してくれたからかな?私にもよく分からない。やっと会えたね。ンッ?どうしたの?」
彼女は何事もなかったかのようにあっけらかんとしていた。この天然なところが私を時にイラッともさせるし、落ち着きもさせる。今は前者だ。
「……」
私にはそのまま再開を喜べない深いわだかまりがあった。聞きたかったのはそれだけじゃない。
「どうしたの?」
「そっちこそどうしたんだ?自殺なんかして。俺は苦しんだんだぞ」
「……自殺?私が?」
妻は理解できないといった様子でしばらく考えていたようだが、堰を切ったように話し始めた。
「順番に話すわね。あの日の昼、私は練炭をベランダに置いて焼き肉を焼いた。夕飯用のね。家の中だと危険だしね。片付けが終わったあと、ちょっと気分が悪くなて横になったらーー。もう死んでたの。病気か何かと思ってたけど」
「警察は一酸化中毒だって言ってた」
妻の顔が思いついたようにぱっと明るくなった。
「なるほど!練炭の事故なのよ!不運ね……」
「警察は自殺って言ってたけど」
「あなたに遺書もなく自殺?ありえないわ。私はいつも通りよ。あの日の朝だって普通に見送ったでしょ?」
「いやそういうこともあるんだなと……」
私も動揺する。いやまて。
「あ、あと警察は夕飯が1食しかないとも言ってた。本人は食べる必要がなかったんだろうって。身辺も綺麗だったしって、、、あ、それは君は掃除好きだからか?」
「そうよ。あなたは気づいてないかもしれないけど、普段からいつも綺麗にしてるのよ?食事が1食しかなかったのは、単に私が肉を焼くときに大量につまみ食いしたせいね。あのとろけるような熱い肉汁と濃厚で香ばしい香り……アフゥ。フライパンでは決してできないのよ……。胃の中をみれば分かったはずなのに……本当に無能警察ね」
練炭の火をきちんと消さずに、部屋に入れたお前が言うか、と思ったが黙っていた。私は妻を抱きしめていた。
「ごめんなさい」
彼女も涙声でぎゅっと抱きしめてくれた。
「いいや、今度ドジ踏んだら離婚だろ?お前にはついていけない」
「やあねえ。死の淵までついてきた癖に何いってんだか。これからは文字通りずっと一緒よ。それに、願いがかなったんだから自殺でも何でもいいわね。うふふ」
「そうだな。あはは。でも肉の恨みは忘れないぞ?」
2人はたわいもない会話をしながら仲良く部屋に入って行く。今までの生活がまた始まったのだ。
103号と105号しかないアパートでも104号室は存在する。
ただ、住人は死者であるという。
お読みいただきありがとうございました!
耳袋的な短編を作っていきたいと思いますのでアドバイスやネタやリクエスト等ありましたらぜひ連絡ください。