一ノ四.自宅にて
神殿の離れにある倉庫。
ここでわたしはウトゥヌ様に日本へのゲートを開いてもらって帰宅する。
反対に、こちらへ来る場合は自室にある姿見を通せば良いように魔力を施してもらってある。
「いいかい、あちらの世界にいる間に、何かあったら王子を呼ぶんだよ。歯痒いけれど、我はあちらへ干渉することが出来ないのだから」
「はい、大丈夫ですよ。おやすみなさい、ウトゥヌ様」
「うん、気をつけるんだよ。おやすみ」
別れ際、彼はいつも額に唇を落とす。洋画なんかでよく見るシーンだ。
初めてそれを受けた時の動揺はさておき、これの意味が気になって自宅で調べたのだけれど親愛や祝福の気持ちを表すものらしい。
彼はだいぶわたしに過保護だから、彼の目が届かない日本でのわたしを案じる意味もあるのかな?
ゲートを抜けると、自宅近くの公園にある公衆トイレの裏手に繋がる。
脇に鬱蒼とした木が生えていて、高いブロック塀に囲われた細く狭い通路になっているその場所は、夕方になれば真っ暗な死角だ。
小さい頃よく遊んだ小さな公園だが、今は利用者も少ないようで、もしゲートを通過しているところを誰かに目撃されてしまっても誤魔化せるだろうと思って選んだ。
そこから徒歩二分で帰宅する。
出迎えた母に「遅かったね」と心配された。
わたしは小学校二年生から、ついこの間までの一二年間、引きこもりだった。
それが急に外でアルバイトをすると言い出したものだから、家族は心配しながらも喜んでくれている。
それを裏切らないためにも、気持ちの整理がつくまでは神殿勤めを続けたい。
リビングで高校生の弟が流行のドラマを見る中、クリームソースのオムライスを食べる。わたしの好物だ。
「ねーちゃんさ、最近痩せたんじゃない?」
「え、そう?」
「ほっぺたがスッキリした」
「そっか。やっぱバイトで動いてるからかな」
「そうじゃない? 元はまあまあ良いんだから、そのまま普通体型目指したら? そしたらモテるよ、たぶん」
「―――多分は余計だけど、本気でモテなくて良いよ。痩せたいけどさ」
これ以上モテたら困る。もういっぱいいっぱい―――なんて、どんだけ贅沢なんだ!
夕食後、お風呂でゆっくり温まってパジャマに着替え、そろそろ寝ようかと自室に戻る。
すると、パソコンを置いたデスクの前で、鍛え上げられた上背の身体で背筋を伸ばし、わたしのマンガを読んでいる男がいた。
ファレスの兄で、わたしより五歳年上のアルディア国第一王子、ウォーレンだ。
アルディア城の一室から、この部屋へのゲートが開いているのだ。
彼はわたしの顔を見ると「こんばんは」と真顔で挨拶する。
「……こんばんは。読めないのに見ていて面白いですか?」
わたしは異世界の言葉も文字も理解判別可能で、無意識にあちらの言葉を使っているらしいが、彼らにはこちらの世界の言葉は分からない。
「ああ、絵から想像している。このように、ほぼ絵だけで構成された書物というものはアルディアには存在しないから興味深い」
「なるほど。さすが勉強熱心ですね」
「だが、なぜここにある書物のほとんどには男性同士の恋愛模様が」
「あわわわわわわ」
豪快にマンガをふんだくる。
「うー、勝手に見るのダメです!」
「そうか、残念だが気をつけよう。だが、里緒も気をつけた方が良い。そういった無防備な格好で可愛らしく言われると男は非常に興奮する」
「はぁっ―――!?」
ウォーレンの濃いグレーの瞳が、悪戯っぽく動く。
椅子に座る彼に覆い被さるようにマンガを取り上げたわけだから、彼のちょうど目の位置に第一ボタンを留めずにいた、はだけた襟元が晒されている。そこで固定される視線―――。
「はがぁぁぁあっ!」
慌てて上体を跳ね起こし、距離を取ってからボタンをしっかりとはめた。
「む、無防備って! 確かに、お客さんと会う格好ではないけど! こんな時間に約束もなくやってくるウォーレンが悪いからで! そ、それにぜんぜん可愛らしくなんかないし!! ウォーレンがそういうこと言う人だと思わなかった!!」
常にストイックで勤勉という雰囲だから騙されていた気分だー!
非難がましくジト目で見るが、彼はまったく気にする様子もなくクスリと笑いながら「言うようになったな」と言ってのけた。
「だが、健康な成人男子が、好意を寄せる女の魅惑的な姿を前にして平然としている方がおかしいと思うが、俺の言うことはおかしいだろうか?」
むきー! 恐らく真っ当な一般論が述べられているのだとは思うけれど、かなりセクハラ臭がする。さすが兄弟!!
「まぁ、ファレスに限ってはどうか知らないがな……」
「あれ? 何か幻聴が。ファレスが一番危険だ、の間違いでは?」
するとウォーレンは「ほう?」と、何故か嬉しげ。
「あの女嫌いの弟が、か。男としてどこか欠陥があるのではと案じていたが―――そうか。ならば安心だ」
「あれあれ、また幻聴が。女嫌い? どういうことです、それ」
「知らなかったのか? あいつはあの通りの容姿だから、女性からの誘いの手は数多だ。他国へ外交にでも出れば、あちこちの王女が熱を上げ婚姻を申し込む。対外的に愛想笑いだけは浮かべているが、誘いには一切乗らず、どれだけの美女だろうと見向きもしなかった」
「―――つかぬ事を伺いますが、その女性の中にぽっちゃりな方はいました?」
「ああ、ふくよかな貴族女性は割と多いからな。もちろんそれなりに居たはずだ。前々から何か勘違いしているようだが、あいつは里緒の体型に惚れているわけではないと思うぞ?」
「へ!? ど、どういうことですか。かなりショッキングな事実です。それに女嫌いって―――あ、もしかしてわたしがあまり女らしくないからとか?」
「どうだろうな? だが、里緒が非常に興味をそそる女だというのは確かだ」
ウォーレンが目を細めてグイと顔を近付けてくる。
「そ、それはわたしが異世界の人間だからでは」
「それも魅力の一部にはなるかもしれんが、そもそもの人間性が大きいな」
「―――もしかして、わたしは褒められているのでしょうか?」
彼の口角が笑みの形を取り、すっと伸びた骨ばった大きな手に顎を掴まれ上向かされる。
「もちろん。俺の妻にと望む程に評価している」
「っ、あ、アリガトウゴザイマス」
唇が触れそうな距離で、耳に低く響き渡る色気たっぷりのハスキーボイス。わたしはこの声に非常に弱い。くらくらする―――。
が、彼はすぐに「だが」と距離をとった。
「里緒に対するファレスの執着を見てしまっては、張り合うことは出来ないな。まぁ弟が諦めるようなことがあれば、その時は遠慮なく攻略させてもらうが」
ニヤリ顔に寒気が。
「え、えーと―――なんとお返事すれば良いのやら」
何がツボったのか分からないが、はじめて目撃するウォーレンの爆笑はなかなか止まることを知らず、とても居心地の悪い思いだった。