4.
律儀、というか実直、というか……
翌日からほぼ毎日、橘姫乃は僕の家まで足を運んでくれた。
時々、鈴木斗真を伴って訪ねてくれる。
僕はまだ橘姫乃と直接対面する勇気が出なくて、そのたびに扉越しで会話する。それでも症状が回復し始めた僕を見て、母親はとても喜んでくれた。
橘姫乃は僕と数分間だけ話をしてから母親と交代して、場合によっては学校からの連絡事項のプリントやらを手渡して、『お大事に』と言って帰っていく。
やがて初秋を迎え、衣替えの季節に差し掛かった。
今日も玄関の扉越しに橘姫乃と会話をしていた。
学校であったこと、クラスメイトたちのこと、昨晩観たテレビ番組のこと……
紙がめくられる音を聞くことがある。きっと几帳面な彼女はその日の出来事や僕と話すことをメモ用紙かノートに書き出しているのだろう。
僕は彼女のさりげない優しさに感謝し、想い慕う気持ちが一層深まった。
でもこれは彼女の義務感から成り立っている単なる〝儀式〟だ。僕の病気が治ったら解けてしまう、いわば期限の付いた魔法の時間を過ごしているだけなのだ。
ましてや2人の恋愛へと発展しないことも重々承知していた。
僕は既に、扉を開けて直接彼女と会話できるのではないか……
ただ〝魔法の時間〟が終わってしまうことを恐れているだけなのかも知れない。
「――では。そろそろ帰ります」
「うん……気をつけてね」
母は仕事で不在だった。
玄関の新聞受けに学校から配られたプリント用紙を入れてもらう。
校内新聞のタイトルに、紅葉のイラストが描かれていた。
もう、そんな季節なんだ……寒くなる前には、学校に復帰できるかな……
顔も出さずに見送って、僕はいつものように薄暗い部屋に戻った。遮光カーテンの隙間から、自転車を押して帰っていく橘姫乃を眺める。
団地から出て、なおサドルに乗らず立ち尽くしている。
おかしいな……と思って見ていると、キョロキョロと周りの様子を確認してから、くるり、とこちらを見上げた。
そして意を決したように、僕に向かって小さく手を振り始めた。
彼女には暗い部屋にいる僕の姿は見えないはずだ。しかし最初は小さく、やがて大きく、最後は小柄な身体を全身で揺さぶって、彼女は僕――大和建に向かって腕を振り続けた。
僕は淵底に沈着した老廃物の塊がみるみる剥落する感情を覚えた。まるで万年雪が一気に溶け出して大きな雪崩を起こしたようだった。
抑制していた想いがついに溢れ出したのだ。
氷のカーテンを開け放ち、サッシが壊れるほどに手荒く窓を開いた。滞留していた空気がうなりを上げて外へ吹き出す。部屋の中が落陽一色に染まった。
僕は窓枠から勢いよく身を乗り出した。そして地上の橘姫乃に見えるように大きく、大きく手を振り返した。
彼女は少し驚いたようだったが、それでも嬉しそうに手を振り返してくれた。
やがて安心したように手を下ろし、自転車に乗って路地へと消えていった。
橘姫乃を見送り落ち着いてくると、急に小っ恥ずかしい気持ちが湧いてきた。
とても大胆な行動をしてしまった……
僕の一体どこにあんな勇気があったんだ……
後悔にも不安にも似た衝動が心に渦巻いた。けれど――
それ以上に胸が弾んでいた。
僕は窓から上半身を乗り出したまま深紅の夕陽を浴びている。穢れた身の錆が洗い流されていくような爽快感があった。
こんな風に堂々と、外を眺めたのは何ヶ月ぶりだろうか。
想像していたよりも静かで、周辺には人影さえ見当たらなかった。
この時間帯はいつも、近場の公園から子供たちのはしゃぐ声が聞こえたり、夕食の支度をする料理の香りが漂ったりするのだが、まるで人の気配がしないのだ。
何だか様子がおかしい……
気分を害する前に窓を閉めようとした、その時だった。
あの封印していた記憶が鼓膜を揺らしたのだ。
忌まわしい蹄の足音が確実に大きくなってゆく。
眼下に、悠々と黒毛の馬が現れた。
ぶるるるる、鼻息を吐きながら、馬は団地の出口付近で立ち止まった。
僕は金縛りに会ったが如く窓を閉めることも、部屋の奥へ逃げることもできなかった。
馬上には流鏑馬の袴姿をした黒髪の少女が手綱を引いていた。長い柄の和弓を脇に抱えている。
あの〝幻想〟は夢じゃなかったのか……!?
悪夢の再来だ。僕は恐怖で足が震えた。
「誰か……助けて……!!」
必死に声無き声で叫んだ。
数ヶ月もの間、治療をしてきた苦労が、たった一人の少女の登場によって、いとも容易く流されそうになっていたのだ。
入院した精神病棟での悪夢の日々が蘇った。
――もう嫌だ!
あんな陰気な場所には二度と帰りたくない!
「モリカナ先生……助けて……ッ」
心配をかけた人たちの顔が走馬灯のように脳裏をかすめる。
母親、鈴木斗真、学校の先生、クラスメイト……
橘姫乃。
馬上の少女はやおら僕の方を見上げた。
バカみたいに開け放った窓から僕の姿は丸晒しだ。逃げも隠れもできない。
西日の逆光ではっきりと表情は見えなかったが、少女の口角は大きく月型にニヤリ、と嘲笑した。
それを合図に少女は手綱を強く引いた。すると黒毛の馬は呼応するように前足を宙に浮かせて嘶いた。
続けざまに思い切り馬の腹を蹴って、先ほど橘姫乃が帰って行った路地の方へ駆け出した。
その光景が、触れてはいけない脳のシナプスを復活させてしまった。
――少女の馬は橘姫乃を追いかけて行った――
スイッチが入ると、とめどなく強迫的な疑念と猜疑心が脳内回路を襲い始めた。
――少女の馬が橘姫乃に追いつく――
――少女が雷の弓矢を放つ――
――矢先が橘姫乃の白い首筋に突き立つ――
――橘姫乃は急に力が抜けたように地面に崩れ落ちる――
――橘姫乃から血色が奪われていく――
ダメだダメだダメだ!
また病気が再発したんだ!
あの少女は幻影だ。実在しない!
気にするな。忘れろ……
また母親に迷惑をかけてしまう……僕が回復してあんなに喜んでいたじゃないか?
モリカナ先生にも落胆されてしまう……幻滅させたくない……!
気にするな。
忘れよう……
アレは幻影だ。
…………
……でも、
もし、彼女が実在していたら?
いや。それにしたって、タチバナさんを追いかけて行ったとは限らないじゃないか?
…………
……もし、追いかけていたら?
…………
……もし、タチバナさんを襲っていたら?
………
……泣き叫んでいるかもしれない
……助けを呼んでいるかもしれない
……かもしれない
……かもしれない
……かもしれない
…………
…………
……僕、
行かなきゃ。
彼女を――タチバナさんを、助けに行かなきゃ!!
気が付くと玄関を飛び出していた。
一足飛びで階段を駆け降りて、2人の少女が消えた路地へともつれた足で走った。