3.
翌日は昼過ぎに目が覚めた。熟睡していたようだ。
モリカナ先生とのカウンセリングのお陰で、例の悪夢もすっかり見なくなっていた。
「ビビィィィ――――――ッ」
呼鈴の音が鳴っている。
母親は不在だ。
僕の病状も峠を越したので、彼女は長期休んでいた看護師の仕事に復帰している。
僕がまだ幼い頃に父親を病気で亡くし、女手ひとつで僕を育ててくれている。母子2人の慎ましい生活とはいえ、我が家も経済的にそれほど裕福ではない。いつまでも休んでいる訳にはいかないのだ。
鳴り続ける呼鈴を無視しようとしたが、聞き覚えのある声がした。
「タケルぅ~。俺だよ、俺~」
声の主は同じクラスの鈴木斗真――中学校からの親しい友人だ。
彼と僕とは全く真逆の人間である。
彼を一言でいうと、〝天才肌タイプ〟の男子だ。凡才で運動音痴の僕に引き換え、勉強もスポーツも難なくこなす。
長身を生かして親和高校ではバスケットボール部に入部した。一年生ながらレギュラーの座を勝ち取り、公式試合で活躍しているらしい。
反面、僕はいわゆる〝帰宅部〟で、背も高くない。若干女性的で母性をくすぐるタイプではあるらしいが……
こんな〝アベコベ〟な2人が、なぜか初対面から気が合ったのだ。
「どうせ、やることなくて寝てんだろ。タケルぅ~、空けてくれよぉ~」
言葉は悪いが、彼は僕の病気をとても心配してくれている友人のひとりだ。
『話しやすい相手から少しずつ話しかけていくといいわ』――昨日のモリカナ先生の言葉を思い出した。
僕は思い切って寝床から身体を起こした。
「……俺もクラスの委員長としてだなぁ、わざわざこうして部活動を休んでまで来てやってんだぞぉ。返事くらいしたらどうなんだぁ」
僕が不在かも知れないのに、構わず鈴木斗真は喋り続けていた。
勇気を出して、玄関の鍵を回した。
「――っるさいなぁ……ッ」
まともに彼と対面して話すのは数ヶ月ぶりだ。羞恥心もあってつい、ぶっきらぼうな口調で扉を半分開けた。
彼の狡猾な弁舌が止まった。
「よ」
扉の隙間から無邪気な友人の笑顔が覗いた。あっさり顔の僕とは異なり、南国系の彫りの深い整った顔立ちである。
そういえば僕が通う親和高校の制服も、久しく見ていなかった。
「なんだ、いるじゃん。タケルぅ~、無視すんなよなぁ」
相変わらず、気遣いの無い物言いだ。
「なんだ、トウマか。こちとら、療養中なんですけど?」
僕も負けじと寝癖だらけの髪の毛を掻きむしりながら悪態をついてみた。本当は親友の来訪に嬉しくて仕方がなかった。
「わ。その言い草」
彼は大げさに目を開きながら言った。
「元気そうじゃん……ま、ひどい顔してっけどな」
彼は少し波打たせた髪に指を通して言った。
「部活――休んだんじゃなくて、またサボってきたんでしょ?」
「あ。バレた?」
少し垂れ目の顔が笑った。
「ま。俺様のように神童と謳われた天才プレーヤーにとっては、実戦だけが能力を上げる唯一のトレーニングなんだ。普段は練習なんぞ出なくったっていいのさ」
「そんなこと言ってると、他の1年生に抜かれちゃうよ」
「無理無理無理。俺のクイックシュートを止められる奴は、先輩の中でもいねーから」
「バスケって、シュートだけじゃないでしょ」
「バスケって、シュート以外、何かあんのか?」
そう。いつもこんな風だった。
『きっと相手は受け入れてくれる』――モリカナ先生の言っていた通りだ。
いざ話してみると、意外にも容易いことだった。
人と喋ることがこんなに楽しいことだったなんて……
勿論、相手が鈴木斗真だからこそだけど。
「――んでさ」
彼があらたまって言った。
「何?」
「〝彼女〟も心配していたからさ、同じクラスの委員長として一緒に来たんだけど――ほら、隠れてないで。顔、出してやれよ」
彼に促されて、扉の隙間からもう一人、少女の顔が覗いた。
「こ……こんにちは、ヤマトくん」
ボブの栗毛を揺らしながら橘姫乃が現れた。気のせいか、少し頬が赤らんでいる。
「お元気そうで、安心いたしました。今日もお渡しするものがございまして……」
今の僕には刺激が強すぎた――
丸くて大きな瞳と目が合って、僕は意に反し扉を閉めてしまったのだ。
ばさばさっ、と例によって何かプリント用紙を落とす音が聞こえてきた。
「も、申し訳ございません……あ……ッ」
「こらこら。ヤマトくーん、どうしちゃったのかな~……」
友人が僕をからかう。
彼は僕が彼女に恋心を抱いていることを知っているのだ。
気を利かせてくれたのだろうが、時期が早すぎる。
「無理無理無理。こんな格好だし……ボサノバだし」
ボサボサ、と言いたかった。とにかく、ひどく動揺していた。
「まだ、ちょっと早かったかな……」
鈴木斗真が呟く。
確かに寝巻き姿が恥ずかしかったのは本当だ。
けれど僕だって橘姫乃と仲良く話をしたかった。
しばらくノブを握ったまま必死に葛藤してみたが、結局鉄の扉を開けることはできなかった。
『素直に本当の気持ちを口にしてみるの』――再びモリカナ先生の言葉が頭に浮かんだ。今日は本当に先生の言葉に助けられている。
すごく格好悪いけど正直に話そう……
「タチバナさん……ごめん」
僕は扉越しに話しを始めた。
「情けないんだけど、まだまだ日常の生活もままならなくてさ……人と会うのでさえ勇気がいるんだ。もう少し時間が欲しい」
「ヤマトくん……」
橘姫乃の声色に胸が高鳴ったが、友人の邪魔が入らぬ間に僕は話し続けた。
「今日はとても嬉しいよ、2人も訪ねてきてくれてさ。でも――」
「……でも?」
次の言葉を言いあぐねていた僕を、彼女が後押ししてくれた。
「う、うん……タチバナさんとは、学校であんまり喋ったことが無かったし……その……僕が病気だから優しく会話してもらえる、みたいな……そんな卑怯なまねをして、そんなきっかけで仲良くなりたくはなかったんだ」
「そのようなこと……」
「天邪鬼なのは、分かっているんだ」
僕はぎゅぅッ、とドアノブを握り締めた。
「だから本当は元気になってから伝えたかったんだけど――」
「……?」
「いつも、さ。いつも家まで来てくれて、あ……ありがとう」
無言だったが、扉の向こうで橘姫乃がブンブン、と首を振る気配を感じた。
そして、鼻水をすする音がした。
彼女――まさか泣いてるわけじゃないよな。
きっと花粉症なんだ。
って、今は9月か。
「ヤマトくん」
橘姫乃がかすれた声で言った。
「また……来るね」
虫の羽音の如く消え入りそうな声に対して、
「うん、ありがとう……」
と、僕も小さく返した。
扉を開けることはできなかったが、僕は握り締めていたノブから手を離して、そっと冷たい鉄の鏡面を手の平で撫でた。
自分のふがいなさを、彼女の言葉が温かく包み込んでくれた気がした。
「また来るね」
……傍に親友がいたことを思い出した。
「また来るね」
明らかに鈴木斗真の裏声だ。
「別にトウマは来なくていいよ」
「また来るね」
「しっつこいなぁ~ッ!」
扉越しで奇妙な状況であったが、3人は揃って笑い合った。
橘姫乃の笑い声を初めて聞いた今日のことを、僕は一生忘れない。