2.
ルシア・メンタルクリニック――
世間や学校では夏休みが終わり、既に2学期が始まっていた。
僕は16歳の夏を謳歌することもなく、週2、3回ほど自宅と病院の間を往復していた。母親も同行し、カウンセリングを受けるためだ。
「こんにちは、〝モリカナ〟先生」
「こんにちわ、タケル君。今日も暑いわね」
彼女はモリカナ――森香奈――先生、僕の担当医だ。
トップモデルのような抜群のスタイルで、カツ、カツ、といつも颯爽と歩く。ポニーテールにまとめた長い黒髪が揺れた。
勤務中は白衣を着ているが、タイトなスカートから長く細い脚が伸びて、殺風景な院内がさながらパリコレ状態になる。
実は僕が教室を飛び出したあの日、僕の手から折りたたみナイフを叩き落した勇敢な女性が、このモリカナ先生なのだ。
彼女は精神科のクリニックに勤める精神科医で、僕の症状も診断してもらった。
入院先は大きな病院――親和総合病院――の精神科病棟だったが、退院後はそのまま僕の担当医になってもらい、現在も通院しながら治療の経過を診てもらっている。
「どう。新しい眼鏡に変えたんだけど……?」
縁無しレンズの眼鏡に、細長い指をかけた。
「とっても似合ってます。先生、顔が小さいから眼鏡姿も美しいです」
僕は緊張しながらも、答える。
面談中、母は待合室にいるため、部屋の中は先生と2人きりだ。
「あら。お世辞が上手になったわね」
と、モリカナ先生が笑う。
彼女の笑顔は特別だった。
まさに天使のような優しい微笑みで、いつも僕の心は癒された。
「最近何か悩み事は無い?」
「はい。これといって無いです」
「例の〝黒い馬に乗った女の子〟は、もう現れなくなった?」
僕は一拍子置いて答えた。
「あ……はい。やっぱりあれは〝幻想〟だったんだなぁって、思っています」
「そう、良かった。お薬と休養が良く効いているようね」
またモリカナ先生が微笑んだ。
足を組みなおし、カルテに何か書き込んでいる様子だった。
――現実にあり得ないことくらい、僕にも分かっていた。
でも、下校中に〝黒い馬〟に出くわすこと自体が稀有じゃないか。
「わわわ」
艶のある黒毛の馬が鼻息を鳴らして、突然僕の目の前に現れた。
そりゃ、腰も抜かすさ。
例えそれが〝幻想〟だとしても、だ。
お尻を地面に打ちつけたまま見上げると、馬上で少女が手綱を引いていた。
僕と同い年くらい……おそらく女子高生なのだろう。
彼女は珍しい身なりをしていた。
独特の曲線を描いた長い和弓を左脇に抱え、腰には竹製の矢を数本抱えている。時節のニュースでよく見かける、〝流鏑馬〟の装束姿だ。
つばの反り返った例の帽子はかぶっていない。代わりにベリーショートの黒髪が、活発な性格を想像させた。
彼女のいでたちは、古き良き日本の伝統を感じさせたが、現在の住宅街を歩くには、まるで場違いだった。
隣町の女子高――聖オリエント女学院の生徒かも知れないな、と僕は思った。
お嬢様学校であり、文武両道を旗印にその部活動も多岐に渡ると聞く。
彼女は乗馬か流鏑馬かのクラブに所属しており、学校には内緒で移動手段として馬に乗っているのでは……と、混乱した僕の頭脳が適当な結論を出した。
やおら、背後にも殺気を感じた。
腰を上げて振り返ると、僕を挟んでもう一人、少女が立っていた。
彼女はグレーのセーラー服で清楚な長めのスカートを履いていた。聖オリエント女学院の制服だった。
衣装の異なる2人の女子の共通点は、僕という存在を全く無視して無言で睨み合い、対峙していることだった。
友達同士――では、なさそうだ。
不穏な空気を察して、そそくさと退散しようと思った。
「道を、開けてもらえますか?」
行く手を阻む黒馬に乗った少女に願いを申し出てみた。
だが視線さえ合わせてくれない。
全くの無反応で眉毛一本、ぴくりとも動かなかった。
僕は諦めて、もう一方のセーラー服姿の彼女に言ってみた。
「……そこ、開けてもらえますか?」
すると、セーラー服の少女に異変が起きた。
全身を激しく痙攣させてうずくまってしまったのだ。
「だッ、大丈夫?」
僕は慌てて彼女に近寄り、肩に手を掛けようとした。
すると、低いうなり声で少女が口を開いた。
「ネ……ルディア……ァ……」
「へ?」
「プァールプァティィィィィィ――――――ッ!!」
突然、少女は雄叫びをあげながら身体を起こした。
顔や手足の血管が伸びて、ブチ、ブチ、と切れる嫌な音がした。彼女の全身が膨張してゆく。瞬く間に見上げるほどの体格に肥大してしまった。
「わわわ」
僕の血圧値などお構いもせずにグロテスクな変身は続く。
筋肉が隆起して制服を破り去った。中から若い乳房が躍り出たが、内出血を起こして緑色に変色した薄気味の悪い素肌だった。
やがて全身が鱗で覆われ、四肢は恐竜の手足のように鉤爪を有した醜い怪物に変貌を遂げた。
明らかに10代の少女の裸体ではない。
彼女は肩から生えた両翼を大きく羽ばたかせ、ふわりと上空に舞い上がった。
「ひぃッ。ば、化け物ッ!」
僕は情けない叫び声を上げて、再び尻餅をついた。
「――ニンゲン?」
黒い馬に乗った少女が僕に視線を落とした。
今頃気が付いたのか……僕って、そんなに影が薄いのかな?
「あなた――まさか……!?」
「まさか?」
「こんなトコで何してんのよッ。チョー危ないしぃ!」
それはそうなんだろうけど……僕もこんなことになるとは思ってなくて。
少女は腕時計を見て、口を尖らせ不機嫌そうに言った。
「4時になっちゃうじゃん。もぉ――――ッ」
「4時?」
そう呟くと、少女の髪の毛はバチバチッ、と音を立てて逆立った。
黒かった髪が瞬く間に黄金色のブロンドヘアへと変色した。
こ……この娘も、化け物か――!?
「わわわ」
黄金のオーラが燃え滾り、時折、静電気の如く電光が弾け飛んだ。
まるで全身に高圧電流が流れているようだ。
「なんでこんな日に限ってぇ――ッ」
猫のように鋭く大きな瞳が金色に光り始めた。
特筆すべきは左の頬に現れた稲妻マークだ。〝N〟の字をなぞったギザギザの形をしたマークで、やはり黄金色に発光していた。
手にしていた和弓も形を変えていた。
両端が槍の矛先のように突出し、複雑な紋章や見慣れない文字が左右対称に施されていた。
「――〝予約〟、したんだからぁッ」
少女は弓に矢を番えた。
「ネイル――――――――サロン!!」
バチバチッ、と電気を帯びた矢羽が放たれた。
「ぐぁあああああ!!」
矢が命中したのか、空中を飛んでいた緑色の化け物が落下してゆく。
「ハアッ!」
両腹を少女の太ももで叩くように挟まれて、黒馬は駆け出した。
地面に這いつくばっていた僕の身体を器用に飛び越してゆく。
「わわわ」
その後のことは――よく覚えていない。
隙を見て、全速力で家へと逃げ帰ったからだ。彼女たちがどうなったかなんて知る由もなかった。
きっと〝幻想〟だったのだろう。
今ならそう思うこともできる。
しかし当時の僕は現実に起こった出来事だと信じ込んでしまった。
学校や帰り道はもちろんのこと、家にいる時でさえ、あの金髪少女と緑色の悪魔が常に僕のことを見張っている感覚に囚われた。
母親にもこんな空想世界の様な戯言を話せるはずもなく、一人で思い悩む毎日が始まった。
『あなた……まさか……』
『ぐぁあああああ!!』
彼女のセリフと、化け物の断末魔の叫び声が脳裏で連呼する。
僕は寝不足とストレスで、何事にも手が付かなくなった。
そしてとうとうあの日、思考回路が暴走して教室を飛び出す騒ぎを起こしてしまったのだ。
そう……あれは全て幻想だった、と今では認識している。
かなりリアルな――
「――タケル君」
モリカナ先生が足を組み替えて言った。
「例の〝黒馬に乗った少女〟が再び現れたら、スグに先生に教えてちょうだいね」
「は……はい」
僕は首を傾げた。まるで〝黒馬に乗った少女〟が現実に存在しているかのような口ぶりだったからだ。
気のせい、かな……?
「モリカナ先生」
「なに?」
艶やかな膝と真っ白いふくらはぎから視線を逸らしながら、僕は彼女に質問した。
「僕はまた……学校に通えるようになりますか?」
橘姫乃のことを思い浮かべていた。
足繁く家まで通ってくれている彼女に早く報いたい……
学校で、教室で、仲良く会話できるようになりたい……
いつになく真剣な僕の表情を見て、
「もちろんよ、大丈夫」
と、モリカナ先生は優しくそっと微笑んでくれた。
「タケル君が『学校に戻りたい』という明確な目的を持ち続ければ、徐々に以前の生活を取り戻すことができるわ。それと……」
彼女はギィッ、と椅子を僕に向けて続けた。
「完治するまでは〝お薬〟は切らさないようにしてね。心だけではなく、身体の病気も治さないといけないんだから」
抗精神病薬――脳のドーパミンだかなんだかの神経伝達物質を抑制したり調整するための薬のことだ。僕は毎日この薬を服用している。
「はい。分かりました」
「急がなくていいのよ。いつも言っているけど無理が一番いけないわ。タケル君が無理の無いペースで普段の生活に戻していけばいいの。焦らないで」
「はい」
僕は優等生のように背筋を伸ばして答えた。
「そうね――。まずは話しやすいと感じる相手から話していきましょう。素直に自分の気持ちを口にしてみるの……恥ずかしいけどね。でもタケル君も友達から正直な思いをぶつけられたら、無下に突き返すことなんて無いでしょう。きっと相手もタケル君の素直な気持ちを受け入れてくれるわ」
そういうものだろうか。
そうだったら、いいな……
「ゆっくり、ゆっくり。徐々に話せる相手を増やしていけばいいわ」
僕はモリカナ先生の微笑みにまた癒されるのであった。