1.
キーン
シュボ……ッ
暗闇に小さな炎が浮かび上がった。
手元では、オイルライターのクロムメッキが鈍く反射している。
僕はカシャン、と蓋を閉じた。
辺りは再び暗闇に閉ざされた。
キーン
シュボ……ッ
心地良い金属音と摩擦音が規則正しいリズムを奏でて、再び灯りがともる。
ゆらり、ゆらり、とうごめく火影に同調して、天井や囲まれた四面の壁に、僕の虚像が影となって浮遊している。
少しばかり自分の分身に見とれていると、部屋の外で人の気配がした。
慌ててカシャン、と火を消して、僕はライターをズボンのポケットに押し込んだ。
「タチバナさんが訪ねてきて下さったけど、今日も顔は出せない?」
母親だった。
看護士をしているので、キビキビとしてよく通る声だ。言葉も端的で分かりやすい。
優柔不断な僕とは大違いだ。
「ん……やめとく」
少し迷った振りをしてから返事をした。
答えは決まっているのに……
僕は卑怯な奴だ……
そんな罪悪感に苛まされる。
「ごめんなさいね、タチバナさん。タケル、今日も気分が優れないらしくて――」
「と、とんでもないです。私の方こそいつも気を遣っていただいて……」
玄関先から2人の会話が聞こえてくる。
クラスの委員長でもある橘姫乃は〝登校できない〟僕のために、定期的に連絡事項や必要なプリント用紙などを持って、訪ねてきてくれる。
「あ、申し訳ございません……ッ」
ばさばさ、と何か落ちる音がする。
あ――あ。
もうこれで何回目だろうか……。
我が家の間取りは2DKと確かに狭い。その上、窮屈な玄関口などで書類の受け渡しをするものだから、〝今日も〟手元が狂ってプリント用紙などをばら撒いてしまったようだ。
年の差が約20歳という女性同士の面倒くさい譲り合いの末、書類一式が無事に母へ手渡された。
橘姫乃は学業優秀で品行方正な女子高生だが、少しおっちょこちょいな一面がある。
しかし困っている人を見かけると黙っていられない優しい心の持ち主で、僕の容態もいつも気に掛けてくれる。
決まって最後に『お大事に――』という言葉を残して帰っていく様子を、僕は部屋の中から耳をそばだてて聞くことが習慣だった。
本当は直接彼女と話をしたかった。
でも学校にいた時だって、緊張してまともに挨拶さえできなかった。〝病気〟という名の武器を使って、彼女に甘えて会うことだけは避けたかった。
きっちり治療して、健康な身体で彼女と話をしたかった。
「では、お大事に――」
橘姫乃が階段を降りて行く音がした。
僕はある〝幻想〟を目撃したことで強く精神的なショックを受けた。精神科医から〝心の病〟であると診断されてしまった。
僕の名前は大和建、もうすぐ16歳――
この春、県立親和高等学校に入学したばかりで、おざなりに友達もでき、クラス委員長の橘姫乃にほのかな恋心を抱く――平凡な高校生活が始まっていた。
そんな矢先、あの〝幻想〟と遭遇してしまった。
そのせいで僕は情緒不安定となり、被害妄想がエスカレートした。やがて地球上の全ての人間が自分の〝敵〟ではないか、と勘繰るまでに症状が悪化した。
〝敵〟の存在は膨張かつ複雑化していった。
最初のきっかけはクラスの担任である座間内蔵助だった。
彼は陰気な性格で口数も少ない。担当教科である物理の授業では愚痴るような呟き声の詠唱が延々と流れる。単調なこの〝子守唄〟が奏でる睡魔の応酬に勝てる生徒は少なかった。
僕も担任のことが苦手だった。追い討ちをかけて神経質になり始めていた僕は、彼の伏目がちな視線に敵意を感じた。
僕は気が付いた。
クラスメイトが担任に対して異議を申し立てないのは、きっと彼が〝秘密組織のリーダー〟だからだ――と。
某国の秘密組織から派遣されたスパイ集団が、常に僕を監視しているのだ。だからクラスの奴らはもちろん、学校の先生も皆スパイなのだ、と思い込んでしまった。
日常の生活にも支障が来たし始めた。
寝起きに始まり食事や歯磨き、趣味の読書に至るまで、全ての行動がおっくうになった。
入浴もせず、服も殆ど着替えなくなった。
誰かに常に見張られているのだ。至極当然のことだ。
口数が減って、仲の良い友人とすら会話ができなくなっていた。僕の思想や個人情報が第三者に漏洩することを極度に恐れたからだ。
母親に限らず、学級委員長の橘姫乃や中学校からの親友である鈴木斗真も、塞ぎ込む僕のことをとても心配してくれた。
しかし症状は悪くなる一方だった。
意味不明な雑音の連続が耳鳴りする幻聴が僕を悩ませた。果ては自分を誹謗中傷する言葉――〝幻声〟が聞こえ始めた。
早くに夫を亡くし女手ひとつで僕を育ててくれた母親のことさえ信用できなくなっていた。
僕は突然、授業中に教室を飛び出した。
教室内には盗聴器と監視カメラが仕掛けられており、常時僕の動向が秘密組織の本部に報告されていることに〝気が付いた〟からだ。
廊下に出ても安心はできない。物陰に隠れて僕を捕獲すべく追跡者たちが待ち構えているに違いない。
国家の陰謀だ。捕まれば、得体の知れない実験のモルモットにされてしまう。
僕は追跡者たちの裏をかいて2階の窓から中庭に飛び降りた。
しかし着地に失敗してしまい、ぐきり、と嫌な音がした。
校庭に面した4階建ての校舎の窓々から制服姿に扮したスパイたちが、足を引きずり逃げ惑う僕の醜態を観賞している。
もう少しで校門、という所で僕を呼び止めようとする叫び声が聞こえた。僕は形振り構わず両手両足で地面を蹴りながら、四つん這いで何とか校門の外に出た。
街中を必死で逃げ続け、随分と遠くまで来た。
いつしか泣きじゃくって濡れていた頬が気化熱で冷たく感じた。火照った身体も汗が冷却してゆく。
様子を伺おうと路地から顔を出すと、通りかかった散歩中の犬と目が合った。
僕にはこの犬がドーベルマンに見えた。
感覚が麻痺した足を引きずりながら、更に遠くへ、人気のない街のはずれへと逃げ続けた。しかし追跡者たちの気配が消えることは無かった。
おかしい。
おかしい。
おかしい。
……
僕は気が付いた。
きっと僕の体内に超小型の発信機が埋め込まれているんだ。GPS機能か何かで敵は僕の所在地を常に把握しているんだ。そうに違いない!
身体のどこだ。
腕……胸か、足か……?
まさか脳……頭の中か……!?
僕は護身用に携帯していた折りたたみ式のナイフを取り出した。
そして迷いもせずに自分のこめかみに刃先を当てて、頭の中の発信機を抉り出そうとした。
これでやっと解放される……身の安全を確保できるんだ。
今にも頭蓋骨に穴を空けそうになったその時、何者かに腕を掴まれて鮮やかにナイフを奪われた。
ナイフを奪ったのは、その場を偶然に通りかかった勇敢な女性だった。
僕は発狂し、彼女に掴みかかった。
だが、前のめりの体重移動を逆手にとられ、僕の身体は宙を舞った。
やがて、街を奔走していた先生たちが駆けつけた。あえなく地面に叩きつけられ、意識が朦朧としている僕はそのまま身柄を保護されたらしい。
大人たちの計らいで、僕の奇行は警察沙汰にはならなかった。
先生、友達、見知らぬ人々……そして母親に散々迷惑をかけた僕は、とある精神科へと辿り着いた。 そこで難しい漢字が並ぶ何とかと言う精神病のひとつに診断され、晴れて入院する運びと相成った。
その後、症状が落ち着き退院はできたものの、担当医からの指示で現在、自宅で療養中だ。定期的に通院を繰り返し、徐々に学校への復帰を目指している。
遮光カーテンの隙間から、橘姫乃が帰っていく姿をこっそり覗いていた。
彼女がちらり、とこちらを見上げる。4階部分の暗い部屋にいる僕の姿は見えないはずだ。すぐに前を向き、少女は自転車を押して歩き始めた。
――なんだか寂しそうだ。
――いや、気のせいだろう。
担任の座間先生に頼まれて、きっと渋々寄り道しているのだ……
乱暴にカーテンを閉めた。
暗闇の中で、僕は、我に返った。
彼女に限って、そんなことはない。
彼女はとても優しくて思いやりのある女の子だ。
僕は、ややもすると頭をもたげそうになる被害妄想を押さえつけた。
指先でカーテンの端をつまんで、再び外を覗く。
橘姫乃は団地の敷地から出て再びこちらを見た。栗色の髪の毛が夕日に紅く染まる。
彼女はしばらくしてからペダルに体重をかけ、街路に消えて行った。
橘姫乃の後姿が見えなくなると、僕はカーテンを閉じた。
キーン
シュボ……ッ
暗闇で青白い炎が揺らいだ。
吸い込まれるような気分になる。
常備していた折りたたみのナイフはあの事件以来、没収されて手元には無い。
しかしこのクロムメッキのオイルライターは今でも隠し持っている。当時、部屋のゴミ箱の底に貼り付けていたために大人たちに見つからなかったのだ。
いつも肌身離さずポケットに忍ばせている。
親にも内緒だった。
カシャン、と蓋を閉じると、部屋は再び暗闇に包まれた。