『私』と私
「……もう朝か」
朝日の暖かさに包まれ、私は目が覚めた。目覚まし時計の音は聞こえなかったが、きっといつもの起床時間だ。
「はぁ、今日小テストなんだよなぁ……憂鬱」
父も母も仕事に出かけてるだろうから、一階のリビングではきっといつものように姉が朝食を作って待っているのだろう。私は、いつものように顔を洗い、いつものように着替え、いつものように階段を下りて行き、
「……あら? どうしたの?」
いつもとは違う怪訝な顔をされた。どうしたのも何も、いつものように朝ご飯を食べるため以外に何の用があるというのか。
「忘れ物したの? よかったわね、早く登校してて」
「はぁ?」
訳が分からない。姉の認識では私は既に家を出て、でも忘れ物をしたから戻ってきたと言う事になっているのだろう。しかし、私はたった今起きたばかりだ。無論朝食だってまだ食べていない。
「早く朝ご飯作ってよ。お腹空いて死にそうなんだけど」
「はぁ? 何言ってんの、三十分前に食べたばかりでしょ?」
「はぁ?」
……頭が痛い。姉といっしょに病院に行った方がいいのではないだろうか。無論姉は脳外科に。
『私』と私
「……どうなってんのよ」
渋々と言った感じで姉が作ってくれた朝食を食べながら思案に耽る。姉が嘘を言っているようには見えないのだが、そう考えると私はこの世に二人存在する事になってしまう。そんな事がありえるわけ……あ。
「ねぇお姉ちゃん、ドッペルゲンガーの話知ってる?」
昔、実しやかに流れた都市伝説の一つに、『自分とそっくりの容姿を持つ者――ドッペルゲンガーを見たら死んでしまう』、と言うものがある。たかだか都市伝説だろうとその時はバカにしてたのだが……
「ドッペルゲンガー? 懐かしいわね、それがどうしたの?」
「お姉ちゃんが最初に見たのって、私のドッペルゲンガーだったんじゃない?」
「まさか……そんな事あるわけないでしょ、あれはあくまで噂。実際にあるわけないじゃない」
それじゃ、私が嘘をついているとでも言うのか。そう尋ねると姉は事もなしにこくりと頷いた。曰く、私は確かにあんたに朝食を作って玄関から送り出したのだから、あんたが嘘をついているとしか考えられない、と言うのである。なんという自分を正当化した言い分であろうか。
「でも……あんたが嘘をついてないとしたら、それしかあり得なさそうね。そもそもそんな嘘つくメリットもないし」
「そう言う事。……ごちそうさま、それじゃ行ってくるわ」
朝食をもう一度作り直す間のロス、加えていつもよりお喋りをした事で食べる速度も遅くなり、気がつけば登校時間はかなりギリギリになっていた。
「あ、ちょっと」
かばんを持って今まさに玄関から出ようとする私を引き止める姉。この忙しいのに何用だろうか。
「あんたが嘘つく原因だけどね、考えついたわ」
「何よ?」
「朝食が美味しすぎてもう一回食べたくなったから戻ってきた、なんてね。それじゃ、いってらっしゃい」
……私の貴重な三十秒を返せ。
◆
「ごめんなさい」
まぁその三十秒があっても、十五分の遅刻を埋め合わすには十分ではなくて。とりあえず謝るしかないので教師に頭を下げたが、帰って来た言葉は至極意外なものだった。
「ん? 何謝ってるんだ。それより気分はもういいのか?」
「……へ?」
「よくなったならさっさと席につけ、授業始めるぞ」
「あ……はい」
釈然としないものを抱えて席につくと、隣に座ってる友人が喋りかけて来る。
「気分悪いって言ってたの、治った?」
「え? あー……うん、もう大丈夫」
「そっかー、それはよかった。学校来るなり青ざめた顔で教室出て行くから何があったのかと思ったよ」
「それって何時頃か分かる?」
「あんたが学校来てからすぐにチャイムが鳴ったから、大体十五分前。……って、自分でした事だから自分で分かるでしょ?」
「うん、そうなんだけどね……」
仮病を使ったのかそれとも本当に気分が悪かったのかは分からないが、ともかく『もう一人の私』は普段の私と同じように学校に登校してきたらしい。と言う事は、このまま行けばいずれどこかで遭遇する事もあるのだろう。
(……ってそれまずくない!?)
――ドッペルゲンガーを見たら死んでしまう――
本来なら一笑に伏すはずのこのフレーズが、にわかに現実味を帯びて来る。何としても出会わないようにしないといけない。そうしなければ……
「……ねえちょっと、まだ顔青いよ? 保健室にいた方がいいんじゃない?」
「えっ? だ、大丈夫、平気だって」
「それならいいけど……ほら、授業始まってるよ」
「あ、ありがと」
いつ訪れるか分からないその時に怯えつつ、私は教科書とノートを机の上に広げ、
「はい、それじゃ予告してた小テスト始めるぞー」
「ふぇっ!?」
……最悪だ。すっかり忘れてた。
◆
「やれやれ……」
昼休み、学食で憂鬱な気分に浸りながらきつねうどんを啜る。
小テストはもちろん玉砕。ただでさえあの教科はテストが難しいのに、貴重な平常点が下がってしまうに違いない。
「それにしても……」
授業の合間の休み時間に、少なくとも五回はこんな事を聞かれた。いつの間に教室に戻って来てたの、と。ある時は廊下で。またある時はトイレで。ひどい時は運動場で見かけたというこれらの事柄を、全てごまかす必要があった私の苦労は是非とも察していただきたい。
「まぁうろうろしてるなら、教室にいれば出会う可能性はな……ッ!?」
驚愕と同時に噎せてしまったが、そんな事はどうでもいい。ふと目に入った、たった今学食を出て行った女子学生。位置の関係で横顔しか見えなかったが、その顔はまるで鏡を見ているかのように私と瓜二つ。タイミングからしてあと八分、私が早くここに来ていれば、鉢合わせしていた可能性も十二分にある。
「……今の、ひょっとして」
すぐさま残ったうどんを平らげ後を追ってみるが、すぐに行方は掴めなくなった。残念と思う気持ちと同時に、何やってるんだ自分という気持ちが浮かんでくる。見たら死ぬと言われている存在に自ら会おうとするのは、自殺志願者が死にたがっているソレと何ら変わらない事ではないか。
「いけない、午後の授業始まっちゃう」
気がつけば昼休み終了のチャイムが鳴るまであと数秒。次の授業の教師は規則には厳しい、例え一秒遅れようが遅刻として扱うだろう。朝と違ってもし教室にもう一人の私がいたとしても、それは私にとって何らアドバンテージとなるものではない。
「……はぁ」
……今日は、散々な日だ。
◆
「ふー、やーっと終わったー」
ようやく一日の授業が終わる。どうやら学校内では合わずに済みそうだとほっとして教室を出ようとした私に、後ろから声がかかる。
「あれ、何でまだいるの?」
「えっ、いたら悪い?」
「いや、そうじゃないけど……四分前に帰ったばかりじゃない。忘れ物でもした?」
次の瞬間にはもう、全速力で教室を飛び出していた。四分前なら追いつく事は不可能ではない。今回は下校ルートも熟知しているから探す必要がない上に、相手はきっと談笑しながら歩いているはず。もちろん自分がどんなに愚かな行為をしているのかは頭で理解していたが、好奇心という何物よりも強い力が、私の体を動かしている。
(絶対に追いついて、その正体を拝んでやるわ!!)
校門を出て右に曲がり、三つ目の十字路を左に折れ、その先の三叉路を右へ曲がると、果たしてそこにはいつも見慣れた二人の友人がいた。後ろから声をかけると、彼女達は驚いた様子を見せる。
「あ、あれ、さっき前に走って行ったのに、何で後ろから……?」
「それ、何分くらい前!?」
「に、二分くらい前だけど……って、あっ、ちょっと!?」
距離は二分縮まった。しかし追いつくまでには至っていない。走れど走れど追いつけないと言う事は、相手も走っている事を意味している。だが、何のために。
「もしかしたら……」
ドッペルゲンガーじゃないのではないか? そんな考えが私の脳内にふとよぎった。そうでなければ私から遠ざかる意味は全くない。むしろ、こちらに接近するような動きを見せるはず。それなのに彼女の行動はまるで私を避けるようなものばかり。
抱いた疑問は確信へと変わり、そして私は決意する。
「絶対に、逃がさない!!」
……私の偽者、その面を絶対に見てやる。
◆
「も、もう……どこ行ったのよ……」
しかし、夕方になり、その陽が西へ沈みかけてもなお、私は彼女を見つけ出す事ができなかった。逃げられてしまったのはちょっと悔しいが、過ぎた事は仕方ない。
「ただいま……」
観念して家に帰り着くと、そこには顔を引き攣らせている姉の姿があった。何やらこちらの顔と階段の上の方とを行き来している。
「……? どうしたの?」
「え、えっと……あれ? 今帰ってきて自分の部屋に戻ったはずじゃないの……?」
その姉の言葉で、私は全てを理解した。散々探し回った私の偽者は、ご丁寧にも私の部屋にいるというのだ。『灯台もと暗し』とはまさにこの事だろう。
「……そう。ありがと、お姉ちゃん」
「ありがとって、えっ、ちょっと!?」
姉の言葉を背中越しに感じながら、私は階段を上がって行く。
ずっと会いたかった鬼ごっこの相手にもうすぐ会えると思うと、不思議と気持ちが高揚する。
「もう、逃がさないわ」
……ドアノブに手をかけた私の顔には、笑みが浮かんでいた。
◆
「すぅ……」
果たしてそこには、ベットの中で寝息を立ててる女性の姿があった。疲れ果てて眠ってしまったのだろう、何とも呑気なものである。
「……やれやれ、起きなさいよ」
乱暴に体を揺すってやると、彼女はぱちりと目を覚まし、そしてこちらを顔を見やる。その顔に浮かぶ表情は……衝撃。
「ほら、そんな顔してないで何とか言ってみなさいよ」
しかし、私がそう言い終わる前に彼女の表情はみるみる崩れて行き……そして、そのまま動かなくなった。
「えっ? ちょ、ちょっとあんた、どうし……ッ」
再び起こそうとして手を触れた彼女の体は、冷たかった。一瞬で死んでしまったと言うのか? でも何で……
「……あぁ、そっか」
……その瞬間、私は全てを理解した。
――私が、『もう一人の彼女』だったんだ、と――