第5話 R女神の入浴事情(中編)
お湯の中で、何かが変わり始めていた。
◇
体を洗い終わって、浴槽に入った。
広い。二人で入っても余裕がある。肩までお湯に浸かると、じわぁっと疲れが溶けていく。4日分の疲労が、全身から抜けていく感覚。
「はぁ~……」
「はぁ~……」
二人で同時にため息をついた。顔を見合わせて、ちょっと笑った。
リルアが隣に座って、私の肩に頭をもたれかけてきた。
湯気の中で、銀色の髪がお湯の表面に広がってる。後光が水面に反射して、きらきら揺れてる。
きれいだな、と思った。
「ひなたちゃん」
「ん」
「ねえ。前から聞きたかったんだけど」
「なに?」
「ひなたちゃんは……前の世界に、帰りたい?」
「…………」
帰りたいか。
考えたことがなかったわけじゃない。でもこの4日間、忙しすぎてちゃんと向き合ってなかった。
帰りたい場所が、あるだろうか。
6畳の自分の部屋。バイト先のコンビニ。誰とも喋らない教室。スマホの画面だけが光ってる、夜中の部屋。
「桜庭さんは一人でいる方が好きなんだよね」——クラスメイトにそう言われた時、否定しなかった。否定するのも面倒だったし、たぶん半分くらいは本当だった。
でも残りの半分は。
残りの半分は、ただ人と話すのが苦手だっただけだ。
「……あんまり」
「あんまり?」
「帰っても……待ってる人、いないし。バイト先の人は私の名前覚えてないし、クラスでは透明人間だったし」
言ってから、ちょっと後悔した。暗い話だ。お風呂で言う話じゃない。湯気のせいで口が緩くなってる。
でもリルアは、暗い顔をしなかった。
「……一緒だね」
「え?」
リルアが湯気の向こうでふわっと笑った。
「私も、待ってる人いなかったから」
「リルア……」
「私ね、配布女神なの。ひなたちゃん知ってるよね」
「うん」
「配布ってね、いつでも手に入るってこと。誰にでもつくってこと。だから……特別じゃないの」
リルアの声が、静かになった。後光がロウソクよりさらに弱くなってる。マッチの火くらい。
「別の世界でね、何人もの勇者さんのところに行ったの」
「え……何人も?」
「うん。配布だから。勇者さんが召喚されたら、最初に私がつくの。でもね——」
リルアがお湯の表面をそっと撫でた。指先から小さな波紋が広がっていく。
「みんな、すぐに他の女神さまと交換するの」
「……交換?」
「召喚して最初につくのは私。でも、冒険を始めてすぐに、もっと強い女神さまが来てくれるの。SRとか、SSRとか。そうしたら——」
リルアが笑った。笑ってるのに、目がぜんぜん笑ってなかった。
「『ありがとう、リルア。もう大丈夫だよ』って」
「…………」
「優しい人は、そう言ってくれたの。ありがとうって。でもそれって——」
「もういらないよ、ってことでしょ」
リルアが頷いた。
「優しくないひとは、何も言わなかった。気づいたら、別の女神さまがいて、私は女神の世界に戻されてた」
胸が、ぎゅっと痛くなった。
「何回?」
「……数えてない。数えたくなかったから」
リルアの後光が、消えかけていた。お湯の温かさの中で、リルアだけが冷たくなっていくみたいだった。
コメント欄が、珍しく静まり返っていた。
『……配布って、そういうことだったのか』
たった一行だけ、ぽつりと流れた。
「だからね……ひなたちゃんに『推し』って言われた時、すっごく嬉しかったの」
「リルア……」
「推しって、ずっと好きでいてくれるんでしょ? 交換しないんでしょ?」
「しないよ。絶対にしない」
「えへへ……」
リルアが私の肩に顔を埋めた。お湯の中で、小さな体がぎゅっとくっつく。
あったかい。
「ひなたちゃんのところに来た時ね、最初は……また交換されるんだろうなって思ってた」
「……うん」
「だってひなたちゃん、Rランクの女神なんて外れでしょって顔してたもん」
「してないよ!? ……してた?」
「ちょっとしてた」
「……ごめん」
「ううん。だって普通はそう思うよ。SSRが欲しいに決まってる」
リルアが顔を上げた。
濡れた銀髪が頬に張り付いてて、青い目がうるうるしてて、湯気の中で後光がかすかに揺れてる。
「でもひなたちゃんは、『推しは性能じゃない』って言ってくれた」
「……うん」
「『引いたカードで戦う』って言ってくれた」
「……うん」
「誰も——今まで誰も、そんなこと言ってくれなかった」
涙がぽろっとこぼれた。お湯に落ちて、波紋が広がった。
「だから私、決めたの。今度こそ、交換されないようにがんばるって」
「リルア。がんばらなくていいよ」
「え?」
「交換されないために頑張るんじゃなくて。リルアはリルアのままでいいの。私は——」
言葉が詰まった。
恥ずかしいことを言おうとしてる。わかってる。でも今、言わなきゃいけない気がした。
「私は、リルアがいてくれるだけで嬉しいから」
リルアの後光が、ぶわっと明るくなった。
マッチの火だったのが、一気にランタンくらいに。湯気が金色に照らされて、浴室全体がやわらかい光に包まれた。
「ひなたちゃん……!」
「わっ、まぶし——」
リルアが抱きついてきた。
お湯の中で。
裸で。
「ちょ、リルア——!?」
「うれしい! うれしいよひなたちゃん!」
ぎゅうっ。
やわらかい感触が全身に押し付けられた。滑らかな肌とお湯の温度とリルアの体温が混ざって、頭がぐるぐるする。
肩に顔を埋めてるリルアが、泣いてるのか笑ってるのかわからない。たぶん両方。
「リルア、ちょっと、離れ——」
バランスを崩した。
お湯の中で足が滑って、咄嗟にリルアの体を支えようとして——
手が、やわらかいものを掴んだ。
…………。
ふにっ。
「ひゃぃっ……」
リルアが、声を出した。
甘い声。耳のすぐ近くで。吐息みたいな、ちょっとだけ色っぽい声。
脳が一瞬で真っ白になった。
手のひらにある、やわらかくて、あったかくて、信じられないくらいやわらかい感触の正体を、私の脳は正確に理解している。理解してしまっている。
おっぱいだ。
リルアの、おっぱいを、掴んでいる。
「——————」
離す。今すぐ離す。手を離す。離すんだ私の右手。
——離そうとした。本当に離そうとした。
でも。
リルアが、離れなかった。
「…………リルア?」
「……っ」
リルアの肩が震えてる。私の手の上から、自分の手を重ねてきた。
離さないで、と言うみたいに。
顔を上げると——リルアの目が、いつもと違った。
青い瞳が潤んでて、頬が真っ赤で、唇がかすかに開いてて。
「ひなたちゃん……」
「り、リルア……? あの、手が……」
「わかってる……でも、もうちょっとだけ……」
リルアの声が震えてる。恥ずかしそうで、怖そうで、でもその奥に——何か別のものがある。
胸のやわらかさが、手のひらに密着してる。お湯の熱さとは別の熱が、リルアの肌から伝わってくる。心臓の鼓動が、手のひら越しに感じる。速い。リルアの心臓が、すごく速い。
私の心臓も、同じくらい速い。
コメント欄のことが、ふと頭をよぎった。
でも——
「見るな」って、念じた。
全力で。
プライバシーフィルターが完全遮断を起動する。10分。たった10分。
その10分が、今の私には永遠みたいに長くて、同時に短すぎた。
◇
湯気が濃い。
二人きりの浴室。壁の魔法の明かりがぼんやりオレンジ色に揺れてて、リルアの後光がそれに混じってぽわぽわ光ってる。
コメント欄は遮断されてる。
世界に、私とリルアしかいない。
「……リルア」
「うん」
「手、離すよ?」
「……うん」
そっと手を離した。リルアが小さく息を吐いた。名残惜しそうな、でもほっとしたような。
向かい合ってる。お湯の中で。裸で。
リルアの鎖骨のあたりまでお湯に浸かってて、湯気越しに白い肩が見えてて、銀色の髪が水面に広がってて。
「……ごめん。事故だったんだけど」
「うん。事故。……でもね」
リルアが、もじもじした。
「……気持ちよかった」
「……え」
「えっと、なんていうのかな。びっくりしたけど……ぞわって、して……あったかくなった。ここが」
リルアが自分の胸のあたりを、お湯の下で押さえた。
「怒ってない?」
「怒ってないよ。だって……ひなたちゃんだもん」
ひなたちゃんだから、いい。
その言葉に、胸の奥がきゅっとした。
それは友達だからいいのか、パートナーだからいいのか、それとも——
「ひなたちゃん」
「……なに」
「さっき私が泣いた時、抱きしめてくれたよね」
「うん」
「あの時もね、胸がぎゅってした。嬉しくて、あったかくて。……でもさっきのは、それとちょっと違った」
リルアが、自分の頬に手を当てた。赤い。お湯のせいだけじゃなく。
「……なんだろう。お腹の下の方が……きゅうってなった。知らない感覚」
「っ——」
その言葉を聞いた瞬間、私の体にも同じ熱が走った。
知ってる。この感覚を、私は知ってる。前の世界で、夜中に、一人で——
違う。今は違う。目の前にリルアがいる。
「……リルア」
「うん」
「私ね、リルアのこと……」
言葉が出てこない。喉が締まる。
代わりに、体が動いた。
お湯の中で、リルアの肩に、そっと触れた。
濡れた肌が、するりと指の下を滑る。お湯よりも熱い体温。
「ひなた、ちゃん……?」
リルアが目を見開いた。でも、逃げない。
青い瞳が、まっすぐ私を見上げている。湯気の向こうで、後光がぽわっと明るくなった。
——胸の奥が、ぎゅっとなった。
それが何の気持ちなのか、もう自分でもわかってる。たぶん、リルアも。
「リルア」
「うん」
言葉にならない何かを、ふたりで交わした、気がした。




