同級生〜外伝〜 輪廻
二〇九一年二月九日 万至三十九年
その年、世界人口はついに十億人を割り込んだ。
かつては「百億人突破は避けられない未来」とまで言われていた人類は、資源の枯渇と食糧危機を前に、世界政府による穏やかな人口削減政策を選んだ。
強制でも、虐殺でもない。
ただ、増やさない。生まれさせすぎない。
その静かな選択の積み重ねが、数十年かけてこの結果に至った。
日本では内閣府が掲げた、二〇五〇年までに人が身体、脳、空間、時間の制約から解き放たれるという“ムーンショット目標”が、皮肉なほど美しく機能した。
人々は自然に、未来を考え、子を持つ数を選び、気がつけば人口は五千万人まで減少。その成功モデルは世界へと輸出され、どの国も無理なく人口を減らしていった。
……もっとも。
仮想空間では、いまだ百億を超える“ヒト”が暮らしている。肉体を捨て、意識体となった存在たち。病も怪我も寿命もない世界で、彼らは今も増え続けていた。
だが――そんな進化を、あえて拒む者もいる。
北海道大学医学部附属生理学技術研究所。
その七階、夜に沈む研究室の一角に、ひとりの女性がいた。
有馬由羅
白衣の下に隠れた身体は、二十代前半の若さそのもの。だが、その瞳に宿る光は、若者のそれではない。半世紀以上、研究と向き合い続けた者だけが持つ、静かな重みがあった。
彼女はこの大学に入学してから、五十年以上ここに身を置いている。
彼女は中学生の頃、父を癌で亡くした。
その日から、彼女の人生は決まった。
――癌を、この世界から消す。
ムーンショット計画の追い風もあり、その夢は二〇五〇年を待たずに達成されたが、それでも彼女は研究をやめなかった。
研究者とは、答えを得た瞬間に、次の問いを見つけてしまう生き物だから――
現在、彼女は北海道大学の名誉教授。
若い研究者たちを導きながら、今なお最前線に立ち続けている。
御年、八十三歳
だが見た目は二十代。
それもまた、彼女自身の研究成果だ。
老化細胞の除去――その実験に、自らの身体を検体として差し出した結果である。
病気も老いも訪れない。
五感は衰えず、八十を過ぎても月経すらある。
……もっとも、彼女はそれ以上の改変を望まなかった。
「両親にもらった身体で、最後まで人間として生きる」
それが彼女の、研究者としてではなく、一人の人間としての矜持だった。だから今も、爪は伸びるし、髪も伸びる。食べれば排泄もするし、眠気も覚える。
不便で、面倒で、非効率な――人間の身体のままで。
時刻は二十三時。
研究所七階の研究室は、薄暗い光に包まれていた。
壁一面に並ぶ研究機材。
机の上には、小型化された量子コンピュータが何台も静かに唸っている。かつて部屋一つ分の大きさを誇ったスーパーコンピュータは、今やノートパソコンサイズ。処理速度は、当時の千倍以上。実験シミュレーションは日常の延長になり、技術はもはや魔法に近かった。
そして――
明日で八十四回目の誕生日を迎える有馬由羅は、今夜もひとり研究室に残っていた。
壁一面のモニターに流れる数式と波形。その奥で、実験は静かに進行している。彼女は椅子にもたれ、瞬き一つせず、その変化を見つめ続けていた。
もちろん由羅には帰る場所はある。
札幌市内にあるマンション。だが、そこへ戻るのは週に二、三度。それ以外の夜は、決まってこの研究室で迎える。
薬品の匂い。機械の微かな唸り。冷たい空調の風と、温度管理された空気。
――こここそが、彼女の家であり、世界だった。
家族と呼べる存在は、七つ下の弟がひとりいるだけ。結婚はおろか、恋愛もしたことがない。親以外には手を引かれた記憶も、抱きしめられた思い出もない。当然、男性を知ることもなかった。
その人生は空虚だっただろうか。
答えは、否。
彼女は人生のすべてを研究に捧げ、数え切れないほどの命を救ってきた。
他人は時折、哀れむような目を向けて言う。
「寂しい人生ですね」と。
そのたび由羅は笑った。
「いいえ、最高に楽しかったわ」と。
今もそう思っている。
胸を張って言える。
――後悔など、ひとつもない。
由羅は、自分で淹れたコーヒーを一口含み、机の引き出しから取り出したチョコレートを、指で割って口に放り込んだ。
甘さと苦さが、舌の上で混ざり合う。
その瞬間――ガタンと世界が傾いた。
視界が歪み、音が遠のき、身体が言うことをきかない。床が迫り、冷たい感触が肌に近づいてくる。
(……身体は、健康そのものだったはずなのに……どうして……?)
答えは、すぐに浮かんだ。
(ああ、そうか。これはきっと――人間としての理に、逆らい続けた報い)
床に辿り着くまで、ほんのコンマ数秒。
その短い時間の中で、彼女の人生が走馬灯のように駆け巡った。
研究室。
白衣。
父の笑顔。
弟の声。
数え切れない論文と、救われた命。
そして――
享年八十三歳。
誕生日まで、あと一時間前にして、有馬由羅は静かにこの世界から消えた。
二〇〇一年二月十日 土曜日
「由羅、お願い……目を開けて……!」
その声は、遠い水底から響くように、かすかに私の耳へ届いた。滲むように、揺れるように、意識の奥へと染み込んでくる。
(……おかしい)
ぼんやりとした思考の中で、私は首を傾げた。
私の名前を、こんな必死な声で呼んでくれる人なんて、もう――。
最後の記憶が、ゆっくりと浮かび上がる。
研究室。
モニターの光。
口に放り込んだチョコレートの、ほんのり苦い甘さ。
そして―― 床へ倒れ込む直前に見た、走馬灯のような過去。
そんな記憶が蘇る。そして先ほどの声が、今度ははっきりと聞こえた。
「由羅……!」
(この声……どこかで……)
確かめるように、私は重たい瞼に力を込める。
光が、差し込んでくる。
目に映ったのは、真っ白な天井。
そして視界の端に、必死な顔で私を覗き込む一人の女性。
三十歳前後だろうか。
涙でぐしゃぐしゃに濡れた頬。
震える唇。
――どこか懐かしい顔立ち。
(……あれ?)
心の奥底に沈む記憶が静かに震えた。
「……お、お母さん……?」
かすれた声が、喉から零れ落ちる。
女性は息を呑み、声にならない叫びをあげて、私の手をぎゅっと握った。
(……そうか)
私はぼんやりと天井を見つめながら考える。
(ここは恐らく『天国』というところね)
死後の世界は本当に存在するのか。
その仮説と、目の前の現実を、私は学者らしく頭の中で照らし合わせる。
思わず、小さく笑ってしまった。
……けれど。あまりにも、リアルすぎる。
背中に伝わる布団の感触。
耳元で途切れなく聞こえる母の声。
鼻腔をくすぐる、嗅ぎ慣れた消毒液の匂い。
(……ここ、まるで病院……よね)
そう思った瞬間、私ははっきりと確信した。
(私は―― 生きている)
視線を動かすと、大きな機械が目に入った。脇には心電図。青い波形が、規則正しく上下している。
口元には酸素マスク。
「クォー……」という気体の音が、やけに大きく聞こえた。
(……何これ。すっごい年代物じゃない)
今どき、こんな機械を使っている病院なんて――って、ここどこ?
そんな思いで周囲を見渡すと、先ほど私を呼び続けていた女性と、見知らぬ三十代前半ほどの男性が、心配そうな顔で私を見下ろしていた。
それにしても、この女性――
(お母さんの若い頃に、そっくり……)
幻影に触れるように、私は布団の外へと右手を伸ばした。
「えっ……?」
その瞬間、目に入ったのは――小さな子供の手。私は慌ててその手を引っ込め、自分の目の前へ持ってくる。確かめるように頬へ触れると、絆創膏やテープの感触。
同時に、全身を貫くような痛み。
でも、今はそんなもの、どうでもいい。
私は夢中で、自分の身体を確かめる。
ふわりと柔らかな髪。
丸みのある頬。
ぺったんこの胸。
(……これ、私?)
長年慣れ親しんだ造られた二十代の身体ではない。また八十を超えた年齢相応の身体でもない。これは――間違いなく、幼い子供の身体。
(これが……、タイムリープ?)
私はもう一度、母の顔を見る。
懐かしさと彼女から寄せられるあたたかな眼差しで胸の奥が熱くなり、気づけば涙が止まらなくなっていた。
聞けば、私は数日前に交通事故に遭い、ずっと意識不明だったらしい。そしてさっき突然心電図の波形が変わり、母が必死に呼びかけたのだという。そして、傍に立つ男性――母の旦那さん。つまり、この世界での私の父親。
(……なるほど)
どうやら私は、自分の知る世界線とは違う過去へ来てしまったらしい。
それにしても―― 前の記憶を持ったまま人生をやり直すなんて、俗に言うチート能力ってやつよね。
私は心の中で、大きく息を吐いた。
人生のやり直し。双六で言えば、スタートに戻る、みたいなものか……
前にも言った通り、私は『前の生涯』に一片の後悔もない。そんな私がこれからどんな人生を歩めばよいのか?
再び研究者としての道――
……いや、それはない。
私がそれを目指した目的は既に果たしている。いくらこの世界がその技術に追いついていないとは言え、そのノウハウは私の脳にしっかり刻まれている。世の中の技術がそれにおいつけばすぐにでも再現できるのだから……
とはいえ、私が選ぶ選択肢は医師の道以外無い。
――今度は研究者としてではなく、一人ひとりの患者と向き合う医師になろう。
五歳になった今日、私はそう決意する。
数日後、私は退院し、埼玉県某市にあるアパートの一室へ戻った。古いけれど、きれいに片付いた部屋。ここが――今の私の家だった。
両親は普通の会社員。
私は、この二人の一人娘。
姓はもちろん『有馬』ではない。
『仙道由羅』これが私のフルネーム。
うちの方はお世辞にも裕福とは言えない。けれど、二人は私を心の底から愛してくれているそれだけは、疑いようがなかった。
母は私の怪我が完治するまでの二週間、仕事を休み、付きっきりで世話をしてくれた。その姿を見ながら、私は胸の奥に、小さな痛みを覚える。
(……情けないわね)
私の中には、両親の倍以上の人生経験がある。それなのに、この幼い身体では、身の回りのことすら満足にできない。靴紐を結ぶのも、服を着替えるのも、ひとつひとつがもどかしい。
知識があっても、身体が追いつかない。
それが、こんなにも不自由だなんて――。
そしてこの世界の私は生年月日や顔立ちなど、前の人生とは異なったステータスを持つ。これは母親である瞳の配偶者が違っていることに起因する。
やがて怪我が治り、私は「これまで通っていたであろう」幼稚園に通いはじめた。初めて足を踏み入れる場所なのに、周囲は私を知っている。そのちぐはぐな感覚に、しばらく慣れなかった。
先生たちの笑顔。
周りを走り回る子供たち。
どれもが眩しくて、少しだけ、怖い。
私は長い間、研究者という閉じた世界で生きてきた。言葉を選び、距離を測り、相手の意図を読む―― そんな大人同士のコミュニケーションしか知らない。だから、幼稚園の「ただ遊ぶ」という関係が、どうにも難しく思えてならない。
何を話せばいいのか。
どこまで踏み込めばいいのか。
泣いている子に、どう声をかければいいのか。
そんな手探りの日々――
それでも少しずつ、私は学んでいった。
笑い方。
相槌の打ち方。
一緒に遊ぶ、という行為の意味。
気づけば私は、輪の中にいた。そして小学校に上がる頃には、人と話すことが怖くなくなった。
私は思い出す。
昔の自分はこんな感じだったと……
地元の市立小学校。
新しい教室、新しい友達、新しい先生。
勉強に関しては、特別なことは何もしていない。ただ、知っていることを思い出していただけ。それだけで、成績は自然と頭ひとつふたつ飛び抜けてしまい、距離を置かれたこともある。「頭がいい子」というラベルは、子供の世界では時に壁になる。
けれど私は、幼稚園で学んだ。
一緒に笑うこと。
相手の話を聞くこと。
分からないふりをすることさえ、時には必要だということを。
それを覚えてから、私は「一人」ではなくなった。
中学に上がっても、学年一位は当たり前だった。両親は何度か申し訳なさそうに言った。
「私立に行ってもいいんだよ」
そのたび、私は首を振る。
負担をかけたくない。そして二人には、ただ普通に、幸せでいてほしい。そんなことを考えるなんて、きっと子供らしくないのかもしれない。
高校も、県立の進学校を選んだ。そこが一番、自然に呼吸できる場所だったから。
そして大学。
それだけは、私のわがままで自宅からは少し離れた学校を選ぶ。
でも自宅から通える距離。
県境を越えたその先。
私がえらんだのは東京大学理科三類。
合格通知を受け取った時、両輪は涙を流して喜んでくれた。「お祝い」といって、これまで一度も行ったことがないようなカウンターのお寿司屋さんにも連れて行ってくれた。
私は両親の期待と私の願う未来のために歩き始めた。
二〇一四年四月
「ハイ、こっち向いてー! 笑って、由羅!」
カメラのシャッター音と共に、春の陽光が視界を白く染めた。
入学式――。
視界を埋め尽くすのは、狂い咲くような桜の乱舞と、威厳を持ってそびえ立つ朱塗りの門。両親に挟まれ、気恥ずかしさに口角を微かに引きつらせながら、私は「新入生」としての自分をレンズに刻みつける。
(……懐かしい)
かつての記憶が、淡いセピア色の層となって現在の景色に重なり合う。
かつて経験した、北の大地での入学式。隣には母と弟。あの頃の風はまだ鋭く冷たくて、翌日から始まった一人暮らしの心細さを、今でも覚えている。寂しさはいつしか「当たり前」という名の日常に摩耗し、それでもそれが生涯続くものだと信じて疑わなかった。
私は顕微鏡の向こう側に広がるミクロの世界に没頭した。研究者という、静謐で孤独な真理への道。
けれど、私は今、無機質なデータや論文の海を抜け出すためにこの場所に立っている。今度は、記号じゃない。一人ひとりの「患者」という体温を持った存在と、正面から向き合うために。
「由羅? どうしたの、ボーッとして。お腹空いた?」
母の屈託のない声に引き戻され、私は慌てて首を振った。
「……なんでもないよ。行こう」
そう。ここから始まるのは、以前のような「孤独な探求」ではない。医学部という名の修練場。そこに集うのは、私と同じように、あるいは私以上に重い「何か」を背負った人間たちだ。
二度目の学生生活は、驚くほど色鮮やかで、そして息つく暇もないほどに濃密だった。かつての私は「知識」を積み上げることにのみ腐心していたが、今の私には「その知識で誰を救うか」という明確な座標がある。
一学年百人程度の狭いコミュニティの中で、私は浮いた存在にならないよう努めた。
医学部の講義は膨大だ。解剖学、生理学、生化学……。かつて学んだ知識が基盤にあるとはいえ、人体というマクロの構造に落とし込む作業は新鮮な苦労を伴う。私は常に最前列の端に陣取り、教授の言葉を一言も漏らさぬようノートを取った。定期試験のたびに、同級生たちが悲鳴を上げながら私のノートを頼りにしてきたが、それを拒むことはなかった。誰かに教えるという行為もまた、私にとっては情報の整理に他ならなかったから。
放課後や週末は、家庭教師のアルバイトに精を出した。教え子は、都内の進学校に通う医学部志望の高校生。
「先生の説明、学校の先生より分かりやすいです」
そう言って目を輝かせる彼らに、私はかつての自分を重ねる。受験勉強という名のパズルに正解を出すことの虚しさと、その先にある世界の重さ。私は単に公式を教えるのではなく、その現象が人体や社会とどう繋がっているのかを織り交ぜて話した。結果として彼らの成績は飛躍的に伸び、保護者からの信頼も厚くなった。高額な時給は、医学書という名の高価な投資へと消えていった。
恋に現を抜かす余裕などない。誘いがないわけではなかった。実習班で一緒になった男子学生や、アルバイト先の関係者から食事に誘われることもあった。けれど、私には彼らと語らう言葉が見つからなかった。私の心の一部は常に「あの夜」の記憶や、未だ見ぬ患者たちの病室に繋がっていたから。
四年生になり、CBTとOSCEという大きな壁を越えると、いよいよ臨床実習――ポリクリが始まった。白い診察衣に袖を通し、名札に『学生』と記された重みを感じながら病棟を回る。教科書に書いてある「典型的な症状」など、現実の臨床現場には一つとして存在しないことは身をもって経験してきた。
「仙道さんは、本当に学生か?」
指導医からそう声をかけられたのは、循環器内科のカンファレンスでのことだった。患者のバイタルデータ、エコー所見、そして本人が漏らした「夜中の不安感」という些細な情報を組み合わせ、私は一つの仮説を立てた。それがベテラン医師の診断と一致したとき、私の背中を静かな震えが走った。研究室のモニターを見つめていたあの頃には決して得られなかった、命の胎動に触れる感覚。
そして五年生になった今は、より専門的な実習に従事している。
午前六時に起床し、前日の患者のデータをチェックしてから登院。回診、検査の立ち会い、手術見学。昼食は売店のパンを片手に、次の症例について調べる。夜は家庭教師の仕事。帰宅後は深夜までレポートと格闘する。
疲労は限界に近い。けれど、不思議と心は満たされていた。
ある日の夕暮れ、小児科病棟の実習中、長期入院している一人の少女に呼び止められた。
「先生、これあげる」
手渡されたのは、折り紙で作られた歪なメダル。
「私、お医者さんになったら、先生みたいにかっこよくなりたいな」
その言葉を聞いた瞬間、私の視界が不意に滲んだ。かつて救うことのできなかった父。その欠片が、今の私の原動力になっている。
私は研究者だった頃のような「神の視点」を捨てた。泥臭く、不器用で、それでも目の前の一人を救うために足掻く「人間としての医師」を目指している。
五年生の春。窓の外にはまた桜が咲いている。あの日、朱色の門をくぐった時の私よりも、今の私の瞳は、ずっと確かな熱を宿しているはずだ。
とある週末――。
実習もレポートも、そして家庭教師のアルバイトさえもない、空白の土日。久しぶりの解放感に浸りながら、のんびりと帰路に就こうとしていた時だった。
「由羅さん!」
背後から響いた明るい声に振り返ると、そこには同じ実習グループの深山詩織が、屈託のない笑みを浮かべて立っていた。
「詩織さん? どうしたの?」
駆け寄ってくる彼女の足取りは軽く、弾んでいる。
「これから、うちのグループのみんなで飲み会に行くんだけど、由羅さんも一緒に行きましょうよ!」
実を言えば、私は実習グループの中に「親友」と呼べるほど深い仲の人間はいない。けれど、そんな私によく声をかけてくれる彼女とは、実習の合間に言葉を交わす機会も多く、密かにその明るさに救われていた。
私は腕時計に目を落とし、現在の時刻を確認すると針はすでに18時を回っていた。
「うーん……。私の家、埼玉だから。あんまり遅くなると電車がなくなっちゃうし……」
半分は本音、半分は断るための口実だった。けれど、彼女は私のそんな懸念を吹き飛ばすような満面の笑みを浮かべると、迷いなく私の手を取った。
「大丈夫だって! いざとなったら私の家に泊まればいいじゃん。それに、智香が慶應の男子を連れてくるって言ってたよ」
「えっ?! それって……もしかして、合コン?」
断る隙も与えられないまま、私は彼女に手を引かれる形で歩き出した。お酒を嗜む機会はあっても、いわゆる「合コン」という場に足を踏み入れたことは、前の人生を含めても一度もない。異性を相手に、医学の知識以外のどんな言葉を交わせばいいのか、私にはいまだ想像もつかなかった。
十九時――。
週末の夜を迎え、街は解放感を謳歌する社会人や学生たちで溢れかえっていた。私は初めて足を踏み入れる「合コン」という未知の場に、隠しきれない緊張で顔を強張らせながら詩織さんの隣を歩く。
「ねえ、今日来る慶應の男の子って、どんな人たちなの?」
不安を紛らわせるように、私は隣の彼女に問いかけた。
「うーん、智香の高校時代の友達なんだけど…… 慶應の医学部に通っていて、その子が友達を何人か連れてくるって話だよ」
「慶應の医学部か……。なんだか、家柄のいいお坊ちゃんたちとじゃ、話が合う気がしないんだけど」
私の懸念に、彼女はこらえきれないといった様子でクスクスと笑い出した。
「由羅さん、たまにおばあちゃんみたいなこと言うよね」
「えっ……。でも、慶應の医学部ってそういうイメージじゃない?」
反論する私に、詩織さんは「大丈夫だよ」と安心させるように私の肩をポンポンと叩いた。
「確かにお金持ちは多いかもしれないけど、智香の友達はすごくしっかりした人だから」
「でも、その友達までそうとは限らないでしょ?」
「『類は友を呼ぶ』って言うじゃない。きっと良い子たちが集まるはずだよ」
そんな根拠のない、けれど彼女らしい楽観的な言葉に背中を押され、私は駅前にあるチェーンの居酒屋の暖簾を潜った。その意外にも庶民的な店のチョイスに、私の胸からは安堵のため息が漏れる。
店員に案内された個室の扉を開けると、そこには智香さんが連れてきた男子四人と、すでに席に着いていた同じ実習グループの女子三人の姿があった。
「詩織、仙道さん、遅いよ~!」
私たちの姿を見るなり、智香さんが弾んだ声を上げた。
視界に飛び込んできたのは、彼女の言う通り、清潔感のある好青年といった面々だった。そして、避けては通れない合コン定番の自己紹介が始まる。智香さんの友人は私たちと同じ五年生だが、他の三人は四年生。つまり一学年下ということになる。もっとも、大学において学年だけで年齢は測れないが、見たところ順当に一つ年下の後輩といった風情だ。
……と、その時だった。
「どうも初めまして。有馬悠人といいます。実はこういう場は初めてで、少し緊張していますが……よろしくお願いします」
「有……馬……?」
その名が鼓膜を叩いた瞬間、私の思考は白く弾け、目は彼に釘付けになった。あまりに直截的な視線に気づいた彼は、戸惑うような、けれど温かみのある笑みを私に向けた。
テーブルには唐揚げやフライドポテト、焼き魚などの定番メニューが並び、それを囲んで乾杯の音頭が取られ、ジョッキがぶつかり合う賑やかな音が個室に響く。周囲は「実習の愚痴」や「将来の志望科」といった共通の話題ですぐに打ち解け、笑い声が絶え間なく溢れていた。けれど、私の意識だけは、向かいの席に座る有馬悠人という存在に完全に囚われていた。
(有馬……悠人。間違い、ないよね?)
私の脳裏には、前世での幼い頃の日々が鮮烈に蘇っていた。お盆や正月の集まりで、いつも私と遊んでくれた十歳年上のお兄ちゃん。あの頃の面影をそのままに凛々しく知的な彼の姿がある。
話しかけたい。確かめたいことは山ほどある。もちろん彼は私の事など知るはずもないだろう。それに単なる同姓同名の全くの別人という事だってあり得る。それでも私は彼から目を離すことができなかった。しかし、喉の奥まで出かかった言葉は、冷たい飲み物と一緒に飲み込んでしまう。
今の私は「仙道由羅」という、彼にとっては縁もゆかりもない他校の学生に過ぎない。いきなり「私のこと、覚えてない?」なんて聞けば、不審者か、あるいは質の悪いナンパだと思われてしまうのが関の山だ。
「仙道さん。もしかして彼のこと気になる?」
隣で智香さんが小声で話かけてきた。
「あ、う、うん。ちょっと――」
「あはは、そうだよね。悠人くん、うちんとこの学生にはいない、キラキラしてる感じだもん」
智香さんが囃し立てる。そう言いながらも彼女は「高校の友達」と言っていた彼をロックオンしているようで、他の男子には興味なさげの様子だ。
「でもいいかもよ。彼、有馬病院っていうおっきな病院の医院長の息子さんって話だよ」
智香さんとそんな話をしていると、隣では詩織さんが悠人さんとその隣の男の子と三人で談笑に耽っていた。
悠人さんは少し照れくさそうに頭を掻いた。その些細な仕草さえ、私の記憶にある従兄弟の癖と重なって見えて、胸の鼓動が激しくなる。
(もし、彼が本当に私の知っている悠人お兄ちゃんなら……)
そう思うと、ますます声が出なくなる。
私は三杯目となったファジーネーブルを飲みながら彼を見つめる。
サラダを取り分けてあげようか、それともお酒のおかわりを勧めようか。そんな些細なきっかけを探しては、指先が微かに震える。視線を送るたびに、彼と目が合いそうになっては慌てて手元の小皿に視線を落とす、という不自然な動作を何度も繰り返した。
「仙道さんは……確か、埼玉から通われてるんですよね?」
不意に、彼から言葉を投げかけられた。
「えっ……あ、ひゃい。そうです。東武東上線で……」
声が裏返り、噛みながら必死に答える。
「そうなんですね。実は叔父がそっちの方に住んでたことがあってよく遊びに行ってたんですよ」
彼は屈託のない、春の陽光のような微笑みを浮かべた。その言葉に、私の心臓は跳ね上がる。親近感……それとも単なる社交辞令なのか。
聞きたい。けれど聞けない。
私はただ、「そうなんですか……」と、無難な返事をするのが精一杯だった。飲み会の喧騒の中で、私と彼の間にだけ、目に見えないもどかしい境界線が引かれているようだった。
数時間後――。
私は十数杯に及ぶ酎ハイやカクテルの濁流に、なすすべもなく飲み込まれていた。意識の輪郭は溶け出し、もはや自力で姿勢を保つことすらままならない。
「まさか、由羅さんがこんなに飲んじゃうなんて……」
隣で詩織さんが、困惑と心配が入り混じったような声で私を覗き込んでいる。
「彼女、今日は深山さんの家に泊まる予定なんですよね。もしよかったら、僕の車で送りますよ」
悠人さんが、迷いのない口調で詩織さんに提案した。
「でも……有馬さん、お酒の方は大丈夫なの?」
「ああ、こいつは一滴も飲んでないよ」
詩織さんのもっともな疑問に、悠人さんの隣に座る友人が肩をすくめて代わりに答えた。
「うん。実は明日、大事な試合を控えているので。今日は最初からずっとノンアルコールだったんです」
「それに悠人はバカがつくほど真面目な奴だから、送り狼になる心配もないよ。俺もついでに送ってもらうつもりだしね」
友人からの冗談めかした保証を、私はどこか遠い世界の出来事のようにぼんやりと聞いていた。視界がゆらゆらと揺れる中、悠人さんの誠実そうな声だけが、心地よい残響となって耳の奥に届いていた。
気がつくと、私は悠人さんの背中に預けられていた。夜の冷たい空気が頬を撫で、四人は連れ立って駐車場までの道を歩き出す。
「有馬さん、明日試合って言ってたけど、何の競技をしてるの?」
隣を歩く詩織さんが、興味津々といった様子で彼に問いかけた。
「格闘技の試合です。子供の頃から空手や合気道を叩き込まれてきて……もっと強い相手と闘いたくて、今はプロのリングに上がらせてもらっているんですよ」
「しかもこいつ、実家は大きな病院を経営してるお坊ちゃんなのに、学費も生活費も全部自分で稼ぎ出してるんだぜ。信じられるか?」
悠人さんの友達が、呆れと尊敬の入り混じったような視線を彼に向けながら言葉を添える。
「それって凄すぎない……? 私立の医学部って、目が飛び出るほど高いんでしょ?」
「まあ、幸いなことにファイトマネーで何とか工面できていますから……」
そんな会話が、悠人さんの背中越しに伝わってくる。逞しい肩の感触と、規則正しい足音。
(悠人お兄ちゃんらしいな……)
頑固なまでに真っ直ぐで、自分に厳しいその気質。懐かしい温もりに包まれながら、私は彼の肩に深く顔を埋めた。意識が、心地よい闇の底へとゆっくりと沈んでいくのを感じる。
「悠人……お兄ちゃん……」
こぼれ落ちたのは、今の私には許されないはずの名前だった。
翌朝――
目が覚めると、私は見慣れない天井をぼんやりと見上げていた。
(……ここは?)
重い布団の感触を肌に感じながら、寝返りを打って室内を視界に収めていく。キョロキョロと辺りを見回していると、キッチンの方から湯気の立つマグカップを手にした詩織さんが歩いてくるのが見えた。
「あ、由羅さん。おはよう。 大丈夫、気分悪くない? まずはお水飲んだ方がいいよ」
彼女はテーブルにカップを置くと、再びキッチンへ戻り、冷たい水の入ったコップを運んできてくれた。
「ありがとう……」
掠れた声で礼を言い、上半身をゆっくりと起こそうとした――その瞬間、こめかみの奥を直接殴られたような、ズキリとした鋭い痛みが走った。
「痛っ……」
思わず手で頭を押さえて顔を顰める私に、詩織さんは同情の混じった苦笑いを向けた。
「昨日は相当な量を空けてたからね。水を飲んだら、まだしばらく横になっていた方がいいよ」
彼女の差し出す優しい気遣いが、今の私には何よりも有り難かった。
「ごめんなさい……。色々、迷惑かけちゃったみたいで」
「ううん、気にしないで。それに、そのおかげで莉亜くんと連絡先の交換もできたしね」
そう言って、詩織さんは嬉しさを隠しきれない様子で自分のスマホを目の前に掲げて見せた。
「莉亜くん……って?」
「私の向かいに座っていた子だよ。彼も一緒に送ってもらってたから、車の中でお話しして教えてもらったの。
……ああ、そうだ。ついでに『彼』の番号もちゃんと聞いておいてあげたわよ」
詩織さんの意味深な言葉に、私は痛む頭を抱えたまま首を傾げた。
「彼……?」
私の鈍い反応に、彼女はいたずらっぽく口角を上げると、確信に満ちたニンマリとした笑顔を浮かべた。
「『悠人お兄ちゃん』……に決まってるでしょ?」
その言葉に私は顔が熱くなり、心臓の音が耳に聞こえる程高鳴っているのを感じた。
「驚いていたわよ。有馬くんの背中で『悠人お兄ちゃん』って言って抱きついてたんだから……」
「それは……その……」
私は必死で言い訳を考えるが、二日酔いとパニックのあまり何も浮かんでこない。
「由羅さんて、勉強も実習も完璧にこなす、クールビューティーな女性って思っていたけど、そんな可愛い一面が見られて嬉しかったわ」
詩織さんはいたずらっぽくも優しい笑顔を見せた。私はその視線が恥ずかしくなり布団で口元を隠した。
「まぁ、どんな事情か知らないけどさ……
彼、由羅さんのこと心配して車で送ってくれたんだし、せっかく番号も聞いたんだから電話しなさいよ」
詩織さんの優しい言葉に、私はようやく落ち着きを取り戻した。
「うん…… ありがとう」
その後、昼近くまで詩織さんと取り留めのない話をしながら過ごした。昨日までの気安い「同期」という垣根を越えて、本当の意味で彼女と仲良くなれたような気がする。
「じゃあ、詩織……また大学でね」
そう言って彼女のマンションを後にする。
友人を呼び捨てで呼ぶなんて、一体いつ以来のことだろう。互いの距離感がふっと縮まったような心地よさに浸りながら、私は軽い足取りで帰路に就いた。
電車に乗り込み、座席に深く腰を下ろしてようやく一息ついたところで、バッグからスマホを取り出す。母に今から帰る旨を短く送り、それから先ほど詩織に教えてもらった「有馬悠人」という名前を連絡先に登録した。
有馬悠人――。
有馬という名字は、決して珍しいわけではない。全国には三万人ほどの有馬姓がいるという。そう考えれば、単なる同姓同名の他人の可能性も十分にあるだろう。けれど、あの面影、纏っている空気感、そして父親が医師であるという境遇の重なりを考えると、どうしてもかつての私の従兄弟……悠人お兄ちゃんの姿を重ねずにはいられなかった。
だが、そこまで考えて、私はふと現実に立ち返り冷静になった。
前の私と、今の私。母こそ同じだが、父は別の人だ。仮に悠人さんの父が、私の知る「有馬太一」で、その弟が前の私の父であった「有馬卓也」だったとしても――この世界の私と彼との間には、法的な、あるいは血縁としての繋がりは何一つ存在しないのだ。そして前と同じであるならば、有馬卓也はすでに亡くなっているだろう。
私はそっとスマホをバッグの奥にしまった。
(でも、家に帰ったら一度彼に電話してお礼を伝えないと……)
ガタンゴトンと規則正しく揺れる電車に身を任せ、私は車窓から流れる代わり映えのしない景色をぼんやりと眺めていた。
「ただいま」
アパートの鉄扉を開け、短い廊下の先にある台所へと向かう。そこでは父と母が、向かい合わせに座ってコーヒーを飲みながら話し込んでいた。再度「ただいま」と声を掛けると、母は「おかえり」と明るく応じた後、身を乗り出すようにしてこちらを見た。
「昨日、他の大学の人たちとの飲み会だったんでしょ? どうだった、素敵な男の子はいた?」
唐突な問いかけに、私は虚を突かれた。
「由羅が今までそういうのに参加したなんて聞いたことがなかったから、お父さんなんて昨日からずっとソワソワしちゃって……」
母が楽しそうに暴露すると、父は顔を真っ赤にして「瞳、余計なことは言わなくていい」と慌てて制止した。
「……それで、どうなのよ?」
母は父の様子など気にする素振りも見せず、さらなる追及を重ねてくる。私は少し迷った末に、慎重に言葉を選んで口を開いた。
「うーん……。ちょっと、気になった人はいたけど」
「へぇ! 由羅にもようやく、好きな人ができるのかしら」
母は自分のことのように嬉しそうな声を上げる。対照的に、父は何とも形容しがたい複雑な表情を浮かべて黙り込んでしまった。その場の居心地の悪さに耐えかね、私は逃げるように自室へと入った。
軽くシャワーを浴びた後、私はベッドの縁に腰をかけた。湿った髪から滴る雫が肩に落ちるのを感じながら、私は静かにスマホを手に取った。そしてさっき登録したばかりの連絡先から彼を選択し、その画面を前にしたところで指が止まった。
(最初……なんて言えばいいの?)
何気ないお礼から入るべきか、それとも昨夜の醜態を詫びるべきか。硬直したまま考えを巡らせ、ついに意を決して、震える手で発信ボタンをタップした。
静かな室内で、規則的なコール音が響く。数回目の後、昨日聞いたばかりの、けれどずっと昔から知っているような聞き覚えのある声が耳に届いた。
『はい、有馬です』
その瞬間、私の心臓は跳ね上がるように高鳴った。
「わ、わ、わ……私、仙道、仙道由羅です」
『ああ、仙道さん! 昨日、あの後大丈夫でしたか?』
「あ、はい。昨日は……その、送っていただいて、本当にありがとうございました」
情けないほど声が裏返ってしまった。電話越しの彼は、少しだけ安心したような柔らかな吐息を漏らした。
『いえ、気にしないでください。あのまま放っておくわけにもいきませんでしたから。それに、僕の方こそ勝手におんぶして運んだりして、失礼じゃなかったかなと気になっていて』
「失礼だなんて! むしろ……私、あんなに飲んだことなくて。ご迷惑をおかけしました」
『はは、確かに結構な勢いでしたね。でも、なんだか楽しそうに僕の背中で眠っていたので、少し安心したんですよ』
彼の言葉に、顔が火が出るほど熱くなる。おんぶされていた時の、あの温かくて逞しい背中の感触が鮮明に蘇り、受話器を握る手に思わず力が入った。
「あの……有馬さんは、今日、試合……なんですよね?」
話題を変えようと必死に問いかけると、彼は少しだけトーンを下げて答えた。
『ええ、夕方からなんですけど……』
「が、頑張ってください」
『ありがとうございます。今日のは大事な試合だったので、朝からずっと緊張していたんですけど、仙道さんとお話しできて少し緊張がほぐれた気がします』
電話越しに聞こえる彼の声は、昨夜の賑やかな居酒屋で聞いた時よりも、どこか優しく、深く響いた。
『あの、仙道さん。僕、昨日の夜……あなたを背負っていた時、なんだかすごく不思議な気持ちになったんです』
不意に彼が漏らした言葉に、私の心臓が大きく跳ねた。
「不思議な、気持ち……ですか?」
『ええ。背中から伝わってくる体温や、寝息。それが初めて会った人のものじゃないような気がして』
受話器を持つ手が微かに震える。
『そんな時に「悠人お兄ちゃん」っていわれて…… 年上の女性からそんな事を言われたの初めてだったんで、凄く驚いたんですけど……』
その言葉に私の顔は沸騰したように熱くなるのを感じた。
「ご、ご、ごめんなさい…… 昔、従兄におぶられていたのを思い出してつい……」
以前の記憶とごちゃ混ぜになったエピソードを持ち出して咄嗟のいいわけとした。
『いえ…… でも、僕もそう呼ばれるのが妙にしっくりきて…… 不思議ですよね。昨日会ったばかりなのに』
「……はい」
電話越しのそんな話に、懐かしく温かい空気を感じた。
『だから、というわけじゃないんですけど。……今度また改めてゆっくり二人でお会いできませんか? 』
「私と……ですか?」
『はい。もちろん、仙道さんが迷惑じゃなければ、ですけど……。あなたのことを、もっと知りたいんです』
彼の真っ直ぐな言葉が、胸の奥を激しく揺さぶった。私への「興味」。その響きに新しい感情が芽生えるのを感じた。
「私も……もっと有馬さんのことを知りたいです。……いえ、悠人さんのことを」
思わず、心のままに名前を呼んでいた。
『それじゃ来週末、もし空いていたら、僕のお気に入りのカフェに付き合ってくれませんか?』
「はい……。楽しみに待っています」
約束を交わして電話を切った後、私はしばらくスマホを握りしめたまま動けなかった。
窓の外を眺めると、雲間から柔らかな陽光が差し込んでいる。
前世の絆が引き寄せた再会。けれど、これから始まるのは、運命に導かれた「新しい二人」の時間。私は鏡を覗き込み、熱を持った自分の頬を両手で包むと、かつての従兄であり、今は一人の男として惹かれ始めている彼との再会に向けて、小さく微笑んだ。
初めてのデートは、期待よりも緊張が勝る、どこかちぐはぐな時間だった。
待ち合わせ場所に現れた悠人さんは、合コンの時とは違う、落ち着いた色合いの私服を纏っていた。一方の私も、医学部の講義では見せないような、少しだけ背伸びをした装いで彼を待った。
「……おはよう、由羅さん」
「おはよう、悠人さん」
挨拶を交わすだけで、心臓の鼓動が耳元まで響く。彼の中に「お兄ちゃん」の面影を探してしまう自分と、目の前にいる一人の誠実な男性に惹かれる自分が、私の中で激しくせめぎ合っていた。会話は途切れがちで、妙に真剣でぎこちない空気の中にいた。けれど、二度目、三度目と会瀬を重ねるうちに、その隙間は少しずつ埋まっていった。
私たちは互いに、息つく暇もないほど忙しい日々を送っていた。私は大学での講義や病院実習、そして夜の家庭教師。悠人さんもまた大学での膨大な勉強に加え、格闘家としての過酷なトレーニングと試合。その合間を縫って会う一時間は、何物にも代えがたい救いだった。忙しければ忙しいほど、彼に触れたい、彼の声を聞きたいという渇望が、私の中で確かな形を成していった。
そして、三度目のデート――
その日は、彼の試合から数日後のことだった。彼の頬にはまだ薄い痣が残っていて、それを見るだけで私の胸は締め付けられるように痛んだ。
夕暮れ時、私たちは人のまばらな公園のベンチに座っていた。オレンジ色の残光が、彼の横顔を鋭く、そして優しく縁取っている。
「由羅さん。僕は……」
悠人が不意に口を開いた。その声は微かに震えていたが、眼差しには逃げ場のないほど強い意志が宿っていた。
「僕は、君を初めて見たあの瞬間に、魂が震えるのを感じたんだ。……君がいない毎日は、もう想像できない。好きです。僕と、付き合ってください」
かつては十歳の年齢差に阻まれ、届くはずもなかった私の想いが、時を超えて彼の口から溢れ出していた。
「……私も。私も、悠人さんが好き。コレからも、ずっと……一緒にいたい……です」
私がそう告げると、彼は安堵したように息を吐き、私の手を強く握りしめた。その掌は厚く、格闘技で荒れていたけれど、驚くほど温かかった。
交際が始まったその夜、私は自室で一人、静かに涙を流した。それは悲しみの涙ではなく、ようやく巡り合えた運命への、安堵の雫だった。
交際が始まってからも、私たちの日常は相変わらず分刻みのスケジュールに支配されていた。
医学部五年生の実習は容赦がない。朝七時には登院し、教授回診、検査、手術見学。夕方に病院を出れば、その足で家庭教師のアルバイト先へ向かう。帰宅後も深夜までレポート作成に追われる日々だ。
一方、悠人さんもまた過酷な二重生活を送っていた。膨大な医学の勉強に加え、プロ格闘家としての早朝トレーニングと深夜のジムワーク。
「今週の金曜、実習が早く終わるから。三十分だけ、駅のホームで会える?」
「わかった。差し入れ、持っていくね」
そんな、デートとは呼べないような短い逢瀬が私たちの日常だった。けれど、駅のベンチで並んで座り、互いの隈のひどさを笑い合う時間は、何物にも代えがたい救いだった。
いつしか、ぎこちなさは消えていた。
並んで歩くとき、どちらからともなく手が触れ合い、自然に指が絡まる。かつての緊張感は、日々の忙しさを共有する中で、もっと確かな、等身大の信頼へと変わっていった。
「由羅さんの手、少し冷たいね」
そう言って、悠人さんは私の手を自分のコートのポケットに引き入れる。
「悠人さんの手、本当に温かいね」
私が笑って答えると、彼は少し誇らしげに、繋いだ手に力を込める。言葉にしなくても、隣に流れる空気だけで、彼が私をどれほど大切に思っているかが伝わってきた。
そんな日々が二ヶ月ほど続いた、ある週末のこと。悠人さんが少し真剣な面持ちで切り出した。
「由羅さん、今度の土曜日……僕の実家に来ませんか? 両親に、君を紹介したいんだ」
心臓が、ドクリと大きく跳ねた。
「ご実家に……? お父様とお母様がいる時に?」
「うん。父さんも母さんも、僕がどんな人と付き合っているか、ずっと気にしていて。それに、君には僕の原点を見てほしいんだ」
――悠人さんの実家。
それは、前の世界で私が何度も訪れた場所。けれど、今の「仙道由羅」にとっては、恋人の両親が待つ未知の場所。緊張で指先が震えたが、彼の真っ直ぐな瞳を見て、私は深く頷いた。
当日。悠人さんの実家は、都内の閑静な住宅街にあり、それは記憶の中よりもさらに立派な邸宅だった。
「ただいま」
玄関を開けると、奥から落ち着いた雰囲気の女性――悠人さんの母、亜由美さんが出てきた。
「あら、いらっしゃい。悠人がずっと楽しみにしていたのよ」
彼女のたおやかな笑顔に、私の緊張が少しだけ解けていく。それと同時に、私の記憶にある姿そのものの彼女に対し、胸の奥から込み上げるような懐かしさを覚えた。
居間に通されると、そこには厳格そうな、けれどどこか悠人さんに似た優しい眼差しを持つ父、太一さんが座っていた。
「仙道由羅です。本日はお招きいただき、ありがとうございます」
私は精一杯、失礼のないよう深々とお辞儀をした。前の世界では「太一おじさん」と呼び慕っていたその人に、他人として敬語で向き合うのは、何とも奇妙で不思議な感覚だった。
「由羅……さん?」
太一さんは私の名を反芻するように呟くと、目を見開き、私の顔をじっと覗き込んできた。すべてを見通すようなその鋭くも温かい眼差しに、私は射すくめられたような感覚に陥る。
「ええっと……あの、何か……」
あまりの注視に、私は戸惑い混じりの声を漏らした。
「ああ、すまない。失礼したね。私は悠人の父、太一です。……で、こちらが妻の亜由美だ」
太一さんが我に返ったようにそう告げると、亜由美さんは隣で丁寧にお辞儀をした。
室内をわずかな沈黙が支配する。太一さんは何かを確かめるように私を一度見つめ直し、意を決したように口を開いた。
「急にこんなことを聞くのも、無作法で申し訳ないんだが……由羅さん、君のお母さんのお名前を伺ってもいいかな?」
その問いかけに、私の心臓が大きく跳ね上がった。
鼓動が耳元でうるさく鳴り響く。目の前にいる彼もまた、前の世界の記憶を抱えているのではないか――そんな期待と不安が、一瞬にして脳裏を駆け巡る。
「はい。母は、瞳といいます」
私は確信を得るために、彼の意図すると思われる名前をはっきりと言い切った。
太一さんは一瞬、驚きに目を見開いたが、すぐにその表情はすべてを理解したような、深い慈愛を湛えた眼差しへと変わっていった。
「そうか……そうだったのか。ありがとう。君に逢えて、本当に嬉しいよ。これからも悠人と仲良くしてやってほしい」
悠人さんと亜由美さんが不思議そうに顔を見合わせる中、私と太一さんの間で行われた、言葉を超えた「再認」は、意外なほどあっさりと決着がついた。そして確信した。目の前にいる悠人さんの父は、まごうことなく、前の世界で私を可愛がってくれた太一おじさんなのだ。
その後、亜由美さんの手料理を囲みながら、会話は穏やかに弾んだ。大学での臨床実習の苦労や、悠人さんの試合の様子。太一さんは私の成績が優秀であることや、家庭教師のアルバイトで自立していることに深く感心したようで、その表情は次第に柔和な、親しみのあるものへと変わっていった。
楽しい時間は瞬く間に過ぎ、帰宅の時間がやってきた。玄関先で、悠人さんは駅まで送ってくれるというので、私は亜由美さんに丁重にお礼を述べた。
「またいつでもいらしてね。今度はもっとゆっくり」
「はい、ありがとうございます」
亜由美さんの温かな見送りに胸を熱くしていると、後ろから太一さんが歩み寄ってきた。彼は悠人さんに「少し車を暖めておけ」と促し、外へ出たのを見計らってから、私に一枚の小さく畳まれたメモを差し出した。
「由羅さん、これを」
怪訝に思いながらも受け取ると、そこには見覚えのある、けれど今の私にとっては「他人」であるはずの男の名前と番号が記されていた。
――有馬卓也。
私の指先が、微かに震える。それは、前の世界で私を愛し、そして私が失ってしまった「父」の連絡先だった。
「……おじ、さま」
思わず、昔の呼び方が漏れそうになる。太一さんは静かに首を振り、私の肩を優しく叩いた。
「卓也も私や君と同じだ」
太一さんの言葉は、私の胸の奥に澱んでいた一番重い塊を、優しく溶かしていくようだった。
「ありがとうございます……」
私はメモを強く握りしめ、深く頭を下げた。
外へ出ると、夜の冷たい空気とともに、悠人さんが心配そうにこちらを見ていた。私はメモをバッグの奥深くにしまい、彼のもとへと駆け寄る。
「父さんと、何を話してたんだい?」
「内緒。でも、すごく大切なこと」
私が嬉しそうに笑って答えると、悠人さんは少しだけ不満げに、けれど愛おしそうに私の手を繋いだ。
前の世界での絆。今の世界での恋。二つの人生が交差するこの場所で、私はもう一人ではない。
夜空を見上げると、冬の星座が、私たちの行く末を祝福するように明るく輝いていた。
あとがき
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
本作は、『同級生 ADMS』からのスピンオフ作品です。本編を書き終えたあの日から、私はずっと「有馬由羅」という女性が辿る未来を描きたいと考えていました。構想から五年という月日が流れましたが、ようやくこうして形にすることができたところです。
昨今のAI技術の進化は目覚ましく、私たちが「シンギュラリティ(技術的特異点)」を間近に控えていることは間違いありません。また、内閣府が掲げる2050年に向けた「ムーンショット目標」が実現したとき、果たして人は「人間」のままでいられるのか?
そんな事をよく考えてしまいます。
知識の海で孤独な進化を遂げた「有馬由羅」と、二度目の生で泥臭く人間と向き合うことを選んだ「仙道由羅」。二人の由羅を通じて、科学の進歩と人間性の在り方を描いてみました。
皆さんは、「後悔のない人生」とはどのようなものだと思いますか?
この物語が、それを考える小さなきっかけになれば幸いです。
令和八年四月 なつみかん




