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死後のクレーム

作者: 雉白書屋

「ここは……」


 目を覚ました男は、重たいまぶたを擦りながらゆっくりと周囲を見渡した。どこかで見たことがあるような、無機質な待合室。白く塗られた壁に、整然と並んだプラスチックの椅子。市役所のロビーのような空間で、彼はその椅子の一つに腰を下ろしていた。

 自分の意志で座ったのか、それとも誰かに座らされたのか。その記憶すら曖昧だった。まるで夢の中にいるように思考はぼんやりとしていて、現実感がない。

 だが、それでも男は、ここがどこなのかをおぼろげながら察した。

 ここはどうやら、死後の世界らしい。

 正面に並んだいくつかの窓口。その上には、『天国』『地獄』と書かれた看板がそれぞれ掲げられていたのだ。


「そんな馬鹿な……ありえない……」


 呟いた声が、温度のない空気に溶けて消えた。これは夢だ。そう思おうとするが、目を覚まそうと念じれば念じるほど、目の前の光景の現実感が増していく気がした。

 男は呆然としながら視線を泳がせた。すると、ふと一つの看板に目を留めた。


『苦情受付』


 苦情受付……? もしかすると、あそこでうまく交渉すれば……。 

 ちょうどそのとき、窓口から一人の男が肩を落とし、離れていくのが見えた。彼はすぐに立ち上がり、勢いよくそのカウンターへ向かった。


「おい、ちょっと」


「はあ……」


 カウンターの奥に座っていた係員の女は、深いため息とともに顔を上げた。「またか」と言いたげな、気だるい雰囲気が漂っていた。


「なあ、ちょっといいか?」


「……はーい。クレーム内容をどうぞー」


「あっと、自分が死んだことに納得がいかないんだが……」


 高圧的に出るべきか、それとも下手に出たほうがいいのか、男は決めあぐねていた。


「では、死亡内容をお聞かせくださーい」


「死亡内容……?」


「どうやって亡くなり、そして、そのどこに不満があるのかを、簡潔に」


「いや、それは……」


 男は言葉に詰まった。記憶が、靄がかかったように定まらなかった。思い出そうとしても、指の隙間からすり抜けていく。まるで検索欄に打ち込もうとしたキーワードを、直前で忘れてしまったときのようなもどかしさだった。

 はっきりしていることは、ただ一つ。自殺ではなく、不本意だった。それだけは確信できた。この胸の奥で煮えたぎる激しい憤りが、それを物語っている。意識すると、苛立ちがふつふつと湧き上がってきた。


「まだですかー? 用がないなら、他の窓口に呼ばれるまで座っててくださーい」


「なっ……」


 ここで引き下がるわけにはいかない。係員の投げやりな態度も相まって、男の激情に火がついた。


「わ、私が死んだこと自体がおかしいんだ! それくらい察しろ! だいたい、その態度はなんだ。私を誰だと思ってる! 私が死んだのは明らかに何かの間違いだ! そのままにしておくのか! これは世界にとっての損失だぞ!」


 怒りの勢いに任せ、もはや自分でも何を言っているのかわからなくなっていた。だが、口から言葉があふれ出して止まらない。男は十数分にわたり、演説のように怒鳴り続けた。

 ようやく息をついたそのとき、それまで書類にペンを走らせていた係員が、手を止めて顔を上げた。


「えー、では再審査の結果、あなたのクレームは認められました。現世に戻る手続きを開始します。あちらの扉の前でお待ちください」


 あっさりとした声色で指さされたのは、壁と同じ色をした無機質な白い扉。その上に、小さな赤いランプが点灯していた。


「ランプが青色に変わったら、扉を開けて進んでください。現世へ戻れますので」


「お、おお……」


 拍子抜けするほどあっさりと話がまとまり、男は戸惑いながら扉の前へ歩いた。点灯するランプをまじまじと見つめる。


「だよな……ああ、そうだとも……ははは……おれが死んでいいわけがない……」


 ぶつぶつと呟いていると、やがてランプが青に変わった。

 男は静かに扉の取っ手に手をかける。

 そして扉を開けた瞬間、視界が真っ暗になった。


 ――戻ったのか……? ああ、感じる……。


 まぶたの向こうに、微かに光を感じた。目を開けると、視界はまだぼやけている。頭は重く、体も思うように動かない。だが、周囲に人影が見えた。それも大勢だ。

 次の瞬間、騒がしい声が耳に届いた。


「おい、まだ生きてるぞ!」


 ――そうだ、私は……生きている……!


「なんてしぶといやつだ!」


 ――なんだ、その言い草は。この私に向かって……そうだ、私は……


「じゃあ、次は水攻めだな!」

「娘の仇だ。簡単には死なせないぞ……」

「縄をバイクに括りつけろ! 井戸まで引きずるぞ!」

「しかし、袋叩きにした上に首吊り、投石までして、よく生きているな……」

「クソッタレの独裁者様だ。地獄もお断りなんだろう」


 彼はその後、しばらくの間、生き地獄を巡り続けるのだった。

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