漫画家のタガタメ
「こんにちは〜」
庭からハキハキした男の声が聞こえて慌てて目を覚ました。また畳にゴロ寝してしまっていたらしい。
急いで玄関を開けると大柄な男が立っていた。短髪に丸いメガネ、背には大きなリュックサックを背負っている。
「今日からしばらくお世話になります〜田形です〜」
男の会釈に合わせてこちらも慌てて頭を下げる。
「ようこそ。管理人のミヤです。ゆっくりしていって下さいね。」
一先ず先程まで自分が寝ていた畳の部屋に案内する。男は半袖で俺は長袖を着ていた。ガラス戸が開け放された庭は緑が生い茂っている。春?かな?
首を傾げながらガラスのコップに麦茶を注いで持っていくと、男は卓袱台の上にリュックからだした荷物を広げていた。
「あ、お構いなく〜」
男は愛想よく言いながら真剣な顔で荷物をチェックしている。紙と筆記用具?
「あ、俺漫画家なんですよ〜。でも最近ちょっと不調なんでここにカンヅメにきたんです。いや〜パソコンがないってきいた時は焦りましたけど、俺元々は手書きだったんでやれると思います! 初心に帰るって感じで!」
男はそういうとニカッと笑った。俺も商売用の笑顔を作り、ごゆっくりと言うとその場を離れた。
ここは半死半生の宿、あの世とこの世の境目にある宿だ。客は死人。従ってあの男も既に死んでいるはずだが、初心に帰るとはこれいかに。
男はそれからひたすら漫画を描き続けた。たぶん現実の時間であれば数カ月は経っていたのではないだろうか。ここは現実ではないので男はほとんど飲まず食わずだった。管理人としては暇だったが、男が時折あげる叫び声や、描いているシーンによって変わる顔を見ているのは面白かった。なんせここにはテレビも漫画もないもんで。
久しぶりに男に水を所望され家の外に出た。裏山から流れる湧き水はいつも冷たい。そして生き返りそうなほど美味しい。
水の入ったコップを卓袱台に置いたが男は顔を上げなかった。じゃかじゃかと音をさせながらペンを動かしているのできっと佳境なのだろう。男の横には書き終わったらしき原稿が置いてあった。表紙は男二人のアップで、劇画調の字で『放課後の道化師たち』と書いてあった。
「少年漫画ですか。」
「まぁそうですね〜」
嫌がるそぶりがないのでそのまま読ま進めてみた。二コマ目から土手で殴り合いをしている。周りにヤジを飛ばす取り巻きがいるが、殴りあっているのは表紙の二人だけだ。数ページ読んでみたが、ひたすら殴りあっているだけなので読むのを止めた。それをみた男はガックリと肩を落とした。
「面白くないっすか〜」
「いやぁ……殴りあってるだけなんで…」
「結構こだわってるんですけどね〜。ほら、こことか目と肩でフェイントして死角から蹴ったり。」
もう一度原稿に目を落とすと、確かに書き込みは丁寧だ。でも漫画なんだからもうちょっとストーリーが欲しいと思う。
横目で男をチラリと見ると体の周りに黒い影ができていた。この影が濃くなって体がその中に消えてしまうことを、俺は闇落ちと呼んでいる。まあ要するに成仏の反対だ。天国や地獄があるかどうかはしらないが。
客が消えてしまうとその客に関するものも同時に消えてしまう。それは少々もったいないので俺は続きを読むことにした。これを逃せばまた当分漫画なんて読む事はないだろう。
漫画の男たちはなおも殴り合っていたが、しばらくすると取巻きたちが飽きたといって帰り始めた。その後ようやく会話をし始めるのだか、毎回何回か殴り合ってから返事をするので話が全く進まない。
殴りあっとらんとはよ喋れや!
イライラしながらページをめくること数十ページ、少しずつお互い騙されて喧嘩させられていることに気付く。
「なんで俺たちこんな思いして戦ってるんだろうな。」
「ふんっ…あいつらが俺たちを馬鹿にして笑うためだろ。」
「なんでそんなもんのために、こんな痛い思いしなくちゃいけないんだっ」
「誰かが笑ってくれるならそれでいいじゃねぇか… 俺たちはそれぐらいしか能がないのさ。」
最後は互いに「次会ったら殺す」と言い合いながら夕陽の中を別れた。
なんだこれ。
視線に顔を上げると、男が満面の笑みでこちらを見ていた。さっきまでの暗い影はどこにもない。
「泣くほど面白かったっすか?」
「いや、別に…」
ちょっとウルっとしただけだ。これで泣くのはなんか腹立つ。
「嬉しいな〜やっぱ読んだ人が喜んでくれるのが一番嬉しいっす!」
ここで喜んでなんかないと言い返すのも大人げないので、俺は黙って鼻をかんだ。
「最後の方を…ペン入れ?したら完成ですか?」
「そうですね〜やっと終わりが見えてきました。いや〜管理人さんのお陰ですよ。」
「いや俺は別に…」
ニコニコした男の顔から目を逸らす。今回に限っては俺は本当に何もしていない。監査が入れば怒られそうなほど何もしていない。監査なんか入ったことないけど。
「でも完成させちゃうのなんか嫌だなぁ、このまま一生描いてたいなぁ。」
どこまでも無邪気な男の声に少しイラッとした。
「あなたの一生もう終わってますけどね。」
そう言って男の顔を盗み見た。男は苦笑していた。俺なんかよりよっぽど大人だ。今の見た目は30前後だが、実際はもっと大人だったんだろう。死んだらだいたいの人間は若返る。
「…本当に感謝してます。もう何年もこんな風に漫画のことだけを考える時間はなかった。楽しかった。この為に生きてた。」
いや、もう死んでますが…と言いかけて飲み込んだ。男は急激に老けていた。さっきまでかけていなかった眼鏡を外し目元を拭っている。体まで小さくなったようだ。
「私はね、家族を愛してたし愛されてもいたと思います。家族の為に生きたことになんの悔いもない。でも漫画だけは、違うんです。」
漫画は、俺による俺の為のものだった。昔は家でもコツコツ描いてたんですよ。でもある日娘に言われたんです『おとーさんの絵、下手くそ!』ってね。その時は何も言い返さなかったけど、本当は俺、激怒してたんてすよ。飛び掛かってぶん殴りたいほどムカついた。最愛の娘ですよ。ほんの子供だったのに、俺はそれを真に受けて目が眩むほど怒ってしまった。妻が近くにいて娘をすぐ引き離してくれたから良かった。それ以来描かなかったんです。でも描きたいものは常に心のなかにあって、頭の中だけでずっとコマ割りしたりペン入れしたりしてた。ずっと頭の中に描きたい話があった。
娘が大人になってからパソコンで絵が描けるって教えてくれたんです。いい子なんですよ、本当に。あの時下手くそって言ってごめんなさいって色々描く環境を整えてくれてね。一枚絵を沢山描きました。それでも漫画は描けなかった。やっぱり娘には見せたくなかったんですよ。娘は愛してるのにね。死ぬまで描かなかった。
男は話しながらどんどん光を増していった。恨み言を言いながら成仏する気なのだろうか。それともこれは俺の知らない愛の形なのか。
「まだ、描き終わってないんじゃないですか?」
今にも消えそうな男に問いかけて見る。
「いえ、もう描き終わりましたよ。」
男はそういって原稿の束を大事そうに抱えた。おれが見た時は最後の方は下絵だったと思うが…
「大丈夫です。死ぬ程漫画を描きたいという気持ちがやっと成仏したんです。あなたに読んでもらえて良かった。」
男は微笑みながら光の中に消えた。残ったのは卓袱台と空っぽのコップだけだった。
「…これだから嫌なんだ。」
どいつもこいつも俺を壁当ての壁みたいに扱いやがって。俺はまだ生きてるのに。
「生きてたっけ?」
一人呟いて首を傾げる。男に付き合ってほとんど飲まず食わずだった時点で真っ当に生きてるとは言い難い気はするが。
「…まぁいいや。」
立ち上がってコップを洗い卓袱台を片付ける。一眠りすればまた別の客がやってくるだろう。
「いってらっしゃい。」
俺は呟いて目を瞑った。
ここは半死半生の宿。迷子たちがくるところ。