潜行
広大なハザール王国のどこかに潜む、たった一人の男を探し出し、暗殺する――その任務の概要だけを聞けば、極めて単純な話のように思える。しかし実際に遂行するとなると、その難しさは想像を絶する。国土は広大で、都市や小さな村落まで含めれば探索範囲は計り知れない。
標的の男、毒蛇について。顔に蛇の刺青が入っているとのことであるが、それだけでは情報が不十分である。顔に刺青を入れる人間は多くは無いものの、いない訳では無い。似たような刺青を持つ者は他にも存在し得るため、単純に顔の特徴だけで絞り込むことは困難を極める。
フロストでは古来、刺青というのは主に政府や警察によって捕らえられた犯罪者に入れられるという制度があった。そのため現在でも、一般市民で刺青を彫っている者はほとんどない。最近になって若者達の間で、刺青が多少流行することがあったものの、未だに一般的な文化として受け入れられてはいない。
一方、ハザールでは刺青は社会に広く浸透しており、容姿や個性の一部として受け入れられている。
ハザールで刺青が一般的な理由として、この国の宗教が関係している。
ハザールで信仰されているのは、聖砂教と呼ばれる宗教である。これは唯一全能なる神を崇拝対象としており、唯一神が定めたとされる二十四の戒律を守ることが求められる。最高司祭は王家が務めており、ハザールの国教として制定されている。
その戒律の中に、「苦行」と呼ばれるものがある。成人した者への通過儀礼として行われ、この儀式を乗り越えることで一人前と認められる。その儀式は簡単に言うと「体に傷を入れる」というものである。古来は小刀などを用いて肉体に刻み、血の痕を残す形式が主であった。近年は形骸化してきて刺青でも可であるとなってきている。
今でも敬虔な信者は古来からの血生臭い儀礼を好むが、最近の若者の中では一種の御洒落と認識されている。ちなみに顔や首元への刺青は非常に痛みを伴うために、腕や足、背中に彫る者が多い。
以上のような背景があることによって、蛇の刺青だけで標的を絞るのは困難を極めるであろう。
グレイルたち第七小隊は、毒蛇の情報を事前に調べられるだけ調べている。しかし世に出回っている情報も少なく、当然のように居場所は掴めない。国際的犯罪者がおいそれと身元を明かす訳もないだろう。わかったこともそう多くは無い。
確認できた事実はわずかで、人物像は霞むようにしか見えない。どんな性格をしているのか、どこで生活し、どのような顔立ちや背格好をしているのか。
調べれば調べるほど情報は断片的で、謎はさらに深まっていく。
潜入捜査を行うにあたって、まずはハザール内部に潜入する必要がある。その為、第七小隊はそれぞれ別々に国境を超える事になっていて、隊員はそれぞれ別々に国境を越えることになっていた。
すでにグレイルとライカ以外の隊員は現地へ向かい、密かに足跡を残さぬよう潜入を開始している。ある者は二か国間を行き来する行商人の隊列に紛れ、ある者は貿易船の荷物に潜り込むなど、あらゆる手段を駆使して情報収集を開始していた。
全員の潜入を確認したグレイルとライカは、慎重に行動を開始する。二人が選んだのは、フロストからハザールへ逃れる難民の群れに混ざる方法であった。
フロストからハザールへと亡命する者は後を絶たない。その背後には、戦争や貧困、抑圧から逃れる切実な事情がある。
ハザールは、大陸の三大国の中でも経済的に豊かな国である。賃金や生活水準はフロストよりも高い。より良い生活を求め、祖国を出て新天地へと向かう者も多い。
しかし、国境を超える事は容易なことではない。フロストとハザールは戦争を繰り返すほど険悪な仲である。両国は長年の対立を背景に国境線に駐屯軍を配備し、互いを厳重に牽制している。
そのような場合、最も多く取られる手が反社会的組織の持つ伝手を使う事だろう。
彼らは両国の政府の網を知り尽くしている。つまり網の穴も把握しているという事だ。亡命を望む者らは、彼らの助けを借りて網を搔い潜る。
当然組織は見返りに莫大な金を要求する。フロストからハザールへと渡る者は巨額の借金を背負うこととなるが、それでも祖国を出たいと思う国民は後を絶たない。
グレイルとライカも、その組織の手を借りて国境を突破する。群衆に紛れる彼らの姿は、表向きにはただの難民に過ぎない。しかし心の奥底では常に警戒を解かず、互いの視線を通じて周囲の状況を確認しながら歩を進める。民衆のざわめきや地面に響く足音が微細に聞こえるたび、潜入の危険は肌で感じられる。小さな不自然さや、警備兵の視線の動き、二人は余すところなく観察していく。
グレイルとライカをハザールへと侵入させたのは、通称「黒組織」と呼ばれている団体である。
帝国南西部に縄張りを持つこの勢力は、フロストとハザールを結ぶ物品の流通を主な生業としている。違法薬物や武器といった非合法物品から情報や人間そのものに至るまで、ありとあらゆる物を流す運び屋である。
帝国警察は彼らを取り締まり、解体しようとしている。黒組織によって物流の管理や亡命者の取り締まりが困難になるからだ。しかし、亡命希望者の後を絶たぬ現状や、組織の高度な武装や隠密性ゆえに、警察側の努力は不完全なまま終わることが多っている。
黒組織は反社会勢力であり、法の網を潜り抜ける存在である。しかしグレイルは彼らを取り締まるのではなくて、潜入の案内として利用した。
部隊外部にこの事実が漏れれば、あるいは黒組織の関係者に軍人であることが知られれば、結果は命取りとなったであろう。しかし、グレイルとライカは冷静に立ち回り、難民に紛れることで黒組織に軍の人間と悟らせず、安全に潜入を果たすことに成功していた。
「第七小隊、全員入国完了との連絡が届きました」
特殊部隊司令室のにて、隊長のブラウンは参謀のディアナから報告を受け取った
「承知した。様々な根回しご苦労だった」
そう返し、太く長い葉巻を黒樫の葉巻箱から取り出す。葉巻切で端を切り落とし、燐寸で火をつける。葉巻を口元へと運び、ゆっくりと吸い込む。息を吐き出すと、白く濃い煙が流れ出る。
「隊長、今回の任務に第七小隊を任命したのは何か理由があるのでしょうか」
ディアナは静かに問いかける。
「彼らは戦闘能力に長けていますが、今回のような潜入任務には、むしろ適正を欠くのではないでしょうか。もっと潜入に長けた小隊もあったのではないかと」
ブラウンは葉巻からゆっくりと大きく煙を吐き出す。白い煙が司令室の天井近くで渦を描き、重厚な空気をさらに濃密にする。
しばらくの沈黙の後、ブラウンは口を開いた。
「この任務は第七小隊にしか、いや、ブラウン軍曹にしかできない」
低く響く声に、室内の空気が微かに震える。ブラウンの目に陰が落ちる。
「すべては帝国の為に」
「国境は超えたが、ここからが本番だ。気ィ引き締めろよ」
グレイルの声が、草原を貫く街道の静寂に溶け込む。国境を越える際に紛れ込んでいた流民の集団とは距離を取り、今、街道を進むのは彼ら二人だけである。
周囲には風に揺れる乾いた草と、遠くでかすかに響く鳥の鳴き声しかない。
「馬まで用意してるとは、奴らもいい仕事しますね。この長い道のりを徒歩で行くのは嫌でしたから」
ライカが軽く笑みを浮かべつつ、肩にかけた砂色の頭巾付き外套の下から握った手綱を調整する。
二つの影は、敵地の奥へと向かう。
二人が今いるのはフロストとハザールの国境付近に広がる草原地帯。視界の限りには柔らかな若草が揺れ、風にそよぐたびに淡い緑の波を描く。
人の姿はほとんどなく、遠くに馬や羊を引き連れた遊牧民がちらほら見える程度である。彼らもこちらに気付けば避けるか、一定の距離を保って通り過ぎるだけである。
灼熱の砂の王国として知られるハザールだが、この辺りはフロストからの北風が冷涼な空気を運ぶため比較的気温は低い。
「まずは、ハザールに前から潜入している第三小隊とメディナで合流する」
メディナは、ハザール北西部の都市である。王都のアビブに次ぐ第二の都市と呼ばれている。
この先には、第三小隊との合流が待っている。潜入任務を成功させるためには、互いの情報共有と連携が欠かせない。事前に得た情報を思い返し、行程を頭の中で何度も反復する。
グレイルとライカは、メディナへと足を向けた。