任務
「敬礼」
第五師団特殊部隊長ジョン=ブラウンの低く響く声が、司令室に鳴り渡る。一糸乱れぬ揃った動作で、隊員は皆右手を額に近づける姿勢を取った。
短く刈られた髪には白が混じり、顔には数え切れぬ戦いの痕が刻まれている。鋭く刺すような眼光が、室内の空気を一段と冷たく締め上げる。
「これより特殊隠密作戦の担当部隊を発表する。第七軍曹ハリソン=グレイル、前へ」
一人の男が、ブラウンの前に進み出た。緩やかに曲線を描き、前髪が掻き揚げられた黒色の肩まで伸びる髪、厚手の制服の上からでもわかる無駄なく引き締まった肉体、鋭い眼光。そして、左目の瞼を巻き込むようについた大きな裂傷。数多の戦場を生き抜いてきた猛者が持つ特有の覇気が滲み出ている
ここは、部隊の最高司令室。隊の頭脳となる隊長、副隊長、参謀と指揮官である各軍曹が集められている。この場に集う指揮官たちの目が、グレイル一人に注がれる。
グレイルは短く息を整え、背筋を伸ばす。戦士としての覚悟、任務に対する責任、全てが、その肩に伸し掛かる。
ジュリアス大陸の北方を支配するフロスト帝国は、陸軍と水軍を抱える大国である。陸水両軍の上には帝国軍大本営があり、大本営の長である帝国軍総司令は、帝国の絶対的な君主である皇帝である。
フロスト帝国は広大な領地を持つ。しかし、その大半が非常に寒冷で居住にはあまり適さない土地である。
そのため、気候の良い土地を手に入れるべく他国へ侵略戦争を仕掛ける事も少なくない。帝国軍は戦い慣れており、兵も将も屈強である。
帝国軍の中でも精鋭が集められるのが陸軍第五師団特殊部隊、通称「隠された牙」である。隊長であるブラウンはあらゆる経験を積んだ老練な軍人で、副隊長、参謀、そして各軍曹も経験豊富な強者が揃っている。
特殊部隊に配属される者は経験、技量、知識、精神力の全てを兼ね揃えた者で無ければならない。
実際の任務や隊の内部事情については徹底的に秘匿されている。公には存在しない部隊であり、帝国軍中でも上層部しか知らない。
実際には、三十人程度の規模の小隊が七とそれを指揮する軍曹と軍曹補佐、そして全小隊を束ねる隊長と副隊長、作戦立案を行う参謀によって組織されている。
司令室にブラウンの低い声が響く。
その一言に、室内の空気が重く沈む。他の軍曹たちの胸には、言いようのないざらついた感情が広がった。軍曹達の中には、大きな仕事を取られたことで臍を噛むものもいたが、軍という場において命令は絶対だ。疑念も反論も、声にすれば規律を破る行為となる。誰一人として口を開く者はいなかった。
「謹んで御受けします」
短く答え、グレイルは敬礼を送る。
「本作戦は、我らがフロスト帝国の命運を掛けたものである。失敗は許されない。必ず成功させよ」
ブラウンの言葉は、刃のように鋭く、室内の全員の心を切り裂いた。
グレイルは一拍の沈黙ののち、拳を握りしめるように答えた。
「帝国の繁栄の為に」
その後グレイル以外の各軍曹達は解散し、司令室にはブラウンとグレイル、そして副隊長のシリウス=レオンと参謀のディアナ=アヴェリンの4人となった。
「グレイル、貴様はこの作戦についてどこまで知っている?」
ブラウンはグレイルに問うた。
「詳しい内容は良く分かっておりませンが、ハザールへの潜入とだけ聞いてます」
グレイルの返答に対し、ブラウンに代わって銀髪を短く纏めた女性、参謀のディアナが応じた。女性にしては大柄な体躯に、長い脚、極め細やかな白い肌から、彼女の日々の徹底した自己管理能力が窺える。
「おおむねその認識で間違いありません」
ディアナは、地図を広げながら作戦の概要の説明を始めた。
「グレイル軍曹、そして第七小隊にはハザール王国内部へと極秘で潜入し、偵察、情報工作等を行って頂きます。詳しい内容を説明いたします」
グレイルは地図をのぞき込みながらディアナの話を聞く体勢に入った。
「来年、帝国陸軍はハザール国境へ向けて大規模な軍を送ります。その下準備としての斥候が、貴方に課せられた任務です」
ハザール王国は、帝国の南西に位置する大国であり、フロスト帝国と国境を接している。そのために古くから戦争が絶えず、フロスト帝国の最大の敵である。
この国は歴史が非常に古く、ジュリアス大陸で人類が本格的な文明を最初に築き上げたのが、ハザール王国南西部の砂漠地帯であると言われている。長い歴史に育まれた非常に発達した技術を持ち、武器や兵器の分野でも極めて優れた成果を誇る。
両国の国境に広がる草原地帯は両国の戦争の最前線となっており、大陸有数の激戦地となっている。
帝国政府は、来年帝国陸軍第二師団と第五師団からなる連合軍を国境付近に派遣する計画をしている。かなり大規模な編成であり、ここ最近では最大規模の戦争となる事が予想される。
「具体的な話に移ります。任務期間は来月から半年間、第七小隊にはハザール各地に潜入し、軍備状況や内部情報を調査してください。当然ですが帝国の者であることは口外しないこと」
ディアナによる作戦の説明が続く。
ある程度説明を受けた所で、今度はここまで口を閉じていた副隊長シリウスが口を開いた。黒縁の眼鏡を細い目に合わせながら、棚から紙の束を取り出す。
「それ以外で、調べて欲しいことがある。ある男についてだ」
シリウスは資料を取り出し、グレイルに手渡した。
「現地では毒蛇という渾名で呼ばれている。ハザールに現在潜入している特殊部隊隊員が掴んだ情報だ」
資料には、通称と顔に蛇の刺青があるという特徴だけが簡潔に記されている。
資料を眺めていると、隊長のブラウンが声をかけた。
「実は、奴を見つけ出すことが今回の作戦の最重要項目だ」
この毒蛇という男は何者なのか。グレイルの疑問に答えることなく、ブラウンは話を続ける。
ブラウンの顔がまた険しくなる。
「奴を見つけ出し、殺せ」
「失礼します」
グレイルは隊長らに敬礼し、部屋を出て扉を閉めた。その後、第七小隊の隊舎へと足を運んで自室に入り、寝台に腰を下ろした。先程伝えられた任務について思案を巡らし、整理する。
グレイルは、帝国陸軍に所属する軍人で、現在は第五師団特殊第七小隊軍曹という地位にある。
彼が陸軍に入ったのは20歳の時で、第一師団の三等歩兵に配属された。第一師団は、帝国陸軍の中でも最も前線に投入されることが多いため、グレイルも様々な戦場へと派遣された。戦場から戦場を渡り歩き、何年も死と隣り合わせの日々を経験した。
過酷な日々の記録は、戦績と共にグレイルの肉体に、精神に傷として刻み込まれている。痛々しい無数の傷が彼を痛めつけ、そして鍛え上げた。戦場での数多の経験が知識として、痛々しい傷跡と共にグレイルの大きな力となった。こうした日々が十二年も続いた。
ある日、彼は上官に呼ばれて司令室に足を運んだ。そこで特殊部隊への異動を命じられた。第七小隊の軍曹補佐へと任命され、二年後、前任の軍曹が戦死したことにより軍曹となる。
グレイルの率いる第七小隊は数々の重要任務を成し遂げ、特殊部隊の中でも一目置かれる存在へと成長した。いつしか部隊は餓狼の群れと渾名されるようになり、指揮官のグレイルは、狂犬と呼ばれることになった。
ある程度思案を終えた頃、外はもう暗くなっていた。今、フロスト帝国は冬季の只中であり、日照時間も短い。寒さは一層厳しく、一年で最も過酷な時期である。
グレイルは、自らが空腹である事を思い出した。そういや、まだ夕餉を食べていない。グレイルは食堂へと足を運んだ。
食堂には、殆ど人がいなかった。
隊員たちは日中の訓練の疲れもあり、早々に宿舎へと戻っているのだろう。残っているのは先程まで書類の作成等の事務作業に追われていたと考えられる、参謀のディアナだけであった。
グレイルはディアナに近づき、上体を折って敬礼した。
「こんばんは。ディアナ参謀」
ディアナは敬礼を受けて直れと指示し、自身の前の席に座るよう促す。
「グレイル軍曹も今頃食事ですか。ここが第一師団だったら懲罰対象ですよ」
第一師団は、陸軍の中でも特に規律が厳しい事で有名である。グレイルもかつて所属していたので、その厳しさはよく分かっている。食事の時間、消灯時間、起床時間等、全て厳密に決められており、遅刻等しようものなら厳しい処罰が待っている。
それに比べて、特殊部隊は帝国軍全体でも信じられない程に規律が緩い。訓練時間などの必要不可欠な規則は定められているが、それさえ守ればかなりの自由が許されている。部隊の特性上不規則な動きをすることが多く、それに対応する為ではあるが、この部隊に配属したての頃は仰天したものである。
「一応食事時間は守ってますよ。それに、参謀も言えンでしょう」
ディアナはそれを受けてグレイルを軽く睨む。
「口を慎みなさい。上官に対してその態度で、よくもここまで昇進出来たものです」
グレイルは軍人には似つかわしくなく、非常に不遜である。
今まで上官に対して無礼を働くことは多く、何度も懲罰房に入れられた。規律の厳しい第一師団では、上官からは目の敵にされた。
「ですが、その傲岸不遜な態度を補ってあまりあるほどの武功と成績を収めたことは私もわかっています。かつて隊長から聞きました。貴方ほどの武人を見たことが無いと」
グレイルはその態度さえなければもっと上の地位にいてもおかしくない。単純な個人の武力、知識、経験値で考えると、帝国陸軍全体で見てもかなり上位である。
グレイルはディアナに今度自身が担当する作戦について聞きたいことがあったが、ここではその話はしなかった。これは極秘任務である。同じ部隊の内部とはいえ、どこに敵の間者がいるかわからない。
ディアナもそれを察し、二人は当たり障りのない話をした。豆と香草の煮込と黒麦の麺麭で腹を満たして蒸留酒を一口飲み、食堂を後にした。
食事を終え、身を清めて着替え、グレイルは自室の寝台に横になった。そして作戦について思案を重ねながら目を瞑り、眠りへと落ちて行った。