荒野
茶色くなった古い血と青ざめた顔の死体が見渡す限り広がっている
戦とは凄惨なものだ
ここには高貴も卑賎もない 英雄も凡夫も 善も悪も
骸となれば皆等しく芥へと還る
生命とはかくも儚い物なのか
戦士は生きたいと乞う本能の叫びに耳を塞ぎ死地へと足を運ぶ
そのなんと愚かなことであろうか
大地を震わした戦士たちの怒号も遠く静寂に消えた
大義が燃えた戦場は死肉を取り合う野犬や鴉共の戦場と為り果てた
かつての生命はただの腐肉の塊へと化ける
斯様な愚昧なる生命の営みをただ月明かりが照らす
嘲笑うかの様に 微笑みかける様に
ずっとずっと昔の事、この地は巨木が鬱蒼と茂る密林であった。枝葉は空を覆い、陽光は木漏れ日となって地面に優しく降り注いでいたという。しかし今となっては、萎れた草木がまるで所在無さげに点々とあるのみ。
岩や礫、砂が地表を覆っている。太陽に熱されて熱を帯び、大地が呻くように景色が揺らぐ。
かつてはこの地は「雨の森」と呼ばれるほどの豊かな土地であった。しかし、今となってはその面影は見る影もない。
「渇きの荒野」とでも言い換えるべきであろうが、誰からも忘れられた土地に新たに名前を付ける意義が果たしてあるだろうか。過ぎ去った時の中で、かつての雨を、緑を覚えているものはいるのだろうか。
森を彩つ極採色の花も、赤々と実った果実を生やす木々も、その実りを食して丸々と太った獣達も今は居ない。
そして、森の恵みを厚かましく余すところなく利用し、生態系の頂点へと君臨する人間達も、姿を消した。かつての騒々しいほどの命のざわめきは、もはやどこにも見当たらない。生きとし生けるものの足跡が砂塵の中に呑み込まれた。
命の気配はなく、暴力的なまでにその熱をまき散らす太陽のみが燦然と輝いている。全てが去った今、この荒野に用のある者などいない。
ただ一人を除いては。
乾いた荒野に、佇む人間が一人。
黒革の編み上げ靴、苔色の太い下衣、黄土色の頭巾付きの外套、鼠色の手袋、首元を纏う古い大判の赤布、銅色の保護眼鏡。強烈な日差しから肌を守るために全身を衣服で覆い、灰色の大きな背嚢を負い、手には長めの木の棒を杖として握っている。
無限の沈黙が荒野を包み、熱波が景色を揺らめかす。
この荒地への訪問者は、日差しを避けられる大きな岩の陰に荷物を置き、その傍らに腰を下ろした。頭巾と保護眼鏡を外し、荷物の中から古い水筒を取り出して口に含み、喉を潤す。
壮年の男であった。
掻き揚げた黒い髪の隙間から、精悍な顔が露わとなる。焼けた濃い褐色の肌、口周りに蓄えられた髭、決して今風の美形では無いのかもしれないが、男前の部類には入るだろう。
しかし何よりも目を引くものは、右目の周りにある大きな黒い牙を剥いた蛇の入れ墨だ。真面な者であれば入れ墨を入れる事には忌避感を覚える。それも顔に入れるなど、真面な人の感性ではない。にも拘らず墨を入れている。
何故そこに墨を入れているのか、そして彼は何者なのだろうか。
一息つき、男は荷解きを始めた。おそらくここで野営を行うのだろう、手慣れた手付きで拠点を作成していく。
木製の長棒を支えに布で雨除けを作り、細めの綱で支柱が倒れぬ様に固定する。雨除けの下に人一人が横になれる程の大きさの布を広げ、その上に寝袋を置く。
寝床の設置が完成すると、男は焚火の準備を始めた。運よく大きな枯れ木が近くにあった。おそらくこの地に生えていたが水不足により倒れたのであろう。倒木から燃料となる木材を鋸で切り出し、鉈で丁度よい大きさへと切り分ける。切り分けた薪を組み、火打ち石で火をつけた。
ある程度の拠点作成が終わり、焚火の側の岩に腰掛けて荷物の中から小さな木箱を取り出した。その中から細い葉巻を一本取り出して焚火で火をつけ、味わうように吸い込む。灰が火元から零れ、風が攫う。立ち上る煙は立ち上ることを許されず、弱弱しく流される。
葉巻を口で咥えながら、男は一冊の手帳と筆を取り出した。そして手帳を開き、筆を走らせる。
「まだ死ねない。やることがあるんだ」
ジュリアス大陸。
世界に数多ある島々の中でも最大面積を誇り、その広大さがゆえに島々の中で唯一「大陸」の名を付けられた土地である。広大であるが故、大陸の中でも気候や地形は大きく異なり、寒冷な雪が吹雪く雪原から、鬱蒼とした巨木で出来た密林地帯、灼熱の荒野が広がる砂漠など、多様な環境が見て取れる。人口も非常に多く、この世界に住む人間の凡そ九割はこの大陸で生活している。
ジュリアス大陸には大きく分けて三つの大国がある。三大国によって大陸は分割統治され、それぞれ独特の言語、文化、生活様式を持っている。三国間の仲は良好とは言い辛く、それぞれが自らの領土を広げようと、大陸の覇権を握ろうと、飽きる事のない戦いを繰り広げている。
まず大陸の北方に広がる国が、フロスト帝国である。ジュリアス大陸の北側の広大な土地を領有しており、国土は三国で最も広く人口も一番多い。しかし非常に寒冷で厳しい気候となっている。
大陸の南西には砂漠と平原が広がっており、ハザール王国が統治する。三国の中では最も古くに誕生したために文明の発展は著しく、ハザールの技術革新は他の脅威となっている。
南東は比較的湿潤であり、密林が広がっている。また山がちな地形であり、ジュリアス大陸で最高の標高を誇るタウトナ山がある。この地域は大小様々な州による自治政権があり、それらの州が集まったミーソン連邦によって統治されている。
フロスト、ハザール、ミーソンは、ある国は領土を広げる為、ある国は侵略から自国を守るために、終わりなき戦いの歴史を紡いでいる。