光輝く鴎は陸に降臨するⅢ
夫フランツとようやく雪解けの雰囲気になり、エリーザベトの意見が尊重される。
ヴェネチアでようやく家族らしい生活を満喫してウイーンに帰還後皇后としての責務も少しずつ公務に出席していった。
彼は安心したように10月26日ウイーンへ帰っていった。
そして私もコルフ島を離れて、船でヴェネチアに向かった。
海風が本当に心地よかったわ。
そしてフランツも子供達を連れて来てくれた。
ヴェネチアに揃った。
一つ問題があるとしたらその場にエステルハージ侯爵夫人が同行していたという事。
でも夫はその場でエステルハージ・リヒテンシュタイン侯爵夫人に長年の労に感謝し、また身体をおもんばかっての女官長の退任を告げた。
そして新たな女官長にはベルガルト伯爵夫人を任命してくれた。
けれどこの人事がまた話題に上った。
伯爵夫人では不相応だというのよ。
ヴェネチアに落ち着いた後、母とカールテオドールが来てくれた。
ある程度元気だけれど足の腫れが酷くて、一人で立てない時もあったの。
実は栄養失調からくるふくれらしいわ。
食べない=精神状態の不安定ね。
美しいヴェネチアで水路を船で家族と景色を楽しんだ。
子供達は珍しい景色に目を丸くしていたわね。
夫はご満悦でまるで新婚当時のようだと臣下に言われていたわ。
夫はウイーンとヴェネチアの往復をしばらく続けていた。
でも私はここの湿気がよくないのかあまり身体が本調子ではないの。
何もする事がないので、美人写真コレクションを始めたルードまるで祖父のルードヴィヒ1世の美人肖像画コレクションを真似しているみたいにね。
遺伝て怖いわ。
そそうちヨーロッパの職種、身分にかかわらず美人の写真を集めた。
夫は再びやってきて私の体調の悪さを辛そうに寂しそうにしてウイーンへ帰っていったわ。
貧血や水腫、腫れが悪化するの。
母がお見舞いにきてくれてしばらくいてくれることになった。
でも病は好転せずに医師の勧めでニーダーエスターライヒ、そしてバートキッシンゲンに保養に行く事になったの。
なんと温泉療法が聞いて体調はよくなったのよ。
パパ来てくれて、散歩したのよ。
この後、1862年7月ポッセンフォーヘン城に滞在したわ。
夫はウイーンに帰ってくると思っていたから残念だっていたわ。
久しぶりの実家で、嫁いだ妹達も城に集まった楽しいわ。
マリアとマチルダ!
でもマリアはお腹がぽっこり膨らんで妊婦の様な姿だった。
私は不思議に思ってマリアに聞いたの。何故って?
母からもマリアが妊娠したと報告がなかったから。
マリアは涙ぐみながら夫と夫婦生活はなくて不仲、ベルギー人の恋人が出来て、その間の子供だと明かしたの。
勿論夫には病気で実家で静養すると言って出て来たそうよ。
マリア~!私達は抱きしめ合った。
不幸な結婚から逃げられずに右往左往する姉妹。
マリアはイタリアの離宮で子供を産んだ後、その子を相手に預けたそうよ。
実母だと言わずに何度か会って、その子の葬式にも参列したって。
夫とはその後不倫を告白してなんとか夫婦仲はとりもてて長女にも恵まれたわ。
3カ月しか生きられなかったけど。
ポッシー館でも滞在は別れはあるもの。
パパが姉妹のおしゃべりとママの愚痴に堪忍袋が切れて私達を追い出したの!
夫にも説得されてウイーンに帰ったわ。
でもカールテオドールを連れてね。
不安だもの。
1862年8月14日の到着の時はとてもぎこちなかったわ。
なれていないもの。
初めてここに来た日の様だった。
ウイーンは私の病気併願を祝って祝賀パレードを開催してくれた。
私は感激のあまりウイーンでも精一杯元気な姿を見せる様に努力した。
王宮でもシェーンブルグ宮殿でも祝いは続き、そして夫との仲は修復していった。
2人で散歩、乗馬、好きな様に過ごした。
夫もご満悦の様子。
「シシッがまた傍にいてくれて、やっと長い不自由な生活が終わって家庭の幸福をもてるのは
私にとってどんなに幸せなことでしょう。
これほど良い雰囲気は久しくありませんでした。」
義母のバートイシュルにいて私の不安の元はないけれど。
子供達がライヒェナウだし、しばらくは夫と落ち着いた夫婦生活らしく穏やかに過ごしたわ。
そして一人で馬に乗って出かけても尾行する秘密警察にフランツを経由して止める様に命令してもらったわね。
そのうち夫も安心して義母のイシュルに行ったり、ウイーンではヘレーネが来てくれて私もライヒェナウ、パッサウ、バートキッシンゲンと絶え間なく出歩いた。
1864年2月オーストリア軍はプロイセンの口車に乗せられてデンマークの北ドイツ領に進軍していたの。
その負傷兵を見舞うという慰問を行う事になったの。
私は一人一人話を聞いて、出来るだけ真摯に向き合った。
彼らは無謀で貪欲なプロイセンに食い物にされて傷ついた者達。
私のウイーンでの様子を女官達は安心していたみたい。
「皇后は大変お顔色がよく、まったく別人の様で頬は薔薇色、お元気です。
良く召し上がりますし、よくお休みになり、コルセットもきつく締める様になさいません。
ちょっとよく歩かれます。」
「皇后は2年苦しみあげかれて今はお元気」としばらくの和合が私達家族に吹いた。
しばらくの間は公務を優先したわ。
ドイツの皇太子と皇太子妃の訪問の晩餐会にも出席したわ。
私ね。
相手が私に好意的かそうでないかすぐにわかるのよ。
彼女は後者ね。だから積極的に社交する気もなかったの。
それに何か言っても批判されるから、どちらにしても批判されるなら口にしないのが一番。
宴会や舞踏会この時期は積極的に参加したわ。
体調が許す限りね。
そして宮廷儀礼には逆らったわ。
私が私でいる為の生活よ!
食事にビール!
バイエルン愛よ!
バートイシュル滞在中、突然それは私の耳に届いたの。
なんとルドルフの教育係が彼を虐待しているのだと!
私がそれを聞いたのはバートイシュルでの滞在だった。
彼は突然寝ているルドルフの耳元で銃を撃ち、森に一人置いてけぼりをして、冷たい水を彼にかけ、暴走する馬に彼を乗せ全速力で走らせたそうよ。
まだまだ書き足らないわ。
私はフランツに手紙を書いたわ。
「ゴルドングールが出て行くか私が出て行くか2つに1つです
…子供達の一切の事柄無制限に代理権が私に留保されている事…
一言でいうなら一切を子供達が成人するまで私が単独で決定する権利を持つ事を希望します
さらに私自身の事にも……自分一人で決定する権利が留保されている事を希望いたします」
バートイシュルにて
1865年8月27日
そして皇帝からその権利を勝ち取ったの。
新任の教育係はラトゥール大佐。
自由主義のリベラルな温和な人物利発な彼にはぴったりよ。
私の勝利。彼は成人後もルドルフだけでなくギーゼラの支えもしてくれた。
私が逝去した後も交流があったのよ。
ありがとうラトゥール。
そして私は強くなる。美しく。誰もが望む様に。
私はこの後に自由にウイーンを離れた。
条件は1つ定期的にと、祝典や家族行事には必ずウイーンに帰ってくること。
夫から義母からの勝利!
そしてキッシンゲンの保養。
かの地ではかいがいしく奉仕したわ。
盲目のメクレンブルグ侯爵と散歩したり、半身不随のイギリス紳士をお見舞いしたりしたわ。
でも時々精神的に疲れたのか?
また食べたくなくなってビールだけを飲んだりもしたわ。
時々晩餐会を持病の理由で欠席するけれど大切な時には臨席するわ。
デンマーク戦の勝利祝勝会がウイーンで行われた時はシェーンブルグ宮殿にドイツ皇帝が訪問していたの。
ちゃんと歓迎したわ。
でも途中でお腹が痛くなったの。
医師が言うには冷水風呂の後遺症、すぐにキツイコルセットと共にやめなさいって。
駄目よ止められないの。
美容はもう強迫観念になってしまったの。
その後ミュンヘンに行ってウイーンに帰り、1865年5月1日の環状通りの開通式に出席したわ。
7月の夏はバートイシュルに滞在して日帰りにザルクガンマーグートを観光したわ。
環境の変化でエリーザベト皇后は心身症に陥る。
現在は欝病や躁鬱病などの神経系の病気は精神科に分類されるが、19世紀当時はまだフロイトも登場せず、どちらかというと病気という概念はなかったに等しかった。
その事でエリーザベトはウイーン宮廷で誤解さえ非難された。
コルフ島に静養したエリーザベトは自信に満ちた自立した女性へと変貌した。
フランツヨーゼフ1世はロンバルディアを失い、僅かなイタリア内の領土の治安の安定化が急務となった。
その緩衝材としてエリーザベトをヴェネチアに送り子供達を迎える事で帝室の家庭的なイメージを固定化しようと考えたと思われる。
事実美しい皇后と幼い子供達は好意を持ってヴェネチア市民は受け入れられた。




