突然の死は…望みのままにⅠ
ジュネーヴで暗殺されたオーストリア皇后がいかにしてウイーンに帰還し市民や家族は悲しみにくれました。
ここでは暗殺までのエリーザベトの行動を紹介していきます。
「おっ…お医者様を……お医者様を!!水を!」
薄れゆく意識の中で、画像とイルマの金切り声はノイズが掛かった様に遠のいていく。
私の意識はフアフアと宙を彷徨う。
あぁ~~何が起こったのかしら?
クラクラするわ。
そう……そうだ。
皇帝陛下とヴァレリーとバートイシュルのカイザーヴィラで別れた…。
二人は私の精神状態があまりいいと思ってはいなかったから今回の旅立ちには反対していたわ。
でもバートナムハイムから静養して、スイスに渡りモントルー、テリテで過ごしていくうち体調はよくなったの。
思いついてここからそう遠くないジュリー・フォン・ロートシルト男爵夫人を訪ねようと思った。
妹マリア・ガブリエラを支援してくださる私の旧友の彼女にお礼を言いたかった。
なんと言ってジュリーは素晴らしい人だから。
悲しい運命を背負ってしまった私達姉妹……。
私がオーストリア帝国の皇后にならなければ、皆もっと自分らしく幸せな生涯を送る事が出来たのに。
あの子は斜陽のナポリ王国の王太子に嫁いで、すぐに王妃になったものの、サルディニア軍と反政府主義者達に国を追われ、二度も亡命を余儀なくされたのに。
とても勇敢で反乱軍と戦ったガエータの砦で抵抗した兵士達を勇気付け奮起させた象徴的な存在だった。
「ガエータの女王」と呼ばれたのよ。
妹は今もナポリの再興を実現しようと活動している。
妹夫婦は良い関係ではなかったから一時は恋に溺れて不義の子を産んだのよ。
その後に夫に正直に告白して短い命だったけど二人には王女も生まれて、最後は落ち着いた夫婦関係を維持していたようだったわ。
けどその下の妹マチルダはもっと悲惨だった。
夫はナポリ王であるマリアの夫の弟。
長女を出産したものの夫との関係は疎遠でナポリを追われてからは別居夫は謎の死を遂げて以来根なし草の生活をしている。
別居中やはりマリアと同じように恋をして一子産んだ後はやはり彼女も私と同じ様に
渡り鳥の様にヨーロッパを移動していた。
夫は自殺か事故かいまだにわからなかったけれど離別して、その後二人とも再婚する事もなく時折私と合流して過ごしたりして、二人は姉妹の中で長寿を全うして同じ年に死去したそうよ。
話を戻そうかしら。
ジュリーはオーストリア帝国の男爵で英語名ではロスチャイルド家の一員の妻だった。
ロスチャイルド家は金融業でヨーロッパで財をなし兄弟達がそれぞれの国で事業を行っていた。
フランツ一世の時代に「帝国に功績あり」とユダヤ系で初めて男爵の爵位を受けたのよ。
ハプスブルグ家は多民族国家、寛大で金融業に強かったユダヤ系の人々も受け入れていたの。
当時の世界はキリスト教徒が主流で、ユダヤの王がイエスキリストを処刑した故事から差別的な扱いを受けていた。
その後国を滅ばされ、世界中に散っていったの。
どこでも迫害を受けながら、その中で経済に精通した一族が現れて頭角してきた。
英語圏ではロスチャイルド家、ドイツ語でロートシルト家、フランス語ロチルド家と言われた一族は特に有名よね。
当時のカトリック教の世界の中でハプルブルグ家はとても寛大だった。
特に夫は反ユダヤの気運が高まるオーストリアで彼らを擁護したわ。
だから私も同家に資産を運用して預けたのよ。
皇帝陛下は私によく
「無政府主義者の暗殺者に注意するように。
早くウイーンに帰ってきなさい」
と再三手紙を送ってきていたわ。
私はいつも「大丈夫よ」と安心させるように返事をしていたわ。
今回も陛下の即位五十周年記念祭にはウイーンも戻って祝典に参加するわと返事をしていたの。
結局約束は守れなかった……。
貴方ごめんなさい。
そうそう皆さんは虫の知らせや迷信て信じる?
このプリニーの訪問の前にギリシャ語教師のフレッド・バーカーとお散歩しながら、丁度休もうと苔岩に座っていたの。
桃を半分に割って片方を彼に渡そうとしていた時だった。
烏が突然羽ばたいて持っていた桃を突いたのをバーカーは酷く驚いてその鳥を追い払ったの。
そして彼は言ったわ。
「烏が人を威嚇すると、常に不幸が訪れる」という迷信を私に伝えたの。
「どうかジュネーヴ行きはおやめください」と悲痛な表情で懇願しだしたのよ。
私はクスッと笑って彼に言ったわ。
「私の友。私は死など怖くはないわ。
遅かれ早かれ、私たちは運命に導かれて死ぬのです。
どんなことをしても死から逃れることはできないわ。
私達が死を避けるためにできることは何もないのよ。
あなたは私が運命論者だって知っているじゃない。
だからやめないわ」
死は誰にも平等に訪れるもの。貧しき者にも富める者にも、若き者にも老いたる者にも。
等しく訪れるもの。
それは死。
それを宿命として受け入れると。
ジュリーはレマン湖の畔プリニーの別宅に滞在していたので、私はレマン湖の蒸気船に普通客と一緒に僅かな随行員を連れてイルマも一緒に訪問したのよ。
ジュリーはそれはそれは大感激で歓迎してくれて、とても美味しい昼食を用意してくれたの。
私は普段はあまりコース料理は食べないけれど、ジュリーのもてなしに感激して、出てくるお料理を堪能して美味しくいただいたわ。
イルマも私の食欲を嬉しそうにしていたみたい。
イルマは1894年8月にバートイシュルでエリーザベト皇后の旅のお供として採用された女官よ。
すごく忠実で信頼出来る子よ。
すごく健脚で元気いっぱいなの。
私のお気に入り女官だった。
食べ終わって皇帝陛下にも召し上がってほしいからレシピをおねだりしちゃったわ。
美味しい食事の後はジュリーが自慢の温室園を案内してくれて、見た事もない珍しい植物を鑑賞しながら、フランス語で会話を楽しんだの。
こんなに楽しい日々は久しぶりだった。
その再会の日にジュリーは私の写真撮影を求めてきたの。
やんわりお断りしたわ。
もう30年も写真機の前に立っていないもの。
その信念は曲げなかった。
老いた姿は見せたくなかったから………だけどその後撮らせてもよかったかなってイルマに言ったわ。
3時間楽しく過ごした後、ジュネーヴに宿をとっていたのでジュリーとは別れて蒸気船でホテルボーリヴァージェに入ったの。
ここでは「ホーエンエンブス伯爵夫人」を名乗って滞在していたの。
この名前も私でもあるの。
ハプスブルグ家の爵位は沢山あったので夫の爵位を選び放題よ。
私は絶対オーストリア皇后として行動したくないのよ。
もしそれを使う時は公的な儀式だけと決めているの。
普通の人でいたいのよ。
でも知らなかったわ。
新聞社が私がこのホテルに宿泊しているとスクープしていたなんて。
そしてその記事を狂気の眼で見ていた男がいた事を。
知らなかったの。
ジュリーの所から帰った翌日は本当に久しぶり素敵な朝だった。
朝食もパンを頂いたほどよ。
9時の鐘が鳴った時は丁度出かける支度をする為に侍女に髪を梳かせていたのよ。
「今日コーにお戻りになられるというお考えにかわりはないでしょうか?」
イルマがそう訊ねてきたわ。
「えぇ。1時40分の船でね。大名行列みたいのは嫌だから。
いつものとおりね。」
「はい」
イルマは準備を指示していろいろ指図していたわ。
11時にイルマと二人でジュネーヴのベッカー楽器店に立ち寄ってヴァレリーの子供達にお土産を購入した。
いろんな曲が選べる自動演奏器よ。
絶対あの子達は喜ぶわ。
ヴァレリーちは大家族だから子供達の笑っている姿が目に浮かぶようだわ。
私のただ一人の娘。
ハンガリーの申し子。
私の宝物。
私の全てを注いだ子。
エリーザベトの晩年に旅行に付き添った女官イルマスターライ伯爵夫人の残した晩年のエリーザベトはあまり知る事のない彼女の落日の姿を伝え残してくれます。
奇人で人つきあいを避けて孤独を愛した変わり者。
それがこの当時の上流階級の普通を打破するだけの資料です。
彼女の親族が他界すると愛情深く寄り添い、下位の者でも気配りする。
そしてそんな主人を理解しようと必死に仕える姿は美しくも見えました。
一人の人間は時にいろんな角度から見る事がいかに大切かを教えてくれます。
「目に見えるものは大切ではない」
BY 星の王子様