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描画効撃士シリーズ

描画効撃士ツラヌキ【読み切り版】

作者: 赤黒伊猫



-§-



 目が覚めたとき、すでに窓の外は真っ暗だった。


 薄暗い車内。規則正しいリズムで突き上げてくる振動と、古びた油に煙草の匂いが混ざった淀んだ空気の味は、生温くてひどく苦い。

 快適な目覚めとは程遠かった。鉛でもぶら下げたように重い瞼を擦る。

 全身が気怠い。おまけに変な姿勢で寝たせいか節々が痛い。

 大きく伸びをして、眠気を振るい落とす。そうして座席と背中を引き剥がすように、気合いを入れて身を起こせば、高速で流れていく夜景が視界に入った。


 海沿いの、工業地帯。


 遠くでちらほらと瞬く灯りは、作業中の工場や港のものだろうか。

 その向こうに広がる海は、深く濃い闇の中にべったりと沈みこむようで、言いようもなく不気味な威圧感を醸し出している。

 どこかの地方の言い伝えでは、海は異界に繋がる道であるという。生者と死者、それぞれの世界を隔てて切り分ける、境界線なのだと。

 ならば。その道は、入り口なのか。それとも出口なのか。

 そんな益体もない考えを弄びつつ、黒一色に染め上げられた景色をぼんやりと眺めていると、運転席の方から声がかかった。


「おはようございます。あ、いや。こんばんは、の方が良いのかな」

「……今、どこら辺走ってんの? 現場、まだ、着いてないっぽいけど」

「ちょっと、途中で渋滞に捕まっちゃいましてね。でも、もうすぐですよ」


 弁解するような、宥めるような口調。

 ちらりと視線を巡らせれば、ルームミラーの中に運転手の姿を認められた。緩い癖のついた茶髪と、いかにも優男風の顔立ち。

 見慣れた相手である。今夜の運び手はどうやら彼らしい。


「……安全運転、ゴクローサマ。もうちょい、飛ばしてくんない?」

「無茶言わないでくださいよ。事故なんて起こしたら仕事どころじゃなくなる」

「アンタ、まだ借金残ってるんだっけ。二百万。クビになったら堪んないか」


 重苦しい沈黙が返される。運転手は明らかに機嫌を損ねたようだった。

 かつて勤めていたホストクラブから売上金を盗み、その店のケツ持ちをしていたヤクザに追い込みをかけられ、死にかけていたところを現在の職場に拾われたという経歴持ちの彼は、それでも今夜の職務を真面目に全うする気はあるようで。


「あと数分で着くんで、降りる準備しといてください」


 憮然としたその声に、おざなりな返事で応じる。

 準備、と言っても荷物が多いわけではない。せいぜい身嗜みを整えるくらいだ。

 乱れた前髪を直そうと、窓ガラスに映りこんだ自分を見やる。

 怒ったように吊り上がった眉と、墨汁を流し込んだような濁った瞳。肩口で切り揃えた灰色の髪。日焼けしてない生白い肌。右の目元に黒子がひとつ。

 装飾品(アクセサリ)の類や化粧っ気は皆無。唯一、青い髪留めだけが彩りを担保している。五十個入りで五百円の、安っぽいプラスチック製の市販品だ。


 貫木(つらぬき)(やじり)。現在はその名で定義される人物の、代わり映えしない顔がそこにあった。当年十五歳。花の女子校生にしてはやたらと険のある生来の顔面が。


「……ぶっさ。可愛くねえー。自分で言うのも哀しいけど、ヤバいなこれ」

「ええっ。貫木さん、顔はわりと可愛いじゃないですか。寝起きだから浮腫んでるだけですよ。だから余計に不愛想な感じに見えるだけで――」


 まるで顔以外は可愛くないような言い様だった。

 続いた言葉選びも最悪で、まったくフォローになってない。ホスト時代の成績が思いやられた。故に抗議として座席に蹴りを入れる。


「――だぁあッ!!?! な、なにしやがるクソガキッ!!」

「きゃあ、こわぁい。女の子相手に怒鳴らないでくれますぅ?」

「ぶってんじゃねぇ!! いまさら俺にビビるようなタマじゃねぇだろ!! てか、事故ったらどうすんだよ!! 責任取ってくれんのか、ああ!?」

「本性出るとマジで口悪いなアンタ。そもそも喧嘩売ってきたのはそっちでしょ」

「……ッチ!! クソ、クソ。こんな仕事、マジで早いところ、辞めてやる」


 荒っぽい怒声を聞き流しつつ、ふと窓の外に見えた景色から、目的地への到着が間近であることを悟る。いつの間にか自分たちを乗せたワゴン車は、人気のない路地の方へと侵入し、やがてとある建造物へと近付きつつあった。


 闇夜の中、前方にぼんやりと浮かび上がる、平坦で長大な影形(シルエット)は、


「……廃工場? 今夜の現場、あそこなの?」

「ああ? ああ、まあ。……いかにも()()()んじゃないですか」


 確かにシチュエーションとしてはうってつけに違いない。

 彼方此方に罅の入った外壁。避けたコンクリートから顔を出す雑草の群れ。死んだ工場だ。普段は人が寄り付かず、また誰にも注意を払われない場。

 ()()()()()()()()()、なるほど条件が揃っている。


「夜更けにこっそり害虫駆除、……傍から見たら不審者だな、と」


 言う間に到着。ワゴン車は敷地を取り囲む金網に途切れた箇所を見つけると、そのわずかな隙間に車体をするりと滑り込ませ、敷地内への侵入を果たす。

 車体を擦るような下手もない、実にスムーズで丁寧な動き。口の悪さとは裏腹に、運転技術は見事である。前職の頃、上司の送り迎えで鍛えられたらしい。

 しばらく走って、開けた空間に辿り着き、停車する。

 血飛沫柄の半袖シャツにジーンズ。それと太腿に括り付けた、大事なホルスター・ケース。服装をもう一度整えてから、ドアを引き開けて地面に降り立つ。

 途端、ぬるついた風が頬を撫でた。

 潮の香り。あるいは鉄錆の匂い。海から流れてきたものか、それとも廃工場から漏れたものか。どちらでも変わらない。そう考えながら歩を進める。


「……あ、目薬差してくるの忘れた」


 一瞬だけ取りに戻ろうかと考えたが、運転手に揶揄われるのも嫌なので止めておいた。まあ、そう時間はかかるまい。目は少し乾くが許容範囲だ。


 初夏の生暖かい空気を浴びながら、闇を切り裂くように進む。

 シャツの下がじっとりと汗ばんでくる感覚が不快だった。

 背中に浮いた汗が転がり落ちて、尻の割れ目に吸い込まれていく。

 到着して早々、急激に帰りたくなってきた。


「……そういう時に限って、ますますやる気の失せるものが見つかるんだから」


 正面、暗がりの中。開けた一帯に数人の若い男たちがたむろしていた。

 こちらの足音に気付いたのか、反射めいた動きで連中が一斉に振り返る。

 闇の中に浮かぶいくつもの目玉が、獣じみた凶暴で強欲な光を帯びていた。

 獲物を見つけたハイエナか、あるいは餌を奪おうと身構えるサルか。どちらにせよ、ろくなものではない。舐めるような視線が極めて苛立たしかった。


「あれ、あれあれぇ? こんなところをお散歩ですかあ?」

「危ないよお、一人で出歩いちゃあ。もういい子はお家に帰る時間だよお」


 連中の知能と道徳心のどちらか、あるいは両方の低さを露呈するが如き、粘着くような揶揄いの声。咄嗟に飛び出かけた罵声を堪えられたのは上出来だ。

 さらに近付けば相手の背格好や状況が鮮明になる。

 年頃は十代後半から二十代前半にかけて。髪を染め、肌を焼き、黒いシャツにハーフパンツ。それをピアスやチェーンで着飾っている。

 典型的な地元の不良集団といった風体だった。否、実際にそうなのだろう。


「あっれ、思ったよりカワイくない? いいじゃん、ラッキー!」

「お前、ロリコンかよ! どう見てもガキだぜ、ギャハハハ!」


 下卑た笑い声を意識からシャットアウトしつつ、こちらの出方を考える。

 とりあえず連中がここに居るのは予定外。都合的にもよくない。かなり。

 故にどうにか排除する必要があった。それも可及的速やかに、かつできる限り穏便に。そんな思考は、しかし数秒後に消し飛んだ。


「ねえ、そこの人。アンタらの友達、……ってわけじゃないよね」


 指差した先、不良集団に取り囲まれるようにして、地べたに蹲る一人の少年がいた。着ている服の至る所が破れ、膝や頬には真新しい痣が浮き出ている。


「ああ、これ? 流行ってんだよ、人間サッカー! 知らない? 面白いよ」

「そうそう、遊んでただけだよ! こいつがボール役、申し出てくれてさあ」


 哄笑が響く。襤褸切れのようにされた少年がこちらを向いた。

 腫れ上がった顔、乱れた前髪の奥から覗く目が、怒りを宿している。

 端に赤黒いものをこびり付かせた口元が音もなく「逃げろ」と動いた。


 よって、とりあえず。これから最優先でやるべきことが決まった。


「あっそ。なら、選手交代といこうか」


 思いっきり踏み込んで、手近な不良の股間を思い切り蹴り上げる。



 -§-



「――ぃッ!?!!!?!! っぎ、がぁあああああああッ!!!!?!!」

「アンタが次のボール。二つもあってお得だね。片っぽ潰れたかもだけど」


 途端に周囲の連中が殺気立つ。烏が喚くような怒声を口々に叫びながら、不良集団が怒気も露わに掴みかかってくる。

 対応は即座。ホルスター・ケースから、紙片を一枚素早く抜き取り、流れるような動きで宙へと投じる。頭上、一見して変哲のない紙切れが、ひらりと舞い。


「――“拡散する衝撃波(Blast)”」


 瞬間、闇夜を弾き飛ばすような眩い閃光が、一帯を照らした。


 そして。再び夜の闇が周囲を暗く染め上げたとき、不良どもは全員が完全に気を失った状態で、蛙のように地べたに伸びていた。

 念のため様子を窺ってみると大した怪我はないようだ。頬が少し赤くなっているくらいか。この程度なら、まあ許容範囲としていいだろう。そのはず。

 ふわりと舞い降りてきた紙片を見やる。描かれていたのは、外側を向いた【矢印】の図形を放射状に円く並べた、ごくシンプルなイラスト。

 万事解決。ひとり頷いていると、背後から運転手が駆け寄ってきて、叫ぶ。


「なにやってんだ馬鹿!! お前!! 一般人相手に!!」

「“記号打ち(タイピング)”は生き物相手には大した威力ないの知ってるでしょ」

「倒れるときに頭打ってたらどうすんだって話だよ!! ったく、もう!!」


 ぶつぶつと文句を言いながら、運転手は不良たちをひとりずつ担いでどこかへ運んでいく。安全な場所へ避難させてくれるつもりなのだろう。肩を怒らせたその後ろ姿に、いちおう頭を下げておく。おかげで仕事がやりやすい。


 ともあれ。踵を返し、リンチを受けていたと思しき少年に向き直る。


「ほら、さっさと立って。ずっとそこに居られると邪魔だから」

「あの。そこはまず、大丈夫、とか言うもんじゃないんですか」

「血もそんなに吐いてないし、意識もはっきりして喋れてるじゃん。なら心配する意味がないでしょ。だいいち別に死んでないんだしさあ」


 溜息混じりにそう言うと、少年は愕然とした顔を向けてきた。失礼な奴だ。


「まあ、このあと病院くらいには連れてってあげるから。ほら、どいたどいた」

「ええー……。嘘だろ、頭おかしいんじゃねぇの、この女……」


 失礼度合いが一線を越えたので蹴りを入れた。少年は子犬のように情けない悲鳴を上げて転げ回る。その様を見下ろしていると、つい舌打ちが零れた。


「し、舌打ちしやがった……。信じらんねぇ、マジで……」

「助けてやったのにありがとうの一言もない恩知らずには十分だろがい」


 とはいえ、本当に立てなさそうなので、仕方なく手を貸してやった。

 どうにか立ち上がった少年は、小鹿のように震える足を庇いつつ、果てしなく不承不承といった態度で「ありがとうございました」と口を動かした。

 完全な棒読みだったが、とりあえずその点は赦してやる。


「……それで、その。さっきの光。アンタ、何したんだよ?」


 息も絶え絶えの少年が問うてくる。疑問の内容については言わずもがなだ。答えてやってもいいのだが、どうやらそのための時間はなさそうだ。


「その前にまず、いますぐ走って、この場から離れた方がいいよ」


 少年が怪訝な顔をする。その背を強引に押そうとしたところで、耳障りな金切り音が一帯の大気を激しく震わせた。せっかくの親切心は無駄に終わったらしい。


「な、なんだよ!? 今の、哭き声? なにが――」


 見るな、と忠告するのが少し遅れた。

 少年は音の出処を探り、振り向いてしまう。


「ぇ、あ……? ぁ、あ、ぅあ……、お……」


 少年の目が、パーティ料理を盛り付ける大皿のように、極端に見開かれる。

 口が虚ろにぽかんと開き、譫言めいた言葉が、止め処なく漏れ始める。

 これまでに何度も。そう、何度も目の当たりにしてきた、被害者の姿。


(――クソッ!! “喰い付かれた”ッ!!)


 まだ、間に合う。私なら、間に合わせられる。

 判断は瞬時。行動に移す。敵を討つための力を構えるのだ。

 ホルスター・ケースから新しい紙片を抜き出して、宙に投じる。風に翻り舞うその表面、力強い筆跡で書かれた【矢印】の記号が、鮮烈な光を放った。


「――“標的を射抜く矢(Arrow)”ッ!!」


 鋭く発した指令に従うように、文字情報としての【矢印】は一瞬でその在り方を、光り輝く一本の矢へと変貌させる。そして、飛ぶ。主たる者が視線で指し示した標的を目掛けて一直線に、闇夜を引き裂く一条の光線と化して。


 狙い過たず、着弾する。


「――BWUGYAOOOOOOOOOOOOOッ!!?!」


 快音一奏。破裂音に続いて、耳障りな悲鳴が轟く。


 私は、貫木鏃は、見る。少年とは違い、直視することができる。“感染”経験のある自分には、すでに奴らに対する免疫が備わっているからだ。

 だから、喰われない。もう、奪われない。

 故に闇の彼方、空間から滲み出すように現れたその形容しがたい異形を、恐れることなく真正面から見据える。怒りと、決心と、敵意を込めて。


 戦い、討ち滅ぼすべき。忌むべき全人類共通の敵を。


「クソッタレの文字化怪(モジバケ)が、一丁前に痛がってんの?」


 吐き捨てた言葉には、自分でも思っていた以上の憎悪が籠っていた。


「……ぁ、あ? ……俺、どうしたんだ? なにがあった――」


 と、傍らの少年が復帰した。無事に正気を取り戻したのだろう。不規則に揺らいでいた目の焦点が合い、意味のある言葉がその口から零れた。

 戸惑ったように視線を彷徨わせた彼は、そうして今度こそまともな精神状態で怪物の存在を知り、意識に捉えた。そして悲鳴混じりの声を上げる。


「――う、うわあッ!! ば、化け物ッ!!?!」

「そう。文字化怪(モジバケ)と私たちは呼んでる」


 今夜の文字化怪(モジバケ)の姿は、一見するとサルのように見えた。

 前傾姿勢の大雑把な人型。手足が二本ずつあり、その先端が五指に分かれている。尻からは針金モールめいた尾が一本ゆらゆらと伸びていた。

 大きな違いは腹が妙に膨らんでいること。首から上、つまり顔にあたる部位がないこと。そしてクラゲの触手のように蠢く、あまりにも長すぎる五本の指。

 なにより、その身長は五メートル近かった。こんなサルが居て堪るか。


「想定よりデカイな。――運転手っ!! 標的を視認したっ!!」


 大声で呼びかけると、遠くから返事が送られてきた。


「なら、ちゃっちゃと倒しちゃってくださいよっ!!」

「そうするつもりだけど、取り残された奴が一人いるの!! 誰でもいいから、もう一人くらい増援呼べないか、確認してっ!!」

「急に言われても、ンな……!! ――ああ、クソっ!!」


 三分耐えろ。運転手の叫びに、口元を歪めて頷く。上等だ。


「しばらく遊んでやるよ、エテ公もどき……!!」


 その挑発が効いたのか。耳もない癖に聴いたのか。

 サルのような文字化怪(モジバケ)は、どこから発したのかも不明な哭き声を響かせて、こちらへと猛然と突進してくる。

 五メートル超過の巨体が迫ってくる様は、中々にスリリングな光景だ。


「うわ、うわあッ!! 死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ、避けて避けて避けて避けてッ!!」


 背後、小便でも漏らしそうな声で喚く少年を無視して、ホルスター・ケースから新たな紙片を抜き取る。この程度の状況、一枚で十分だった。

 さきほど矢を生み出したものと同じく、そこにも一直線の【矢印】が一本描かれている。それを投じた。敵に向けてではなく、地面に。

 ひらひらと舞い落ちた【矢印】が、敵の方向へと先端を定める。


「――“一方通行(Stop)”」


 端的な宣言に呼応し、地面の【矢印】が光を放つ。

 文字化怪(モジバケ)はすぐ傍まで接近してきていた。奴はその奇怪な両腕を振るい、まるで鞭のようにしなる指を、思い切り叩きつけようとして。


「――GUWUGAッ!!?!」


 全ての動きを、停止させた。まるで見えない壁に阻まれたかのように。

 奴の足元、光を放つ【矢印】が効力を発揮しているのだ。すなわち、一方通行。あちらからこちらへの、あらゆる通り抜けを禁ずる、という効果を。

 文字化怪(モジバケ)は戸惑い、すぐに怒り狂った様子で強引な突破を試みるが、果たせない。その足は一歩も進まず、指は一ミリたりとも伸びてこない。


「無駄、無駄。“記号打ち(タイピング)”された規則は絶対だよ。丸戸あたりなら普通にバリアでも張るんだろうけど、私はこういう拡大解釈で色々やる方が好きでさ」


 だから私は【矢印】が好きだ。世界各国、あらゆる場所にありふれているし、その記号が示す意味は非常に簡潔かつ率直。そして応用がいくらでも効く。


「な、なんだよ。なんなんだよ、これ……ッ!? 夢だろ……ッ!!」

「残念ながら、夢じゃないよ。世界の裏側で起きている、これもまた日常風景」


 怯える少年へ向けて、端的に告げる。私たちの在り方を。


「つまり、こういう化物が存在するってこと。人間の視覚から脳味噌に入り込んで、文字を食い荒らして化けさせる、黴菌みたいなクソッタレどもがね」


 この世界という基盤(システム)に生じた、致命的な齟齬(バグ)

 あるいは視界を媒介に“感染(くいつき)”、人の意識内で増殖する病原体(ウィルス)

 巷に溢れかえる文字情報と、それを認識し用いることで発達した人類文明を根底から破壊しかねない、史上最悪にして危険無比なる怪物たち。


文字化怪(モジバケ)は文字を喰う。正確には人間が認識する文字情報を破壊する。単語や熟語、慣用句、人名や概念に至るまでこの世界で“名前”を持たないものは存在しない。少なくとも、人間が認識し、世に広めたものはすべて“名前”を持っている」


 その名前が、文字が、喰われる。認識を消去されるのだ。


 例えば「海」という単語を喰われた人間は、生涯「海」を認識できなくなる。

 「海」にまつわるすべての認識を失う。触れても感じず、聴いても聞こえず、視ても見えない。もう一度、記憶しなおすことすらできない。

 永遠に、その生涯から「海」という存在を、完全に失うのだ。


「泣いたり、笑ったりできなくなる人もいる。その動作に必要な文字を喰われればね。大好きな友達や愛する家族が分からなくなった人もいる」


 目の前にいるのに。話しかけているのに。手を握っているのに。

 誰だかわからない。言葉が通じない。体温を感じることもない。


「最終的に自分の名前すら喰われたら、その人はこの世から消滅する。文字通り、跡形もなく。その人が居たという記録すら消えてなくなる」


 また逆にある単語が、それを知るすべての人間の認識から失われた場合、その単語が示す物体や概念そのものが消失することになる。


 こんな記録がある。文字化怪(モジバケ)によって消滅した単語数、およそ五千万以上。人名数、およそ二十七万以上。言語数、およそ八十七。文明数、おそらく二。

 他にも技術や、物語や、場所や、思想。文字で表記され得るすべてが。

 これらは世界各国の情報記録をかき集め、その不自然な虫食い穴をひとつひとつ検証し、その輪郭をなぞるようにして算出した予想でしかない。


 故に、本来はきっと、もっと多い。


「分かる? ――倒さなきゃ駄目でしょう。護らなきゃ駄目でしょう。誰かが、どうにかして、抗わなきゃいけないって、そう思わない?」


 だから、人々は対抗策を講じた。文字化怪(モジバケ)に喰われ難い情報伝達の方法を。それは文字に頼らぬ口伝であったり、あるいは“文字ではない文字”であったり。

 それは例えば、古代の壁画。エジプトのヒエログリフ。メソポタミアの楔型文字。ケルトのルーンや、インドの梵字。試行錯誤が、多様な文字を生んだ。

 失われてはならないものを、どうにかして後世に伝えようとした。

 そして。やがて彼らは行き着く。我々は発明した。それ自体が強い意味を持ち、かつイメージとして直感的で、なにより世に広まりやすい認識手段。

 それこそ、象形文字から進化したとされる――


「――“記号”。漢字では弱すぎた。古代文字では旧すぎた。ルーン使いはまだ生き残ってるみたいだけどね。けれど文字化怪(モジバケ)に対抗し得る、最大の武器として選ばれたのは、いまや世界中に溢れかえる“記号”だった」


 その力を振るう者たちは、歴史上さまざまな名前で呼び表されてきた。

 象形術士。モジバケ狩り。記号使い。そして、最新流行の呼び名として、


「“描画効撃士(サイン・エフェクター)”。私たちは、そう自らを名乗り、人知れず湧き出す文字化怪(モジバケ)どもを狩っている。……つまるところ、人類の味方ってワケ!!」


 すべての説明を終えたのと、設置した“一方通行”の効果が切れるのと、文字化怪(モジバケ)の戒めが解かれるのと。そして三分経過が、同時だった。


「――GUWUGAGAAAAAAAAAAAAAAAAAAAッ!!」


 身体の自由を取り戻した文字化怪(モジバケ)が、喜び勇んで突進を再開する。

 不愉快にして矮小な人間、どういうわけかこちらの支配化に落ちない不可解な敵を、物理的に排除してやろうという肚積もりなのだろう。


 右手の触手が殺到する。

 少年が悲鳴を上げる。

 私は紙片を構える。


「――おっまたせ~~ッ!!」


 そして、場違いに明るい声が。どこからともなく飛来した、高速回転するハンドスピナーが。それぞれ場の空気と、文字化怪(モジバケ)の触手を、纏めてぶった切った。



 -§-



「GUUOOGAWAAAAAAAAAAAAAAAッ!!?!」


 痛みか、驚愕か。もんどりうって倒れ込み悶絶する文字化怪(モジバケ)には構わず、ハンドスピナーが飛来した方向に視線を向ける。人影が二つ分、並んで立っていた。


「断霧、渦花? なんだ、二人も寄越してくれたの。……ああ、丸戸かな?」

「おい、貫木ィッ!! なにをンな雑魚一匹に梃子摺ってんだッ!!」


 応えたのは金髪ショートにスカジャン姿の、見るからにヤンキー風の格好をした少女だった。彼女は怒り心頭といった様子で、大股にこちらへと近付いてくる。左耳に付けたシルバーのピアスが夜目にも眩く映った。


「こっちはな、課題やってたんだぞ!! 明日、数学の小テストがあるってのに、ンな時間に呼び出しやがって!! 赤点取ったらどうしてくれんだ!!」

「まあ、まあ。落ち着いてよ、ハっちゃん。あとで一緒に分からないところ教えてあげるからさあ。ヤっちゃんも、別に面白半分で呼び出したわけじゃないんだし」


 対照的な雰囲気のもう一人が、怒り狂う金髪少女を抑える。

 柔らかな栗色の髪をポニーテールに纏め、パステルカラーのふわりとしたワンピースを着込み、人畜無害を絵に書いたような柔和な笑顔を浮かべて。

 そんな彼女が、こちらの背後でへたり込んだ少年に気付き、目を丸くした。


「あれっ! 巻き込まれちゃった子? ああ、だからかあ」

「ハッ! 足手纏いの一人や二人抱えたくらいで救援呼ぶなよ」

「そりゃあ戦えないことはないけど、万が一こいつが流れ弾で死んじゃったりしたら、寝覚めが悪くなるでしょ。あとでご飯かなにか奢るからさ」


 そんなことを言い合う私たちを、件の少年は自分一人だけ無人島に取り残されたような、なんとも心細げな表情で見つめている。

 まあ、無理もない。彼からしてみれば我々は常識の範囲外の住人だ。

 だからせめて、早々に家に帰してやるのが、せめてもの温情だろう。


「とりあえず、さっさと片付けようよ」

「それについては異存ネェ。仕方ねぇな」

「うんうん、張り切っていこう! 頑張ろうね!」


 救援に駆け付けた二人の同僚は提案に応じてくれた。


「……って、オイ!! あいつ、起き上がってんぞ!!」

「ああ、話し合ってる間に回復しちゃったっぽいねえ」

「他人事みてぇに言ってねぇで警戒しろ馬鹿!!」 


 言い合うこちらを、文字化怪(モジバケ)が睨んでいる。顔も目もないのに全身から立ち昇る殺気がそう示していた。さっさとトドメを刺しておくべきだった。少し後悔するも、もはや先には立たず。こうなったからには戦うまでだ。


 断霧(たちぎり)(はさみ)。金髪の少女が、ポケットからヨーヨーを取り出す。

 渦花(うずはな)(せん)。栗毛の少女が、袖口からハンドスピナーを取り出す。


 そして私、貫木鏃もまた、自分自身の武器を構える。

 ホルスター・ケースから【矢印】の描かれた紙片を数枚抜き出して左手に手札の如く持ち、右手には黒インキのマジックペンを握り締め。


「「「校正、開始……ッ!!」」」


 臨戦態勢の整った三人の“描画効撃士(サイン・エフェクター)”が、地を蹴って飛ぶ。



 -§-



「最初はぁ……、あたしっ!!」


 先手を取ったのは渦花だった。彼女はハンドスピナーを手首のスナップを活かして回転させると、文字化怪(モジバケ)めがけて手裏剣の如く投擲する。

 空気を裂いて飛ぶハンドスピナーの表面に、光の軌跡で描かれた記号が浮かび上がる。現われたのは【渦巻】。渦花が静かに宣言する。


「――“高速回転(Spin)”。それとついでに“回転鋸(Buzzsaw)”も付与、っと」


 主からの力ある詞を受けて、ハンドスピナーの回転速度が急激に上がる。同時、その外縁部には燐光が纏い、あたかも光り輝く刃の如き様相を呈する。

 否、このハンドスピナーはもはや実際に、強力な切断力を有する武器と化しているのだ。その証明は直後に為される。光輪(チャクラム)と化したハンドスピナーは、文字化怪(モジバケ)の左手を薙ぎ払い、残る触手をいとも容易く切断した。


「AGWYAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAッ!!?!」

「だめ、だぁめ。痛がっても、赦してあげないよ。絶対に、……ね!!」


 悲痛さすら感じるほどの叫びを迸らせる文字化怪(モジバケ)に、しかし渦花は一切の容赦を見せない。彼女もまたその柔らかな物腰の裏側、誰にも見せることのない肚の底には、人類を蝕む怪物に対する底知れない怒りと敵意が渦巻いているのだ。


 しかし【渦巻】の切断力は致命傷を与えたわけではなく。

 文字化怪(モジバケ)は触手を失った両手の五指を、それでも大きく広げると、思い切り地面目掛けて叩きつけてくる(ハンドスラップ)。狙いは当然ながら渦花だ。


「GWOU、……GUWOGAAAAAAAAAAAAッ!!」

「わわっ!! た、助けてハっちゃああああああん!!」


 五メートル級の怪物による叩き潰しを喰らえば、どんな人間でも一撃で煎餅のように轢き潰されるだろう。渦花は慌てた表情で情けない声を上げる。

 それに応じるように彼方から鋭い風切り音を奏でて飛来したのは、


「――“切り取り線(Cut)”」


 夜目にも眩い、ラメ入りの金色ヨーヨー。その烈しく回転する本体が、文字化怪(モジバケ)の手の平を素早く横断し、一筋の【点線】を刻み付ける。

 直後。その“切り取り線”を起点として、文字化怪(モジバケ)の手の平が大きく裂けた。まるで最初からそうだったかの如くに滑らかな断面を晒して。


「AGYWAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAッ!?」


 再び上がる悲鳴。渦花を潰すはずであった手の平は大きく面積を減じ、彼女の立つほんの数センチ前方を強かに打ち据えただけだった。

 一方、目の前を凄まじい速度で通過していった大質量に、渦花は引き攣った笑みを浮かべる。その後頭部に強烈なビンタが叩き込まれた。「ふぎゃいっ!」と奇妙な声を上げて頭を抑える渦花に、怒り顔の断霧が猛然と叱責をぶつける。


「馬鹿垂れ!! 油断すんなっていつもいつも言ってんだろ!!」

「うう、いたぁい。ごめんねえ、ハっちゃあん……」


 べそをかく渦花の肩を押し退け、代わって断霧が前に出る。

 ただでさえ凶悪な面構えの彼女は、いまや憤怒に近い形相を満面に貼り付けていた。弧を描いて吊り上がった口端が、肉食獣めいた表情を作り出している。


「おい、こら。テメェ。よくも扇をその汚ねぇ手で触ろうとしやがったなぁ!!」


 怒りの理由がややズレているようだった。

 が、そんなことは彼女が行う攻勢の苛烈さにはなんら関係がない。断霧はもうひとつ同じ色のヨーヨーを取り出すと、両手で同時に打ち出した。

 一対のヨーヨーが縦横無尽に空を駆け、やたらめっぽう文字化怪(モジバケ)の身体に【点線】を刻み付けていく。まるで継ぎ接ぎの怪物を作るが如く。


「――“谷折り線(Knock)”、“ここから割れます(Break)”、“切り離し可能(Slash)”!!」


 次々と宣言される乱雑な“意味付け”。その効果は即座に発動した。


「AGA、GYAGA、GUWAGAGAGAGAGAAGAッ!!?!?!」


 文字化怪(モジバケ)の身体が、折れる。割れる。切り離される。

 硬度も厚みも無視した、理不尽なまでの強制力。断霧が扱う【点線】は、あまりにも直接的かつ暴力的な能力を、存分に行使されていた。

 無慈悲、苛烈、惨酷。これほどまでに情け無用の攻め方を是とする彼女も、当然のことながら文字化怪(モジバケ)という怪物を憎んでいる。怨んでいる。嫌悪している。

 本気で絶滅させてやろうと、心の底から考えているのだ。


「――“標的を射抜く矢(Aroow)”」


 そこに駄目押しが加わる。幾条もの光の矢が、もはや立つ力も失って崩れ落ちた文字化怪(モジバケ)のどてっぱらに殺到し、連続して炸裂した。


「貫木ィ!! テメ、コラァ!! 俺の獲物を横取りすんじゃねえ!!」

「誰のってことはないでしょ。よりによって全人類共通の敵を相手に……」

「違うね、俺の敵だ!! 他の連中が狩るのを赦してやってるだけで!!」

「ああ、はいはい。わかったわかった。ならそれでいいから」


 ったく、やる気あるんだか、ないんだか。そうぼやきつつ、貫木は文字化怪(モジバケ)へ向かい、ゆっくりと歩みを進めていく。


「GU、……GUWO、……GWUUUU」

「苦しそうじゃん。いまにも死にそうって感じ?」


 体積を大幅に減じた身を地に横たえ、呻き声を上げる文字化怪(モジバケ)に貫木は傲然と言い放つ。その歩みが至近距離に至ったところで、文字化怪(モジバケ)は反撃に出た。

 鼬の最後っ屁じみた決死の一撃、右腕による薙ぎ払い。

 大気を押し退け、唸りを上げて迫りくる大質量に、貫木は一言。


「――“ご移動ください(Move)”」


 突き付けるように差し出した、横向きの【矢印】が描かれた紙片。

 文字化怪(モジバケ)の振るった右腕は、その要求に対して従順となる。

 骨格も、関節も。駆動範囲すら、関係ないと言わんばかり、極めて強引に。


「……、gYAAAAAAAAAAAAAAAAAAッ!!?!?!?!」


 文字化怪(モジバケ)の右腕が肩口から千切れて【矢印】で示した方向に飛んだ。

 飛沫のような何かが空中にぶちまけられ、即座に大気に溶けて消える。

 響き渡る甲高い悲鳴を聞いて、断霧が口笛を吹いた。嬉しそうに。


「はっ、おっかねぇ。俺よりキレてやがる」


 そんな評価を聞き流しつつ、貫木は文字化怪(モジバケ)に歩み寄る。ゆっくりと。


「私たちは、アンタたちに多くのものを奪われてきた」


 貫木が、静かに語る。マジックペンのキャップを外しながら。


「例えば、断霧は両親を喰われた。あいつは自分を育ててくれた父と母の、顔も名前も記憶すらも思い出せない。写真さえ消えた。残ったのは人生のほとんどを毟り取られたに等しい伽藍洞と、その空虚から湧き出す無尽蔵の怒りと哀しみだけ」


 貫木が、眦に力を入れる。黒インキで下方向に向かう【矢印】を刻みながら。


「渦花は、故郷に纏わる名前をすべて喰われた。だからあの子は二度と家に帰れない。住んでいた街に帰れない。家族や友達にも会えないし、会ったとしてもそれを認識できない。他人とすら感じられない。顔も、声も、体温も、感じられない」


 貫木が、歯を食いしばる。全身が戦慄くほどの怒りを発しながら。


「他にも。好きだった曲。想い出の味。大切にしていた玩具。あるいは取るに足らないものまで。頭の中は虫食いだらけ。二度と手に取ることも、感じることもできないのに、名前すらわからないそれが“ない”という痛みだけが残っている」


 そして貫木は、宣言する。


「――“落ちろ(Fall down)”」


 規則がこの世界に“記号打ち(タイピング)”される。

 文字化怪(モジバケ)の全身が、まるで何かに圧されるように。あるいは引っ張られるように。下へ、下へと。無制限の落下に等しい力で、地面に押し付けられていく。

 もはや人の認識を喰い荒らす怪物は、呻き声すら上げられない。落下しなければならないのに、全身を地面に阻まれている。その矛盾が文字通りの板挟みとなる。


「最期に。私が奪われたものを、アンタに教えてあげる」


 貫木が、笑った。酷薄な、残酷な、冷徹な笑みを唇に刻み。


「この世界で一番愛していたはずの人と、それを喪った哀しみを発散する一番いい方法。辛いときや悲しいとき、人がその両目から流す雫の名前」


 漢字表記で、たった一文字。

 発音しても、ほんの三文字。


「あの二人に比べたら、なんとも些細なことでしょう?」


 それほど些細なものを、貫木鏃は永遠に奪われてしまった。

 それほど些細な喪失で、彼女はもう二度と泣くことができない。 


「けれど、それだけで、十分。――アンタたちを滅ぼす理由には事足りる」


 そこで、終わりだった。

 ついに限界を迎えた文字化怪(モジバケ)の全身が、拉げて潰れる。

 爆発音に等しい大音響が大気を揺らし、そして怪物はまるで霞か塵の如くに消失する。最初からそんなものは存在していなかったように。


「校正、完了」


 貫木の唇から決着を意味する言葉が零れ。今宵の狩りは、終結した。



 -§-



「――で? アンタはどうして、あんな所にいたわけ?」


 後日談。文字化怪(モジバケ)狩りの夜から、一夜明けて。

 清潔に整えられた一室で、小さな机を挟み込み。

 貫木鏃と、あの夜出会った少年が、対峙していた。


「……妹が、いなくなったんです」


 少年は、訥々と語る。


「学校が終わる時間になっても、家に帰ってこなくて。両親と一緒に街中捜したけど、見つからなくて。警察にも捜査してもらって、なのに行方すらも分からなくて、半月経って。みんな、もう、帰ってこないんじゃないかって……」


 ずず、と。鼻を啜る音が響いた。貫木は無言で続きを促した。


「だから、地元で有名な不良グループの溜まり場に、殴りこみました」

「そして、空ぶった挙句、連中の怒りを買ってボコボコにされていた、と」


 貫木が半目で言うと、少年は唇を噛んで押し黙る。室内に気まずい空気が漂い始めた。数秒経ってから、貫木が口を開く。あのさ、と前置きして。


「妹の名前は、憶えてるんだよね? ああ、言わないで。もし万が一、ここで聞いた名前が喰われでもしたら、その子の生存に差し支える可能性がある」


 告げられた言葉に、少年はびくりと身を震わせる。生存、とは。


「断言するけど、人間の仕業じゃないよ。誘拐とか、通り魔じゃない。ウチの組織はちょっとした伝手があってさ。そういう普通の犯罪とかには目端が利くんだ。昨晩のうちに確認してもらったけど、どの筋からも情報はいっさい上がらなかった」


 で、あれば。今回の失踪事件には、あの怪物が関わっている可能性が非常に高い。貫木はそう告げてから、沈痛な面持ちの少年へさらに言う。


「ひとつ確実なことは、アンタの妹ちゃんはまだ喰われていない。名前を憶えているのがその証拠。少なくとも実体化した文字化怪(モジバケ)に直接襲われたわけじゃない」


 故に、考えられる可能性としては。


「と、すれば。文字化怪(モジバケ)を、どこかで視てしまったか」

「……昨晩の俺みたいに、脳というか認識に、潜り込まれたってことですか?」

「話が早いねお兄ちゃん。そう。文字化怪(モジバケ)は視覚を通じて“感染する”。私たちは耐性があるからいいけど、一般人はああやって茫然自失の状態になるんだよ。で、そのままゆっくりと脳を喰い荒らされて、いずれ消滅する」


 少年の顔色が一気に蒼褪めた。それに貫木は「けど」と返す。


「だとしたら、まだ助けられる。妹ちゃんを見つければね」

「見つける、……見つけられるんですか!? どうやって!?」

「それはまだ分からない。けど、手段はある。“描画効撃士(サイン・エフェクター)”なら」


 その一言で、少年は何かを察したようだ。

 呑み込みが早い。度胸もある。行動を起こす気概もある。

 見込みがあるかもしれない。貫木は二本指を立て、薄く笑った。


「アンタにはふたつ、選択肢がある。ひとつはこのまま家に帰って、昨晩のこともここで聞いた話も全部忘れて、じっと妹ちゃんの帰りを待つ」


 指が一本、折られる。


「もうひとつ。アンタも私たちの仲間になる」

「……なれる、もんなんですか? どうやって?」

「“描画効撃士(サイン・エフェクター)”は全員、文字化怪(モジバケ)に襲われて生き残った者たちである」


 明かされた事実に、少年の目が見開かれる。


「耐性が付くって話はしたよね。実は副作用があるの。“感染”から数日後、最大でも三日以内に、特定の“記号”が浮かび上がって見えるようになる」


 貫木は机の下から、薄いシートを取り出した。ラミネート加工されたそれには、誌面をびっしり埋め尽くすほどの、大量の“記号”が書き込まれている。


「現在、世界各国で標準使用されてる記号の、これでも一部だけどね。この中でどれか、浮き上がるように見えるものはある?」


 少年は目を凝らし、見つめて。そして、頷いた。


「……あり、ます」

「おめでとう。君は資格を得た」


 貫木が手を叩く。おざなりな拍手。その口調は歓迎とは程遠く、


文字化怪(モジバケ)を滅ぼす力と、権利。放棄するも、受け取るも、君の自由だよ。けれどウチの組織は身内を大事にする。身内の身内も保護対象だ。だからあとは、君が受け入れるかどうか。どうしようもない怒りと憎しみの渦に、身を投じるか、否か」


 頷きかけた少年に、貫木はしかし言う。


「ただ。君が断ったとして、我々は君の妹の捜索と救助に全力を注ぐ。仕事だからね。だから君が戦う必要はあんまりない。そして、今のところ君には、動機がない。私たちのように決定的な喪失経験がない。命を賭けて戦う理由が、ない」


 やめておけ。貫木の声が、目が、態度が。そう語っていた。

 そのすべてを真っ向から見返して、少年は言う。意気を込めて。


「やります。やりますよ、……やらせて、ください!!」

「そこまでする理由は? 妹ちゃんを助けたいから?」

「当然でしょう。世界一大切な妹です。あいつに手を出したやつがいるなら、それがあんな化物だとするなら、……俺は絶対に赦せねぇ」


 怒りがあった。貫木たちが抱えるものに勝るとも劣らない、本物の怒りが。

 貫木は嘆息を零すと、机の下から新しい書類を出してきた。数十行に及ぶ文言が記されたそれが、四枚分。最後の一枚には署名欄があった。

 少年は必死になって文字を読み、分からないところは貫木に質問し、数十分かけてすべてを読み終えるとペンを取った。その眼差しには決意。


「ようこそ。文字と、人々の記憶と、世界の存続を護るための戦いへ」


 署名が為されると同時。貫木鏃は、まったく嬉しそうでなく、そう言った。


「とりあえず、……アンタの名前(コードネーム)を考えなきゃね」



 -§-



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[一言] 片っぽ潰れた不良悲惨だけど喰われるよりはマシか…
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