第一話 朝起きて -4
授業はつつがなく進行していった。
大学二年の冬から高校一年の夏に戻ったとはいえ、それで勉強がどうにかなるわけではない。工学部に進学したため理数科目は当時より理解できて楽だったものの、反対に受験と共にさよならした文系科目がさっぱりだった。漢文の読み方なんて覚えてるわけがないだろと。
そんなわけで苦楽を交互に繰り返し訪れた昼休み、俺は智志と二人で食事をとっていた。ちなみに、誠とのぞみとはクラスが違うために食事を共にする機会は少なく、女子三人とはたまにテーブルを囲んでいる。もっとも学食を利用する俺たちとは違い、女子は弁当を持参しているため、頻度はそう多くはないのだが。
「なあ拓未、一つ相談があるんだ」
目の前でカツカレーと格闘しながら、智志がそう切り出す。まあだいたい時期的にそう来るだろうと、心当たりがあったためそれを返す。
「なんだ。前も言ったかもしれないが、俺もそこまで勉強が得意ってわけじゃないぞ。物生と数学はある程度教えられるかもしれんが、文系は他の奴に聞いた方がいいぞ」
なんなら俺の得意科目ですら新月に勝てないんだよな、あいつ卒業まで成績十位以内維持していたし。まあ生徒会長になった鈴蘭台と言う女子が常に一位だったから最高順位は二位だったけど。少なくとも成績が貼り出される上位一割の四十人には一度も入らなかった俺よりは賢いのは事実だ。
「いや、テストのことじゃねーよ。だいたいテストなんて一夜漬けでヤマ張って何とかなるだろ」
ならないのである。こいつ一年の夏休みに俺たちが遊んでいる中一人だけ補習受ける羽目になったのもう忘れたのか? いや違うわ、まだ経験してなかったわ。つか来週の期末考査の話だったわ。
「お前……、それで補習送りになっても知らないぞ? んで、じゃあなんだよ」
「あー、いややっぱいいや。期末も近いし、変に動揺して赤点取るのも嫌だしな。テスト明けにまた相談するわ」
赤点ギリギリだった中間のことを思い出したのだろう、顔をしかめながら智志は食事を再開する。
一方俺は要領を得ない智志の発言に首を傾げる。智志といい風合瀬といい、なんでみんなそろいもそろってわけのわからないこと言うんだよ。
そんな疑問が浮かんできたが、その言葉は声にならずにラーメンと共に飲み込まれていった。
「東森、ちょっといい?」
智志と別れ購買の自販機で飲み物を買っていると、後ろから立花に声をかけられる。財布を手にしているところを見ると、彼女の目的も同様だろう。
「どうした立花、奢らないぞ」
こういうところで遭遇したら確実に集ろうとしてくる人物が数名思い浮かぶため、先に牽制をしておく。
「薫じゃあるまいし集らないわよ、全く」
お茶を購入し横に一歩ずれると、彼女は自販機に向き合いながら答える。お金を投入し、迷わず缶コーヒーのボタンを押す。
「ねえ、今日なんかみんな変じゃない?」
立花の問いに、俺は今朝から今までのことを思い浮かべる。真っ先に浮かんだのは、
「なんだ、俺のことか?」
どう考えても自分自身のことである。過去に戻る(推定)なんて明らかに変な出来事であろうと。
「何よその変化球な自虐は。あんたが変人でも、“みんな”なんて単語は使わないわよ。そうじゃなくてさ、まああんたを含めて、なんかみんな昨日までとちょっと違うなって」
「ふむ」
彼女が言うのならそうなのかもしれない。俺自身は未来から来たようなものなので、昨日までの過去の俺とは確かに行動に誤差があるだろう。ただ他の連中に関していえば、この五年の成長がなかったことになっている分、俺から見たらよくわからないんだよな。
「まあなんとなくそんな感じはしなくもないが、どうして俺にそんなこと聞くんだ?」
違和感を心に留めておく訳でなく、わざわざ聞いてきたんだ。何かあるのだろう。
「いや、単純に昨日何かあったのかなって。あんたに聞いたのは、たまたま一人で居るところに会ったからだけど」
「昨日か……。普通にみんなで星祭りに行っただけだしなぁ。なんかあったとしたら解散した後だろ。俺は風合瀬と二人で帰ったが特に何に無かったしな」
昨日は昼くらいに集まってみんなで遊んだあと、九時過ぎに解散した。俺が風合瀬を駅まで送り、智志が立花を、誠がのぞみを家まで送ったはず。たしかそうだったと思う。遥は白機神社から数分の位置に住んでるから一人で帰ったけど。
だから何かあったのなら、そのタイミングだろうと。
「ん?」
人差し指の第二関節を咥えながら当時の思い出を引っ張り出していると、立花は無言で何かを考えているようだった。
「立花、どうした?」
「…………え? ああ、いや何でもないよ?」
なんでもないというやつはだいたい何かあると思うのだが、聞いても答えは返ってこないだろうし、今は放置しておく。なんかあれはそのうち向こうから言ってくるだろう。
「そうか。お前こそ昨日はどうだったんだよ。智志となんか有ったか?」
「いや、何もない……はずだけど。少なくとも私には」
どこか言葉を濁しながら彼女は答える。何か心当たりがありますと暗に伝えているような言葉選びだ。
「智志にはなんかあったのか?」
「あったと言えば、あったのかな? でもまあこれは、あんたに言う事ではないかな」
言い辛そうに彼女は言葉を零していく。
「これはまあ、うんあれかな。あんたよりも遥辺りに相談するべきことね、うん。薫にはそうね、そのうち……うん、そのうち」
その言葉で昨日有ったことをなんとなく推測してしまった俺は、声聞いていい話だったのかなと言う想いと共に、先ほどの智志が何を相談したかったのは薄々理解したのだった。
月曜五限六限は芸術選択が割り当てられている。芸術と体育は俺たち一年C組と一年D組の二クラス合同で授業が行われる。俺は楽そうという理由で書道を選択していたが、同じクラスには同じ科目を受ける友人は居ない。
俺は智志たちと別れてひとり書道室に入る。美術選択の智志と遥は隣の教室に消えてゆく。なお、音楽室は離れた位置にあるので他の二人は今頃そちらに向かっているだろう。
「隣いい?」
席について用具の準備をしていると、聞きなれた声が聞こえてきた。書道室の座席は指定されていないのだが、だいたいみんな同じ位置に座るために半固定化されている。先の声の主も、こちらの返事を聞く前に椅子を引いている。
「それ毎回聞いてくるけど、意味あるのか?」
顔を上げてそちらへ視線を向けると、のぞみが腰を下ろすところであった。彼女は毎回俺の隣を陣取っている。
「特に意味はないわ。でも、大人になったら意味のないやりとりを繰り返すことになるのだから、これはその練習ね」
「お前なあ」
少しあきれながらも、どこかその言葉に納得してしまう自分がいる。大学だとだいたい「よう」か「お疲れ」で挨拶を済ませてたしな。
「いや確かに一理あるな」
「でしょ?」
俺の同意を得られたことがうれしいのか、ほんの少し弾むような声で彼女は喜ぶ。
「それで……」
彼女は何かを言おうとしたが、その言葉は予鈴に遮られる。
「と、早く準備しないと不味そうね」
そういってのぞみは空き瓶を持って席を立つ。入れかわるように担当の先生が入室し、室内のざわめきが収まってゆく。
「ふう」
授業を終え、背中を伸ばすとポキポキと小気味のいい音が聞こえてくる。手を抜きたいところではあるのだが、経験上集中して取り組んだ方がダラダラと二コマやるよりも楽なのがわかっているために、何だかんだでしっかり授業を受けているのだ。片付けがあるため、本来の授業よりも早く終了するこの時間は、あとはホームルームだけで下校と言うこともあり緩い空気が漂っていた。
「お疲れさま」
自身の道具を仕舞いながら、のぞみに便利な挨拶を投げる。
「便利だよな、この意味のない言葉」
くすっと、彼女は笑う。
「なに、意趣返しのつもり?」
一足先に片づけを終えて俺の様子を眺めているのぞみは、手元の書道セットを楽しそうにつついていた。
「ねえさっきはチャイムで話せなかったけどさ、拓未に一つ聞きたいことがあるんだ」
すっと笑みを消して、真面目な表情を浮かべのぞみはこちらを見る。真剣な空気感に押されて、俺はごくりと唾を飲み込む。
のぞみはいったん深呼吸をしてから、言葉を放つ。
「拓未はさ、いったい何を願ったの?」
俺はその問いの答えを持っていなかった。
本当に今日は、俺を含めてみんなの様子がおかしいような気がしている。