プロローグ
走り始めてどれくらい経ったろう。もう休みたい。だが、立ち止まってしまえば自分自身がもっと嫌いになる__________
夜の住宅街を一人、金町駆は歯を食いしばりながら駆け抜けていく。7月の夜は少し蒸し暑く、半袖にハーフパンツといった身軽な格好で走るにはぴったりである。駆も中学生になり、門限が伸びてからは、ほぼ毎日のように夕食前にランニングに出かける。初めは純粋に普段とは違う顔をした街__________真っ暗な夜を照らす街灯や、夕飯の準備をしているのか、各々の家から漂う食事の匂い__________そういった新鮮なものに囲まれ、まるで現実とは別の世界を漂っているような感覚が好きだった。だが、いつからか駆にとって、その行為は現実の悩みの種から逃げるための手段に変わっていった。
いつものコースを走り終え、家に戻るなりすぐに、その悩みの種と顔を合わせるはめになってしまった。
「あ、兄貴・・・おかえり」
声の主である柴又蓮が気まずそうに声を掛ける。目を合わせることなくああ、と返し、着替えるために駆は自室へ向かった。二人の名字が違うのは、駆と蓮は血の繋がった兄弟ではないからだ。蓮の家族はは6年前、交通事故で他界してしまっている。一人残された蓮を駆の家庭が引き取り、家族の一員として迎え入れたのだ。家に来たばかりで塞ぎこんでいた蓮のために、何かできることはないか。駆達一家が最初に実行したのは、蓮が楽しんで打ち込めることを探すことだった。そして、蓮は駆が掛け持ちで参加していた野球とサッカーのチーム両方に来ることになった。
蓮は元々運動が好きではなく、どちらかといえば家の中で読書をするようなタイプだった。しかし、彼の行き場のない、悲しみや新しい家庭での不安といった感情の行き先としてそれらは最適であった。試合や練習中は何もかもを忘れ、目の前の1プレイに神経を集中させる。結果が残せれば監督や仲間たちが褒め称えてくれる。体に巻き付いた鎖が解かれたかのような気分で競技に打ち込んだ蓮は、めきめきとその頭角を現し、気づけばレギュラー、そして将来のキャプテン候補としての地位を築いていった。
しかし、駆の中には言葉にし難い感情が積もっていった。駆は野球ではレギュラーであったものの、打率や守備の上手さで言えば平凡であった。さらにサッカーの方では補欠だった。元々は俺が誘ったのに、なんで蓮に負けているのか?今までの努力が足りなかったからか?でも蓮は昔はあまり運動してないって聞いたことがある。だったら何で__________?
ある日、駆は「サイノー」という言葉を知った。生まれ持ったもの。簡単に逆転できないもの。それが蓮にはあり、俺には無いんじゃないか?だとしたら俺と蓮は全く違う生き物なんじゃないか?だとしたら、あいつが、怖い。
__________怖い?同い年で、俺と全く同じ小学生なのに?蓮は俺の家族なのに?あいつの顔を見ると、活躍している姿を見ると、クラスの女子達が蓮のことをかっこいいと言っているのを聞くと、なぜかイライラする。
いつからか、駆は自分の中にある蓮に対する嫌な感情に気づいていた。むかつく。負けるのが嫌だ。だからといって、努力して勝つ自信もない。だったらどうすれば?
答えが出せないまま、蓮への得体の知れない恐怖心は日に日に大きくなり、いつからか蓮と会話することはほとんど無くなっていた。そんな状態では居心地が悪くなってきたため、駆は2つのチーム両方とも辞めてしまった。その後、中学では部活に入る気にもならなかった。友達はそれなりに居て、放課後に集まって、バカみたいな話をしたり、将来のこととかそれなりに真剣に考えて受験勉強をしてみたり、それなりに忙しい。それでも、心のどこかに穴が開いたような、むなしさがある。
「__________俺って、何がしたいんだろ。」
気が付けば高校入試も終わり、穏やかな春。同級生たちは羽を伸ばし浮かれているであろう3月の空に似合わない、憂鬱さを帯びた独り言がこぼれた。