トカゲと彼と彼女の話
遠距離恋愛なんて続かない。
以前友人に言われた言葉が、今これほどまでに私に絶望を与えるとは思わなかった。
ただのジンクスだと、思っていたかった。
そう、久々に行った彼の部屋に、裸の人物と抱き合っているその姿を見るまでは。
呆然と床に座り込んだ私に、彼も呆然と起き上がった。
「あ」
どちらの声だったのだろう。自分でもわからない。
相手の顔が、彼の腕の隙間から見えた。
大き目の瞳は濡れて。白い肌は上気して赤く色づいていた。
可愛い人だと思った。
情事の最中。侵入者は私。
連絡もなく彼の部屋を訪れるべきではなかった。
真夏の午前中。室内はクーラーがガンガンにきいていて、すごく寒かった。
その夜。
大手焼き鳥チェーンのその店は、各店舗それぞれ雰囲気が違うということで一時期話題になっていた。
あたしがよく行くところも、ちょっと変わったお店。
「ママ、聞いて。あたしもう立ち直れない」
若い女性一人でも抵抗なく入れる店内は、焼き鳥屋とは思えないお洒落な内装。
照明は少し暗めで落ち着いて食事が出来る。
「なによ、珍しいじゃない」
野太い声で答えたのは店長。通称ママ。
三十八の男だけれど、ママ。
いつも分厚い化粧と割烹着で迎えてくれる、お茶目で面白い人。
ちなみに得意料理はビーフシチュー。
「彼が浮気していたの! みちゃったの!」
「あんた、連絡もなく男の部屋に行ったんでしょう」
うう、そのとおりです。
焼き鳥専門のお店なのに、ビーフシチューを出してもらいながらビールを飲む。
うん、ちょっと変な組み合わせ。
「だって! 彼の誕生日だったのよ? 可愛い恋人としては何かしてあげたいの!」
・・・その結果が浮気現場の目撃だったわけだが。
いや、あたしは悪くない。悪くないはず!
「で? 相手はどんな女よ」
ママがカウンターに肘をつきながら聞いてきた。
「・・・男」
「はあ?」
ウーロン茶を飲みながら聞き返すママに、思わず大きな声で返した。
「相手は男よ!」
そう、男だったの。
彼の腕の中に、どう間違ったのか男が居た。それも裸で。
店内の視線が集まり、ママが慌てて頭を下げる。
「信じられる? 相手が女だったらどんな手を使ってでも彼の心を取り戻すことができるわ、でも、あたしは男に負けたのよ!」
ビーフシチューを食べながら叫ぶように言えば、ママが花柄のハンカチを取り出し、口のまわりを拭いてくれる。
ちょっと痛かったけれど、お酒が入ったあたしは気にしない。
「食べながら話さないの。お行儀悪いわよ」
ごめんなさい。
「だって、悔しいじゃない」
男に負けた。
彼の腕の中の男を可愛いとさえ思ってしまった。
「もう立ち直れないわ」
「あんたも災難ねぇ」
ビールジョッキを傾けて舐めるように飲む。
「で、彼はなんて言い訳したの?」
「しなかった」
ネギマを一本出してくれたママは、短い答えに手を止めた。
「言い訳、しなかったの」
目の前がゆらゆらと揺れるのは、涙を流したくなかったから。
泣いてたまるか。あんな浮気のせいで。
彼は、服も着ずに正座してあたしに頭を下げた。
ただ一言、
「彼を愛しているんだ。すまない!」
そう叫んだ。
あたしは彼から、ただの一度も愛しているなんて言葉を貰ったことはない。
ただなんとなく付き合い始めて、今年で三年目だった。
年齢的にも結婚を考えていた。彼もそうだと、思っていた。
それなのに・・・
「うううぅ」
「ほら、おごりよ。食べなさい」
目の前に置かれたプリン。焼き鳥屋なのにプリン。
でもあたしの好物だ。
「ママぁ」
ぐずりだしたあたしの肩をぽん、と軽く叩く。
大きな男の人の掌は、とても温かかった。
「はいはい、食べて飲んでうちの売り上げに貢献しなさい」
それって全然優しくない慰め方だわ。
けれど嫌味もいやらしさもない淡々とした態度が今は嬉しかった。
「うん。じゃあとりあえずビール」
「響ちゃん、ビール頂戴。大ジョッキで」
「はーい」
返事とともにカウンターの奥から顔をのぞかせたのは、大学生ぐらいの男の子だった。
レースがたっぷりついたピンクのエプロンを着けて、大ジョッキに入ったビールを爽やかな笑顔で差し出した。
「はい、お待たせしました」
ピンクかよ!
驚きすぎて涙も言葉も止まったわよ!
ああ、笑顔がまぶしい。
「彼は八橋響ちゃんよ。彼の作るデザートは好評なの」
へえ、そうなんだ。
「こんばんは、どうぞ」
彼はエプロンのことなど全く気にしないように笑顔を浮かべているが、あたし以外の客も彼の姿に驚いて手を止める。
「あ、どうも」
とりあえず、ビールを受け取って一口。うまい。
「響ちゃん、ちょっと近くのコンビニ行ってケーキ買ってきて。チョコと苺のケーキよ」
「はい、じゃあ行ってきます」
さっとエプロンを脱いで、ママから受け取った千円札二枚を持って消えた。
エプロンさえ身に着けていなければ、普通に格好良いわ。
「ママ、あんな子にこのエプロンは酷じゃない?」
ちょっと、いくらなんでも可哀想だわ。
「はあ?」
さも迷惑そうに眉を寄せたママは、次の瞬間信じられないことを言った。
「あれは彼の趣味よ。彼、可愛いものに目が無いの」
いや、ないよそれは。
「うちにはちゃんと制服があるのよ、でも彼が自前のエプロンを使っても良いかっていうから、許可したのよ」
そういえば、他のスタッフはみんなお洒落な黒い制服を着ている。
「ちなみに手作りよ」
いらないよ、そんな情報。
「ママ。男って、男を好きになる生き物なのかしら?」
「全員じゃないけど、本能には忠実なのが男よ」
断言しないでよ。
「ママはやっぱり、男の人がいいの?」
男なのにママだし。
「そうねぇ・・・でも、あくまでもこれ、仕事だしぃ」
・・・はい?
「ママは、女装が趣味だからそんな格好してるんじゃないの?」
「嫌ねぇ。もともと普通のサラリーマンよ。会社の方針で女装を始めたけど、これがまた結構楽しくてねぇ」
・・・楽しいの?
「今じゃあ、並の女より女らしい自信があるわ」
うん。そこは否定できない。
「でも、今も女のほうが好きよ」
「そうなの? 男の人は興味ないの? そっち趣味の人から口説かれたりはしないの?」
疑いの眼で見れば、ママはフッと鼻で笑う。
平らな胸を張って。
「そういう趣味の連中は、ニオイでわかるものよ。残念ながら口説かれたりはしないわ」
そういうものか・・・
じゃあ、あたしの付き合っていた男は、特殊なニオイなるものを発していたのかしら?
・・・うん、考えると気持ち悪い。
「ねえママ、どうして彼は男と浮気したのかしら」
プリンを食べ終えてママに空のお皿を返す。
ママは真っ赤なマニュキアを塗った爪を私に見せながら仕舞う。
「あんたより、愛していたからでしょ」
確かに、そうだと思う。
好きだと言われたことはあった。でも、愛しているという言葉は一度もくれなかった。
それでも、そんな彼に満足していた。
外国人でもないのに、愛しているなんて恥ずかしくて言うのも聞くのももどかしい。
彼もそうなのだと、勝手に思い込んでいた。
思いたかった。
だけど、違った。
「素敵な相手だったんじゃない?」
綺麗な人だった。
あたしよりも白い肌。細い肩。
あたしの癖毛とは違いサラサラの髪。
「うん。素直に負けたと思ったわ」
でもね、すごく悔しいの。
すごく、悲しかったの。
「あんた、それで相手にはなんて言ってきたのよ」
そっと首を横にふった。
「何も言えなかったわ。だって、男同士で愛し合っている最中に乱入したのはあたしよ。しかも彼は土下座しちゃうし」
あんな情けない姿を見たのは初めてだった。
思えば、彼はいつもスマートに、そして完璧に行動する人だった。
それはつまり、あたしには弱いところを見せてくれていなかったということではないだろうか。
「で、尻尾巻いて帰ってきたの」
「うん。気付いたら新幹線に乗ってた」
黙って部屋を出て行くとき、彼に鍵を返した自分を褒めてやりたい。
無意識だった。
後ろで彼が何かを言っていたが聞こえなかった。
「戻りました」
コンビニから戻った八橋さん。わずかに汗をかいている。
「あら、お帰りなさい。あぁら、そんなに買ってきたの? あ、やだ、レアチーズケーキ!」
嬉しそうなママの声は、明らかにさっきよりも高い。
本当に男に興味がないのだろうかと思ってしまうほど態度が違う。
「店長好きですよね?」
「さすがよ響ちゃん! お皿に盛ってくれる?」
「はい」
コンビニから戻った八橋さんが、白い袋を持ったまま私に近づいた。
ピンクのエプロンをその場で身に着けて、目が合うとにこりと笑う。
男の人も、こういう笑顔には弱いのだろうか。
「すぐにお持ちしますね」
「え?」
そう言ってカウンターの奥に消えた。
しばらくすると、チョコレートケーキをお皿に盛って現れた。
「どうぞ。苺のチョコレートケーキがなかったので、こちらですみません」
チョコレートケーキの横に苺のスライスが置かれ、ブルーベリーソースで彩られた器。
「サービスよ」
「さっきのプリンは?」
サービスならもう貰ったのに・・・
「あんた、今日誕生日でしょ」
驚いた。何故知っているのかしら?
「前に、彼氏と同じ日だって言っていたじゃない。今日でしょ?」
「うん」
嬉しい。
「おめでとうございます」
ピンクを着ているけれど、見た目の良い男の子におめでとうと言われるのは気分も良い。
「ありがとう」
彼はやはり爽やかに笑ってカウンターの奥に消えた。
「どうしてピンクなのかしら」
「昨日は水玉だったわよ。その前は赤いハートがついていたわ」
顔はいいのに!
「想像しちゃった・・・」
うう、見たくないよそれは!
真顔で言えば、ママも頷いた。
「安心しなさい。あれはノーマルよ」
いや、そういう問題でもないけど。
「ただちょっと、可愛いものが好きなだけよ」
「男なんて、もう信じないわ」
特に顔の良い男なんて!
「あんた、よほど今回の件がこたえたのねぇ」
「当たり前でしょ? 何が楽しくて彼氏の浮気現場を目撃しなくちゃいけないのよ! しかも彼とあたしの誕生日当日の朝に!」
何故かママが溜息をついた。
「そのソース、響ちゃんの手作りよ。味わって食べなさい」
「うん」
一口食べる。甘すぎなくておいしい。
「あら響ちゃん、もうそんな時間?」
気付けば夜も十二時近くになっていた。店に入ったのは九時過ぎだからずいぶん長く居たことになる。
ピンクの彼はで店の片づけを始めていた。
客はもう、あたし一人だけ。
「はい、厨房はすでに片付け終わりました。二番テーブル片付けてきます」
「頼んだわよ」
「はい」
他のスタッフと協力して後片付けをしていく姿を見ていると、何故か全員笑顔で作業している。
あんなにも嬉しそうに働く人たちって珍しい。
「仲がいいのね」
ケーキを食べ終えて会計を済ませるためにお財布を出す。
一万円札をママに手渡して、五分ほどしておつりを受け取る。
「うちのアルバイトはみんな、これでもプロ意識持って働いているのよ。どう、いい感じでしょ?」
頑張れば頑張った分だけ認められる仕事は、なかなかない。
正社員と非正社員では、同じ頑張りでも扱いが違うし、それは仕方のないことだって思っていた。
正直、うらやましいと思った。
だってとても楽しげだから。
「うん、みんな素敵だね」
ちゃんと働いてますって顔が、なんだかまぶしい。
カバンを持って立ち上がった。
「長居してごめんなさい」
「いいのよ」
真っ赤な口紅のついた唇の端を吊り上げて二コリと笑った。
「あ、ちょっと待ちなさい。・・・響ちゃん、あなたもうあがっていいわよ。この可哀想な駄目子を送ってあげなさい」
ママはあたしを引き止めて、作業中の八橋さんに声をかけた。彼は手を止めてこちらに近づいてくる。
ちょっと、可哀想な駄目子ってあたしのこと?
「ママ、あたしには人間らしい名前があるわ」
「はいはい」
興味なさそうに片手をひらひらと降った。
「店長、いいんですか? まだ片付けが・・・」
八橋さんは言いよどんで私を見た。
「ほら、さっさと用意しなさい」
「はい」
小さく頷いて、他のスタッフに何か言って、走ってどこかへ行った。
すぐに戻ってきた彼は、小さな紙の袋を提げていた。わずかに見えるピンクの布はエプロンだろうか。
「じゃあ店長、お先に失礼します」
「この子を頼んだわよ。うちのお得意様なんだから」
「はい」
あたし、お得意様だったのか!
彼があたしに目配せした。本当に送ってくれるのだろうか・・・
「えっとママ。ご馳走様でした」
「お粗末さまでした。気をつけて帰りなさい」
はぁい、と返事をして店を出た。
やっぱりママは、ママと呼ぶにふさわしい人だと思った。
道すがら八橋さんは何も喋らず、あたしの斜め前を歩いている。
夏の夜空にキラキラと輝く星。涼しい風。
無言が心地よかった。
「市川さん、道はこっちで大丈夫ですか?」
ふいに問われたのは、坂道ある分岐点。
「なんで名前知ってるの?」
名前も、帰り道だって知っているはずはないのに・・・
「・・・あの、俺はあそこで二年くらい働いているので」
知らなかった!
「うそ!」
「・・・ああ、はい、ええ・・・はい。そうですよね」
どこか遠くを見るような目で空を見上げた彼は、フッと笑った。
なんだか投げやりな態度だ。
「でも、あなたみたいな人ならもっと目に付くはずなのに・・・どうして気付かなかったのかしら」
「最近ですよ。エプロンを自分で用意し始めたのは」
そうなんだ。
「どうしてあんなに可愛らしいエプロンを使っているの?」
「・・・好きだから?」
そういう問題なのか・・・
「今は大学生?」
「はい、絵の勉強がしたくて、大学に通いながら留学資金を貯めているんです。エプロンは趣味ですよ」
絵と可愛いもののつながりがよくわかりませんが・・・
「俺には家族が居ますが、実をいうと母親が放浪癖のある人で・・・昔からいきなり姿をくらます人でした」
なんですか、いきなり。
「その母が、突然帰ってくるたびに、外国のポストカードをくれるんです。それが凄く素敵で、気付いたら美大に通っていました」
へえ、そうなんだ。
ふむふむ。頷きながら歩く。
それにしても放浪癖って・・・
「そういえば、もう何年も会ってないな。この前イギリスからメールが届いたけど、その前はスペインだったし・・・今はどこにいるんだろう」
・・・えええぇ?
そんなもん? ねえ、家族ってそんなもん?
それとも男の人ってそういう感じなの?
「心配じゃないの?」
「はい、全く」
ああ、なんて爽やかな笑顔で。
「だからってわけじゃないんですけど、俺も外国に行って、もっとたくさんの絵を見てみたいんです。本物の、芸術を」
夢を追い求める男って、どうしてこう格好良く見えるのかしら。
今朝失恋したばかりなのに、あたしは今、目の前の彼を見てドキドキしてる。
・・・なんか軽いな、あたし。
「市川さん、パスポート持ってますか?」
「うん、一応あるよ。きみは持ってるの?」
外国に行きたいというぐらいだから、持っていて当然かな。
「いえ、実はまだなんです。父親が、お前たちは頼むから日本にいてくれって」
・・・お父さん、なんだか切実ですね。
「それで今度、パスポートの申請に行きたいんですけど、付き合ってもらえませんか?」
「あたしが?」
なんでいきなり?
「はい、駄目ですか?」
いや、駄目ですかって・・・
「デートしてください」
あ、デートなんだ。
今朝失恋して、その夜デートを申し込まれるって、どんな一日よ。
「お、男と浮気しない?」
「俺は女性のほうが好きです」
即答されても、朝見た光景はしばらく、ううん、きっと一生忘れられない。
男同士の情事なんて・・・
それでも、電灯に照らされた彼の顔は真剣だった。
なんだこれは。あれか、あたしは都合の良い夢でも見ているのだろうか。
「ということで、デートして下さい」
どういうことか全く理解できないのはあたしだけ?
「あの、ちょっと待って・・・」
うん、ちょっと待とう。落ちつかなきゃ、あたし。
「答えはイエスかノーの二択です」
どちらですか。
急かすような口調に、思わず頷いた。
とたん、嬉しそうな彼の笑顔。
裏表のない、本当に嬉しそうな無防備なそれを見たのは失敗だった。
「なんであたしなの」
こんな顔見せられたら今更断れないじゃない!
ああくそ、可愛いぞこの男!
「俺、あの店で二年間働いています」
うん、さっき聞いたわ。
「いつも見てました。楽しそうに店長と話すところ」
知らなかった。
最近まであの派手なエプロンを着ていなかったのなら、気付かなくても当然かもしれない。
あたしはいつもカウンターに座って、ママとお話しながら食べていたから、他のスタッフの顔なんていちいち見ていなかった。
「名前も、家の方向も、教えてくれたのはあなたでした」
え? そうなの?
全然覚えてない!
「酔っていたみたいですけど・・・」
次から自重しなくちゃ・・・
「これからは、俺のことを知ってくれませんか?」
照れたように笑う顔で言うものだから、こっちまで照れてしまう。
「う、うん」
年下相手に何を照れているのだろう。
こんなに素直に気持ちを言う男なんて、今まで近くに居なかったからどう扱っていいかわからない。
「改めて、俺は八橋響です。よろしくお願いします」
差し出された右手を見て、なんだか感動した。
日本の若者も捨てたもんじゃないわ。なんて礼儀正しいのかしら。
「いい子だなぁ」
思わず両手で握り返しちゃったよ。
「はい、俺はいい子ですよ。ついでに料理も洗濯も、ご存知のとおり裁縫も得意です。うちは母親が普段いませんから俺が昔からやっていたんです」
わずかに首を傾げて続けた。
「ね? 優良物件でしょう? どうです、俺にしませんか」
負けた。今日は男に負けっぱなしだ。
あたし、こういう子に弱いのかもしれない。
年下と付き合ったことなんてない。
どうしたらいいかなんてわからない。
「なによ、その口説き文句」
慌ててうつむいたけれど、顔が熱くてたまらない。
「俺は男と浮気なんてしないけれど、将来は外国に行きます。勉強がしたいから」
・・・正直者だわ。
「だからなに?」
「それでも、とりあえず一緒にいてもいいですか」
とりあえずってなんですか。
あれか、若いから直球勝負ですか。
いやらしさがない分とても恥ずかしいという自覚はないのか。
「ええと、もしかして照れてます?」
照れるよ!
黙っていたら、そんな質問が来た。
ああもう、恥ずかしい!
「じゃあ、俺が嫌ではなかったら頷いてください。嫌だったら、手を離してください」
嫌じゃないけど、今朝の今で、新しい男っていうのはちょっと・・・
何もできないまま固まっている私に、彼は苦笑を漏らした。
これは告白なのだろうか。いや、間違いなくそうだよね。
どうしよう、嬉しいけど、どうしたらいいかわからない。
「・・・手を離さないってことは、俺でいいってことですよね?」
恥ずかしいから聞かないでよ、あたしは今困惑してるの。あんたのせいで!
「今度、絵のモデルになってください」
「は?」
いきなりなに、さっきから。
「あ、やっとこっちをみてくれた」
ニッと笑った顔は、ヤバイくらいまぶしい。
「ああくそ、みちゃった」
「酷くないですか、それ」
眉を寄せた顔も悪くない。むしろ好みだ。
こんな優良物件、あたしは二年も放置していたのか。いや、彼氏いたけど。
ふいに、今朝のことがバカバカしいことのように思えた。
「なによ、あたしが悪いの?」
「いや、今のはあきらかに市川さんの態度が悪いですよ」
本当に素直ね、きみは。
「い、いいじゃない。だいたい、恥ずかしいこと言ってる自覚はないわけ?」
「ありますよ、でもあなたはかなり鈍感だから伝えたいことは言わないと。と思って」
うん、否定はできないけど!
「し、失礼よ」
「俺、市川さんに気付いてもらいたくて、あなたが来る度にビールとか運びました」
いつもは厨房で作業しているのに。
そう言った彼の顔は照れ笑いを浮かべていて。
「せっかく気付いてもらえたんだから、これからはもっと頑張ります」
もう十分です。結構です。やめてください。
恥ずかしくて憤死する。
「だからこれからは、手加減なく攻めますから」
ああ、負けだ。
こんな男に勝てるわけがない。
ちくしょう、なんて誕生日だ。
「ちょっとは遠慮して下さい」
「無理です」
爽やかな好青年の、ちょっぴりすごい発言が心臓に悪いけれど。
「とりあえず、手を離してもいいですか」
「あぁ、はい。駄目です」
どっちだよ。
「いや、離そうよ」
「逃げません?」
「あたしは野良猫か!」
「イメージ的にはトカゲ?」
トカゲ? あたしはトカゲのような顔だって言いたいの?
「可愛いですよ、トカゲ」
どこが?
「今度飼おうかと真剣に考えています」
全然褒め言葉じゃないわよ!
あたしは手を離して歩き出した。
「あ、ちょっと待って、送りますから」
「トカゲじゃないもん!」
ふん、とそっぽをむいて歩く。
「ええ、褒めてるのに、どうして怒るんですか?」
本気でわからないという顔で、あたしの後を追ってくる八橋さん。
「怒ってないわよ!」
「市川さん、待ってくださいよ。転びますよ」
あたしは子どもか!
そんな会話をしながら深夜の住宅街を歩いた。
「市川さん、可愛いですよ、トカゲ」
まだ言うか!
後日パスポートの申請に行った日。
見せられたトカゲの顔の拡大写真は、確かにちょっとだけ、可愛かった。
「ほらね?」
妙に胸を張る彼の顔がにくらしかったけれど、言い返せなかった。
「くやしい」
「はいはい、可愛いですよ」
あたしはきっと、いつまで経ってもこの八橋響には勝てないような、そんな気がして頬をふくらませる。
「あ、市川さん。あの店行きません?」
彼とともに入ったファンシーショップ。
二時間も居座ってごめんなさい。心の中で、白けた視線を送ってくる店員に謝る。
「あ、トカゲ」
見つけた緑色のトカゲのぬいぐるみ。掌サイズで、手触りもよかった。
クリクリした黒い瞳がけっこう可愛い。くやしいけど、可愛い。
「可愛いですね」
「うん」
結局、このぬいぐるみを色違いで買った。
緑があたしで、赤が彼。
「あ、そうだ。おいしいジェラートの店を知っているんですが、行きませんか?」
あたしは、笑顔で頷いた。