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身を投げた話

 僕は自分を殺す手段として落下を選んだ。落下は最良の選択肢だった。高ささえ足りていれば不可避の死をくれる。

 僕は死ぬ前に、一人の女の子が人生を続けるための手助けをした。これは紛れもない僕の意思だ。だけどそれと同時に、自分の命を絶つ欲望も持ち合わせていた。手段と目的の間にひどい矛盾があるのは分かっている。でも、死のうとすればするほど死ねない僕にとって手段は一つしかなかった。

 僕を殺してくれない世界を騙すこと。

 それが僕が自殺できる条件。

 あの高さから身を投げれば数秒も経たないうちに地面へと激突する。せめてその直前まで世界を騙すことができれば、さすがに世界は介入できないだろう。

 そう考えた。そして実行した。

 その結果肉塊になってしまっていたら僕は死ぬ前のことをこうして回想などできない。ならば今の僕は生きているのか。そうではないと思う。

 屋上から身を投げ、支えを失った身体が落下していくのは目を開けていなくても分かった。しかしそれはおかしい。普通はそのような感覚が生じる前に地面に激突し、僕はそれで事切れるはずなのだ。落下に成功したのは今回が初めてだから通例など分かるはずはないのだが、自分の服がバタバタと空気にはためくのすら感じられるのはどう考えたって異常だ。僕は死後の世界など信じてはいないが、この状況が現実だというのは無理がある気がした。

 つまり、これは死に向かう身体が作り出した幻覚である。半分生きていて、半分死んでいるような状況だ。根拠などない。とりあえずそう決めつけて、目を開けてみた。

 僕は落下中だった。しかもかなりの速度だ。目の前にはひたすら僕の飛び降りた旧校舎第二棟の窓が連続しており、一つに繋がって見えるほどだった。なぜ窓が見えるのだろう。僕は逆さまに落ちたのだから校舎を背にしているはずだ。少し身体を捻ってみると、空気抵抗が変わるからか姿勢を変えることができた。変な姿勢をとると窓に激突するのではないかとも考えたが、いくら身体を捻っても窓に触れることはなかった。ゲームの背景のように、近づいている感覚はあっても絶対に届かないのだ。時計がないからなんとも言えないけど、その後十数分の練習で真後ろを向くことができた。僕は死ぬ前に、落下中に身体の向きを変えるコツを習得した。

 目の前にへそがあった。しかし人のものではない。何故か僕にはそれがイルカのへそだとすぐに分かった。真後ろにも校舎はあるらしく、連続する窓ガラスを背景に僕はイルカのへそを睨み付けることとなった。

「キミさぁ、ボクのへそばかり見つめないでくれよ。恥ずかしいじゃないか」

 声の主の顔を見るべく僕は下を、つまりは空の方を見た。そこには僕を見下ろす声の主でありへその主たるイルカの顔があった。このイルカは何だ。これは幻覚だから、気にしても仕方がないのかもしれないけど。

「君は誰。いや、何なんだい」

「神だよ。キミにとってのボクは神という存在だ」

 見た目がイルカだから口を開けずに超音波で会話をするのかと思ったら、神を名乗るイルカは口をパカパカさせながら普通に喋った。この高速落下中に会話ができることも、目を開けていられることも、そもそも地面に到達せずに高速落下し続けていること自体が奇妙ではあるのだが、僕はなによりもこのイルカの存在が奇妙に思えた。

「君はなぜこうして僕と会話しているんだい。それと、この状況はもしかして君が引き起こしているんじゃないか。答えて欲しいな、カミサマ」

「ボクは寛容だからね。友達気分のタメ口と皮肉たっぷりの敬称には目をつむってあげようじゃないか、少年。しかし、キミの質問に今答えることはできない。その代わりボクからキミにいくつか質問があるから答えてくれ。キミの質問への回答はそのあとだ」

「分かったよカミサマ。君の質問に答えよう」

 そう言うとイルカは顧客へのサービス改善アンケートみたいなものだと思って良いよ、と前置きした上で

「君が自殺した原因を教えて欲しい」

 と質問した。

 自殺の原因、ねえ。タチの悪い質問だ。

「希望を絶つためだよ。命と共にね」

「それじゃあ回答にはならない。分かってるくせに」

 自殺の『原因』とは『目的』ではない。希望を捨てるため、というのは今回の場合回答にならない。『目的』を生じさせるに至った『原因』、つまりは僕の不幸に満ち溢れた人生について語らなくてはならないということだろう。

「……僕の周りの人間は片端から不幸になった。生まれたときからそうだったみたいで、母は僕を生んだ直後に息絶えたらしいし、父も病院に来る途中の車両事故で亡くなった。僕は生まれて瞬く間に両親を殺したらしいんだ。

 そしてその後僕は父の兄にあたる叔父に引き取られて五歳までそこで育った。叔父はえらく淡白だったのをよく覚えているよ。そりゃあそうだ、僕の誕生が彼の親愛する人二人の命と引き換えだったのだから。むしろ殴られたこともないのが不思議だ。叔父は機械的に優しかったよ。

 だから叔父が僕を養護施設に託す際に泣いていたことが僕には衝撃だった。それなりに裕福であったはずの叔父に何が起きたのかはよく分からないけど、そのときだけは幼いながらも叔父から愛情を感じて申し訳なくなった。申し訳なさの正体は分からなかったんだけどね。それも十歳になるくらいにはもう分かっていた」

「キミを愛する人が次々と不幸になることに気づいたんだろ?」

 イルカは得意気に言う。そういえばこいつは神なのだった。僕が作り出した幻覚が、僕のことを知らないはずがない。たとえそれが僕自身の頭の中にしかない僕の記憶であってもこのイルカには筒抜けというわけだ。

「分かっているなら聞く必要はないだろ、カミサマ」

「怒らないでくれよ。ちゃんと意味はあるんだ。確かにボクはキミの考えていることが手に取るように分かるけど、一応キミの口から言葉にしてもらったんだよ。確認のためにね」

「今更何を確認しようというんだいカミサマ。僕はさっさと死にたいんだけど」

「だから怒らないでくれよ。つまりは」

 僕の一部であると思われるイルカはおどけるように、しかしどこか真剣に口を開く。

「キミの考えのマチガイを正してやろうってのさ、神である僕が直々にね」

 なんだと?僕から生み出されたはずの(イルカ)は僕に説教をするつもりらしい。どういうことだ。僕から生み出されたのなら僕の意見に従うべきではないのか。

「おいカミサマ。それはどういう……」

「衝撃注意だ、少年」


 イルカが僕の言葉を遮ってそんなことを言った次の瞬間、僕は暗黒の海水面へと叩きつけられた。

 もちろん叩きつけられる直前に、具体的にはイルカの一言を聞いた瞬間に僕の意識は途切れていた。ふと気がつくと遠い水面の光を眺めながら沈んで行く最中で、叩きつけられたことが記憶というより感覚として残っているだけ。痛みがあるということではなく、ただ叩きつけられたなぁという客観的な何かがあるだけだ。

 辺りは暗くひんやりとしている。肌をじわじわと削り溶かしていくような、鋭い冷たさ。痛みはないが、代わりに妙な危機感と罪悪感に似たような気持ち悪さが浸透してくる。

「なぜボクがキミと会話をしているのか、だったね。確認と返答が順序逆になってしまったが、その質問に対する返答は言った通りだ。僕は神として、キミのマチガイを正さなくてはならない」

 仰向けのまま横を向くとそこにはシャチの顔があった。巨大な目のような白い楕円とずらりと並んだ獰猛な牙を持つ海の王者が沈み行く僕をじっと見ている。シャチも僕と共に沈んでいるらしい。

「随分と偉そうなことを言うね、カミサマ。言っておくけど……」

「『僕はこの意見を曲げるつもりなんか無い』だろ?それに偉そうって何だ。ボクはキミの神だぞ」

 神を名乗るシャチは白い牙をギラつかせる。そういえばこいつはいつからシャチになったのだろう。体に侵入してきた妙な危機感が胸を締めるようだった。喰われるのではないか、という危惧ではない。もっと気持ち悪くて、でも、どこか拒めない何か。正体不明のそいつに僕は焦り始めた。

「じゃあ、僕の何が間違っていると言うんだ」

「今のキミの何もかもだよ」

「これから僕は死ぬんだぞ。どうでも良いじゃないか」

 吐き捨てるように言った次の瞬間、僕はシャチに呑み込まれた。

「どうでも良いワケねぇだろ」

 いや、そんな気がしただけだった。海面に叩きつけられたときと同じ感覚。今の瞬間に僕は確かにシャチに喰われた。だがしかし現実として(果たしてこの状況が現実かは不明だけど)僕は喰われてなどいない。

 シャチは少しだけ怒っているようだった。ため息のように泡を吐き、

「キミにとって不幸せに思えることが結果的に、本人としては幸せだったりするんだぜ」

 とのたまった。泡は水面へ向かうことなくその場に漂っている。気がつけばもはや水面は見えなくなっており、自分が沈み続けているのかどうかは分からなかった。

「君もそんなことを言うんだね、カミサマ。そんな言葉はもう聞き飽きたよ。結果的に幸せかもしれないなんて無責任な。僕は希望を絶つために身を投げた。でもだからといって希望を奪われることを望んでいた訳じゃない、ましてや他人から奪うことなんて。希望を突然奪われた人間が不幸以外の何者だというんだ。幸せの大きさくらべをするわけではないけど、結果的な幸せを得るために希望を代償にするのはあまりにも不釣り合い。そこに生じる深い絶望は幸せで埋めることができるのか?無理だよ。だってそれは本来の希望ではないのだから」

 しかもその絶望は本来生じ得るものではなく。

 僕が希望を奪い、生じたものだ。

 シャチは暫く黙った。どれくらいの時間かは分からない。巨大なヒレが動くたびに細かい泡ができては、ふよふよと暗闇に消えていった。

 そしてシャチはゆっくりと口を開き、言った。

「キミを育ててくれた伯父、覚えてるよね。彼は今どうしていると思う?」

「……」

 分からない、分かりたくはない。この流れだ。きっとシャチは伯父が幸せを掴んでいるとかなんとか言うのだろう。僕を屈服させるために。このシャチは僕へ希望を背負わせようとしているようだけど、いったい何が目的なのだろうか。僕が未だに落下中なのだとしたら、今更何をしようと僕には死ぬ運命が待っている。後戻りはできない、はずだ。

「ははは。キミはやはりひねくれたことを考えるね」

 僕の頭のなかを覗いているシャチが笑う。そして続けた。

「キミの伯父は今、不幸のどん底にあるよ。世の中甘くないね」

「えっ……」

「キミの当初の予想通りだよ。『不幸にも』収入が途絶え『不幸にも』貯蓄が尽きて『不幸にも』キミを手放さざるを得なかったキミの伯父は、劣悪な社会で詐欺まがいのことをしてお金を稼いでいる。日々罪悪感に苛まれながら、夜も眠れずに『不幸』を配って歩いているよ」

 僕を愛してくれたのだから不幸になるのは当然のこと。それは僕自身がよく知っている。だけど、何か『違和感』がある。何とも言えない妙な焦燥がせり上がってくる。

「ほら、不幸になってるじゃないか」

 つい言葉がこぼれた。僕は正しい、その確認。

 だけど。

 今ふと思ったのだけど。

 僕はなぜ必死に自分の論を守ろうとしているのだろう?

 これから死ぬのに、なぜ。

 シャチの牙が暗闇に光る。にやついているのかもしれない。先程までは何とも思っていなかった白銀の牙は、しかし、今の僕にはとても恐ろしいモノに思える。理由はよく分からない。補食されることへの生物的な恐怖か。違う。もっと何か、こう。直接心臓をくわえられているような、そんな気分だ。

「では問題だ、少年。キミの伯父は、何故こんなことをしているんだろうね?」

 この質問に答えてはいけない。僕の心がそう警告している。だけど僕は焦燥感に打ち克つことができなかった。

「それは僕に関わったからだ」

 シャチはニヤリと笑った。するとどこからともなく沢山の泡が集まってきて、発光する巨大な渦を作り始めた。僕とシャチはその目にいる。

「違う。そんなことは分かりきっているじゃないか。ボクが聞きたいのは理由だよ、原因じゃない。キミの伯父は何を理由に、何を『目的』にあんなことをしているのだろう?」

「そんなこと僕に分かるはずがない。僕は伯父から希望を奪った張本人だ。伯父の希望が何であったかも知らないクセにね。そして今の伯父を奪った希望の代わりに幸せにする方法も知らない。だから僕は身を投げた。希望を絶ってきた自分の希望を絶つために」

 それは償いなんかじゃない。

 では何のためだ。

 分からない。

 渦巻く光の流れが激しさを増してきた。シャチは笑って、笑いながら、口の端から光る泡を次々こぼしている。

「ほら、キミはやっぱり『分かっている』じゃないか。少々フライング気味の解答だけどね。ファインプレーに免じて答えを教えてあげよう」

 頭の中だけではない、僕の全てを見透かしているシャチは一際大きな光る泡を吐いた。その泡が僕を包むと同時に渦の激しさは臨界に達し、周囲が完全に真っ白になった。不思議と眩しさはない。ただただ、汚れのない真っ白。

 その空間に浮いているのはシャチだけ。僕はというと、浮いているというわけでもなければ落ちているわけでもなく、強いて言うなら空間に縫い止められているような感覚だ。

「キミの伯父の目的。それは『キミ』だ、少年」

 眼前に浮かぶシャチは言う。

 僕の気持ちなどお構い無しに。

「キミの伯父はもう一度キミと家族になるために、汚れた場所へと身を投じている」

「嘘だ」

 口から反射的に否定の言葉が出た。

 意味不明だ。何故だ。不幸をもたらした張本人を恨むことなく、あまつさえ不幸に身を置く目的にするなんて。

「嘘じゃない。彼はもちろん恨んださ。でもその対象はキミではなくキミが連れてきた『不幸』そのものであり、むしろ彼はキミを不幸にしてしまったとさえ思っている」

「……」

「人間というのはどこまでも利己的でね。罪悪感を感じているとは言っても、結果として彼はキミの不幸に償うためにあらゆる人を不幸に陥れている。でもこれはマシな方だ。もしその最中キミという『希望』が勝手に消えてしまったらどうなる?」

 反論しなくてはなるまい。

 そんなことは、認めたくない。

「それを言うなら、僕が奪った、あるいは生きていれば奪うであろう希望はどうなんだ。希望へ向かっていた思いが絶ちきられ、その残骸だけが残り、絶望を実感することは確実に不幸だ。話を聞く限り僕が死んでも不幸になるのはせいぜい伯父と他数名だけだ。だけど僕が生きていてはそれこそ永久に『不幸』を産み出し続けるぞ」

「それはそれでいいんだよ。何故だと思う?分かるよな、少年。今キミが必死に目をそらしているその事実を認めろ。いったい何故キミはボクと会話しているんだ?」

「わからないっ!」

「分からないわけがないね」

 衝撃。僕はシャチの尾びれでおもいっきりぶっ叩かれて吹き飛んだ。縫い止められていた体が自由になり真っ白い空間がメチャクチャに回転した。周囲は真っ白で回転なんか分かるはずはない。でも何故か今の僕は上下の区別をつけることができた。

 痛みもある。この痛みはなんだ。叩かれた腕は痛くない。

 敢えて表現するなら、ココロが痛い。

「ボクとの会話は辛いだろう。何故辛いのだろう。それはボクがキミを罰しているからだよ、神らしくね。何故罰せられる。それはキミがマチガイを認めないからさ。神は正直者には寛容だ」

 シャチはまだ僕の目の前にいる。

「さて、もう一度聞くぞ。少年」

 思えば僕は最初の質問にまだ答えていない。

 僕が自殺をした原因。それは自殺の目的のことではなく、僕の不幸に満ちた半生のことでもない。

「キミが自殺した原因を……」

「嫌だ」

「どうして」

「答えたら、死ねなくなる」

 ココロの痛みは増すばかり。

 でも耐えなくてはならない。

 僕が希望の重みに耐えられるような人ではないからだろうか。

 違う。

 僕が卑怯なだけだ。

「……キミは何を希望してあの女の子に話しかけたんだい?」

「……え?」

「だからさ」

 シャチが嘆息する。泡は出ていない。

 今までにないほどに優しい声だ。軽いあきれと憐れみでできた声。拗ねている子供に諭すような声。でも何故だろう、最初からこの声だった気もする。

「何故、死ねばどれ程楽だろう、と常日頃考えていたキミのような男が、死を選ぼうとしていた彼女の邪魔をしてまで話しかけたのか、ということだよ」

「……僕と同じような気がしたから」

 彼女の身の回りには不幸が溢れていた。その中でも笑っていられる彼女に、僕は心を惹かれたのだ。でも、違和感がある。本当にそれが理由か?

「厳密に言えば違う、だろ」

 シャチが笑う。そうだ、僕は心を惹かれたのではない。僕は彼女に希望を抱いた。

「……僕は彼女に」

 どんな希望か。答えはこうだ。

「僕は彼女に、僕を支えて欲しかったんだ。不幸で潰れそうな僕を」

「その通りだ、少年」

「そして僕は彼女が潰れそうなのを見て、僕が彼女の支えになることを希望したんだ」

 ならば何故、あの場で身を投げたのか。

「キミは彼女の支えになることに成功した。キミは、不幸であるはずのキミが、希望を掴んでしまった。キミはその事に気がついた」

「……僕は」

 きっと。いや、確かに。

「他人を問答無用で不幸にしてきた自分が希望を手にしたことに耐えられなかった。死ななくても良いことに気がついたのに、『自殺をしなくても良い』という幸運を自分が掴んだことが許せなかった。なにより彼女に『自殺』という不幸を回避させたことが、人に希望を与えることができたことが怖かった。僕が身を投げた原因はこれだ」

 僕が自殺をした原因。死ななくても良いことを認めてしまった僕にそれを認めることは容易になっていた。うまいことカミサマに誘導されたようで少し腹が立ったくらいだ。

「僕は自分を責める自分の声に耐えられなかったんだ」

「だろうね」

 シャチは最初から知っていたふうに何度もうなずく。

「キミに限らず、人には意識せずとも他人の運命に干渉して曲げる性質がある。でもその性質は決して人を不幸にするためのものじゃない。キミの今までの不幸はただ運が悪かったか、あるいはキミが幸せを認めようとしなかったがために起きたことだ。むしろ、今回のキミは身を投げることで彼女や伯父、あらゆる人を積極的に不幸にしたんだ。その罪は償ってもらわなくちゃ。カミサマとしては見過ごせないね」

「それが、僕のマチガイなんだね」

「そうだとも。ちょっとくらい不運だったからといって調子に乗るな。キミは特別なんかじゃない、そこら辺の有象無象だ。キミも含め、全ては捉え方次第なんだから。希望に手が届かなくても忘れちまえば良いし、そのために別の希望を探して良いんだ。キミが関わって不幸になったように見えるやつも誰かを不幸にしているし、その不幸だって不運と区別はつかないし、もしかすると当人は幸運だと思っているかもしれない。だけど人が不幸になるのを承知で身を投げるようなことは間違っている。それだけは絶対だ」

 シャチの目をみた。優しい目だ。

「分かったよ。でも僕はもう身を投げてしまっている。罪を償うにはどうしたら良い?生まれ変わりでもするのかい」

「当たらずとも遠からずだね」

 一瞬意味がわからなかったが、嫌な予感がした。

 この空間は周囲が一面真っ白だが、上下は分かる。なぜなら重力があるからだ。シャチは浮いているが、僕は立っている。すなわち床がある。

「足元注意だ、少年」

 今度は意識があった。

 パチン、と白い空間が吹き飛ぶ。

 ふわりと浮かび、そして僕は落下し始めた。

 夕暮れに染まる空から。

 遥か眼下に見える町に向かって。

 まっ逆さまに。


 ぞわり、と鳥肌がたつが手遅れだ。

 最初とは違い、死のうとしていない僕にとって、落下はただ絶命への恐怖でしかない。

「うわああああああ!」

 その恐怖はある意味、生きていることの実感でもあった。

 そしてこれまた最初とは違い、目を開くことができたのは落下直後の一瞬だけだったが、はっきりと分かることがあった。

 未だに幻覚の象徴だと思われる存在がある。カミサマである。

(はっはっは。気分はどうだい少年)

「ちょっと状況がよく分からない!僕は今どうしているんだ!?僕は今からどうなるんだ?」

(んー、よく聞こえないなぁ)

 全力で、それこそ『必死』に叫ぶが高速で落下する今音が正確に伝わるわけがない。それに対してなんだこのカミサマは。テレパシーだなんて今更イルカっぽさを出してきた。

「冗談じゃないぞ!」

(ごめんごめん、聞こえてるって悪かったよ。質問に答えようか、少年)

 カミサマはあっさり言った。

(キミ、今から死ぬかも)

「ええっ!?僕はてっきりどうにか蘇生してくれるものだとばかり……」

(甘えるな、少年。これでも努力したほうなんだ。本当ならキミはあのまま地面に激突して死んでいたのだから。世の中甘くないね。ああ、ここはまだ現実じゃないよ、少し猶予を貰ったからね)

「どのくらい?」

(キミが身を投げた高度に達するまでは猶予があるよ。あと二分もないけどね)

「……」

(そう落ち込むなよ。最後にキミの質問に答えてあげるからさ)

 この状況とカミサマの目的の説明。確かに最初にそんなことを聞いたが、今の僕はそれどころではない。最初に身を投げた高度からが現実であるとはいえ、この高さから落下したのでは生き延びきれる気がしない。

 カミサマは構わず続ける。

(まず、この状況はボクが引き起こしたものだ。目的はキミを罰するため。これはもう分かっているかな。キミが改心してくれて安心したよ)

「その節はどうもっ!」

 正直最初こそ恨んでいたが、今となっては自殺という不幸を回避するチャンスをくれたことに感謝している。ただ、より高高度から落下をやり直すとはずいぶんシビアなチャンスだ。

(そして、ボクがこんなことをした原因だけども……)

 カミサマは、これまたあっさりと、しかし衝撃的なことを明かした。

(キミの死が誰よりもボクが担当の人間を不幸にすると思ったからさ。ボクはキミの希望そのもの、つまり彼女についていた神だ)

「えっ?」

(キミに偉そうなことを語ったが、いやまあ偉いんだけれども、ボクは神は神でもキミのじゃなくてあの子の神なんだ)

 絶句した。もうそろそろ絶命するかもしれない僕は、高速落下中に絶句するというけっこう貴重な体験をした気がした。

(ボクの力でできる範囲も限られててね。不幸を直接弾き飛ばす力はないけど、説得できる不幸なのだとすれば話は別という訳さ。だから頑張れよキミ達。キミ達の幸にも不幸にも僕にはこれ以上手出しはできないからね。それでは少年、『他の誰かに必要とされる』良き人生を。さらばだ)

「ちょっと、おい……」

 力を振り絞り目を開けると、クジラと一瞬だけ目が合った。

 いつのまにクジラになったのだろう。不思議は尽きないが、一つだけ分かったことがある。カミサマは初めからずっとこの目だった。優しい目。僕は今頃気がついた。

 その直後。

 落下速度が急激に減少した。時間の流れがゆっくりとなる。

 ちょうど、身を投げた瞬間の浮遊感に似た感覚があった。

 気が付けば、眼前に見えるのは旧校舎の屋上。

 そこに立つ一人の影。

 今回の僕は、校舎の方を向いている。

 そこまで思い、激突への本能的な恐怖から、僕の意識は途絶えた。

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