第7話 装う者(ジューダス)
いつもは知性があり並々ならぬ演算能力を誇るアンリエッタの脳はこの状況を全く理解できていなかった。
今まさに起こっている――この状況を。
「状況は一刻を争います。この問題の早期解決策の譲歩を申請します」
憎々し気に声を発したこの脂ぎった男は外交最高責任者テオドール=グランボルカ。王政国家トロンリネージュ貴族派閥に身を置く、この国で実質No.3の権力を有する者である。
「宰相様の言う通りかと存じますわ姫殿下。ご決断を」
その隣にいるのがファジーロップ外務官補佐。
長年彼を支える敏腕女史という話だ。
このトロンリネージュ各部署での最高責任者十名が集う大会議室にて、外交官は声高に、更に大げさな素振りで捲し立てる。
「既に四日前と言うことはアテンヌ国も不審に思われている可能性があります。一刻も早い決断が必要でございます!」
この議題の発端はこうだった――
属国の中でも特に有効であり、重要な流通を基盤としているアテンヌより、こちらに向かっていたシーラ姫と警護の兵二十名の死体が、当国の領土内で発見されたというのだ。
――それも、死後四日以上経っていたと。
「聞いておられますか姫殿下!? 」
「……は、はい」
頭が混乱して思うように働かない。
「これが明るみになりこちらの責となれば、この国の流通網の五割を有するアテンヌからの物資が止まるかもしれません。これは国を揺るがす大問題に発展致しますぞ」
アンリエッタ=トロンリネージュより招いた客人――隣国にして友好国アテンヌのシーラ=アテンヌアレー第一王女がトロンリネージュ国内で殺されたという事だ。
「で、でもシーラは昨日……わ、私と」
「殿下お気をしっかりと持ちませい! 一週間以上前より当方はアテンヌより報告を受けておりました。体が弱いシーラ姫様の為、一度アテンヌ国境付近の街ロッシーニで一度滞在し、姫の体調の様子を見てからこちらに出発すると」
アテンヌのロッシーニからこちらまではシーラ姫の体調を考えてゆっくり走らせたとしても馬車で二日あればこちらへ到着する。
「そして三日前、こちらに出発すると早馬にて報告があったのでお待ちしていましたが中々お来しになられない」
外交責任者は一気にまくし立てた。
その芝居がかった口調で皇女の混乱している情緒を抉るように。
「ですので気を利かせたワタクシめが昨日より捜索隊を手配した所、襲撃された王家の馬車を発見したのです」
この男、挑発しているように見える。
取り入れられないようアンリエッタは一度頭の整理をしようと思うがどうにもまとまらない。親友の訃報と自分の記憶が噛み合わない為だ。
「しかしまだシーラ達と決まった訳では……」
「午前中かけて遺体、衣類、装飾品全てに検視をかけました間違いございません」
何というデリカシーのない言葉だ。
アンリエッタは混乱と困惑から激昂しそうになった自分を必死に収めた。親友であるシーラがこの脂ぎった無礼な男に服を剝がされ、体の隅々までまさぐられている映像が脳裏に浮かぶ。
「流石テオドール様。仕事が速いですわね」
「貴女は黙りなさいファジーロップ」
「失礼しましたわアンリエッタ姫殿下」
「テオドール卿、先程も言いましたがまだ」
「それも検視の結果、襲撃したのは魔人族の可能性が大です! こちらも大問題でございます」
会議室一同に動揺が走る。
国境付近といえば馬車で2日といった所だ。大壁を抜けてきた魔人が王都寸前まで迫っているという事なのだから。
「そしてワタクシの独自に入手した情報によると、魔人共はそのまま北上し、関所のある要塞都市フォンダンに向かったとの事です。このままではフォンダンも危険でございます」
なんと!
その場にいた全員が立ち上がる。
”大壁”の出入り口である関所を破られれば魔人が人間領に一気に攻め込んでくる可能性がある。自国はもちろんの事、トロンリネージュの失態でカターノートとゼノンへの被害も想像を絶する。その後の処理によっては三国との力関係が完全に逆転する事が明白であるからだ。
「より…… それより」
「アンリエッタ様、聞いておられるのですか!?」
どうも何かの意図があり本気で挑発してきている外務官が三度皇女の言葉を遮った。
「これは問題ですぞ姫殿下。隣の友好国に外交の亀裂が入り、都市が一つ攻め落されるかもしれないこの状況。国の状況も知らず税金の引き下げや貴族制度の廃止などと下らない事に人員の労力を裂き、毎度のようにお友達と遊ばれているからこういう事になるのです」
「……それは、どういう意味で」
「この忙しい時に全く。せめて籠の鳥姫もアテンヌ領で襲われてくれれば良かったものを」
最後の言葉にアンリエッタが目を見開き、外交官に殴りかかる勢いで立ち上がった時である。
ガシャ――――ン!
全員の視線が紅茶を取り替えに入室していた執事に集まった。
「大変申し訳ございません。直ぐに片付けさせてもらいます故」
「気を付けよ! 」入口側の貴族が吠えるが、しかし今の音で一瞬で場が冷め、皆がしぶしぶながら着席した――恐らくこの執事わざとであろう。
水を刺された様な面持ちで外交官は話を戻す。
「そうですな……それで姫殿下どうなさいますか」
「遺体を確認させてもらっても?」
冷静さを取り戻したかに見える皇女であるが。
「姫殿下今はそれどころではと申しております。……それに見ない方が宜しいかと、あれはもはや人の」
「確認させてもらっても?」
その言葉に外務官グランボルカは身を震わせた。いや、王家の重鎮であり、多くの場数を踏んできたであろう最高責任者達全員が喉を鳴らすような迫力。彼女の背中に揺れる陽炎から発せられるソレは――殺気である。
二度は言いません。
そう言っていた。
幹部連中を一言で黙らせた王の威圧。
十八の小娘とは思えぬ胆力で彼女の眼がそう言っていたからだ。
テオドール=グランボルガは改めて再認識した。
こいつは、この女は絶対に引きずり降ろさなければいけない敵だ。このままでは、このままでは我々は、貴族派は、大海の巻かれた砂のように、消されてしまうだろうと。
◆◇◆◇
昨日昼頃――
シーラ姫が冷めない紅茶を飲んでいた所、アンリエッタ皇女が駆けつけた所である。
「あーアンリエッタちゃん! やっと来たー」
「ごめんねシーラ…… 騎士さん達に演習後に捕まっちゃって」
宮廷内にあるロイヤルガーデンという場所はトロンリネージュ城のほぼ屋上に位置する。これより高い棟はこの城には二つしか存在せず、一つは要人を幽閉する役割をもつ満月の間。そして王都どころかその数十キロ先までの危険を感知する魔導出力計を有した見張り台、重要施設である"新月の間"がある棟だけである。
その屋根からガラス張りの温室を見ている男がいた。
「……あの娘がアンリエッタか」
『そのようです例の娘も逢えたようですね』
城の外壁――屋根に掴まり80m先の温室を見ているこの男はシワシワでボロボロの白シャツに、この世界には存在しない黒のレザージャケットを着んだ、どこか闇を連想させる男だった。
名をユウィン=リバーエンドという。
「あの娘が言った通り確かにこの国ヤバイかもな」
『イエスマスター気配が残っています……魔人の使徒の気配が』
「使徒だと? 堂々と入り込める所を見ると人型だろうな。しかしまいったな、俺の索敵武装気も妨害されているし探しようがない」
温室の入り口に門番のように立つ姿勢の綺麗な老人。
あの気配はただものではない。
『気の事はよく解りませんが強いのですか』
「使徒より遥かに厄介そうだ。アイツの索敵範囲は俺よりも遥かに広い。ここも既にバレているが敵意がないから泳がされている。それで使徒の場所は索敵可能か」
『生憎今はDの索敵範囲外の上、使徒は魔人より人に近いため大勢の人間がいる中では索敵が難しいのです』
「せめて城内の人間の声が聞ければよかったんだが、アイツお陰で城内まで気が届かない」
先程から意識を集中させているが上手くいかない。
『Dにはマスター以外の情報を収集する術はありませんので』
「お互いお手上げか」
『まさに出鼻を挫じかれるとはこの事です』
自分より上手い事喋るDと共に、今日の所はテイクアウトしたフォアグラパンを食べて休む事になった。
◆◇◆◇
そして場面は現在――
城内地下にある安置室。
王室関連の囚人や他国の捕虜を拘束する場所である。普段はもちろん貴族が足を踏み入れるような場所ではないが、皇女からの勅命である。最高幹部の面々は全員、耐え難いカビの匂いにハンカチで鼻を覆いながらも陰湿な階段を降りていた。
匂いなど全く気にせずに先頭に立って階段を下るアンリエッタを始め、外務官グランボルカを含めた十名は襲撃されたアテンヌの王族の遺体を確認する為に地下に向かっている。最下層までの石の螺旋階段を登り切り、例の遺体が安置されているという扉を開ける。
「うっく!」
「こ、これは……」
「……っおっっっ」
皆小さな音が喉から出た後、声を失った。吐き出す者もいる。死体はそれは無残に、全てバラバラに近い状態であり、いくら冬とはいえ四日間も風雨に晒されたのだ。腐敗が進んで既に判別は難しく、何より耐え難い死臭であったのだから。しかし此処に来てすぐに解った事が一つ。
それは明らかに"昨日出来た死体"ではないという事。
その中で皇女アンリエッタだけは冷静だった。ざっと二十名であったろう残骸を見て回り、淡々と衣服を確認していく。
「殿下どうですかなワタクシが止めた理由も解っていただけたかと」
「……確かにこの備品はアテンヌの、それも王族の者で間違いありませんね」
「ワタクシの仕事を信じて頂けたようで」
王室外務官テオドール=グランボルカはわざとらしく頭を下げるが、アンリエッタはそんな男の剥げて地肌が脂っぽい後頭部を冷たい視線で見つめた後、鋭利な刃物の様な声色を外交官に叩きつける。
「貴方がこんな無粋な場所に友好国の客人を招待する神経の持ち主なのは解りました」
「なぁっ?」
「この方達は……私が弔います。絶対にそのままにしておきなさい。何人たりとも此処へは入らないように」
そう言うなり足早に安置所を退室しようとする。
「姫殿下!?」
「気分が優れません。今日は休みます」
「貴女の御申し付けでわざわざこんな汚い所まで来たのです! 今後の対策を決定して頂きませんと――」
外務官はまくし立てるが、アンリエッタは聞く気にはならなかった「姫殿下!」「アンリエッタ様!?」
五月蝿い臣下達を完全に無視して足早に安置室を退出する――衣類も何もかも無残な状態だったが、アンリエッタは見つけていたのだ。
親友の壊れた車椅子と、その遺体の側に安置されていた、乳母と作ったと言っていた、血で変色して漆黒に染まっていた、プレゼントしてくれたお揃いのコサージュを。
辛い現実を見つけてしまっていたのだ。
「お嬢様階段を登りながらお聞きください」
安地所の外で待機していた執事が即座にアンリエッタの後に続く。
「お顔が蒼白でございます。自室でお待ち頂ければ直ぐにハーブティーを御用意致しましょう最高級のジャーマン=カモミールにミルクと砂糖をいっぱい入れて」
「……ありがとうクロードお願いするわ」
「故にゆっくり、ゆっくりで構いませぬ。……気を静められますよう」
皇女の背後から出る陽炎が地下室の壁に亀裂を生じさせていたが、それはゆっくりとゆっくりと静まり階段を登る二人の足音がだけが鳴り響く。
王政国家の成り立ちを、真っ向から否定するような政策を取るアンリエッタを快く思わない人間は多い。”姫殿下”という呼称は反発する貴族派閥が皇女に対して付けた軽称であり、本来用いられる呼び方ではない。だから無論、この執事はそのような呼び方など絶対にしないと言えた。
執事クロード=ベルトランはアンリエッタが王位に就いた時に専属の執事となった。
年の頃は六十。
代々トロンリネージュ王専属の執事となる事が運命付けられている一族で、普段はアンリエッタの事を「殿下」と呼ぶが王位に就く前は「お嬢様」と呼称していた。
小さい時からアンリエッタを見てきた執事は、本当に彼女が傷付き打ちひしがれた時、君主の重圧を少しでも和らげ、少しでも子供に戻った気分になれるようこういう時は「殿下」でなく「お嬢様」と呼ぶのだ。
その癖をアンリエッタも知っていた為、反吐が出そうな今の気分でも、その言葉に素直に甘えられたのだ。
自室に戻ったアンリエッタは未だ気持ちの整理が付かなかった。哀しいより先に混乱が先走って頭を抱える。
(四日前に殺されていた? じゃあ私が昨日会って話したシーラは一体、誰だったの……?)
暫くしてドアが開き、執事が薔薇の描かれたティーポットでカモミールの抽出液を同じく用意された薔薇のティーカップに注ぎ淹れた。
アンリエッタがカップを傾ける。
強い林檎のような匂いが鼻を抜け、少し気分が軽くなったように思う。
「クロードありがとう少し落ち着きました」
執事は一呼吸おいて背筋を伸ばし、頭を下げる。
「……恐れながら、シーラ様の事は大変お気の毒でございます」
「えぇ」
「お嬢様が月だとすれば、彼女は太陽のようなお方だ。このクロード、この度シーラ様が気に入られていたファイネストのダージリンを用意して御来城を心待ちにしていました……残念でなりません」
昨日の事を思い出し、アンリエッタは少し悲しそうに微笑む。
「フフあの子、ダージリンなら美味しそうに飲んでいましたよ。貴方が用意してくれたのでしょう?」
「…………」
執事は沈黙する。
会話が咬み合っていない気配を感じた。
この一流の執事であるクロードが、昨日の事を憶えていないなんて事があるのか。
「クロード……?」
「お嬢様それは、昨日の温室――の事でございましょうか」
頭の中に溜まっていた靄の様なものに一瞬光りが刺したかのような感覚。
「そうよ……あなたも見たでしょ? シーラは…あの子は昨日演習場から私が温室に着く前から、あそこで紅茶を飲んでいたでしょう!?」
執事は眼を閉じ、頭を振った。
「申し訳ございませんお嬢様……執事めには何の事かわかりかねます」
「……な、何を言って」
アンリエッタの靄はどんどん鮮明になっていく。
「この執事は昨日、お嬢様が温室で休憩されると伺っておりましたので、到着になられる前より湯を保温しながら待機しておりました。その間誰も……テラスには来ておりません」
丁寧に持っていたソーサーがカタカタと音を奏でる。
「嘘…… 嘘よ」
気付きたくない。
そんな事があるわけがないんだ。
シーラは……あの娘は。
「アナタ様の執事は嘘を絶対に申しません。このクロードが御用意させてもらった紅茶は、お嬢様がサンルームに入られた時の一杯だけです」
「じゃあ……」
「先日のお嬢様は……少々お疲れが溜まっていたように感じ取れました。激昂したつもりでしたが御気分を害してしまい、あの時は誠に申し訳ございませんでした」
頭が真っ白になった。
そして良すぎる記憶力のせいであの時の状況がはっきり思い出せてしまった。
『噂を聞いたの…… 国境付近で魔人が出たって』
『殿下そろそろお戯れはそこまでにしてお時間が迫っております』
『アンリエッタちゃんごめんね? じゃあね!』
噂ではなかったんだ。
あれは掲示――
シーラの幻影が教えてくれた彼女の心の叫びだ。
クロードにはシーラが見えてなかった。
「ずっと私が独りで……喋っていたのね」
「恐れながら」
そう見えていたのか。
そして何より彼女は走ってサンルームから出て行った。何で気づかなかったんだ――シーラが……あの足の悪いシーラが、走って出て行ったのだ。
アンリエッタは自分の弱さを悟ってしまう。
私は彼女に助けを求めていた。
自分が癒やされたいだけで親友の事を何も見ていなかった。全く気付いてやれなかった。
あの子の叫びを。
「クロードお願い……部屋から出ていて」
「かしこまりました……お嬢様」
主に出て行った事が解るよう少しの音を立ててドアを――閉める。
「うぅぅっ…… なんでぇ?…… 何でなのよぉ……っ」
コサージュを胸に抱いて泣き崩れる。
今夜は雪も風もない、本当に静かな夜だ。
独りになるには良い夜だろう。
でも金輪際咲くことがない程に握りしめたダリアの花は――二度と自分に笑ってくれない。
「また……独りになっちゃったよぉ……」
こんな何処までも自分ばかりの女に
二度と笑ってはくれないだろう。