最終話 今夜は星の見える場所で
その晩、俺達は空を駆けていた――ピンと張った冬の空気がひしめく暗黒の天空に、恐ろしい程に明るい月光が刺す晩、そんな夜空に彼女と2人で。
「こんな、こんな魔法があるなんて……空が近い、月に手が届きそう」
「そうだな」
古代魔法言語Lv4”音速飛翔重力制御オナーギャザーリンク”――飛翔系魔法言語の最高峰であり最高速度マッハ0.9の音速飛行を可能とする魔法言語である。
この魔法を使って2日で依頼の材料を揃えた。
そして今はそこまでの速度は出していないが高位魔法を発動させる際、自動的に展開される防御結界ごしでも少々肌寒い。
今は深夜の一時、アンリエッタを抱いて星空を飛翔するユウィンは辺境の街へ向かっていた。
そして彼の想いと彼女達の願いは、天空に羽ばたく星へと届く。
数時間前――
安置室から出て十二時間余が経ち夜も更けた頃、その間ユウィンはずっと自室のベッドに横になり考えていた。
(あの娘……どうにかしてやりたいが)
全く、どうしたら良いのか解らなかった。
魔法の演算は出来ても感情に乏しく、哀しみを感じないユウィン=リバーエンドには、泣き崩れる少女に掛ける言葉が出なかった。
(この俺がこんな事を考える様になるとは……)
怒りと哀しみが欠落し不安定になっているユウィンという男の脳は、哀しいという気持ちが理解は出来るが感じる事が出来ない。
なのにあの娘、アンリエッタの泣き顔は見たくないという気持ちが湧いてくる。何とかしてやりたいと思えてくる。だが考えた所で”絶対に解らない”という結果を脳は即座に導き出してしまう。
Dも主人の心の葛藤を感じ取ってずっと黙っていた。
(彼女は俺と同じ、過去を忘れられない。そしてそれを忘れられない俺に彼女を救うことは出来ない……か)
『ごめんね、剣士さん……辛い事を頼んで……』
どこからともなく声が聞こえる。周囲を見渡すが無論一人部屋、人の気配などない。ベットの脇に立てかける剣に視線を移すが、Dにも反応はなかった。そしてこの声は……。
「また逢えるとはね……そしてすまない、俺は彼女を……」
『……アンリエッタちゃんは大丈夫だよ?』
脳に直接響く声にユウィンの無表情が少し崩れる。
「大丈夫な筈がない……あの娘は」
『大丈夫……エッタちゃんは強いもの。私の自慢、私の半身、元気な体を持つ一番のお友達……』
「……もしかしたら君達は」
『だからね、どっかに連れ出してあげて?』
「何?」
『お~願い?』
コン……コン……
バカみたいに明るい幽霊の声は消えていき、俺は変わらずベットの上に座っていた。まるで眼を開けたまま寝ていたような感覚だった。
コン……コン……
遠慮しがちなノックの音が聞こえるが、全く出る気にはなれない気分だ。
『マスター感覚が鈍っていませんか、彼女ですよ』
(何? アンリエッタか……)
中々広い部屋で扉までが遠い、ゆっくり立ち上がり扉まで進んでドアを開ける。
「……こんな時間に、御免なさい」
「あぁ……? 別に構わない 」
アンリエッタは意外にも笑顔だった、少し俯きながら彼女は語る。
「ありがとうございます……入っても宜しいですか?」
確かに廊下で誰かに見られたら一大事か、この娘は皇女なのだから。黙って扉を開け放ち彼女を中に入れる。アンリエッタ少し戸惑いながら部屋に入り、淑女らしく立ったまま喋りだした。
「今日は本当に御免なさい……取り乱してしまって」
彼女は頭を下げる。視線を下げながら微笑み少し恥ずかしそうに、そして悲しそうに続ける。
「それと、ありがとうユウィン様……いっぱい泣いて少しスッキリしたんです。全部解っててワザと……私が諦められる様にハッキリ言ってくれたんですね」
「俺も君と同じ事を願い、失望した事があっただけさ」
「……ユウィン様も?」
「それに俺は依頼を叶えられなかった、感謝されるような事はしていない」
ソファに掛けていた俺は少しだけ無理をしている彼女の声を聞きながら眼を閉じる。
「いいえ? ユウィン様のお陰ですよ。本当に、本当です」
彼女も部屋の中央に立ち、眼を閉じていた。少しの間沈黙が続いた後、アンリエッタの決意を秘めた声が響いた。
「シーラは埋葬する事にしました。ずっとあんな所で独りでいるのは……寂しいですよね」
眼を開けた俺は目の前の女を見た。どこか悲しそうな笑顔ではあったが、無理をしてる様子ではない。
「あぁ……それが良いだろう」
表情というものがあまり俺は変わらない。
驚いていたのだ、俺が長い間悩んで全く出なかった答えを出した女に――まだ十八歳の女の子が……。
(やはり俺は弱い……何百年経っても)
――ユウィンの思い出の女性マリィ=サンディアナ。彼女は自分を守り壮絶な死を遂げた。初めの数年はこう思っていた。
”仇を討ってやる魔人を殺してやる”
それから年月が滝のように流れ。
”アイツに逢いたい……そうだ生き返らせよう”
そんな事は不可能、解っていたのに只々年月だけが経過する。それからやっと気づく。
”マリィが生きていたら今の自分をどう思うだろうか”
そう思った時に気付いた。
仇を討って欲しい。生き返らせて欲しい。
”アイツはそんな事を望む女だったろうか?”
そこで気付いた。
全て己の為にやってきたのではないか、全て自分がこれを気付かないように心の底に閉まっていたのではないか。
”もしかしたらマリィは俺を恨んでいるかもしれない”
自分を彼女が責めていると思いたくなかったが、薄れ征く思い出を忘れない為、俺は思い出を復讐に乗せた。それしか無いと思い込む。
しかし俺の真意は――
「それで厚かましいのですが、最後のお願いの代わり……聞いて頂けませんか? 」
アンリエッタの眼には強さがあった。先日の様に何かに縋り付くような影は見て取れない。
「私を……今夜だけ連れ出して下さいませんか?……外の世界を見てみたいんです」
彼女の声を聞ききながら俺は羨ましく思う。
(自分で乗り越えたか。強いな君は……本当に君達には驚かされてばかりだ)
非常に珍しい事だが自然と笑顔になっていたらしい。そんな俺を見たアンリエッタは妙な誤解をしたようだ。
「ここ、こんな時間に…その…違いますよ……私その…ユウィン様なら魔法で城を抜けだせたり出来るかなと…その…つまり……」
彼女の気持ちはよく解らなかったが……俺、ユウィン=リバーエンドの意志は決まった。
真意――ユウィンは想い人マリィが、
自分の幸せを願っていると信じたかったのだ。
◆◇◆◇
「お母様はね? 私の事化け物だって言ったの …… 剣士さんはどう思った?」
彼女は太陽のような笑顔を見せた。
「お日様みたいな娘だと思ったよ」
自分の名前を憶えていない、迷子の少女は言った。でも彼女は友達の事は憶えていて……その娘を助けてほしいと言う。
夜明けの太陽を見ると、人は一日の始まりを終りを感じる。清々しい、爽やか、気持ちが切り替わるという。しかし絶対に昇らないといけない朝日は、何を思っているのであろうか? 懸命に期待に応えなければいけないと、毎日無理して天に登っているのではないか。
俺はこの娘はきっと、その友達みたいになりたかったんじゃないか。
そう思ったんだ。
辺境の色街ブルスケッタ――トロンリネージュ国土の最北端に位置する街である。 山岳に面するトロンリネージュ要塞都市ヴァイスブルストより更に北部に存在し、魔人領に最も近い危険な都市だという事で納税が免除されている街である。故にこの街は誰でも出入りできる。誰でも出て逝ける。誰も他人を詮索しないし、誰も取り締まらない無法都市である。
ただ、昔からこの巨大な色街にある酒場、”懺悔”のカルアママと呼ばれる頭取が裏で全ての店を取り仕切っている。だから無法者ばかりのこの街にも”無言の法”があり、爪の皮一枚で統率が取れているのだ。
ユウィンとアンリエッタがこの街に降り立った時には既に深夜の二時を回っていた。彼女の格好は異常に目立つので庶民らしい服に着替えている。
「こんな時間にこんなに人が……」
アンリエッタは眼を丸くして驚いていた。それはそうだろう、こんな時間まで起きていた事も無いかもしれない女だ、こんな街を見て驚かない訳がない。現在深夜二時半、この街の店は夜しか開いていないのだ。
酒を出す酒場、薬を出す酒場、武器を出す酒場、女を出す酒場、男を出す酒場が所狭しと立ち並ぶ歓楽街――ここは魔人領が近い為まともな人間が住み着かない街である。正に夜の盛り場が男と女の声でごった返し、魔法光で彩られたネオンが眩しく、立ち並ぶ店を目まぐるしく光輝かせていた。
そんな数多くある店の中からユウィンがアンリエッタを連れて選んだのは、古き西部を感じさせる”ザンゲ”というBAR。落ち着いた雰囲気の店構えだが、やたら看板だけが派手な酒場だった。一階が酒場、二階が逢い引き用の宿舎になっている。
ボックス席のあるテーブルに着き、ユウィンは女性ウエイトレスに酒を二人分注文した。
「呑めたか?」
「は、はい少しなら」
応えながらもアンリエッタは周りをキョロキョロ見回して面食らっていた。
それは無理もない事で、働いている者達は皆露出度の高めな衣装、というか人によっては上も着ていない店員もおり、何とも妖艶な雰囲気を漂わせていたからだ。
無論彼女の様な身分の人間が一生入る事はない店だろう。
「おやアンタかい……久しぶりじゃないか。言ってくれりゃ奥のVIP席に通すのにさ」
「構わないさカルアママ、変わりないか」
どこから見ていたのかユウィンが席に着いた瞬間声を掛けてきた巨漢の女性はこの色街を裏で取り仕切る”カルアママ”。象でも殴り殺せそうなその巨体に、一緒に席についたアンリエッタは愕然としていた。
「オオアリよぉ」
「何かあったか」
カルアママは持っていた煙草を一吸いで灰にして渋い顔をする。
「要塞都市から魔人が流れ込んだらしいのよ。ウチのモンも先日数名殺られてねぇ。大ババから聞いてた四百年前の二の舞いにならないように今防御を固めてるトコさね」
その言葉に平民に扮したアンリエッタの顔が強張った。要塞都市ヴァイツブルスト――トロンリネージュ北部を魔人から守るために作られた街、今回自分の叔父シャルルとグランボルガ外交官の手引で要塞都市の関を秘密裏に開き、魔人を招き入れたという事は既に調べがついていた。
カルアママの言った「数名殺られた」と言う言葉を受け、彼らの陰謀を見抜けなかった自分のせいのように感じたのだ。
「そ、その件で――」
アンリエッタが立ち上がろうとした所をユウィンが素早く手で制してから再び座らせカルアママに向き直る
「それなら問題ない。始末した」
「15体いたらしいじゃないか」
「18体だよカルアママ」
その言葉にカルアママはパンパンに張った頬を歪めてニンマリ笑う。
「試して悪かったね。そうか、という事はまたこのブルスケッタはアンタに助けられたねぇ。流石は”魔人殺し”さね」
「その二つ名はヤメてくれ」
カルアママはユウィンの背中をバンバン叩きながら豪快に笑う。
「じゃあ宴さね! 今日はアタシのオゴリだ! ウチの綺麗所も入れてパァっとやろうじゃないか」
カルアママの大きな声に酒場全体がどよめいた店員も客も一緒になって「うぉぉオゴリだぁ!」騒ぎ立てる。
しかしユウィンは少し遠慮しがちに。
「今回はカルアママの為にやったわけじゃないさ……だから構わないよ」
「何言ってんだ水臭い、アタシとアンタの仲だ。奢らせてもらわんと筋が立たないさね」
「それに……綺麗所なら間に合ってる」
ユウィンは正面に座るアンリエッタに手で刺した。カルアママが再びニンマリと微笑む。
「アタシとしたことが読み違えたよ。アンタが女を連れて来るなんて初めてだったからさ――嬢ちゃん名前は!?」
カルアママはアンリエッタに向き直り、ユウィンに向ける表情と声とは明らかに違う、ドスの聞いた声で言った。
「えぇ!?……ええと」
「なんだいアンタ自分の名前も言えないのかい!」
「えぇっとぉぉ…………アンリです」
「じゃあアンリ! アンタこの男がどんな奴か知ってて着いて来たのかい!?」
「え、いえあまり……良く知ってるとは……」
アンリエッタにキツイ言葉と顔で怒鳴っていたカルアママは、アンリエッタの様子と言葉に、急にニッコリ表情を変える。
「じゃあ教えてあげるけど……この男はウチの大ババの知り合いでね。アタシに毛に生える前の幼女だった頃からずっとこの姿のままさね」
「おいカルアママ」
「そ、そうなんですか!」
ユウィンは止めに入ったのだが、思いのほかアンリエッタが喰い付いた為空気を読んでおこうと黙る。
「話では大ババがピチピチの十代の時既にそのバァ様の知り合いだったらしいからね? 不思議な男だろう?」
「はい確かに」
「だからさアンタ!」
「はっはい!」
カルアママはその巨顔をアンリエッタにずずいっと近づける。
「今晩見るこの男の体がどうなってたかアタシに明日教えなさいな」
「は……は…い? それは一体」
言葉の意味が解らず困惑するアンリエッタを見てカルアママは豪快に笑う。
「カルアママ、そこまで言うと無粋だぞ」
「アタシを袖にしたんだからちょっと位いいじゃないさね。それにアンタが連れて来た娘だったから興味もあったもんでね……でもまぁ処女みたいだけど大した嬢ちゃんだ、アタシの胆にビビらずに言葉を返すとはねぇ」
「あ、ありがとうございます」
カルアママの後ろで先程頼んだドリンクを持ってきたのであろう女の子がビクッと震えた。ママに説教くらった場面でも思い出したのだろう。
「じゃぁ邪魔者は消えるさね。まぁ今度来た時は付き合ってもらうよ」
床のフローリングと巨体を鳴らしながらカルアママは再び奥に引っ込んだ。恐らくあの奥の部屋から街の全てを”見て”いるのだろう。
「お待たせしましたー! ラムロックとホットバターラムでーす」
ママが去ってようやくウエイトレスの女の子は酒をテーブルに乱雑に置く事が出来たようだ。アンリエッタより年下だろうに半裸で仕事に勤んでいる。
「お兄さん二階使う?」
「あぁ……二部屋頼む」
「2部屋ぁ? 変わってるね、まぁいいけど」
質問したウエイトレスは、ユウィンの答えに怪訝な顔をしたが、そのまま笑顔でカウンターに戻っていく。
アンリエッタは、今の会話の意味が全く解らず「ふぇ」みたいな顔をしている。
「ホットラムといって体が温まる、寒かったろ」
冬の空を飛んでここまで来た為、体が冷えきっている筈の彼女にホットラムを差し出す。
「じ、実は始めてなんです」
「ん?」
「……お酒」
彼女はそう言って湯気の立つホットバターラムのグラスに口をつける。
「美味しい……」
この酒はラムを湯で割った後で砂糖、レモン、バターを適当にぶち込んで作るカクテル。バターレモンの香気が彼女の冷えた体を中から和らげた。
「さっきの女性、凄い人ですね」
「彼女の一族は代々この街を牛耳るボスだ、流石の情報網といった所か」
「古いお付き合い? なんですね」
「この街とこの店には思い入れがあってな……それ以来だ。それとカルアママの言った事は忘れてくれ、彼女は冗談が上手で生きてるような女だから」
アンリエッタは少し恥ずかしそうに微笑む。
「でも私、褒められたのって本当に久しぶりで……ちょっと涙出そうでした」
「ここの人間が死んだのは君のせいじゃない。人の運命、役割、使命、カルアママの部下はそれを全うしただけだ」
その言葉にアンリエッタは目を見開いて驚いた。心を読まれたのかと思った。自分が気にしていたことをズバリ当てられ赤面する。
「ユウィン様は何でも出来ちゃうし解っちゃうんですね。空を飛んだり……1人で魔人を倒しちゃったり……私の悩みだって……凄いですよ」
「あんなピクルスを作れる君の怖い執事ほどじゃない」
「え? フフフッそうですね、凄いですよねクロードって」
ずっと強張った笑顔だったアンリエッタだったが、ユウィンの言葉にようやく本来の微笑みを取り戻したようだ。
「君だって凄いさ」
「私が……ですか?」
彼女はキョトン顔で小首を傾げる。
「ここは昔からまともな人間が住み着かない、スネ傷者ばかりが生きている街だ」
「……はい」
「君はこの色街でしか生きられない独りぼっち達の王でもある。そんな人達までいつも助けているのだからそれは凄い事だ」
「私がここの人達を……助けてる」
「君の居る城から眺める景色もここも同じトロンリネージュだ。こんな時間でもこんなに明るく活気があるのだから君が王としてしっかりやっている証拠だ 」
「フフフッ」
ユウィン=リバーエンドという人間は表情が殆ど変わらない。だから非常に解りにくいのだが。
「ん?」
笑うところだったかな? ユウィンは訝る。
「やっと解りました……ユウィン様は慰めてくださってるんですね。フフッ……でも解りにくいです」
グラスを持ったまま口を抑えクスクス笑っていた。
やれやれ全く慣れない事をするもんじゃない。でもこの娘が笑ってくれればいいか。ユウィンも少し口元を緩め微笑んだ。
ここの人間は王都とは違い群れる事が出来なかった者共、色街でしか生きられなくて皆独りで生きている。しかしそんな独りきり達が集まってこんな時間でもこうして明るく活気のある街を作っている。そしてみんな勝手に何かを背負い、勝手に救われたいと願っている。
この国の皇として彼女が守っている世界、若干18歳の皇が見たいと言った外の世界、言うなれば咎の陰、人としては底辺とも取れる夜の世界であった。
そんな独りぼっち達の中で、二人は実にゆっくりとした時間を過ごした。店の中は騒がしく、酔った客がウエイトレスを触りだしたり口説いたり、とても騒がしかったが、この2人の時間だけは、風のないロウソクの炎のようにゆらりと流れていた。
しばらく話してからアンリエッタはバターラムのカップを置いた。少し気持ちを落ち着けて、そんなようすで深呼吸をしてから。
「改めて申し上げますユウィン様……王都を救って下さって本当にありがとうございました」
対して目の前の男は斜に構えてグラスを傾ける。
「言った筈だ。気まぐれだと」
「そしてシーラとお別れを出来るきっかけを頂いて」
”シーラ=アテンヌアレー”あの少女の笑顔を思い出し、強い酒を喉に一気に押し込む。
「……大事な友達だったんだな」
「はい……シーラしかいなかったんです。私はあの娘の様になりたかった」
彼女は両手でグラスを持っている。その手が少し震えていた。
「……そうか」
「でもシーラは……きっと私を……」
親友を思い出しているのだろう、アンリエッタは俯く。親友に対する罪悪感がまだ燻っているのだろう。それを感じ取り、ユウィンは眼を閉じながら口を開いた。
「……アンリエッタ、少し俺の話をしていいだろうか」
「え?……あ、はい」
俯いていた顔を上げる。彼女の瞳が潤んでいた。
「俺はこの街にいた以前の記憶が無い」
「……え?」
「この街のマリィという女性に俺は助けられた。しかしそれ以前の事が思い出せないでいる……そしてその娘は魔人に殺されて死んだ」
「……魔人に」
「よくある話だ……俺は魔人に復讐を誓い強くなろうとした」
「それじゃあ……わ、私と同じ」
アンリエッタは驚いていた。自分と同じ境遇を持ったユウィンに気持ちを吸い寄せられ、両手で自分の腕を抱いて聞き入っている。
「だが、魔法因子を持たず、並の人間の能力しか持たなかった俺は肉体の鍛錬に限界を感じた。そこで俺は早まった……師匠の言付けを破り”下法”と呼ばれる方法で因子を得たが、その反動で感情の半分を失う事となった」
「感情が……?」
「怒りと哀しみの感情が俺にはない。涙を流す事と復讐者たる俺自身が魔人を深く恨む事が出来なくなったという訳だ」
「そ、そんな……」
「アンリエッタよ、相手をずっと恨み続けるにはどうしたら良いと思う」
「……それは……それは相手を」
「そうだ、相手を忘れなければ良い。憎かった相手とその時の激情をずっと憶えていたらいい。前にも言ったな、殺された人間は復讐を願うもの、そう思い続ければいい、ずっと」
「そんな……ずっとだなんて」
「そうしなければ怒りの感情のない俺はマリィを忘れてしまうかもしれない、そう思っていた」
「そ、そんなの哀し過ぎます」
アンリエッタは涙を溜めてユウィンの瞳を見ていた。感情のあまり通わない瞳――空っぽの入れ物の人形のような瞳を見つめてくれていた。
「俺は長い年月をかけて、殺された人間は何を思うのかと死人に聞き続けてきた」
まるで百年と思い、行い、連ね、生きてきたように語る。頭の回転の早い彼女は言葉の意味に気付いたようだ。
「死人に聞く? それはまさか……」
「魔人、他人、親、兄弟、人々は殺されれば必ず復讐を願った。俺もあぁそうか、その度思う」
ユウィン=リバーエンドは視線をグラスの氷に落とした。
過去を思い出していた――何度も感じた「あぁそうか」を。彼は信じたかったのだ、彼女を。しかし記憶と感情が欠損しているが故それが出来なかった……自分の確信に自身が持てなかったのだ。
「だが、そうじゃない人間にやっと出逢えた。殺されたその娘は他人の為に残された時間を使い、そして笑った」
ユウィンは目の前にいるアンリエッタの瞳を見つめ返した。まるでその瞳に感謝の意を、その瞳の奥にいる友達に尊敬の念を送るかのように。
「その娘の名はシーラ=アテンヌアレー……君の友達だ」
「ユ、ユウィン様、何故? なんでユウィン様がシーラを……」
「俺は魔薬、”装う者”を彼女に使った。そして君を魔人から助けてくれと依頼したのはシーラだ。君にも見えたろう、居るはずのない彼女を」
「うそ……そんな」
「死んでしまってなお君を助けてくれと言った。……彼女は君を恨んだりしていない」
「っ…………ぁ……」
アンリエッタは俯いて震えていた。
親友の想いを知り、何故シーラを信じられなかったのか、 悲しくて、嬉しくて、悔しくて、自分が情けなく思っているのかもしれない。
「さっき君は、自分は俺と同じだと言ったが、永遠に恨み続ける事を哀しいと思えるアンリエッタ=トロンリネージュはユウィン=リバーエンドとは全く違う」
ユウィンは席から立ち上がり、そして俯いて涙をこらえる彼女の頭を優しく撫でる。
「君達は俺よりずっと強い。この街で君だけは独りじゃない……信じ合える友達がいるのだから」
そう言ってユウィンはウエイトレスにチップを渡し「彼女が落ち着いたら部屋へ」と伝え酒場の外に出た。恐らく顔見知りには見せたくないだろう。そう思ったからだ。
彼女はきっとまた泣くだろう。
でも今度こそは――哀しみではない涙を流してほしい。
アンリエッタはその場に崩れ落ちた。
今まで溜め込んでいたものを吐き出すかのように、泣いて泣いて泣いた。
この街の人々は泣き崩れている少女を気に留めない。この街ではそんな事は日常的に起きていて、泣いても誰にも救われず、時間と共に自分で立ち直り、また泣いて裏道りに消えていくのだから。
そういう日常を毎日繰り返し生きている。
この街に限らず人は所詮独りである。
誰かに助けられても、それをどう思うか取るか独りで決断し生きる。
だからユウィンはアンリエッタをここに連れてきたのだ。独りきりの世界で泣けるように。
ユウィンの想い人マリィ=サンディアナという女性は、貴族に奪われてしまった息子の親権を取り戻す為その身体全てを使い、叶えられる筈のない大金を目指して生きていた。
ここにいる人間はそんな強い人間が集まる。しかし人の根本は同じ、非常に弱い。強さに見えるそれは弱さである。”叶えられる”と思えなければ人は膝を折るしか無いのだ。一度付いた膝の汚れは二度とは落ちないから。
この街は魔人領との境目の街である。
常に危険に晒されているにも拘らず、この街の人々は夜だというのに活気に溢れている。人は強くて弱い生き物、色街でしか生きられなくて皆独りきりで生きている独りぼっちばかりのブルスケッタという色街。誰よりも人間らしい独りぼっち達で溢れる歓楽街、そこから見える空も一緒だった。見える星は何処でも同じだ。
星を眺めていた。
酒場の外で天を見上げユウィンは微笑む。それは夜だというのに太陽を思わせたから、冗談な程明るい月の光に照らされた銀色の雪が降っていたから。
『アンリエッタちゃんを助けてくれて……ありがとう』
この世にいるはずのないアンリエッタの親友、シーラ=アテンヌアレーは頭を下げていた。その姿は既に、ユウィンにもうっすらとしか見えなくなっている。
「殺された人間は復讐を願うものだと思っていたが……そうじゃない人間もいるんだなぁ」
この世界の空気中に漂う魔法粒子ミストルーンは、人の想いの強さで奇跡を起こす事がある。 シーラは消えゆく最中、少し困ったような笑顔を見せて……消えていった。
「そうか……君らはお互いが羨ましかったのか」
400年の年月が経ってもこの街は変わらない。喧嘩、売春、強盗、戦争、魔人の襲来で街が滅んでも、また同じ所に人々は街を創る。
大好きだったあの娘と、それ以前の記憶を失った街ブルスケッタ。
(シーラ=アテンヌアレー、君はアンリエッタと一緒に俺も救ってくれた)
君みたいな娘がいるのなら、俺にも違う生き方が出来るかもしれない。
遠く北側に聳える山々をみた。
(師匠は相変わらず引き籠もっているかな)
ここが落ち着いたら逢いに行っていいですか? 師匠イザナミ=アヤノ=マクスウェルの言葉を思い出していた。
魔導とは魔を使う者也、魔と一体となる事、それ即ち魔人の導也……。
雪が降っていた。
俺には涙が流せないが、雪は人の涙と似ていると思う。
そしていつも重くのしかかる雪共は、今日に限って少し遠慮したのか……俺の肩から滑り落ちた。
星を眺めていた。
酒場の2階、実に粗末な宿舎であったが、アンリエッタは不思議と良い気分だった。
心地良い眠気もあった。
王宮のベッドとは大違いで一本足が折れかけ傾いていた。
マットは硬く全く弾まない、ブランケットは所々破れ酷く寒い、悲しい程質素なベッドに横になっていた。でも傾いていたからこそ見える天窓から、小さな星を見ていた。
「2部屋……フフッそういうことだったんだ……フラレちゃいましたね私」
恥ずかしそうに微笑みながらブランケットを鼻まで被った。
(何で私はあの人に、外の世界に連れ出してなんて……)
あの時、魔人達と戦う彼を見つけた時、逃げたと思っていた彼が自分の全てを守ってくれていると感じた時、アンリエッタは”あの感情を”押し殺した。
あの時押し殺した感情は「助けて」と、
もうひとつ。
アンリエッタは夜空を見上げる。
「そうか……私、あの人が好きなんだ」
星を見ていた。
わし座のアルタイル――親友が好きだった星だ。




