6.空色のバス
実は、まだ五つだったころ、おっとりターくんはとっても恐がり屋さんでした。
でも、みんなの恐がりとは、どこかちょっとちがってたんです。
えぇ、もちろん、お母さんやサトミお姉ちゃんだって、とっても恐いんです。でも、もっともっと恐いものがターくんにはありました。
それは…『なんだか、よく分からないもの』なんです。
『なんだか、よく分からないもの』が恐いなんて…だれにも言えません。そうです。カズくんやユウタくんならともかく…そんなことを言えば、四つのマリちゃんにだって笑われてしまうでしょう。
だから、だれにも言えないんです。
……でも…でも、やっぱり『なんだか、よく分からないもの』が恐いんです。
夜になって、お部屋をまっくらにすると…いつも、ターくんはぎゅっ! と目を閉じてしまいます。絶対に、開けたりしません。もちろんです。
…だって……目を開けても、そこがお部屋なんだ、って…分からないんです。ぜぇ〜んぶ、まっくらで…何も見えないんですから。机やプラモデル、本だなだって見えないのに、どうして、そこがターくんのお部屋だなんて分かるんでしょう。
きっと、夜になってターくんがベッドに入ってからは、周りには『なんだか、よく分からないもの』が、いぃ〜っぱい、つまってるんです。う〜んと、う〜んと、つまってるんです。
…ほら…ベッドのそばで、オバケがターくんを見下ろして、にやにや笑っています。…いいえ、大きな怪獣が、ぐわぁ〜って口を開けて…ターくんを食べようとしています……
なにしろ、そこに何があるのか分かんないんですから、何がいてもおかしくないんです!
電気をつければいいのに……でも、ターくんにはできません。だって、そうでしょう? もしも電気をつけて、こわぁ〜い『なんだか、よく分からないもの』が見えたりしたら、どうしたらいいんでしょう。
ですから、ターくんは夜になったら、絶対、目を開けようとしなかったんです。
そんなターくんでしたから、その日は幼稚園になんて行きたくなかったんです。
その日は、すごい霧がお家をすっぽりと包み込んでいました。まるで、まっ白い毛布が、ぐるりと自分の周りにかぶさってるみたいです。お家から出ても…ほら! 門がうっすらとしか見えてません。もちろん、おむかいのユウタくんのお家なんて、どこにもないんです。
……えぇ、そうです。ユウタくんのお家なんて…本当にあったんでしょうか……
…ユウタくんだって……本当に、いるんでしょうか……
…えぇ…昨日、確かにユウタくんと遊んだはずです。でも…あれは、ぜぇ〜んぶ、夢だったのかもしれません。きっと、昨日までのユウタくんは…本当は『なんだか、よく分からないもの』だったんです。
今では、その『なんだか、よく分からないもの』はユウタくんではなくて…もっと恐い『何か』に変わってるのかもしれません……
……どうしたらいいんでしょう…とっても、恐いんです。
「どうしたの、タダシ! 早くしないと、バスが行っちゃうわよ」
急に、後ろからお母さんの声がしたので、ターくんはびっくりしてしまいました。
「…だ、だって、何も見えないんだよ?」
「霧なんだから、当たり前でしょ!」
お母さんなんて、ちっとも分かってくれないんです。えぇ、いつもそうです。本当に、イヤになります。
カチッ!
あっ、玄関のカギをしめられてしまいました。
仕方ありません。ターくんはそっと、そっと…そぉ〜っと歩き始めました。
……まずは、門まで行かなくてはいけません。
…どうしても…足が、震えてしまいます……
……この白い壁の向こうから…『何か』が出てきたらどうしましょう……
「どうしたんだよ、ターくん」
「わっ!」
急に、ユウタくんの声が聞こえたんです。もう、びっくりして…ターくんは、思わず泣きそうになっていました。
いつのまにか、目の前の毛布の中に、ユウタくんがぼんやりと見えてきたんです。……えぇ、門の前にいるのは…少なくとも『なんだか、よく分からないもの』ではありませんでした。
「ユウタくん…」
ほっとして、そのまま門を出たんですが…
……このまっ白な霧が恐い、なんて……言いたいけど…でも、でも言えないんです。
なんだか、とても恥ずかしい気がします…
だから、ターくんは何も言いませんでした。
すると、ユウタくんがにやっと笑って、頭を軽くたたいてきたんです。
「ほら、大丈夫だよ。マリやメグちゃんだって、あんなにうれしそうじゃないか」
……え?
…言われてみると…えぇ、確かに、すぐ近くで二人の楽しそうな声がしています。
「すごいね、すごいね! ほらっ!」
「…うん……!」
マリちゃんなんて、すっかりはしゃいでしまってます。メグちゃんのやさしい声も、マリちゃんのすごいね、の合間をぬって小さく聞こえていました。
……あの、弱虫で恥ずかしがりやさんのメグちゃんでさえ、恐がってないんです……
…やっぱり……霧が恐い、なんて言えません…えぇ、絶対に、です。
「な? 恐くなんてないんだから」
「ユウタくん! そんな言い方、ひどいよ」
今度は、すぐそばからサトミお姉ちゃんの声だけが聞こえてきました。
…あっ、やっと見えてきます。うっすらと、ランドセルを背負ったお姉ちゃんが、毛布の中から浮かび上がってきています。
「なんだよ。ひどいことなんて言ってないだろ!」
「言ってるよ!
ほら、ターくん。一緒に行こ? もすうぐ、バスが出ちゃうよ」
「…う、ん…」
お姉ちゃんは、しっかりと手をつないでくれます。…えぇ、お母さんとはオオチガイ、です。
手を引かれながら振り返って見ると、ユウタくんが少し口をとがらせています。……でも、それも…すぐに、まっ白い壁の向こうへと消えていってしまいました。
「すごい霧だね。ターくん、大丈夫?」
「うん…」
…えぇ! こんなにも強いお姉ちゃんが一緒なんです。きっと、大丈夫です。
えぇ……きっと…
……でも、でも……やっぱり、きょろきょろできません。じっと、お姉ちゃんがつないでくれた手を見てしまいます。
…この手がはなれたら、どうしたらいいのでしょう……
だから、絶対にはなれたりしないように…ぎゅっ! と力いっぱい、ターくんはお姉ちゃんの手をにぎりしめました。
…もうすぐ、カズくんのお家でしょうか。
幼稚園のバスがむかえに来てくれる橋まで、あとちょっとのはずです……
「ブッブーッ!」
「……!」
急に聞こえてきたので、思わずびっくりしてしまいましたが…えぇ、あれはバスの音です。『なんだか、よく分からないもの』ではありません。
……えぇ…そのはず、です……
…でも…でも、バスが来るまでには……まだ、時間があるはずです……
……じゃ、じゃぁ…あの音は……
とっても恐いものを見てしまいそうで……ターくんは、きゅっと目を閉じてしまいました。
…えぇ、もしもバスでないのなら、あれはきっと、『なんだか、よく分からないもの』の音なんです!
「あ〜ぁ、そんなんじゃないのに!」
すぐ横を通っていく『何か』から、その時、とても残念そうな自分の声が聞こえてきました。
……え? …自分の声?
びっくりして目を開けると…すぐそばを、空色のきれいなバスが通りすぎていきます。
きらきらと光ってる、そのバスの窓から……
…えぇ! そこから顔を出してるのは、どう見ても、ターくんなんです!
ぽかん…と、あっけにとられて、ターくんは笑ってる『自分』の顔を見上げていました。
あんなに一生懸命にぎってたのに…サトミお姉ちゃんからも、思わず手をはなしてしまってます。
「せっかく、オカシナ村につれてってあげようと思ったのに!」
そうだったんです! とっても残念です。
だって…ターくんは、ユウタくんがおはなししてくれる、オカシナ村に行けたらいいなぁ、って…いつも、そう思ってたんです。
「ちゃぁんと、目を開けとかないとね。でないと、『なんだか、よく分からない恐いもの』と一緒に、『なんだか、よく分からない楽しいもの』まで見のがしちゃうよ。
また来るから、その時は、いっしょにオカシナ村まで行こうね!」
きっと、このターくんは、オカシナ村のターくんなんです。
……でも…なんだか、ターくんよりも強くて…スゴイ子に思えます。…まるで、カズくんみたいです。
……でも…でも、えぇ……あの子だって、ターくんにはちがいありません。
えぇ……そうですとも!
「うん! 約束するよぉ」
空色をしたバスは、もう霧の向こうに消えようとしています。でも消える直前に、オカシナ村のターくんは、窓から元気に手を振ってくれました。
それも、少しずつ見えなくなっていきます…
……あれ…?
バスが見えなくなった所から…少しずつ、風が流れ出してきて……
「あっ! 霧が流れてるよ!」
サトミお姉ちゃんが叫んでいます。
…えぇ、ゆっくりと霧が流れて、カズくんのお家の大きな松の木や、その向こうの橋がだんだんと見えてきています。
しっかりと目を開けて、ターくんはそんな霧を見つめていました。
「ほら、もうみんな並んでるよ」
急にターくんはそう言うと、ぱっ! と橋の方へと走り出していきます。
そんなターくんを、サトミはびっくりした顔で見送っていました……
……ターくんが教えてくれた、本当にあったおはなしです。
『空色のバス』おわり