10.オカシナ村の好きな夢
…そっと…静かに……
……澄んだ青空の許へと、足を踏み出します…
ホームに下りた途端、線路沿いに並ぶキンモクセイの薫りが、私を優しく出迎えてくれました。
……えぇ…本当に、優しいんです……
五年ぶりに包み込んでくれた…その、甘酸っぱい漣は……
…でも、私には…悲しみしか、運んで来てはくれませんでした……
……《本当》に…とても、苦しくて……切ないんです…
…どうしても重くなってしまう足を…私はそれでも、一生懸命に引き摺って、歩き始めました。
古びた木造の駅舎を抜けて、誰もいないタクシー乗り場へと出ていきます。
ぼんやりと…白い光に包まれた、その乗り場を回って……静かな一本道へと流れ込んだ私の目に、次々と見慣れた店構えが甦ってきました。
…ほら、あの薄暗い、汚れた引き戸の文房具屋さん。
あのお店には、よくメグやマリちゃんと一緒に買い物に行きました。可愛いシールや、ノートに鉛筆。縄跳びから、学校の体育館用のシューズまで。何だって、揃ったんです。
……あっ…
近くの路地から飛び出して、女の子が二人、文房具屋さんに駆け込んで行きます。
あの子達も…昔と同じように、柔らかい声のお婆ちゃんに、温かく迎えてもらうのでしょうか……
…また……少し、気が塞いでしまいます…
私が、あの子達くらいの年だったら…きっと……
……きっと、今はもう、走り出していると思います……
ちっとも進みたがらない足を叱りつけて…懐かしいお店の間を彷徨います…
まだまだ…お店が続く、その道の半ばで…左に。
…あっ、ほら。
すぐ右手に見える、まだ新しいお家は…えぇ、そうです。私が中学生だった頃に、火事があった所です。
あれは、晴れた日の夕暮れでした…燃えてしまったお家を見ていた、ターくんとカズくんを迎えに来た時……黒く炭化した柱を前にして、お爺ちゃんが茫然と立ち尽くしていたのを…今でも、はっきりと覚えています。
とっても辛くて……何だか、寂しくなってしまった私に……
幼なじみのユウタくんは、いつものように…『夢』のおはなしで慰めてくれました……
………そう、です……
…いつでも…どんな所でも、素敵な『夢』を見ていたユウタくんとは…高校を卒業するまで、ずっと……えぇ、ずっと、一緒だったんです。
こうして…五年もの間、離れ続けていたなんて……
……こんな、事………
……初めて…だったんです………
……ずっと……
…ずっと……私は、待っていたんです……
……えぇ……待っていた…はず、なんです…………
小さく、溜め息を吐いて…私は、再び、歩き始めました……
角を曲がると…深く澄んだ空の下、金色に染まる田圃が広がっています。
…この蒼い天井は…本当に、何処までも続いていて……どれだけ、高い所にあるんでしょう……
いいえ…目の前の田圃だって……その重く垂れた稲穂は、とても遠く…でも、鮮やかで……
……思い出と現実が、一瞬、私の中で融け合います…
そう…ここは確かに、私が…私達が住んでいた町……
…そう言えば、この田圃に流れ込んでいる用水路の口では、いつも、たくさんのヤゴを見る事が出来たはずです。
他にも…
ほら。
田圃の向こうに、小さな林が見えてきました。
あの林の中には、ユウタくんが大切に守ってきた、秘密のため池が残っているはずです。
ため池の岸まで近付くのは、抜け道を知らない人にはちょっと難しくて…若しもユウタくんが教えてくれなかったら、きっと私はいつまでも辿り着けなかったでしょう。
でも、ユウタくんが道筋を教えてくれた御蔭で…マリちゃんやメグにザリガニを釣ってきてあげる事が出来たんです。ちょっと生臭くなってしまうのが困りましたが…でも、恐いのに、二人とも何度も見たがるんです。
あっ……
…もう、道が川にぶつかってしまいました……
こんな所まで来ているのに……それなのに、私は……
……まだ、どうすればいいのか分からないんです……
とっても遠くから…子供達のはしゃぎ声が聞こえてきます…
……寂しくて……泣きたくて……
…本当に、どうすればいいんでしょう……
もう、空なんて見えません…
…私は、俯きながら…川沿いを、左の方に曲がりました……
ひっそりとした…黒い壁のお家を通り過ぎます。
右手に流れている川は、五年前と同じで、ちっとも綺麗じゃありません。えぇ、ずっとずっと前から、この川はゴミでいっぱいだったんです。
…でも……
ユウタくんはちゃぁんと知っていて、おはなしの中で教えてくれました。
この…こんなに汚れている川でも、支流が流れ込む滝の下には、メダカの大群が泳いでいて……時には、蛇が川面をくねくねと渡って行ったんです。イタチも見かけましたし…カエルだって、たくさん住んでいました。
土手には狭くて細長い畑が作られていて…夏になったら、髭をはやしたトウモロコシが立ち並んで、そよ風に長い青葉を揺らせていたんです…
あぁ…
……どうしましょう…
……小さな橋が、もう、すぐそこに…
ここを渡れば……えぇ…私のお家は、すぐそこですし…
…その先には……
……ユウタくんの、お家が…あるんです…………
…何だか、このまま…足が、動かなくなってしまいそうです…
本当に…どうしたらいいのか、分かりません…
……私は…いったい、何を言えばいいのでしょう……
私は…どんな『言葉』を伝えたいのでしょうか………
……足が…止まって、しまいました……
…この、白い橋には…幼稚園の送迎バスが、発着していました。
冬にもなれば、いつも、橋の欄干の上には、小さな可愛らしい雪だるまが幾つも並んでいたんです…
…雪だるま……
えぇ……今でも、よく覚えています……
……いいえ、忘れられるはずなんて、ないんです…
メグやマリちゃんの手伝いで、一生懸命だった私のために…ユウタくんは、大きくて素敵な雪だるまを作ってくれたんです……
私の雪だるま…ユウタくんが作ってくれた私の雪だるまが、みんなのものと一緒に並んでいるのを見て……どんなに、嬉しかったか……
…なんて、素敵な想い出なんでしょう……
この澄んだ、黄金色の漣の中でなら…
私は……
…えぇ、私は……ユウタくんの言葉を……本当に…《本当》に、素直に喜んで、受け取っていたと思います……
……いいえ……
…今だって、きっと……その通りのはず、なんです。
ずっと…ずっと、待ち続けていたんですから………
えぇ…そのはず、です……
……足を、進めなくては……
…橋の向こうで、道は少し狭くなって続いています。
すぐに目に飛び込んできたのは、右手にある、カズくんのお家の大きな松の木です。その手前には、今でも広い空き地が5メートルはある高いフェンスに囲まれて残っていました。
…ふと、その空き地の前で、立ち止まってしまいます。
……いいえ……
もう…ちっとも、足が動いてくれないんです…
…これ以上、進めば……
不安、なんです…心配なんです……
…とても、静かな時間……
ゆっくりと…ゆっくりと……優しく、流れていきます……
…目には、フェンスの向こう側が見えています。
びっしりと、青草が群がっていて…むせるような、ムッとする濃密な香りがここまで届けられてきます。
この空き地は、私が幼稚園に行っていた頃、テニスコートになるはずでした。
でも、その計画も、いつのまにかなくなっていたんです。
フェンスの一部を切り抜いた扉には、小さかった頃にも見かけたように『危険、入るな!』の看板が掛けられています。
…えぇ、フェンスの向こうは、今も昔もちっとも変わっていません。
この空き地には、看板が書いているような危険な事なんて、何一つありませんでした。
ユウタくんだって、それが分かっていたから…だから、カズくんやターくんと一緒にこの中でいつも遊んでいたんです。小学生の頃、私はよくターくんのお母さんに頼まれて、みんなを夕御飯のたびに迎えに来ていました。
みんなはいつも、カズくんのお家のブロック塀に登って、そこから高いフェンスを乗り越えていたんです。ですから、さすがに私も、この中へは数えるほどしか入った事がありません。
でも、空き地の中にあるものについては、私は全部、知っていたんです。
…ほら、今も残ってるでしょ?
板壁が黒く汚れていて、屋根も半分以上傾けている古い作業小屋。空き地の奥で、高い草に囲まれているその小屋のすぐ脇には、桜の老木が大きく枝を広げています。
緩やかな風に揺れる、この木のお陰で、みんなは木登りも覚える事が出来ましたし、カミキリムシだって捕まえる事が出来たんです。
…えぇ、中になんて入らなくたって、私はユウタくんから全部、教えてもらっていました。
オカシナ村のおはなしでは、作業小屋は秘密のアジトになったり、絶海の孤島にある洞窟になったりしましたが、でも、それは紛れもなく、「ここ」にあったんです。
……本当に、静かです。
すぐ傍で、コスモスが…吹いていないそよ風に、ゆったりと身を任せています…
蒼く霞む天井からは…小春日和の暖かな光が、私をそっと包み込んでくれています……
……きっと…
…ユウタくんは、こんな時にいつも『夢』を見ていたのでしょう……
…いいえ……
私にも、見えています。
…七つの頃の小さなユウタくんや、五つになったカズくんにターくん…
みんな、小屋の中で楽しそうに笑っています。…あっ、ほら。迎えに来たボクに気が付いて……
……覚えています…
この日、ユウタくんは素敵なオカシナ村のおはなしをしてくれたんです……
…不思議な、『夢』のおはなしを………
…………………………………………
うっすらと…小屋の中にまで、青い闇が忍び込んできます。崩れた屋根から覗く秋の空には、もう、鮮やかな茜色の毛布が広げられていました。その柔らかな毛布の上では、淡い薄雲が恥ずかしそうに頬を染めています。
…えぇ、そうです。ユウタには、もうお家に帰る時間なんだ、って、ちゃぁんと分かっていました。
仕方がありません。隊長は一緒にいた二人の部下に対して、重々しく命令を下しました。
「よし、いいか。宝物は奪い返したし、もうこんな島に用は無い。急いで脱出するぞ!」
「おぉっ!」
ターくんとカズくんが、勢いよく叫んでいます。隊長はそんな二人に満足そうにうなずきました。
あっ、もうすっかり暗くなっています。みんなが囲んでいる足の折れた机も、今では、ぼんやりとしか見えていません。
ユウタは孤島の基地に背を向けると、すぐに外へ飛び出そうとしました。
その時、急にフェンスの向こう側から、女の子の大きな声が聞こえてきたんです。
「ターくん、カズくん! もう帰る時間よっ!」
サトミです。
男の子のように乱暴で恐いのに…こんな風に、小さな子どもの面倒だけは、よくみるんです。しかも、それが頼まれたからではなくて、心の底からそうしたくて仕方がないみたいなんです。
生まれた時からサトミを知っているユウタにとって、そんなサトミの気持ちは一つの謎でした。
…いいえ。もちろん、いつでもサトミが乱暴だ、なんて言ってません。ただ、怒って追いかけてくるサトミと、こんな優しい気持ちのあるサトミとが、同じサトミなんだって事に、時々、戸惑いを感じてしまうんです。
そう言えば、もう一つ、気になる事があります。
今だって、ほら、そうです。サトミは自分からは、絶対にこの空き地の中に入ろうとしないんです。
別に、メグちゃんみたいに恐がってるわけではありません。だって、サトミはとっても勇気のある女の子で…時々、自分よりも強いんじゃないか、って思うくらいなんです。それにどうやら、ここへ来たがっているマリちゃんを止めたりもしているらしいのです。
確かに、女の子が来たら、とてもこんな遊びは……
…もしかすると、サトミは、この空き地を男の子だけの世界だ、って分かってくれているのかも知れません。普段の様子を見ていると、そんな事に気を遣うような女の子には思えないんですが…
幼なじみで一番よく知っていると言っても、ユウタにとって、やっぱりサトミは分からないところの多い不思議な存在でした。
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…いいえ、《本当》は、ちゃぁんと分かってくれていたのかも知れません。
ただ、こんな風におはなしにする以外には、何だかうまく言えなかったのかな、って……
…ぼんやりと、そう思います……
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小屋から出た三人を、夕陽色に染まったたくさんの草花が迎えてくれます。
ユウタはそのまま、サトミなんて気にしないでカズくんのお家に向かおうとしていました。
「わっ!」
その時、急にターくんが大きな声を上げたんです。
「ふぇっ」
ターくんが見ている先に目を向けて、思わずカズくんも変な声を出してしまいました。
「ん?」
ユウタは振り向くと、そんな二人の視線を追いました。
高いフェンスの向こうにある道の上で、大きな人影が夕日を背にして手を振っています…
……え?
…え、えぇ…そうなんです。「大きな」人影なんです……
どう見ても…その人は、「大人」でした。
…でも、黒く澄んだ瞳や、肩先で揺れている髪の毛は…見慣れた、サトミのものです。振り返ったユウタに向かって、胸元で可愛く手を振っている仕草や、ついさっき聞いた声だって……
……えぇ、絶対に、あの大人はサトミです。間違えるはずなんて、ありません。
あの人影は、ただ小学生のサトミが、大人の女性になってしまっただけなんです。
幼い二人がびっくりして何も言えない中で、でもユウタだけは、すぐに平気な顔で大きく手を振ると、その女性に叫んでいました。
「ちょっと待ってろよ! すぐ、そっちに行くからな」
「うんっ!」
そのまま何事もなかったように、ユウタはカズくんのお家の前のフェンスを登り始めています。
カズくんとターくんも、それを見て慌てて後に続きました。
「ねぇ、ユウタくん。びっくりしなかったの?」
「もちろん、びっくりしたさ」
小さな声でたずねるカズくんに、ユウタはにやっと笑いかけました。
「でも、オカシナ村なら、急にサトミが大きくなったって、別におかしくないだろ?」
「う、うん…」
でも、ここはオカシナ村ではありません。
「あれは、きっと、オカシナ村のサトミがちょっといたずらしてるだけなんだ。だから、多分、サトミは自分が大人に見えてるなんて、全然、気付いてないと思うよ」
「へぇ〜」
そうだったんです。あれは、サトミお姉ちゃんのいたずらなんです。
だったら、もう、びっくりなんてしません。だって、いつまでもびっくりしていたら、ちょっとくやしいじゃないですか。
「で、でも…ね。…恐くない?」
びくびくしながら、ターくんが下でささやいています。
あの、男の子みたいなサトミが、そのまま大きくなってしまったんです。きっと、とてもケンカが強くなって…今よりも、もっともっと乱暴になっていると思うのです。
そんなターくんの言葉に、ユウタは思わず噴き出してしまいました。
「そうかも知れないな」
笑いながら、フェンスを乗り越えてブロック塀の上に立ちます。そして、そのままユウタは、カズくんのお家のお庭に飛び降りました。
「あのサトミの事だから、ものすごぉ〜く、恐くなってるぞ、きっと」
「どうして、ボクが恐いのよ!」
ちっちゃな声で話したつもりなのに…門の方に回ってきたサトミには、ちゃぁんと聞こえてしまったみたいです。
ユウタは小さな二人ににやっと笑ってみせると、声の方に走って行きました。
「気にするな、って。
待たせて、ごめん。ほら、帰ろうか」
そこにいたのは、いつもどおりの小学生のサトミです。
そのサトミは、ぷくっとふくれて、横を向いてしまっています…
でも、ターくんが追いついて、みんなでカズくんにさようならを言う時には、その頬にも優しい笑みが浮かんでいました。
…とっても静かな夕焼け空です。
その茜色の穏やかな光の中を、ユウタとサトミは、ターくんと一緒に並んで帰っていきました……
…………………………………………
……ほら、…ユウタくんが、小屋の中から出てきます……
ボクに気付いてくれて……茜色の透明な光を浴びながら、大きく手を振って叫んでくれます……
「ちょっと待ってろよ! すぐ、そっちに行くからな!」
(うんっ!)
小さなユウタくんが、フェンスを登り始めています。…何度見ていても、落ちてケガをしないか心配で…ドキドキしてしまいます。
…無事にブロック塀の上に立ったユウタくんを見て、安心して……ボクは、思わず泣きそうになっていました……
今までちっとも動こうとしなかった足で、カズくんのお家の門まで走って行きます。
…ユウタくんが…家の脇を抜けて、駆けてきてくれます……
元気で優しい、小さなユウタくんが…
……その時、ボクに叫んでくれたんです……
「待たせて、ごめん。ほら、帰ろうか」
本当に……《本当》に、そう言ってくれるんです…
…すぐ、目の前で…にっこりと微笑みながら……
……そう言ってくれるんです………
ボクは…ボクは……
涙が、ポロポロと溢れてきます……
…ボクは…ボクは……えぇ、そうです…
……ボクは、ずっと、待っていたんです……
……《本当》に、ずっと…………
「さぁ、行こう」
しゃくりあげて何も言えないボクに…小さな手を伸ばしてくれるんです……
…ずっと…ずっと、待っていたその手に……
……ボクは、想いのままに縋り付いてしまいました……
…ユウタくんは、しばらくしてから、そっと優しくボクを引っ張ってくれました。
……えぇ、…もう、ボクは足を止めたりしませんでした……
……もう、決めたんです。…いいえ、そんな事、ずっと前から決まっていたんです。
……とっても静かな空の下で、ふわっ…と虫達の歌声が沸き起こってきます…
ボクの指先をしっかりと握り締めながら…小さな手は、ボクを……
…えぇ…ボクを《お家》まで連れ帰ってくれました………
……そうです…連れ帰ってくれたんです……
…雄太さんの所へ、と…………
『オカシナ村の好きな夢』おわり