8 編集?
結局、私はザンの家には行かなかった。ヤーエさんは用があるようで、いつの間にか家の前からいなくなっていた。
「えーと……僕、今なにかおかしなこと言いました、ね。忘れて下さい」
ザンが、疑問符をいっぱい浮かべて首をかしげたまま、私に言う。私はどうしていいかわからないまま、へらっと笑って、
「はは、気にしてないから。そ、そうだ、今日中にもう一度、先生に会いに……えっと、女神さまにご神託を受けに行きたいと思ってるんですけど、いいですか?」
と聞いた。
だって昨夜、勝手に動くなって言われたしね……ああ、あの時からなんか変だなって思ってたんだ。そうだった。
「あ、はい、わかりました」
ザンは気を取り直したように、
「そう、リュウから報告を受けたんですが、ウミガメの助けがあるとはいえ、リクもさすがに海上との行き来がとても大変そうだとか……。あそこを見て下さい」
と後ろを振り返った。
後ろにはもちろんフィッシュボウルがあるんだけど、ボウルの外側には階段が作りつけられていて、縁まで歩いて登れるようになっていた。階段を目で追って見上げて行くと、ボウルの縁に沿って巨大な筒状の珊瑚がいっぱいくっついているのが見えた。並んでくっついている様は、まるでパイプオルガンのようだ。
そして、その珊瑚から、一定間隔で大量の水泡がぶわっと吹き出して、高みへと上って行くのが見えた。
「ウミガメと一緒に、あの泡に乗って行ったらどうかと思うんです。そうすれば、少なくとも行きは短時間で海上まで行けるでしょう?」
あっ。私はようやく思い出した。
これ先生の設定資料にあったよ! プロローグの方をじっくり読みたくて、ついつい資料の方は斜め読みしちゃってたから、内容がうろ覚えだったけど、あったあった!
でもこれ、エンディングに使うネタじゃなかったっけね。ヒロインがついに地上に戻るという場面はこんな感じ、って書いてあったような。涙、涙のお別れシーンで使うはずのそれを、今ここで使っていいんでしょうか?
はい、いいですよね。背に腹は代えられない。まさか先生だって、ヒロイン(私だ)が何回もラグーン城と海上を行き来するなんて思ってなかっただろうし。
「ありがとう! そうさせてもらうわ。えっと、またカメさんに来てもらわないといけないけど、どう……」
言いかけたとたん、急にフィッシュボウルを回り込んで巨大なウミガメが姿を現した。すーっと滑るように、私の前までやって来る。
「なんかこの子、この前もタイミング良く来てくれたんだよね。まるで、こっちの話を聞いてるみたい」
私はつぶやいた。
「そうなんですか? 何か、巫女としての力を使ってカメを呼んでいるのかと思いました」
ザンに不思議そうに言われて、思わず首を横にぶんぶん振る。ないないないない。
でもザンは本当にそう思ってるみたいで、
「水の中は音がよく伝わりますからね。きっとウミガメには、リクの声が届いているんですよ」
と、青緑色の瞳を細めて微笑んだ。
「ま、まあそうだとしても……いつも悪いな、乗せてもらって。こういう時って、お礼に何か食べさせてあげたらいいのかな」
「そうですね、ズーイに用意してもらっておきます。アオウミガメは海藻とか海草を食べますよ」
ちょっと待って、海藻と海草ってどう違うんでしょうか。
聞くと、ザンは「海藻=藻類。胞子で増える。ワカメとか昆布とかはこっち」「海草=花が咲いて種で増える。陸から海に戻ったもの」と教えてくれた。
この世界を理解するには、まだまだ勉強が必要なようです。
ウミガメくんの背に乗せてもらい、空気の中――というかこの少しとろりとした空間をフィッシュボウルの上に向かう。そしてパイプオルガン珊瑚の上で待機していると、少しして下からぶわっと水泡の塊が駆け上ってきた。
「へぶっ」
一気に海水の中に突入して、ウミガメくんごと上昇する。圧力っ、圧力が半端ないっ!
「っぷあ!」
でもありがたいことに、溺れる恐怖を味わうことなく短時間で、海上に出ることができた。
今日は、ずうっと遠くの方に浜が見えていた。あそこに上がれたら楽なんだけど、ちょっと遠すぎるかな……それに、陽が容赦なく照りつけているから、結局あまり長い時間は海上にいられないよね。
ウミガメくんが疲れないように、私はその背から降りて水中に入ると、甲羅に軽くつかまるようにした。こうしておけば、ウミガメくんも前回ほどにはすぐに疲れずに済むだろう。
「先生! 愛海せんせーい」
呼ばわってみる。
とたんにすぐそばの海中から真っ白な姿が、ドルフィンジャンプして現れた。愛海先生だ。空中で一回転、長い尾が弧を描き、きらきらと飛沫を光らせながら再び海中へ。
そしてまた先生は、すうっと海上に立つようにして現れた。
「あー気持ちいい、こんにちは璃玖さーん」
……まだ酔ってるよ。
「こんにちは愛海先生。今日は単刀直入にお聞きします」
私は先生を見上げた。こくん、と喉を鳴らしてから、聞く。
「私、なるべく早めに会社に戻りたいんですけど、戻るにはどうしたらいいんでしょう?」
すると先生は、軽く首をかしげた。
数秒の間が、雄弁に事実を物語る。じわりと額に汗が浮くのを感じる。
「そういえば、私も家に戻りたいけど……ここには私の家、ないわよねー」
ああっやっぱり! 先生は、戻る方法を、ご存じない!
それに、今のではっきりした。先生は、自分が亡くなっていることには、気づいていない。少なくともはっきりとは。
「でも、私にとってはここも『還るべき場所』みたいなものねー、とても馴染んだ、心地いい世界だからー」
ご機嫌でくるりと一回転する先生。
「そんなあ……」
私はショックで目が回りそうになった。いや、きっと、きっと何か方法はあるはず。考えよう。あきらめちゃダメだ。ただ……長期戦は覚悟しないとならないかも。
「だから、私の作ったこの世界を大事に育てていきたいわ。ラグーン城や城下街に近づくとね、中の人が“女神さま”って呼んでくれてるのがわかるの。きっと何かできることがあると思うのよねー」
愛海先生は腕を組んで、自分の言葉にうんうんとうなずいた。
私はそれに応えて言った。
「そうですね。私も協力しますよ。一応、女神さまの声を聞く巫女、ってことになってるので」
「ホント!?」
先生が顔を輝かせたので、あわてて付け加える。
「でも元の世界に、会社に戻るまでですよ! くらッシュ、いえ、担当の倉本の代わりです」
そうよ。私もペーペーとは言え編集者のはしくれだもん。というか、酔っ払ってる先生一人には任せておけない。もし先生の物語が変な方向へ突っ走りそうになったら、軌道修正するのも編集者の役目だと思う。
「私、先生の世界を、『編集』してみようと思います!」
次話で第一章終了!